サンデーサイレンス
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| サンデーサイレンス | |
|---|---|
2000年9月、社台スタリオンステーション
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| 品種 | サラブレッド |
| 性別 | 牡 |
| 毛色 | 青鹿毛 |
| 生誕 | 1986年3月25日 |
| 死没 | 2002年8月19日(16歳没) |
| 父 | Halo |
| 母 | Wishing Well |
| 母の父 | Understanding |
| 生国 | |
| 生産 | Oak Cliff Throughbreds Ltd. |
| 馬主 | Gaillard & Hancock III Charles Whittingham Whittingham et al 吉田善哉 |
| 調教師 | Charles Whittingham |
| 厩務員 | Charles Clay |
| 競走成績 | |
| 生涯成績 | 14戦9勝 |
| 獲得賞金 | 4,968,554ドル |
サンデーサイレンス(Sunday Silence、1986年 - 2002年)は、アメリカ合衆国生まれの競走馬、種牡馬。1996年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。
※文中の「GI級競走」は日本のパート1国昇格前および昇格後のGI競走とJ・GI競走、ならびに昇格後のJpnI競走を指す(詳細については競馬の競走格付けを参照)。
目次 |
[編集] 概要
1988年10月に競走馬としてデビュー。翌1989年にアメリカ三冠のうち二冠(ケンタッキーダービー、プリークネスステークス)、さらにブリーダーズカップ・クラシックを勝つなどG1を5勝する活躍を見せ、エクリプス賞年度代表馬に選ばれた。1990年に右前脚の靭帯を痛めて競走馬を引退。引退後は日本で種牡馬となり、初年度産駒がデビューした翌年の1995年から13年連続で日本のリーディングサイアーを獲得。さらに中央競馬における種牡馬にまつわる記録を次々と更新した。サンデーサイレンスを起点とするサイアーラインは日本競馬界における一大勢力となり、サンデーサイレンス系とも呼ばれる。そのイニシャルからSSと呼ばれることもある。
2002年8月19日に左前脚に発症した蹄葉炎を原因とする衰弱性心不全のため16歳で死亡。幼少期は見栄えのしない容貌ゆえに買い手がつかず、生命にかかわる事態に見舞われながら競走馬、さらに種牡馬として成功した生涯は童話「みにくいアヒルの子」に例えられる[1][2][3]。
[編集] 生涯
[編集] 誕生からデビューまで
[編集] 誕生
サンデーサイレンスは1985年に繁殖牝馬ウィッシングウェルと種牡馬ヘイローが交配された結果、翌1986年3月25日にアメリカ合衆国ケンタッキー州にあるストーンファームで誕生した。両者が交配された要因は、ニックスとされるマームードのインブリード(4×5)が成立することにあった[4]。
[編集] 見栄えが悪く、売れ残る
幼少期のサンデーサイレンスは体格が貧相で、後脚の飛節[† 1]が両後脚がくっつきそうなくらいに内側に湾曲(外弧姿勢、X状姿勢という。そのような体型の馬は下半身の推進力にかけるとされる[1][5])していた[6]。ストーンファームの経営者アーサー・ハンコック3世は幼少期のサンデーサイレンスについて、「脚がひょろ長くて、上体は華奢」であったと述べている[1][7]。さらに幼少期のサンデーサイレンスの馬体はくすんだ鼠色をしており[† 2][8][1]、その容貌は、テッド・キーファー[† 3]がストーンファームを訪れた際に必ず「あんなひどい当歳(0歳)馬は見たことがない」「目にするのも不愉快」と言うほど見栄えがしなかった[9]。また気性が激しく、扱いの難しい馬であった[10]。
1987年にキーンランド・ジュライセール(ケンタッキー州で行われる、世界的に有名なセリ市)に出品されたが、馬体の見栄えが悪かったサンデーサイレンスはセレクトセール(一定水準以上の血統および馬体をもつと判断された馬が出品される部門)への出品が許可されず、一般部門に出品された[11]。サンデーサイレンスには1万ドルの値がついたが安すぎると感じたハンコックは1万7000ドルで買い戻した。ハンコックはサンデーサイレンスを買い戻したことをトム・ティザム(サンデーサイレンスの母ウィッシングウェルの実質的所有者。)に報告し、買い取ってもらおうとしたがティザムは所有する意思がないと述べた(テッド・キーファー[† 3]のアドバイスによるものだった)ため、そのままハンコックが所有することとなった[12][13]。翌1988年3月、サンデーサイレンスはカリフォルニア州で行われたトレーニングセールに出品されたが希望販売価格の5万ドルに届かず、3万2千ドルで再びハンコックに買い戻された[14][15][7]。さらにハンコックは複数の競馬関係者に購入の打診をしたが、ことごとく断られた[7]。
[編集] 幼少期の疾病
サンデーサイレンスは当歳時(1986年11月)に悪性のウイルスに感染し、数日にわたってひどい下痢を起こして生死の境をさまよったことがある[15][16][5]。
またカリフォルニア州のセリからの帰り道にトラックの運転手が心臓発作を起こし馬運車が横転する事故に遭い、競走能力こそ失わなかったもののしばらくまっすぐに歩けなくなるほどの重傷を負ったことがある[5][17][18]。なお、この時馬運車に乗っていたサンデーサイレンス以外の競走馬はすべて死亡した[19]。
[編集] サンデーサイレンスの所有権
ハンコックはサンデーサイレンスをキーンランド・ジュライセールで買い戻した後、同馬を友人のポール・サリバンと半分ずつの持ち分で共有した[20]。その後サリバンはカリフォルニア州のトレーニングセールで買い戻された時期に所有する競走馬の調教費用と相殺する形で調教師のチャーリー・ウィッティンガムに持ち分を売却し[21]、ウィッティンガムはそのうちの半分を友人の医師アーネスト・ゲイラードに売却した[22]。なお、サンデーサイレンスが活躍を見せ始めるとハンコックのもとには持ち分を購入したいという申し込みが相次いだが、ハンコックは売却しなかった[23]。
[編集] 競走馬時代
[編集] 1988年・1989年
[編集] 競走内容
サンデーサイレンスは同馬の所有権を4分の1持つチャーリー・ウィッティンガムが管理することとなった。調教を進める中でサンデーサイレンスの能力を感じ取ったウィッティンガムはハンコックに「あの真っ黒い奴は走る」と電話で報告し、ハンコックを驚かせた[24]。サンデーサイレンスは1988年10月に初めてレースに出走したが2着に敗れ、翌11月に初勝利を挙げた。12月の一般競走で再び2着に敗れた後、ウィッティンガムは余力を残した状態で休養をとらせることにした[25]。
翌1989年3月2日、サンデーサイレンスはサンタアニタパーク競馬場で行われた一般競走でレースに復帰して優勝。さらに同月19日、重賞(G2)のサンフェリペハンデキャップをスタートで出遅れながら優勝した。この段階で主戦騎手のパット・ヴァレンズエラは「今まで乗った中でも最高の2歳馬」と評し、ウィッティンガムは「ケンタッキーダービーでも5本の指には入るだろう」と述べた。サンデーサイレンスはケンタッキーダービー候補として競馬ファンに認識され始めた[26]。
