ザ・デストロイヤー

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ザ・デストロイヤー
プロフィール
リングネーム ザ・デストロイヤー
ディック・ベイヤー
ドクターX
本名 リチャード・ベイヤー(ディック・ベイヤー)
ニックネーム 白覆面の魔王
身長 183cm(公称)
体重 110kg
誕生日 1931年7月11日(78歳)
出身地 アメリカ合衆国
ニューヨーク州バッファロー
スポーツ歴 アメリカンフットボール
アマチュアレスリング
デビュー 1954年
引退 1993年
  

ザ・デストロイヤーThe Destroyer)のリングネームで知られる、アメリカ合衆国ニューヨーク出身の元プロレスラー1931年7月11日 - 、本名:リチャード・ベイヤーRichard Beyer、「リチャード」の愛称であるディック・ベイヤーとも呼ばれる)。正式なリングネームはジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤーThe Intelligent Sensational Destroyer)である。アメリカでは、ディック・ザ・デストロイヤー・ベイヤーDick "The Destroyer" Beyer)として知られる。

日本では「白覆面の魔王」の異名を持つ覆面レスラーとして力道山ジャイアント馬場などと戦った他、テレビタレントとしても活躍した。大の親日家としても知られる。

目次

[編集] プロフィール

[編集] デビュー

シラキューズ大学在学時からアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も母校のコーチを務めていたが、アマチュアレスリングでも実績を残していたため、アメリカのプロレス団体からのオファーを受けてプロレスラーも並行して始める。

[編集] WWAチャンピオン

当初は本名・素顔で試合を重ねてきたが、1962年に覆面レスラーに転向。白地に赤や青の縁取りを付け目と鼻、口の部分を開けたマスクを着用して試合に臨み、WWA世界ヘビー級王座を獲得。通算3度WWA世界ヘビー級チャンピオンとなる。

[編集] 日本での活躍

その後1963年に初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。同年5月24日東京体育館で行われたWWA世界選手権は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。力道山の死後も、ジャイアント馬場を新たなライバルとして日本プロレス全日本プロレスの人気外国人レスラーの地位を確保するようになる。

初対戦の頃は「馬場を血だるまにしてKOした(このような公式記録はない)」と言われる大ヒールのデストロイヤーであったが、1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言(日本陣営が手薄だったことから馬場が引っ張り込んだという説が今では支配的)、敗れたデストロイヤーはその後6年余りの間全日所属選手として参戦し、その間アブドーラ・ザ・ブッチャーミル・マスカラスなどと名勝負を残した。

全日本プロレスでは若手選手のコーチ役も担当し、ジャンボ鶴田大仁田厚渕正信らも教えを受けている。

[編集] 「覆面十番勝負」

また「NWA本部を差し置いて『覆面世界一』を名乗ることは出来ない。世界の強豪マスクマン10人を破って初めて世界一を名乗れる(アングル)」ということに端を発する「覆面十番勝負」は、急造マスクマンも含まれていたとはいえ、「刺客」として送り込まれるミスター・レスリングスーパー・デストロイヤーら実力者相手の連戦で「タイガーマスク」のストーリーにも似た興奮を醸し出した。

[編集] 「噂のチャンネル」

またそのユニークなキャラクターから、日本テレビ系で放送されたバラエティー番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(司会:和田アキ子せんだみつおら)にレギュラー出演し、コメディアンとしてのセンスを見せリングの外でも人気を博したが、力道山や馬場と抗争を繰り広げた大ヒールとしての彼を知るファンからは批判的な意見もあったという。番組中徳光和夫に足4の字固めを仕掛け、徳光が「明日子供の授業参観なのに」「俺はギャラが出ないんだぞ!」と叫びながら悶絶する姿が見られた。

[編集] アメリカでのレスリングスタイル

日本ではベビーフェイスとして活躍したが、アメリカではもっぱらヒール役に徹していた。1968年には黒覆面の「ドクターX」を名乗りバーン・ガニアを倒しAWA世界チャンピオンとなった。

[編集] 引退

アメリカに戻ってからは年1回、全日本プロレスの「サマーアクションシリーズ」での特別参戦を続け、1993年に引退。その後アメリカ・アクロンの高等学校で体育教師、水泳教室のインストラクターも務めた。

しかしその後もたびたび来日し、日本のプロレス界やマスコミに登場を続けている。2007年には「レッスルキングダム2」の宣伝のためにブッチャーと共に登場した。

[編集] 得意技

必殺技は足4の字固め。デストロイヤー以前にはバディ・ロジャースがほぼ同じ技をスピニングレッグロックとして使っていたが、フィギュアフォーレッグロックと呼び自身の看板技として広めたのはデストロイヤーである。若い頃のドロップキックは「誰よりも高く飛ぶ」と言われた。またヘッドバットフライング・ボディシザース・ドロップ、モンキーフリップ(巴投げに近い技)、倒立してのダブルニードロップなどもよく使われた。

