シレジア

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シレジアの位置
現在のシレジア。黄色い線の中は1871年のドイツ帝国におけるシレジア、青い線の中は1740年のプロイセンによる併合前のシレジアの範囲

シレジアは、現在のポーランド南西部からチェコ北東部(プロイセン王国時代の行政区画も含めればドイツ東部のごく一部も)に属する地域の歴史的名称。支配者は様々に変化してきた。シレジアはドイツ語シュレージエン(Schlesien)、ポーランド語シロンスク(Śląsk)、チェコ語スレスコ(Slezsko)、ハンガリー語シレージア(Szilézia)、英語ではサイレジア(Silesia)となる。

目次

[編集] 歴史

シレジアはヨーロッパの各地方のうちでも特に複雑な歴史を持っている。

[編集] 中世前期

シレジア地方の歴史が記録されはじめた中世には、シレジアの住民の大多数はスラヴ民族系の諸部族であった。シレジアはまずモラヴィア王国に属した。845年頃の氏名不詳の人物「バイエルン人の地理学者」(Geographus Bavarus)によるドナウ川以北の地名や都市名を記した書物によれば、この地方にはシレジア人(Silesians)、ダドシャニ人(Dadoshanie)、オポーレ人(Opolanians)、ルピグラア人(Lupiglaa)、ゴレンシツェ人(Golenshitse)が、下流の西ポメラニアにはヴォリニア人(Wolinians)やピジカン人(Pyrzycans)が住んでいたとある。プラハの司教管区の文書(1086年)には、シレジアに住む Zlasane, Trebovyane, Poborane, Dedositze などの民族の名が記されている。

[編集] ポーランド王国黎明期

10世紀末のポーランド一帯に関して記した古文書の断章「Dagome iudex」では、990年頃のミェシュコ1世と彼の養女で2番目の妻であるオーダ・フォン・ハルデンスレーベン(Oda von Haldensleben)の領地(グニェズノピャスト朝の支配地域)はオドラ川(オーデル川)からモラヴィアクラクフプロシアへと広がっていたという。

[編集] ポーランド王国の成立と空位時代

12世紀になるとミェシュコ1世の長男ポーランド王国の正式な初代国王となったボレスワフ1世は王位に就く前の数十年間を各地をまとめる天下統一事業に尽力し、王国が成立するとともに神聖ローマ皇帝およびローマ教会との間でシレジアのポーランド王国帰属を正式に画定した。王位継承問題から発した政争によってポーランドで国王を戴冠する者がいない空位時代になると、ポーランド王国は王家であるピャスト家の公や妃によって大きく7つの地方に分割相続され、シレジア地方はそのうちシレジア公国群として統治された。

[編集] モンゴル襲来による荒廃と復興のための移民奨励

13世紀モンゴル襲来によってヨーロッパ連合軍の総大将であったシレジア公(兼クラクフ公)ヘンリク2世が戦死し、シレジア全土が荒廃すると、それ以降は復興のためこの地のピャスト家諸侯はヨーロッパ各地からの移民の入植を奨励し、農民や都市民、坑夫としてドイツ(神聖ローマ帝国)人の移民をとくに積極的に誘致した。この移民奨励策の結果シレジアは徐々にドイツ人文化の影響を受けるようになった。ポーランド王国の空位時代はまだ続き、12世紀にシレジア公の継承権を巡ってシレジアのピャスト家の間でお家騒動が起きると、フリードリヒ・バルバロッサから支援を受ける見返りに当時の神聖ローマ皇帝ロタール3世に臣従したヴワディスワフ3世が大公に就いた。しかしこれはポーランドでは国家に対する違法な反逆行為とみなされ、逆賊となったヴワディスワフ3世はクラクフの大司教から破門されてドイツへ亡命した。以後シレジアの継承権はポーランド王国と神聖ローマ帝国との確執の根源となり、第二次世界大戦まで続いたシレジアをめぐるポーランドとドイツとの間の近代紛争の遠因となる。