ウィッティンガムはサンデーサイレンスのケンタッキーダービー出走について、「サンタアニタダービーが終わるまでは分からない」とも述べていた[27]が、4月8日にサンタアニタダービーを11馬身差というレース史上最大の着差[28]で優勝したことを受けてケンタッキーダービー出走を正式に表明。4月半ばにはケンタッキーダービーに備え同レースが行われるチャーチルダウンズ競馬場へサンデーサイレンスを移送した[29]。ケンタッキーダービーはレース前日に20mmを超える雨が降り、1967年以来といわれる悪い馬場状態で行われた[30]。また、発走時の気温は摂氏6.1℃でレース史上最低であった[31]。サンデーサイレンスはスタートで体勢を崩し他馬と激しく接触し、直線で左右によれる素振りを見せる場面も見られた(ヴァレンズエラは馬場の両側から歓声を浴びせられて驚いたからだと、ウィッティンガムは馬場の内側のラチ沿いに並んで警備員に驚いたからだとしている[32])が、1番人気のイージーゴアに1馬身半の着差をつけ優勝。レース後、ウィッティンガムは「この馬は三冠馬になる」と宣言した[33]。
ケンタッキーダービー優勝後、アメリカ三冠第2戦のプリークネスステークスに出走するまでの過程は平坦なものではなかった。まずレース1週間前の5月13日、サンデーサイレンスの右前脚に問題が発生(獣医師の診察結果は打撲または血腫によるハ行)し、レースの4日前まで調教が行えなくなるアクシデントに見舞われた[34][35]。さらにサンデーサイレンスはレースまでの期間をピムリコ競馬場で過ごしたが、数百人にものぼる観光客やマスコミが馬房に押しかけ、サンデーサイレンスは苛立った様子を見せるようになった。陣営は馬房の扉を閉めてサンデーサイレンスを隔離する措置を講じた[36]。ケンタッキーダービーを優勝したサンデーサイレンスだったが実力はイージーゴアの方が上と見る向きが多く<、プリークネスステークスでの人気はイージーゴアが1番人気でサンデーサイレンスは2番人気であった。レースは中盤を過ぎてからイージーゴアがサンデーサイレンスの外に進出し、サンデーサイレンスが前方へ進出するためのスペースを塞ぐ展開となった。そのままイージーゴアは先頭に立ったがサンデーサイレンスが猛然と追い上げ、15秒以上にわたる競り合いの末、数センチの差でサンデーサイレンスが先着し優勝した[37][38]。このマッチレースはアメリカ合衆国の競馬専門誌「ブラッド・ホース」で行われた読者によるアンケートで、年間ベストレースに選出されている[39]。
ベルモントステークスではアメリカ三冠達成の期待がかかり、サンデーサイレンスはイージーゴアと対戦したレースで初めて1番人気に支持された。しかしレースでは残り400mの地点でイージーゴアに交わされるとそのまま差を広げられ、8馬身の着差をつけられ2着に敗れた[40]。
ベルモントステークス出走後、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシック優勝を次の目標に据えた。ウィッティンガムはじめ厩舎スタッフはサンデーサイレンスの体調の低下を感じ取っていたが、短い休養を取らせた後でスワップスステークスに出走した。レースでは逃げの戦法をとったが残り400mの地点で突如失速し、プライズドに交わされ2着に敗れた[41]。レース後、ウィッティンガムはレース途中で他の馬を引き離し過ぎたことに不満を表した[42]。合田直弘はヴァレンズエラがサンデーサイレンスに鞭を入れ過ぎたことを敗因に挙げている[† 4][43]。敗戦を受けて陣営は万全の体調でブリーダーズカップ・クラシックに出走できるよう態勢を整えることにした。[42]。9月に入り、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシックに向けた前哨戦としてルイジアナ州のルイジアナダウンズ競馬場で行われるスーパーダービーへの出走を決めた。この時期にはサンデーサイレンスの体調は回復しており、レースでは2着に6馬身の差をつけて優勝した[44]。
ブリーダーズカップ・クラシックの1週間前、サンデーサイレンスの主戦騎手パット・ヴァレンズエラに対して薬物(コカイン)検査で陽性反応が出たことを理由に60日間の騎乗停止処分が下され、急遽クリス・マッキャロンに騎手が変更されるアクシデントがあった。しかしサンデーサイレンス陣営はイージーゴアが抱えていた脚部不安が深刻化していたことを察知し、勝利に対する自信を深めた[45]。ベルモントステークスの後G1を4連勝したイージーゴアもブリーダーズカップ・クラシックに出走することが決まり、このレースはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決となった。競馬関係者の中には2頭の対決をボクシングのヘビー級のタイトルマッチに例えたり「10年に一度の大一番」と呼ぶ者もいた[46]。レースではイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であったが、残り200mの地点で先頭に立つとイージーゴアの追い上げをクビ差しのいで、優勝した[47]。レース後、ウィッティンガムはサンデーサイレンスを、自身が管理した中で「文句なしに最高の馬」と評している[48]。この年、 サンデーサイレンスは北アメリカにおける1年間の獲得賞金記録(457万8454ドル)を樹立した。さらに翌1990年1月、1989年度のエクリプス賞年度代表馬、および最優秀3歳牡馬に選出された[49][50]。
[編集] イージーゴアとの対決
三冠競走では、イージーゴアがサンデーサイレンスのライバルとなった。血統背景が優れている点、馬体が美しい点など、サンデーサイレンスとは対照的な馬とされる[51]。イージーゴアはケンタッキーダービーが行われる前から競馬マスコミによって「セクレタリアトの再来か?」、「今、その存在は伝説となりつつある」と評されるなど高い評価を集め、ケンタッキーダービー、さらには同レースでサンデーサイレンスに敗れた直後のプリークネスステークスでも1番人気に支持された[52]。前述のように三冠競走をサンデーサイレンスの2勝1敗で終えた後、イージーゴアがG1を4連勝し、サンデーサイレンスがG1のスーパーダービーを優勝して迎えたブリーダーズカップ・クラシックはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決となり、「10年に一度の大一番」といわれた[53]。2頭の関係はアファームドとアリダーの再来、競馬史上最高のライバル関係と評された[54]。
サンデーサイレンスとイージーゴアとの比較についてウィッティンガムは、サンデーサイレンスの得意距離は1600mから2000mで、イ-ジーゴアは一流のステイヤーと述べている[55]。レイ・ポーリックはサンデーサイレンスは敏捷な馬でコーナーを回りながら加速することができたためカーブがきつい競馬場を得意とし、一方イージーゴアは長い直線では圧倒的なパワーを発揮するがきついカーブを苦手としていたと分析している[56]。
なお、イージーゴアはクレイボーンファームで生まれた競走馬である。サンデーサイレンスの馬主アーサー・ハンコック3世はクレイボーンファームの経営者ブル・ハンコックの息子であったが、父の死後後継者に指名されなかったことに不満を覚え、クレイボーンファームと袂を分かった過去があった。さらにイージーゴアの名義上の生産者であり馬主であったオグデン・フィップスは、顧問としてクレイボーンファームの後継者指名に関与していた[57]。
[編集] 薬物疑惑