[編集] エピソード

  • プロレスの歴史上初めて、マスクマンとしてヘビー級のトップ戦線で活躍したプロレスラーである。覆面をかぶったのは、当時プロレスラーのライセンスを取得していなかったため、大きな団体で試合をするには正体を隠す必要があったことと、さまざまなスポーツ(アメフトだけでなく、野球、レスリングでも活躍していた)をやっていたせいで前歯が折れていた事から、素顔をさらすのに躊躇したためといわれる。また、素顔は優しい顔立ちの人物である事から、マスクで隠す事でより迫力を出すためであったともされる。空港でもマスクを外さず、「ボク、デストロイヤー」と言って搭乗口を出ようとしたこともあるほど素顔を露出しなかったといわれているが、その一方で、ゴルフ練習場では暑かったのかマスクをその場で脱いでクラブを振るなど、よく分からない面もあった。
  • 第5回ワールドリーグ戦の決勝戦前、リング上の力道山とキラー・コワルスキーの前にWWA世界チャンピオンとして来日したデストロイヤーは、次期シリーズに力道山相手に防衛戦を戦う旨のあいさつに訪れた。コワルスキーに手を差し出し握手するかに見えたデストロイヤーは、そのままつかつかっとコワルスキーに近づくと、平手でぴしゃっとコワルスキーの頬を張った。コワルスキーは顔色を変えたが、大事な試合の前とあって乱闘にもならず試合が始まった。この時のことについて、後にデストロイヤーがインタビューで語っている。握手を求めたデストロイヤーに対し、コワルスキーは横を向いて「ローカルチャンピオンが・・・」とつぶやいたらしい(確かにWWAはアメリカ西海岸を主な勢力圏とする、NWAに比べればローカルな団体ではあった)。WWAという団体の看板を背負っている以上、アクシデント(ユーコン・エリックの耳をニードロップでそぎ落とした)で有名になった男ごときにばかにされて黙っているわけにいかない。当時の自分としてはそんな気持ちだった、という。
  • 1963年5月23日、静岡県駿府会館において、力道山との世界戦前日にジャイアント馬場と時間無制限1本勝負を行ったが、デストロイヤーはこの試合いつもの白覆面ではなく、“デビルマスク”と呼ばれる黒覆面を被ってリング上に登場した。“白覆面の魔王”ザ・デストロイヤーとして日本で行われた試合で黒覆面を被ったのはこの試合だけである。のち「ドクターX」のリングネームで黒覆面を被った(来歴・人物の項参照)。
  • 翌5月24日、東京・千駄ヶ谷東京体育館で行われた力道山とのWWA世界タイトルマッチは、日本プロレス史上に残る名勝負となった。力道山の空手チョップで前歯をへし折られながらも、ついに必殺の4の字固めに捉えたデストロイヤー。ところが力道山はギブアップせず、体を反転させて裏返しになり4の字固めをかけられたまま上から逆にデストロイヤーの足を責めつけた。そのまま二人は二転三転、どちらもギブアップしない。ついにレフェリーはこれ以上やったら二人とも死ぬ、と叫んで引き分けを宣した。試合後も両者の足は複雑に絡み合いなかなか外れなかったという。
  • 愛妻家として知られ、マスクも夫人の手作りのものであった。
  • マスクをしたまま、自動車を運転していたことが目撃されている。
  • 親日家であり、現在でも毎年最低一回は日本を訪れている。麻布十番納涼まつりで毎年チャリティサイン会を行なっているほか、自らのレスリングの少年チームを率いての来日もある。十番祭りでは毎年様々なグッズを持って来日し、サイン会場となっている携帯電話ショップの前はいつも大渋滞である。このことから現在の日本においても非常に有名な選手であることが伺える。
  • かつて日本に住んでいたのは麻布十番にも程近い港区の三ノ橋近辺である。
  • 日本のプロ野球界に来る助っ人外国人選手との交流も有名で、約8年間の滞日経験を生かし、多くの外国人選手の良きアドバイザーとなった。ランディ・バースレロン・リーレオン・リー兄弟、同郷のマット・ウインタースなどは彼への感謝をいまだに忘れないと言う。
  • ジャイアント馬場全日本プロレスに対する信頼はかなりのもので、新日本プロレスから移籍して来たスタン・ハンセンに対して「スタン、君の移籍は大正解だ。私は全日本立ち上げから馬場と共にしてるが、一度も嫌な思いをさせられた事はない」と声をかけ、ハンセンを安心させた。なお、デストロイヤーは1975年の初来日時のハンセンの対戦相手も務めた。さらに1999年5月2日、馬場没後の「引退記念試合」に際し、最後の「タッグ・パートナー」に指名され、ブルーノ・サンマルチノジン・キニスキー組と「対戦」。挨拶では日本語で「社長、ほんとうにお疲れさまでした」と声をかけ、会場中の涙を誘った。

[編集] 主なタイトル

[編集] 家族

息子のカート・ベイヤー、娘婿のダニー・スパイビーもプロレスラーである。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月29日 (日) 23:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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