[編集] 帰属問題

神聖ローマ帝国では14世紀初めにシレジアのボヘミア王国への帰属が決められ、帝国の領邦とされることになった。神聖ローマ皇帝にもなったボヘミア王カレル1世(皇帝カール4世)は、「聖ヴァーツラフの王冠諸邦」としてシレジアをボヘミア王国の中に統合した。シレジアの帰属を巡ってボヘミア王国と長く断続的な戦争をしていたポーランド王国はカジミェシュ3世「大王」が外国との紛争よりも国内経済の発展を重視するため、カレル1世と休戦協定を結びシレジアの神聖ローマ帝国への帰属を承認した。シレジアのドイツ人移民は増え続け、元からいたポーランド系住民も徐々にドイツ文化に同化していった。16世紀にハプスブルク家がボヘミア王位を獲得すると、シレジアもハプスブルク君主国に組み入れられることとなった。

[編集] シロンスク・ピャスト家

ただし神聖ローマ帝国における封建領主としてシレジアの各地を実際に統治していたのは、ポーランド王家のピャスト家のシレジアにおける複数の分家であるシロンスク・ピャスト家で、このシロンスク・ピャスト家の家系については、本家であるシレジア(=シロンスク)公家が16世紀まで、その他のシロンスク・ピャスト家の一部は男系が17世紀まで続き、傍系は18世紀まで続いた。

[編集] オーストリアとプロイセンによる争奪戦

シレジアの地図(1905年) 現在のチェコ北東部のわずかな領域を除くと、大部分がポーランド南西部に広がる。地図中央に中心都市ヴロツワフが見える

シロンスク(=シレジア)・ピャスト家が断絶した後、1740年ハプスブルク家の家督をマリア・テレジアが継承すると、プロイセンフリードリヒ2世は継承を承認する見返りに、ボヘミア王国の領邦としてハプスブルク家が領有していたシレジアの割譲をマリア・テレジアに要求した。マリア・テレジアはこれを受け入れなかったので、プロイセンは宣戦布告もせずにシレジアの大部分を占領した(この時占領されずにハプスブルク領として残ったのが、現在チェコ領のスレスコ地方である)。オーストリア継承戦争の始まりである。ザクセンバイエルンフランスも領土分割を求めて敵に回ったため、プロイセンとはシレジアの領有を認めた上で講和せざるを得なかった。シレジアを奪われたマリア・テレジアは非常に憤り、フリードリヒを「シュレージエン(シレジア)泥棒」と罵った上でプロイセンへの復讐を誓った。マリア・テレジアは当時犬猿の仲とされていたフランスと同盟を締結(外交革命)、シレジアの奪回をかけて1756年、プロイセンとの戦争を再開した。これが七年戦争である。結局この戦争でもシレジアの奪回には成功せず、シレジアのプロイセンによる領有が決定した。

[編集] プロイセンによる領有

シレジアはハプスブルク領だった時代にも独立性のあった地域で、ハプスブルク家による再カトリック化の努力にも拘らず、少なからぬ住民がプロテスタント教徒となっていた。そのため、プロイセン軍はハプスブルク家のカトリック支配からの解放軍としてシレジアのプロテスタント系住民から歓迎され、プロイセンによる領有が恒久化する一因となった。

[編集] 近代の住民

ハプスブルク時代までに、シレジアの住民の半分以上はドイツ語教育によりドイツ化されていたとされるが、プロイセン領となってからはさらに徹底したドイツ化政策がとられた。また農民の入植、鉱業の発展にも努力し、その結果人口も大幅に増加した。しかしポーランド語やその方言を母語とする住民の増加はドイツ系言語を母語とする住民を上回るものであった[1]1910年にはポーランド語話者は上シレジアの人口の70%を占めていた[2]。つまりこの地の住民の7割はポーランド系だったのである。しかし当時のこの地方では民族を最優先の価値とするいわゆる国民国家というものに関する意識は希薄で、スラヴ語を母語とするにも関わらず国家としてはドイツへの帰属意識を持つ住民も少なくなかった。事実、第一次世界大戦後にポーランド共和国が成立すると、わずかに最東部のカトヴィツェ周辺のみがポーランド領となったが、その際に行なわれた住民投票では、ドイツ領にとどまるべきという意見が半数を超えていた。その内容は、人口が集中し地元住民のドイツ化教育がよく浸透した大都市部ではドイツ領を選択する者が多かったものの、ほとんどの地域ではポーランド領を選択したという非常に複雑なものであった。

[編集] 迫害と大蜂起

シレジアの他の地域はヴァイマル共和国の時代もドイツ領にとどまった。しかしドイツ系住民によるポーランド系住民への迫害が激化するにつれて、ドイツ人至上主義に反発したポーランド系住民の民族意識が高まっていき、シレジアのポーランド領への併合を求める住民による武装大蜂起が3度発生した(シレジア蜂起)。