前述のようにサンデーサイレンスはプリークネスステークスの直前期に脚部に問題を抱え、短期間で回復した。サンデーサイレンスの治療に当たった獣医師のアレックス・ハートヒルによると、施された処置は脚部をエプソム塩に浸して血液の循環を促進した後で患部に湿布を貼るというものであった[58]が、同じ時期に前述のように厩舎サイドが観光客およびマスコミに苛立つサンデーサイレンスを隔離するために馬房の扉を閉める措置を講じたことから、馬房の中で違法な処置がとられているという疑惑を口にするマスコミ関係者が現れた[59]。三冠の最終戦のベルモントステークスを前に、ニューヨーク州の競馬当局は同レースが行われるベルモントパーク競馬場の厩舎エリアへのハートヒルの立ち入りを禁止した[60]。
[編集] 1990年
「古馬になればもっと強くなる」というウィッティンガムの主張により、サンデーサイレンスは1990年も現役を続行することになった< [61]。ブリーダーズカップ・クラシックの後、サンデーサイレンスは脚部に複数の故障(膝の剥離骨折と軟骨の痛み)を発症し、骨片の摘出手術を行い休養をとった[62]。1990年の3月に調教が再開された際にウィッティンガムは「ここからきっかり3ヵ月でレースに出られるように仕上げてみせる」と宣言し、宣言通り6月のカリフォルニアンステークスでレースに復帰させた[63]。このレースをサンデーサイレンスは逃げ切って優勝した。2着馬との着差は3/4馬身であったが、これは今後のハンデキャップ競走で重い斤量課されないために着差をつけないで勝つようウィッティンが指示を出したためであった[64]。なおこのレースでは当初ブリーダーズカップ・クラシックでサンデーサイレンスに騎乗したクリス・マッキャロンが引き続き騎乗する予定であったが、当日に行われた別のレースでマッキャロンは落馬し、復帰まで5か月を要す大怪我を負った。これによりパット・ヴァレンズエラが再び主戦騎手を務めることになった[65]。
続いてサンデーサイレンスは中2週でハリウッドゴールドカップに出走した。レースでは直線に入りクリミナルタイプとのマッチレースとなったが交わせず、アタマ差の2着に敗れた。敗因として、ウィッティンガムとヴァレンズエラはともにクリミナルタイプより5ポンド重い斤量を課されたことを挙げている[66]。合田直弘とハンコックは前年のスワップスステークスと同様、ヴァレンズエラが鞭を入れ過ぎたことを挙げている[61][† 4][67]。
その後、サンデーサイレンスはアーリントンパーク競馬場がサンデーサイレンスとイージーゴアを対決させる意図で企画した特別招待レース(アーリントンチャレンジカップ、8月4日開催予定)を目標に調整された[68]。7月半ばにイージーゴアが脚部の骨折により競走馬を引退し対戦が不可能になってからも出走予定は変更されなかったが、レース直前に左前脚をかばう素振りを見せた。診察の結果左前脚にある「XYZ靭帯」と呼ばれる靱帯(馬の体重を支えるのに不可欠な靱帯といわれている)に小さな断裂が見つかり、獣医師のハートヒルは引退を勧告。陣営はそれに従い、引退を決定した[69]。
[編集] 競走成績
| 出走日 | 競馬場 | 競走名 | 格 | 着順 | 騎手 | 距離 | 着差 | 1着(2着)馬 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1988.10.30 | サンタアニタパーク | 未勝利 | 2着 | P.ヴァレンズエラ | D6.5f | クビ | Caro Lover | |
| 1988.11.13 | ハリウッドパーク | 未勝利 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D6f | 10馬身 | (Moment of Time) | |
| 1988.12.03 | ハリウッドパーク | 一般競走 | 2着 | A.グライダー | D6.5f | アタマ | Houston | |
| 1989.03.02 | サンタアニタパーク | 一般競走 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D6.5f | 4 1/2馬身 | (Heroic Type) | |
| 1989.03.19 | サンタアニタパーク | サンフェリペH | G2 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D8.5f | 1 3/4馬身 | (Flying Continental) |
| 1989.04.08 | サンタアニタパーク | サンタアニタダービー | G1 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D9f | 11馬身 | (Flying Continental) |
| 1989.05.06 | チャーチルダウンズ | ケンタッキーダービー | G1 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D10f | 2 1/2馬身 | (Easy Goer) |
| 1989.05.20 | ピムリコ | プリークネスS | G1 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D9.5f | ハナ | (Easy Goer) |
| 1989.06.10 | ベルモントパーク | ベルモントS | G1 | 2着 | P.ヴァレンズエラ | D12f | 8馬身 | Easy Goer |
| 1989.07.23 | ハリウッドパーク | スワップスS | G2 | 2着 | P.ヴァレンズエラ | D10f | 3/4馬身 | Prized |
| 1989.09.24 | ルイジアナダウンズ | スーパーダービー | G1 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D10f | 6馬身 | (Awe Inspiring) |
| 1989.11.04 | ガルフストリームパーク | BCクラシック | G1 | 1着 | C.マッキャロン | D10f | クビ | (Easy Goer) |
| 1990.06.03 | ハリウッドパーク | カリフォルニアンS | G1 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D9f | 3/4馬身 | (Stylish Winner) |
| 1990.06.24 | ハリウッドパーク | ハリウッドゴールドCHS | G1 | 2着 | P.ヴァレンズエラ | D10.0f | アタマ | Criminal Type |
- "S"はステークス、"C"はカップ、"H"はハンデキャップの略。
[編集] 種牡馬時代
ハンコックは総額1000万ドル(1株25万ドル×40株)のシンジケートを組み、サンデーサイレンスにアメリカで種牡馬生活を送らせる予定だった。しかしヘイロー産駒の種牡馬成績が優れなかったことやファミリーラインに対する評価の低さから種牡馬としてのサンデーサイレンスに対する評価は低く[70]、株の購入希望者は3人にとどまり、種付けの申込みを行った生産者はわずか2人であった[71]。
