サルマティズム
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サルマティズムまたはサルマタイ主義(ポーランド語:Sarmatyzm / ウクライナ語:Сарматизм / リトアニア語:Sarmatisms / 英語:Sarmatism)は、16世紀から19世紀にかけて、ポーランド・リトアニア共和国の貴族階級およびウクライナ・コサック[1]の生活様式や思想などにおいて支配的だった文化現象。いわゆる共和国の「黄金の自由」時代と共に興隆し、貴族階級が自らの祖先を東欧から中央アジアにかけて活動していた古代の遊牧民とみなした「サルマタイ人起源説」に基づいて、東方地域に影響された特異な文化を形成した。
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[編集] 概要
その名称や文化は、ヤン・フリゾストム・パセクの回想録やヴァツワフ・ポトツキの詩などに見られるように、同時代のポーランド文化に色濃く反映している。シュラフタ達の間では毛皮で出来た長いコート(ジュパン)と腿まで届くブーツを身に纏い、長いサーベル(シャブラ)を腰に帯び、口髭を長く伸ばすことが流行した。彼らが争って演じようとした「サルマタイ人」のイメージとは、集団内の平等(「黄金の自由」)を重んじ、外国人に対して無敵の、馬を駆る高貴な人々というものだった。サルマティズムはポーランド軍の過去の栄光を讃え、こうした尚武の伝統をポーランド貴族層に普及させることを奨励した。祝宴のような場に絶対に欠かせないのはシャブラであり、特にカラベラというタイプが最も好まれていた。
「サルマティア」という言葉は共和国において伝説的で詩的な響きを持ち、18世紀を通じて憧れを抱かせさえする存在であり、広大なポーランド・リトアニアの知識人世界(文芸共和国)の形成に深く関係していた。ポーランド貴族階級のライフスタイル、文化、イデオロギーはこのサルマティズムに甚大な影響を受けた。それは共和国圏内において別々に築かれてきた東部と西部の伝統文化を混淆し同化するという特異な現象を引き起こした。ただし、その流行はハンガリーやモルドヴァを始めとするスラヴ諸国の貴族文化(高級文化)から多大な影響をこうむっている。後代のポーランド文化にもサルマティズムの伝統は色濃く尾を引いていた。ポーランド啓蒙主義時代には激しい批判にさらされたが、ポーランド・ロマン主義時代には再評価されて憧れの対象になった。サルマティズムは良識を重んじる実証主義的な文学的リアリズムを生き延び、1905年にポーランド初のノーベル賞を受けたヘンリク・シェンキェヴィチの「三部作」(『火と剣とをもって』『大洪水』『パン・ヴォウォディヨフスキ』)において華々しい復活をとげた。
[編集] 歴史
サルマティアとポーランドの先史とを結びつけた最初の記述はヤン・ドゥゴシュの年代記に見られ、両者の関係はマルチン・ビェルスキ、マルチン・クロメル、マチェイ・ミェホヴィタといった他の歴史家や年代記作者によって深められていった。他のヨーロッパ諸国の人々は、ポーランド・リトアニア共和国の各地域と人々についての基礎的な情報を西ヨーロッパの読者に提供するためにミェホヴィタが執筆したラテン語(当時の国際語)の書物、『Tractatus de Duabus Sarmatiis』の記述を通じてポーランドのサルマティズムについて知った。シュラフタが自らの先祖だと主張するサルマタイ人(サルマティア人)は、古代の黒海北部に実際に住んでいたイラン系を主とする部族連合で、紀元前5世紀にヘロドトスがスキタイ人やアマゾン族の末裔として初めて紹介して以後、2世紀のゴート族出現まで存在が記述されていた民族集団である。歴史記述が様々に切り貼りされた結果、ポーランドを築いたポラニェ族は古代サルマタイ人の子孫であり、このアジア起源の好戦的な部族が北東ヨーロッパに移住したという伝説がつくられていった。
ポーランド出身のイギリスの歴史家・考古学者であるタデウシュ・スリミルスキ(1898年‐1983年)は1970年の著書『The Sarmatians (Ancient peoples and places)』の中で、シュラフタとサルマタイ人は多くの民族的特徴を共有していると主張した。彼らは習慣、武器、戦闘形態、タンガ(原始的な記号)、副葬品などの点で似通った文化を持っており、伝説の創作により信憑性を与えたと思われる。