[編集] ナチス・ドイツによる迫害

ナチス・ドイツポーランド侵攻を開始して第二次世界大戦が発生すると、シレジアのポーランド系住民はドイツ系住民の民兵組織である自衛団により虐殺され、虐殺をまぬがれた住民はヒトラーの命令でポーランド領内に設置された「総督府」と呼ばれる狭い地域へナチス親衛隊の手で追放された。

[編集] 第二次大戦後

1945年ナチス・ドイツ敗北後、ソ連、アメリカ、イギリスが交わしたヤルタ協定によって戦前ポーランド領であったガリツィア地方をソ連が占領、そこに住んでいたポーランド人を追放し、戦中に総督府へ追放されていたポーランド系シレジア系住民の生き残りの人々とともに東プロイセンやシレジアに移住させることにした。ソ連の指導者であったスターリンは中世ポーランド王国の初代国王ボレスワフ1世が画定していた領土回復に固執し、以後シレジアはポーランド領とされた。このためシレジアのドイツ人たちが戦後の東西ドイツへ追放されていくことになったのである(ドイツ人追放)。このドイツ人たちはポーランド国籍公用語としてのポーランド語の習得の2つを条件にポーランドへ留まる自由選択権も与えられていたが、ほとんどのドイツ系住民はそれを拒否したため、実際のところはポーランドに留まる決断をした一部の人々(主に現在のオポーレ県の県民)を除いて大半がシレジアを離れることになった。ポーランド・ドイツ間の新しい国境はオーデル・ナイセ線に置かれることになった。この国境線を当時の東ドイツは承認したが、東ドイツの国家主権を認めない西ドイツは承認しなかった。

[編集] 修復と復興

第二次世界大戦ではシレジアの諸都市は大きく破壊された。特にこの地方最大の都市ヴロツワフ(ドイツ語名ブレスラウ)では都市や産業のほとんど全てが破壊され街全体が廃墟と化していた。ポーランド市民は自らの住宅地を建設するかたわら、これら破壊された諸都市の歴史的建築物の修復を開始、残された資料を基に各都市の旧市街をはじめとした街並みを戦前の姿に再建[3]、産業を復興させた。

[編集] ポーランド・ドイツにおける解決

1990年ドイツ統一が実現すると同年11月この国境がポーランドと統一ドイツとの間で正式に確認されて領土問題は解決2008年には欧州人権裁判所によって私有財産に関する問題の解決も確認され、これによってドイツとポーランドとの間のシレジアを巡るさまざまな問題は最終解決した。

[編集] チェコ・ドイツ間に残る問題

戦争直後のドイツ人追放に発令された「ベネシュ布告」がいまだに有効であり、その内容の変更をチェコ国会が一切拒否していることもあって、ドイツ系のシレジア元住民とチェコ共和国との間に現在でもさまざまな問題が残されている。

[編集] 地誌

チェコにおけるシレジアの位置

[編集] 地形と所産

南はズデーテン山地・ベスキト山地によってボヘミアモラヴィアと接し、西はクラクフ・チェンストホヴァ高地を境にガリツィアと接している。

中央を貫流するオドラ川がこの地を特徴づけ、川を下れば、かつてのカシューブ人のポモジェ公国の港町・シュチェチンに出ることが出来る。

チェコに属するオドラ川上流部を遡行すれば、モラヴァ川オロモウツを初めとするモラヴィアの諸都市に抜けることができ、モラヴィア門と呼ばれている。古代からシレジア・モラヴィアは琥珀街道の一環をなし、ヨーロッパの南北を結ぶ、通商を初めとした交通上の要衝であった。琥珀街道の主要な地点としては、オーストリアのカルヌントゥム、ブルゲンラント州スロヴェニア、西部ルートではロマンティック街道などがある。

産業面では、歴史的に両国にとって、経済、特に工業の大中心地。しかしこの地の豊富な資源と大繁栄は、ポーランドドイツプロイセン、ボヘミア、オーストリアなどの争奪戦の対象となってきた。

[編集] シレジア炭田

[編集] 文化

建築物その他に、いまだドイツの影響が残る。

ポーランドの前衛的現代音楽を牽引したジェネレーション51は、シレジア楽派と呼ばれることもある(ポーランド楽派参照)。

[編集] 行政と、主な市町村

[編集] 関連項目

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最終更新 2009年11月10日 (火) 22:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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