ファイル:ノーザンテーストと吉田善哉.jpg そんな中、1990年はじめにハンコックから250万ドルで持ち分の半分(全体の1/4)を買い取っていた日本の競走馬生産者吉田善哉[72]がサンデーサイレンスの購入を打診してきた[73]。当時ハンコックはストーンファームの経営を拡大させる中でできた負債を抱えており[74]、経済的事情から「他に道はない」と判断し、サンデーサイレンスを売却することにした。吉田善哉が購入のために使った金額は1100万ドル(当時の為替レートで約16億5000万円)であった[† 5][73]。この取引は当時、「日本人のブリーダーがとても成功しそうにない母系から生まれたヘイロー産駒を買っていった」とアメリカの生産者の笑いものになった[75]。
吉田善哉に購入されたサンデーサイレンスは日本へ輸入され、1991年から社台スタリオンステーションで種牡馬生活を開始した。種牡馬入りに際し、総額25億円(4150万円×60株)のシンジケートが組まれた[76]。シンジケートは満口となった[76][77]ものの、当初サンデーサイレンスの評価はさほど高くなかった上に種付料が1100万円と高額であったため、期待されていたほどの交配申し込みはなく、最も多く交配したのは吉田善哉が経営する社台ファーム千歳(現在の社台ファーム)に繋養されていた繁殖牝馬であった(吉田善哉の息子で社台ファーム代表の吉田照哉曰く、「最高の繁殖牝馬をすべて交配させた」[78])が、その結果誕生した馬に対する同牧場の関係者の評価は高くなかった。1994年6月にデビューした初年度産駒は約半年の間に30勝(重賞4勝)を挙げたが、この活躍は社台ファームの関係者にとっても予想を上回ることであった[79]。なお吉田善哉はサンデーサイレンス産駒のデビューを見ることなく、1993年8月にこの世を去っている。
サンデーサイレンスはその後も活躍馬を次々と輩出し、初年度産駒がデビューした翌年の1995年にリーディングサイアーを獲得。2世代の産駒だけでリーディングサイアーを獲得というのは中央競馬史上初の記録[† 6]である。以後2007年まで13年連続でリーディングサイアーに君臨した[† 7]。同じく1995年に種牡馬としての中央競馬獲得賞金記録を更新。その後もサンデーサイレンスは中央競馬における種牡馬に関する記録を次々と更新した(詳細については#記録を参照)。産出された12世代すべてからGI級競走優勝馬が登場し、産駒は日本の中央競馬のGI級競走のほとんどを優勝(NHKマイルカップ[† 8]とジャパンカップダート[† 9]、中山グランドジャンプ[† 10]、中山大障害[† 11]が未勝利)した。
サンデーサイレンスの種付け権の価格は1995年には2000万円、1998年には5000万円に上昇した[80]。生産者の要望に応える形で種付け頭数は年を追うごとに増加し、2000年と2001年は年間200頭を超える繁殖牝馬と交配された。それまで日本の競走馬生産者の間には年間100頭を超えて種付けをさせることは種牡馬を酷使しているという認識があったが、サンデーサイレンスの種付け頭数が100頭、200頭を超えるのに伴い他の種牡馬も200頭を超える種付けを行うことが珍しくなくなった[78]。ブリーダーズ・スタリオン・ステーションの秋山達也によると、このような種付け頭数の増加は有力種牡馬に交配の申し込みが殺到する現象を生み、成績が優れない種牡馬が以前よりも早く見切られるようになった[81]。種牡馬時代の厩務員を務めた佐古田直樹によるとサンデーサイレンスは性欲が強く[82]、最大で年間224頭(2001年)の繁殖牝馬と交配したにもかかわらず種付けを嫌がる様子を見せなかった[83]。佐古田はサンデーサイレンスを「まるで種付けマシーンのよう」と形容している[84]。
1998年に始まったセレクトセールでは毎回産駒が高額で落札された[† 12]。晩年には種付け料と産駒の購買価格、獲得賞金、種牡馬シンジケートの額を合計するとサンデーサイレンスが1年間に動かす金額は100億円を超え[79]、年間150頭の繁殖牝馬に5年間種付けを行った場合、産駒の獲得賞金と種付け料を合計して1500億円の経済効果があるといわれた[85]。
産駒は海外のレースでも活躍を見せ、日本調教馬は海外でG1を3勝(ステイゴールド、ハットトリック、ハーツクライが各1勝)した。さらにオーストラリア生まれ(交配は秋(南半球は春で繁殖シーズンにあたる)に日本で行われた)のサンデージョイ(Sunday Joy)がG1のオースラリアンオークスを優勝するなど、海外生産馬および海外調教馬からも複数の重賞優勝馬を輩出した。日本国外で活躍する産駒が出現した影響から海外の有力馬主がセレクトセールでサンデーサイレンス産駒を購買し、さらに繁殖牝馬を日本へ移送して交配させるようになった。2001年に行われた第4回セールではロッタレースの2001を巡ってゴドルフィンとクールモアスタッドの代理人が激しい競り合いを演じた(ゴドルフィンが1億9000万円で落札)[86]。
- 年度別の種付け頭数および誕生産駒数
| 年度 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 種付け頭数 | 77 | 84 | 99 | 118 | 142 | 183 | 171 | 185 | 199 | 206 | 224 | 159 | - |
| 誕生産駒数 | - | 67 | 67 | 74 | 97 | 129 | 157 | 157 | 149 | 150 | 180 | 188 | 107 |
[編集] 蹄葉炎を発症し死亡
2002年5月5日、サンデーサイレンスは右前脚にハ行を発症し、この年の春の種付けを中止して休養に入った。一度は快方に向かったものの同月10日にハ行が再発。検査の結果、右前脚にフレグモーネを発症していることが判明した[87][88][89]。フレグモーネを引き起こした細菌は血管が少なく抗生物質の効果が現れにくい深屈腱(上腕骨と中節骨をつなぐ腱の外側)に入り込んでいた。さらに通常フレグモーネは外傷から菌が侵入して発症するがサンデーサイレンスの脚に外傷が見当たらず、発症の詳しい経緯が不明であったことから治療に有効な抗生物質が見つけられなかった。これらの理由から治療は困難を極めた[88][87][89]。サンデーサイレンスを繋養する社台スタリオンステーションはイギリスからフレグモーネの専門医を招いて治療を行った[87]。3回にわたって患部を切開して洗浄する措置が施された結果、右前脚の病状は改善したものの、8月に入りそれまでに右前脚をかばった負担が原因となって左前脚に蹄葉炎を発症。懸命な治療の甲斐なく8月19日に衰弱性心不全のため死亡した[87][89][90]。
遺体は火葬され、社台スタリオンステーションの敷地内に埋葬された。墓の横には吉田善哉の遺品が埋められている[87][79]。産駒は2003年生まれがラストクロップとなった。最後に生まれた産駒はハギノプリンセス(母サベージ)[91]である。
[編集] 競走馬としての特徴・評価
[編集] 精神面
サンデーサイレンスは気性が非常に荒く、騎乗した人間の指示に従わず暴れる傾向があった。ウィッティンガムは厩舎一の腕を持つジャネット・ジョンソンをサンデーサイレンス担当の調教助手に指名したが、ジョンソンは気性の荒さに嫌気が差し、一度騎乗しただけで降板している。騎手のビル・シューメーカーも調教のために騎乗したことがあるが気性の荒さに激怒し、レースでの騎乗を拒否した[92]。ウィッティンガムによると、ヘイローの産駒は総じて気性が荒いという[93]。