[編集] 文化
起源伝説の信奉はポーランドの貴族文化の重要な一部となり、生活の全般に浸透してポーランドのシュラフタ階級は西欧の貴族階級との間に大きな文化的差異を生じさせることになった(ズボンを穿く習慣のないシュラフタは西欧の貴族を「ズボンを穿くもの」を意味する「プルドラツィ(pludracy)」と呼んでいた)。騎馬、地方での農村生活、平和志向と戦争への消極的態度、東方的な(オリエント的)服装・外見(ジュパン、コントゥシュ、スクマナ、パス・コントゥショヴィ、デリア、シャブラ)といったものへの強い憧れをシュラフタ階級の殆ど全員が共有したことは、シュラフタが有する政治的な「黄金の自由」に対する連帯と誇りという、半ばナショナリスティックな感情を芽生えさせる方向へと作用し、多民族で構成されていたポーランド・リトアニア共和国の貴族階級を文化的に統合することになった。
サルマティズム信奉者は社会的、家族的紐帯を重んじ、女性は名誉と礼節を以て遇せられた。会話や議論は最も好まれ優先される事柄のひとつである。親戚や友人、さらには知らない人物であっても客人は進んで歓迎され、外国人は特に好まれた。ラテン語も頻繁に話された。アルコールを大量に消費する贅沢な祝宴が度々開かれ、宴の場では男性たちは好んで口論し喧嘩を始めた。パーティーではポロネーズ、マズルカ、オベレクといったダンスが好まれた。名誉は大変重視されていた。男性が女性より長生きする傾向があり、また男性は総じて晩婚だった。結婚は「深い友情」として表現された。男性は家を離れがちだった(セイム、セイミク、免罪、法廷などへ出かけていた)のに対し、女性は地方の家で財産、家畜、子供の世話をしていた。子供の出生率は高かったが、成人に達するまで生存する割合は低かった。子供は息子達と娘達に厳密に分けて育てられた。違法行為は横行していたにもかかわらず、たいていの告訴は示談に落ち着いた。
サルマティズム信奉者の衣装はオリエントに起源を持ち、他のヨーロッパ諸国の貴族が模倣して着用したことで注目された。衣装は長く、豪華かつ色鮮やかで、威厳あるものと見做された。最も特徴的なのはコントゥシュで、パス・コントゥショヴィと一緒に着用された。下半身にはジュパンが穿かれ、その上にデリアが身につけられた。最も権勢のある家族達の衣装はクリムゾン色ないし緋色で作られた。下半身にはシャラヴァニーを着ること、鷺の羽根を飾ったカルパックを頭にかぶることも一般的だった。
サルマティズム期ポーランドの葬儀は当然頻繁に行われたが、その特色ある実相は他のヨーロッパ諸国には知られていなかった。サルマティズム信奉者は極めて儀式ばった、壮麗な葬儀を一種のショーのように綿密に計画した。入念な準備が貴族の死から埋葬までの間に、大勢の職人、建築家、装飾業者、召使そして料理人といったスタッフを動員して行われた。時として準備が整うまでに何か月もかかっていた。埋葬までの時間、棺に入れられた貴族の遺骸は、教会の真ん中に建築家がつくったカストルム・ドロリス(「悲しみの城」)の中に安置された。棺の周囲には盾の紋章と、亡くなった人物の業績について書いた墓碑銘を刻んだ錫のプレートが飾られていた。宗教儀式はこうした一連の作業が終わってから始まるのが常だった。葬儀では鎧を身に付けて故人の役を演じる騎手によって進められた。騎手は馬に乗ったまま教会に入ると、もの凄い音を立てながら落馬し、地上における力強さと、騎士の勇敢さというものに対する死の勝利を示す。葬儀の中には4日間も続く場合もあり、厳粛とは言い難い徹夜の宴で終わったり、完全なお祭り騒ぎと化すこともあった。聖職者が鎧を纏って葬儀に出ることも稀では無かった(18世紀には10人の司教、60人の司教座聖堂参事会員、1705人の司祭がポーランド貴族の葬儀に参加している)。
[編集] 政治思想
詳細は黄金の自由参照
貴族たるサルマティズム信奉者たちは、ポーランドが「黄金の自由」により貴族の天国と化して以来ポーランド国家の重要な存在となっていた。この時代のポーランド絶対主義国家に包囲され、またカトリック世界の防波堤としてプロテスタント、正教徒、ムスリムの脅威に晒されていた。