サンデーサイレンスは前述のように1986年11月に悪性のウイルスに感染して激しい下痢を起こし、生死の境をさまよったことがある。この闘病についてハンコックは「普通の馬だったらダメだっただろう」、「よほどの精神力がなければ、とてもじゃないがあんな経験は乗り越えられない」と述べている[94][95]。
[編集] 身体面
テッド・キーファー[† 3]は、「サンデーサイレンスの馬体の欠点は目をつぶってすむような軽いものじゃなかった」「同じような馬格の馬が1000頭いたとしたら、そのうち999頭はチャンピオンやリーディングサイアーになるどころか、競走馬としてまず使い物にならないだろう」とし、ティザムに購入を勧めなかったことを正当化するとともに「個人的には、サンデーサイレンスは一種の突然変異だったと思っている」と述べている[96]。
[編集] 走法
ブリーダーズカップ・クラシックで騎乗したクリス・マッキャロンはサンデーサイレンスの走りを「ストライドに全感覚を集中させるか、それとも脚元を見下ろすかしない限り、いつ手前を変えたのか全くわからない。そのくらい脚運びが滑らか」と評し、かつて騎乗したジョンヘンリーの感覚を思い出させたと述べている[97]。ウィッティンガム厩舎の調教助手の一人は、どんなに狭いコースでも器用に手前を変えることができ、コーナーを回りながら加速することができる点をサンデーサイレンスの特徴として挙げている[98]。
[編集] 客観的評価
サンデーサイレンスは1996年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。1999年に競馬専門誌のブラッド・ホース誌が発表した20世紀のアメリカ名馬100選では第31位となった。
[編集] 競走馬名
サンデーサイレンスという競走馬名は、メリーランド州に住むストローという名の夫婦が考案した[99][100]。意味は「静寂なる日曜日(のミサ)」[101][100]。夫妻は「自分たちが所有する競走馬がケンタッキーダービーに出走を果たすとしたら、どんな名前がいいだろう」という空想をもとに作成した競走馬名リストをストーンファームに送り、その中からハンコックが「サンデーサイレンス」を採用した[102][100]。
[編集] 種牡馬としてのサンデーサイレンス
[編集] 種牡馬成績・記録
前述のようにサンデーサイレンスは初年度産駒がデビューした翌年の1995年から2007年にかけて13年連続でリーディングサイアーとなった。
サンデーサイレンスは中央競馬における種牡馬に関する記録の多くを更新した。リーディングサイアー[† 13]、連続リーディングサイアー[† 14]、通算勝利数[† 15]、通算重賞勝利数[† 16]、年間最多勝利数[† 17]、年間最多重賞勝利数(2003年に38勝)、年間最多獲得賞金[† 18]、通算クラシック勝利数[† 19]はいずれも最多記録を保持している。また、中央競馬・地方競馬をあわせた通算勝利数は3000勝を超え、世界最多である[† 20]。
その他の記録としては、史上はじめて2世代の産駒だけでリーディングサイアーを獲得、史上初めて牡(ディープインパクト・2005年)・牝(スティルインラブ・2003年)の三冠馬を輩出、東京優駿に関して(トウルヌソルと並ぶ)史上最多タイの6頭の優勝馬輩出、(シアンモアと並ぶ)史上最多タイの3年連続での東京優駿優勝馬輩出、(パーソロン、ファバージ、ノーザンテーストに続く)史上4頭目の、産駒によるJRA開催競馬場全10場の重賞勝利[† 21]がある。
- 年度別種牡馬成績
| 年度 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 | 2008 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 順位(日本総合) | 44位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 7位 |
| 順位(中央競馬) | 31位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 7位 |
| AEI(中央競馬) | 1.77 | 3.23 | 2.97 | 2.50 | 2.39 | 2.40 | 2.18 | 2.33 | 2.15 | 2.78 | 2.64 | 2.96 | 3.24 | 2.32 | 2.15 |
| 総出走頭数(中央競馬) | 32 | 89 | 134 | 166 | 211 | 260 | 337 | 374 | 413 | 429 | 499 | 468 | 361 | 249 | 135 |
| 総勝ち頭数(中央競馬) | 20 | 62 | 66 | 83 | 105 | 121 | 167 | 180 | 161 | 195 | 217 | 199 | 159 | 73 | 33 |
[編集] ブルードメアサイアーとしての成績
サンデーサイレンスをブルードメアサイアーに持つ競走馬は1997年に初めて誕生した。当初はサンデーサイレンスの激しい気性が悪い形で遺伝するのではないかと懸念されていた[103]が、2世代目から重賞優勝馬が、6世代目からGI級競走優勝馬が現れるなど徐々に成績を伸ばし、2007年に初めてリーディングブルードメアサイアーの座を獲得した(中央競馬のみの集計では2006年に初めて獲得)。
競走馬エージェントの柴田英次は、サンデーサイレンスは種牡馬としての特徴である柔らかくしなやかな筋肉と激しい気性(から生まれる「狂気をはらむほど激しい闘争心」)をブルードメアサイアーとしても遺伝させるとしている[104]。
- ブルードメアサイアーとしての年度別成績
| 年度 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 | 2008 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 順位(中央競馬) | 760位 | 144位 | 88位 | 27位 | 5位 | 4位 | 2位 | 1位 | 1位 | 1位 |
| AEI(中央競馬) | 0.12 | 0.71 | 0.62 | 0.89 | 1.19 | 1.36 | 1.57 | 1.66 | 1.81 | 1.72 |
| 総出走頭数(中央競馬) | 3 | 18 | 39 | 69 | 130 | 196 | 271 | 356 | 448 | 555 |
| 総勝ち頭数(中央競馬) | 0 | 6 | 12 | 22 | 46 | 62 | 94 | 118 | 154 | 185 |
[編集] サンデーサイレンス系種牡馬の活躍
サンデーサイレンス直仔の種牡馬がデビューすると、日本のリーディングサイアー上位は彼らによって占められるようになった。サンデーサイレンス直仔の種牡馬の産駒は中央競馬において、サンデーサイレンス産駒が優勝できなかったNHKマイルカップ、ジャパンカップダート、中山大障害を含む数々のGI級競走を優勝している。さらに日本国外でもシーザリオ(父スペシャルウィーク)がアメリカンオークスインビテーショナルステークスを、デルタブルース(父ダンスインザダーク)がメルボルンカップを勝ち、フジキセキ、タヤスツヨシ、バブルガムフェローといったシャトル種牡馬の産駒が南半球やドバイのG1優勝馬を輩出。日本国外へ輸出された種牡馬を見ると、フランスに輸出されたディヴァインライトの産駒ナタゴラがチェヴァリーパークステークスを制してカルティエ賞最優秀2歳牝馬を受賞しイギリスのクラシックレースである1000ギニーを制した。
[編集] 血の飽和、偏りの問題
サンデーサイレンス自身ばかりでなくその直系の牡馬までもが種牡馬として活躍し数多くの種付けをこなすようになると、サンデーサイレンスの血を引く馬が過剰に生産され、それらの馬が種牡馬や繁殖牝馬となることで近親交配のリスクが高まり、やがては日本の競走馬生産が行き詰まりを見せるようになるのではないかという懸念が生じるようになった(血の飽和、偏りの問題)[105][106]。これに対し吉田照哉は、サラブレッドの生産においては一つの系統が栄えれば次に別の系統が栄えるというが繰り返されて来たのであり、サンデーサイレンスの場合も他の系統が自然と栄えるようになる[106][107]、加えてサンデーサイレンス系の馬を日本国外へ輸出するという対策方法もある[108]と反論している。
[編集] 特徴・評価
[編集] 産駒の精神面
サンデーサイレンスの産駒は気性が激しいことで知られた。競走馬エージェントの柴田英次は、産駒は激しい気性から生まれる「狂気をはらむほど激しい闘争心」ゆえに痛みに対して従順でなく、「肉体の限界を超えるほどのチカラを発揮できた」と分析し、「種牡馬として成功した要因として、激しい気性があったのは間違いない」と述べている[103]。サンデーサイレンス産駒に騎乗し多くの勝利を挙げた武豊[† 22]は、騎乗した時に産駒が気性の悪さを見せるとかえって頼もしさを感じたという[109]。なお武によると、レースでは序盤はのらりくらりと走り、後半になってから本気を出すタイプの馬が多かった[110]。
社台ファーム繁殖主任の水越治三郎は、やんちゃな気性の割に物覚えがよいと述べている[79]。獣医師の松永和則は、サンデーサイレンス産駒の気性はただ単に激しいのではなく、強い精神力を伴ったものであると述べている[111]。
[編集] 産駒の肉体面
産駒の特徴について水越治三郎は、外見は見栄えがしないがそれとは正反対に肉体面がしっかりとしていると述べている[79]。エアメサイアを管理した伊藤雄二は「とても体質、骨質が優れている」、「前脚は膝から下、後脚は飛節[† 1]から爪の先までしっかりと力が入っている産駒が多い」、「全身均等に筋肉がついて」いる点を特徴として挙げている[112]。
筋肉や繋ぎの柔らかさも特徴の一つである。サイレンススズカ、アドマイヤベガ、アドマイヤグルーヴを管理した橋田満によると筋肉が柔らかいと走行時のストライドが大きくなり、優れた瞬発力を発揮するという[113]。富岡眞治はサンデーサイレンスは飛節の角度がやや深い点が難点であったが筋肉と繋ぎが柔らかい点に特徴があり、産駒についても飛節の難点を筋肉と繋ぎの柔らかさがカバーしていたと分析している[114]。そして、産駒は柔らかい筋肉を活かした素早い収縮運動により日本の固い馬場でのスピード勝負に対応したと分析している。こうした柔らかさについて岡田繁幸は当初、「馬体が柔らかすぎて、まるで力強さが感じられない。決して誉められた馬ではない」という印象を抱いていたが、産駒が活躍したことにより「相馬眼を180度覆された」と述べている[† 23][79]。
サンデーサイレンス産駒は仕上がりが早い(調教の効果が表れやすい)傾向にあり、2歳のうちから能力を十分に発揮した。松永和則によると、産駒は少し運動をさせただけで澄んだ心音が聞こえるようになるなどはっきりとした身体的変化を見せたという[115]。中央競馬では初年度産駒がデビューした1994年から最終世代がデビューした2005年までの間、1996年を除く11回2歳リーディングサイアーを獲得した。競走馬仲介業者の富岡眞治によると、成功を収めたサンデーサイレンス産駒には細身の馬が多く、通常そのような馬が晩成型であることが多いが、サンデーサイレンス産駒の場合は馬体が未完成な時期にもクラシックを戦い抜く基本性能を備えていた[116]。
[編集] 遺伝に関する特徴
伊藤雄二はサンデーサイレンスの特徴として、遺伝力の強さを挙げている[112]。吉沢譲治は自身の長所を伝える遺伝力の強さに加え、配合相手の長所を引き出す和合性を挙げている[117]。吉田照哉は、「ほとんどどんな牝馬でも結果を残す」、「長距離血統でも短距離血統でも、とにかく繁殖牝馬を選ばない万能の種牡馬」と評価している[118]。
田端到によるとサンデーサイレンスの産駒はブルードメアサイアーに応じて一定の傾向を持ち、たとえばダンチヒをブルードメアサイアーとする産駒は短い距離を得意とし、ヌレイエフをブルードメアサイアーとする産駒はダートを得意とする傾向がある[119]。サンデーサイレンスとブルードメアサイアーとの相性という点では、ノーザンテーストとの組み合わせ[† 24]で4頭が、ニジンスキー[† 25]、ヌレイエフ、トニービンとの組み合わせでそれぞれ3頭がGI級競走を勝っている。
[編集] レース体系への対応
サンデーサイレンスが優れた種牡馬成績を残したのは、中央競馬のレース体系が変化したことによる時代の勢いに乗ったからだという見方もある。作家の藤野広一郎は「サンデーサイレンスの種牡馬としての素質には端倪すべからざるものがある」としつつ、中央競馬のレース編成に占める長距離戦の比重が軽くなったことで日本のサラブレッド生産が「圧倒的なマイラー志向に傾き、早熟で、手がかからなくて、仕上がりの早い、しかもスピード適性をもった産駒を送り出せる早熟型の種牡馬しか成功できなくなってきた中で時代傾向にのっかった」「早熟タイプの完成度の高い器用な軽量級種牡馬で、別にのけぞって驚嘆するほどの種牡馬でもなく、トップクラスの国際級種牡馬と表現するのをためらわせる」としている[120]。安福良直は、サンデーサイレンスの初年度産駒がデビューした1994年と2005年を比較すると、中央競馬においてサンデーサイレンス産駒が最も得意とする芝1800m-2000mのレースの施行数が2歳馬の新馬戦、未勝利戦において2.5倍に増えていることを挙げ、「時代が、サンデーサイレンス産駒が勝つほうへ勝つほうへと変化」したと分析している[121]。
[編集] 客観的評価
アーニングインデックスをコンパラブルインデックスで割った数値(産駒の収得賞金に加え繁殖牝馬の質の高さを考慮するため、種牡馬の本当の実力が分かるとされる)は、2005年末の試算で同時期に活躍した有力種牡馬であるノーザンテーストやブライアンズタイム、トニービンなどを上回っている(2.02。ノーザンテーストは1.83、ブライアンズタイムは1.58、トニービンは1.32)[122]。
[編集] 主な産駒
[編集] 日本調教馬
[編集] GI級競走優勝馬
勝ち鞍はGI級競走のみ表記。なお、産出した12世代全てでGI級競走優勝馬を輩出している。
- 1992年産
- 1993年産
- 1994年産
- 1995年産
- 1996年産
- スティンガー(阪神3歳牝馬ステークス)
- アドマイヤベガ(東京優駿)
- トゥザヴィクトリー(エリザベス女王杯)
- 1997年産
- 1998年産
- 1999年産
- ゴールドアリュール(ジャパンダートダービー、ダービーグランプリ、東京大賞典、フェブラリーステークス)
- デュランダル(スプリンターズステークス、マイルチャンピオンシップ(2003,2004))
- アドマイヤマックス(高松宮記念)
- 2000年産
- 2001年産
- 2002年産
- 2003年産
[編集] 重賞優勝馬
- 1992年産
- ブライトサンディー(函館記念、サファイヤステークス)
- サイレントハピネス(サンスポ賞4歳牝馬特別、ローズステークス)
- プライムステージ(札幌2歳ステークス、フェアリーステークス)
- マジックキス(北九州記念)