現代の歴史家たちは、このサルマティズム伝統において重要だったのはサルマティア・イデオロギーではなく、ジェチポスポリタ(共和制国家)の統治のあり方を模索できたことだったと考えている。法と秩序、自治、官職公選といった政治体制の形成はサルマティズムと密接不可分の関係にあったのである。選挙で選ばれる国王は、それでも国家の中心を占めていたものの、その権限は様々な立法と要求によって著しい制限を受けていた。さらに言えば参政権、つまりセイムやセイミクへの選挙権を持っているのは貴族だけである。またセイムの成員はいわゆる自由拒否権の行使によって、議決や立法の流れを止めることさえ可能だった。そして最終的には、国王が貴族の特権について制限したり疑問視したりしようとした場合には、拒否権を行使して国王の行動を阻んだり、軍事力で国王を排除するという状態にいたったのである。ジェチポスポリタの政治体制は貴族階級にとっての最良の世界であり、現在のポーランド議会(セイム)の最古の形態だと言われる。そしてその体制は同じように僭主達に囲まれていた古代ローマや古代ギリシアと頻繁に比較されてもいる。この共和制はヘンリク条項を基礎としたものだと言われており、これに手をつけようとする者は重罪を犯したと見なされた。
[編集] 哲学と宗教
宗教面では当然ながらカトリックが支配的であり、神の摂理と恩寵がしばしば強調され、地上のあらゆる出来事は天国へ向かうための手段と位置づけられた。懺悔は永遠の拷罰をから逃れるための恥ずべき方便と考えられ、神は万物を睥睨しその万物はすべて意味を持っているとされた。人々はミサ、贖罪、巡礼などの宗教生活に進んで参加した。聖母マリアを始めとする聖人とその受難への崇敬にも人々は熱心だった。宗教的寛容は徐々に失われ、宗教裁判が本格化する以前の時代から、不信心者が特権を奪われる事例が多くなった。
[編集] 芸術と著作
サルマティズム文化は以下の人々によって代表される。
- ヴァツワフ・ポトツキ
- ヤン・フリゾストム・パセク
- ヴェスパジアン・コホフスキ
- アンジェイ・ズビリトフスキ
- ヒェロニム・モルシュティン
- ヤン・アンジェイ・モルシュティン
- ダニエル・ナボロフスキ
この文化ではラテン語が大変好まれ、しばしばポーランド語と混ぜ合わされたマカロニ文体で執筆や演説で使われていた。このためポーランドにおいて、ラテン語はややシュラフタが占有する言語というイメージが定着している感がある。19世紀になると、ポーランド・リトアニア共和国のサルマツキ達の言語様式や文化は、ヘンリク・シェンキェヴィチの「三部作」によって息を吹き返し、さらに大衆化した。20世紀に入り同作品が映画化されると、サルマツキたちの文化は現代の書籍(ヤツェク・コムダなど)や音楽(ヤツェク・カチャマルスキなど)ばかりか、RPG作品『ヅィキエ・ポラ』のようなゲームソフトの対象にまでなった。
「サルマタイ人」(サルマティズム信奉者)たちは芸術を一種のプロパガンダとして扱った。彼らにとり芸術は家門の名誉を不朽のものとし、祖先の勇猛さとその偉大な業績とを称賛するためのものであった。特に個人や家族の肖像画は大きな需要があったが、その特徴は写実主義、豊かな色彩と象徴性(墓碑銘、紋章、武器などの装飾品)である。絵の中の人々はたいてい、抑制された暗い背景の中に、七分身(半横向き)の姿で立っている。
「サルマタイ人」の芸術において最も特徴的なものの一つは、コフィン・ポートレイトだろう。これは他のヨーロッパ地域には見られない、ポーランド・バロック独特の媒体を利用した絵画である。八角形や五角形の肖像画は棺の頭上部分に嵌め込まれ、死者が誰かが判別できるようにしてあった。また肖像画は不滅の霊魂をもつキリスト教徒の死者が「生きて」いることを表象し、上述のようなにぎやかで豪奢な葬式の間、死者と参列者が気軽に話しかけやすい雰囲気をつくっていた。つまり死者が出現してくる錯覚を引き起こすための大道具だったのであり、地上と死後の世界とをつなぐ儀式的な媒体の役割を果たしていた。現存する少数のコフィン・ポートレイトは、しばしば描かれた当人が存命中に制作されたものであり、17世紀のポーランド貴族階級に関する信頼度の高い史料である。絵の中の死者は必ず正装ないし旅装をしており、これらは死者が未知の(つまり死後の)世界へと旅をすることを象徴している。現在確認されているコフィン・ポートレイトのうち最古の作品は国王ステファン・バートリの肖像で、これは16世紀末に描かれている。
サルマティズム期ポーランドではシュラフタの邸宅や教会が木造で建てられる傾向が強かった。これはゴシック建築と特色あるスタッコ装飾のアーチに代表される、より素朴な建築材料を好む流行が背景にあった。墓は善行が反映されるよう、生前により多く寄進をおこなった教会に建てられた。玄関部分にポーチをもつマナーハウスが無数に建てられ、その多くは木造(マツ、モミ、カラマツ)だった。賓客が通される広間は大きな玄関ホールであった。マナーハウスは女性の住人にとってはより親密な私的空間、男性の住人にとってはより公的な空間であったようである。マナーハウスの隅の方には別館が備えられることが多く、邸内は先祖の肖像画、記念品、略奪品で飾られていた。古い時代に建てられたマナーハウスは僅かしか残らなかったが、その伝統と習慣は19‐20世紀まで続いていた。
[編集] 現代の用法
現代のポーランドにおける「サルマツキ(Sarmacki)」の用法は、「自意識過剰」を皮肉に表現する言葉である。また時に「ポーランド人気質」の類義語として使われる。
[編集] 評価
当初、理想のあり方として見られていたサルマティズムは良き文化運動と捉えられた。敬虔な信仰、政治的誠実さ、愛国心、勇敢さ、平等と自由といった諸価値が見出されていたのである。しかしそれは徐々にある階級を他の階級よりも優れた存在であると決めつける方向へと曲解される思想へと変容していく。後期サルマティズムにおいては、信仰は不寛容と狂信へ、誠実さは政治的無知へ、誇りは尊大へ、勇敢さは頑固さへ、シュラフタの平等と自由はニヒリズムへと移っていった。
サルマティズムはポーランド・ルネサンス期に勃興し、ポーランド・バロックとは共存しつつ確固たる地位を築き、ポーランド啓蒙主義とはイデオロギーにおいて対立することになった。そして18世紀後半には「サルマティズム」の語は完全にネガティヴな意味へと変容した。後進性や無知蒙昧さの類義語(啓蒙の反対語)であり、国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキによる改革の反対者に貼られた「狭量な田舎シュラフタ」という侮蔑的なレッテルにも使用された。そうした意味での使用は最初、勃興期やジャーナリズムや文学作品において見られた。つまり、啓蒙主義者の著述家たちは「サルマティズム」の語が持つ政治的・文化的含意を、最も手近な批判と嘲りの対象として使ったのである。ポニャトフスキの支援を受けた戦意あふれる改革者の新聞「モニトル」紙が軽蔑的な意味合いで使い、フランチシェク・ザブウォツキが自身の喜劇「サルマティズム」(1785年)で滑稽に描いたといった例が典型的である。
サルマティズムと古き良きシュラフタの伝統は、祖国が地図上から消え去ったポーランド・ロマン主義の時代に再評価を受け始めた。勇敢さと武勇を熱狂的に求める反乱の時代の人々は、サルマティズムへの憧れを復活させていったのである。この風潮はおそらく十一月蜂起の熱狂の中で最も高まっただろう。「シュラフタもの」という小説ジャンルが生まれ、サルマタイ精神を鼓舞した。ヘンリク・シェンキェヴィチの小説、アダム・ミツキェヴィチ(「パン・タデウシュ」)、ユリウシュ・スウォヴァツキ、ジグムント・クラシンスキらの詩に見えるように、サルマティズム礼讃はメシア待望のような形で大きくなっていった。ポーランドのロマン主義は他のヨーロッパ諸国と何ら変わることなく、過去の栄光(サルマティズム)と現在の悲惨(ロシア帝国の支配)を対比させる形で、歴史を利用しながら喧伝されたからである。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- The Sarmatian Review
- Sarmatism or the Enlightenment - The Dilemma of Polish Culture by Andrzej Wasko, Sarmatian Review, April 1997
- Martin Pollack. Sarmatische Landschaften: Nachrichten aus Litauen, Belarus, der Ukraine, Polen und Deutschland
[編集] 脚注
最終更新 2009年10月20日 (火) 08:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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