- キングオブダイヤ(中山記念)
- サンデーウェル(セントライト記念)
- サマーサスピション(青葉賞)
- 1993年産
- 1994年産
- ビッグサンデー(マイラーズカップなど重賞3勝)
- オレンジピール(サンスポ賞4歳牝馬特別など重賞3勝)
- エアウイングス(阪神牝馬特別)
- 1995年産
- 1996年産
- ロサード(オールカマーなど重賞5勝)
- フサイチエアデール(報知杯4歳牝馬特別など重賞4勝)
- エイシンルーデンス(中山牝馬ステークス、チューリップ賞)
- ペインテドブラック(ステイヤーズステークス)
- ブラックタキシード(セントライト記念)
- テイエムサンデー(シルクロードステークス)
- マルカキャンディ(府中牝馬ステークス)
- サイキョウサンデー(中日スポーツ賞4歳ステークス)
- キングオブサンデー(北海道3歳優駿)
- クリアーベース(九州王冠)
- 1997年産
- ウインマーベラス(京都ハイジャンプなど障害重賞4勝)
- ユキノサンロイヤル(日経賞)
- フサイチランハート(アメリカジョッキークラブカップ)
- トウカイオーザ(アルゼンチン共和国杯)
- フサイチゼノン(弥生賞)
- アドマイヤボス(セントライト記念)
- マニックサンデー(サンスポ賞4歳牝馬特別)
- ヤマニンリスペクト(函館記念)
- メイショウドメニカ(福島記念)
- フューチャサンデー(クイーンカップ)
- バンドオンザラン(東海ゴールドカップ)
- 1998年産
- ダイヤモンドビコー(阪神牝馬ステークスなど重賞4勝)
- サンライズペガサス(毎日王冠など重賞3勝)
- ウインラディウス(京王杯スプリングカップなど重賞3勝)
- ミレニアムバイオ(マイラーズカップなど重賞3勝)
- アグネスゴールド(スプリングステークス、きさらぎ賞)
- チアズブライトリー(京阪杯、七夕賞)
- ローズバド(フィリーズレビュー、マーメイドステークス)
- ハッピーパス(京都牝馬ステークス)
- ボーンキング(京成杯)
- トラストファイヤー(ラジオNIKKEI賞)
- タガノテイオー(東京スポーツ杯3歳ステークス)
- ダイワルージュ(新潟3歳ステークス)
- タイムトゥチェンジ(マーチカップ)
- インターレジェンダ(九州記念)
- ダンツプライズ(中島記念)
- 1999年産
- 2000年産
- 2001年産
- 2002年産
- 2003年産
- アドマイヤキッス(ローズステークスなど重賞4勝)
- アドマイヤメイン(青葉賞、毎日杯)
- トーセンシャナオー(セントライト記念)
- マルカシェンク(デイリー杯2歳ステークス、関屋記念)
- モエレソーブラッズ(兵庫ジュニアグランプリ)
[編集] 海外調教馬
勝ち鞍はG1を含む主要競走。
- 1996年産
- 1999年産
- 2000年産
- ダヌタ(Danuta):UAEオークス(UAE)、ムーンシェルマイル(UAE)
- 2001年産
- サンドロップ(Sundrop):カーディナルハンデキャップ(米G3)、プリンセスエリザベスステークス(英G3)
- 2002年産
- レイマン(Layman):カブール賞(仏G3)、ソヴリンステークス(英G3)
- サイレントネーム(Silent Name):アーケーディアハンデキャップ(米G2)、コモンウェルスブリーダーズカップステークス(米G2)
[編集] 高額落札馬
2億円を超える落札額の産駒は以下の6頭いたが、獲得賞金が落札額を上回ったのは、アドマイヤグルーヴのみであった。
- トーセンダンス(3億3500万円)
- フサイチジャンク(3億3000万円)
- カーム(3億2000万円)
- アドマイヤグルーヴ(2億3000万円)
- ミステリアスアート(2億2000万円)
- アサクサキンメダル(2億500万円)
[編集] ブルードメアサイアーとしての主な産駒
[編集] 日本調教馬
[編集] GI級競走優勝馬
勝ち鞍はGI級競走のみ表記。
- 2002年産
- 2003年産
- 2004年産
- 2005年産
- トールポピー:阪神ジュベナイルフィリーズ、優駿牝馬(父ジャングルポケット・母アドマイヤサンデー)
- レジネッタ:桜花賞(父フレンチデピュティ・母アスペンリーフ)
- サクセスブロッケン:ジャパンダートダービー、フェブラリーステークス(父シンボリクリスエス・母サクセスビューティー)
- 2006年産
- セイウンワンダー:朝日杯フューチュリティステークス(父グラスワンダー・母セイウンクノイチ)
[編集] 重賞優勝馬
- 1998年産
- ジョウテンペガサス:百万石賞、スプリンターズカップ(父ジェイドロバリー)
- 1999年産
- 2000年産
- サカラート:ブリーダーズゴールドカップなど重賞4勝(父アフリート)
- アイポッパー:阪神大賞典、ステイヤーズステークス(父サッカーボーイ)
- スズノマーチ:エプソムカップ(父ティンバーカントリー)
- 2001年産
- 2002年産
- 2003年産
- 2004年産
- 2005年産
- 2006年産
- グランプリエンゼル:函館スプリントステークス(父アグネスデジタル)
- ゴールデンチケット:兵庫チャンピオンシップ(父キングカメハメハ)
[編集] 海外調教馬
- 2005年産
- Tale of Ekati:ウッドメモリアルステークス、シガーマイルハンデキャップ(父Tale of the Cat・母Silence Beauty)
- Young Pretender:ラロシェット賞(父Oasis Dream・母Silent Heir)
[編集] 血統
[編集] 血統表
| サンデーサイレンスの血統 (ヘイロー系/Mahmoud4×5=9.38%) | |||
|
父
Halo 1969 黒鹿毛 アメリカ |
Hail to Reason 1958 黒鹿毛 アメリカ |
Turn-to | Royal Charger |
| Source Sucree | |||
| Nothirdchance | Blue Swords | ||
| Galla Colors | |||
| Cosmah 1953 鹿毛 アメリカ |
Cosmic Bomb | Pharamond | |
| Banish Fear | |||
| Almahmoud | Mahmoud | ||
| Arbitrator | |||
|
母
Wishing Well 1975 鹿毛 アメリカ |
Understanding 1963 栗毛 アメリカ |
Promised Land | Palestinian |
| Mahmoudess | |||
| Pretty Ways | Stymie | ||
| Pretty Jo | |||
| Mountain Flower 1964 鹿毛 アメリカ |
Montparnasse | Gulf Stream | |
| Mignon | |||
| Edelweiss | Hillary | ||
| Dowager F-No.3-e | |||
[編集] 血統的背景
母のウィッシングウェルは12勝(うち重賞2勝)を挙げたが、その母系を遡るとマウンテンフラワー、エーデルワイス、ダウィジャー、マルセリーナはいずれも競走馬として優勝したことがない[1]。前述のように母系が地味であることが種牡馬としてのサンデーサイレンスの評価を下げる一因となった[70]。
サンデーサイレンスは非常に気性が荒かったが、父のヘイローも突然人を襲うなど気性の荒い馬として知られている[123]。母のウィッシングウェルも競走馬時代の管理調教師が「気が違っているんじゃないか」と思うほど気性が悪い馬であった[124]。
[編集] 脚注
[編集] 注釈
- ^ い ろ 後脚の中ほどにある関節で、人間の膝にあたる。
- ^ なお、成長したサンデーサイレンスは吉田照哉が「いつもピカピカ」、合田直弘が「日差しを浴びて黒光りする」と評する馬体を有するようになった(さらば最強種牡馬サンデーサイレンス(『優駿』2002年10月号、12・40-41頁。))。
- ^ い ろ は サンデーサイレンスの母ウィッシングウェルの実質的所有者であったトム・ティザムのアドバイザー。
- ^ い ろ サンデーサイレンスは鞭を打たれると癇癪を起すところがあった(ポーリック2002、204頁・さらば最強種牡馬サンデーサイレンス(『優駿』2002年10月号、16頁。))。
- ^ 内訳は、1990年はじめにアーサー・ハンコック3世に支払った250万ドル(持ち分の半分(全体の4分の1)の対価)と、その後3人の所有者に支払った750万ドル(残りの4分の3の対価)、さらにウィッティンガムに対する補償(4頭分の生涯種付け権とシンジケート株の4分の3)。
- ^ なお、中央競馬における従来の記録としてはライジングフレーム、ヒンドスタン、トニービンが3世代の産駒でリーディングサイアーを獲得している(サンデーサイレンス大全、9頁。)。
- ^ なお地方競馬のリーディングサイアーランキングでは2002年に6位となったのが最高記録。
- ^ デアリングハートの2着(2005年)が最高。
- ^ ゴールドアリュールの5着(2002年)が最高。
- ^ マキシマムプレイズの5着(2002年)が最高。
- ^ ウインマーベラスの2着(2004年)が最高。
- ^ 最高価格は2002年の第5回セールで落札されたトーセンダンス(ダンシングキイの2002)の約3億5000万円。高額落札馬および活躍馬の詳細についてはセレクトセールを参照。
- ^ 13回。2006年にノーザンテーストの11回を更新。
- ^ 13年連続。2006年にノーザンテーストの11年連続を更新。
- ^ 2004年1月11日にノーザンテーストの1749勝を更新。
- ^ 2001年2月11日にヒンドスタンの113勝を更新。
- ^ 2004年に328勝。1999年に177勝を挙げ、ライジングフレームの176勝を更新。
- ^ 2005年に92億2004万4000円を獲得。1995年にノーザンテーストの21億4451万5000円を更新。
- ^ 23勝。2003年5月25日にスティルインラブが優駿牝馬を勝ったことでプリメロの15勝を更新。
- ^ 従来の世界最多記録はオーストラリアの種牡馬スモーキーアイズが1956年から1980年にかけて記録した2796勝(サンデーサイレンス大全、27頁。)。
- ^ 1999年7月10日にサンデーセイラが福島競馬場で行われた七夕賞を制し、達成。
- ^ 2006年2月末の時点で当時の通算勝利数の約1割にあたる273勝を挙げている(中央競馬のみ)。
- ^ 岡田はサンデーサイレンスに対する評価を改めた後、所有する繁殖牝馬とサンデーサイレンスを交配させるようになった。また、2000年のセレクトセールにおいて3億2000千万円でサンデーサイレンス産駒の当歳馬(後のカーム)を購入した。
- ^ この組み合わせは重賞勝ち馬は複数出すものの長らくGI級競走馬を輩出できず、大物が出ない配合とみられていた時期もあった(金満血統王国プラス1(『サラブレ』2002年11月号、78-79頁。))。
- ^ なお、母父ニジンスキーの3頭のGI馬は、全てダンシングキイの産駒である。
- ^ 2000年に中央競馬へ移籍。
[編集] 出典
- ^ い ろ は に ほ サンデーサイレンス物語、(『優駿3月号増刊 TURFHERO 2002』、162頁。)
- ^ SS系、19頁。
- ^ 衝撃のサンデーサイレンス、19頁。
- ^ ポーリック2002、47-48頁。
- ^ い ろ は さらば最強種牡馬サンデーサイレンス(『優駿』2002年10月号、13頁。)
- ^ ポーリック2002、8頁。
- ^ い ろ は さらば最強種牡馬サンデーサイレンス(『優駿』2002年10月号、12頁。)
- ^ ポーリック2002、8頁。
- ^ ポーリック2002、50-51頁。
- ^ ポーリック2002、8・52頁。
- ^ ポーリック2002、54頁。
- ^ ポーリック2002、55-56頁。
- ^ 衝撃のサンデーサイレンス、17頁。
- ^ ポーリック2002、57頁。
- ^ い ろ サンデーサイレンス物語、(『優駿3月号増刊 TURFHERO 2002』、163頁。)
- ^ ポーリック2002、7-9頁。
- ^ ポーリック2002、58頁。
- ^ 衝撃のサンデーサイレンス、18-19頁。
- ^ 衝撃のサンデーサイレンス、18頁。
- ^ ポーリック2002、56-57頁。
- ^ ポーリック2002、57-58頁。
- ^ ポーリック2002、59頁。
- ^ ポーリック2002、93-94頁。
- ^ ポーリック2002、65-66・75-76頁。
- ^ ポーリック2002、76-80頁。
- ^ ポーリック2002、95-96・101-103頁。
- ^ ポーリック2002、103頁。
- ^ 衝撃のサンデーサイレンス、31頁。
- ^ ポーリック2002、105-110頁。
- ^ ポーリック2002、115-116頁。
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[編集] 参考文献
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- 『春競馬満開宣言!』 宝島社〈別冊宝島435〉、1999年。ISBN 4796694358。
- 『サンデーサイレンス大全』 宝島社〈別冊宝島1290〉、2006年。ISBN 4796652000。
- 合田直弘「サンデーサイレンス物語」、『優駿3月号増刊 TURFHERO 2002』、中央競馬ピーアール・センター、2003年、161-169頁。
- 後藤正俊「サンデーサイレンス逝く」、『サラブレ』2002年10月号、エンターブレイン、2002年、4-5頁。
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- 富岡眞治「富岡眞治の血と馬体の相馬学」、『サラブレ』2002年11月号、エンターブレイン、2002年、124-127頁。
- 藤野広一郎「サンデーサイレンスの約束の土地」、『プーサン』vol.5、大村書店、1996年11月、4-119頁。
- 村本浩平「サンデーサイレンスの実像」、『全部見せます中央競馬2002』、エンターブレイン、2003年1月、136-137頁。
- 「さらば最強種牡馬サンデーサイレンス」、『優駿』2002年10月号、中央競馬ピーアール・センター、2002年、8-41頁。
- 「母父サンデーサイレンスはなぜ走る?」、『サラブレ』2008年4月号、エンターブレイン、2008年、9-27頁。
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最終更新 2009年11月11日 (水) 02:56 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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