ジェフユナイテッド市原・千葉
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| ジェフユナイテッド市原・千葉 | |
|---|---|
| 原語表記 | ジェフユナイテッド市原・千葉 |
| 呼称 | ジェフユナイテッド千葉 |
| 愛称 | ジェフユナイテッド、ジェフ |
| クラブカラー | 黄、緑 |
| 創設年 | 1946年 |
| 所属リーグ | Jリーグ |
| 所属ディビジョン | J1 |
| ホームタウン | 千葉県市原市・千葉市 |
| ホームスタジアム | フクダ電子アリーナ |
| 収容人数 | 19,781 |
| 運営法人 | ジェフユナイテッド株式会社 |
| 代表者 | 三木博計 |
| 監督 | 江尻篤彦 |
| 公式サイト | 公式サイト |
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 本社所在地 | 新クラブハウス |
| 電話番号 | 043-305-1500(代表) |
| 設立 | 1991年6月 |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | サッカークラブ運営 |
| 資本金 | 4億9000万円 |
| 主要株主 | 古河電気工業 50% 東日本旅客鉄道 50% |
| 外部リンク | http://www.so-net.ne.jp/JEFUNITED/ |
ジェフユナイテッド市原・千葉(ジェフユナイテッドいちはら・ちば、JEF United Ichihara Chiba)は、日本の千葉県市原市および千葉市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。略称は「ジェフユナイテッド千葉」、または「ジェフ千葉」、「千葉」である。旧呼称は、「ジェフユナイテッド市原」または「ジェフ市原」。
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目次 |
[編集] 概要
1993年の開幕時からJリーグに参加。ホームタウンは千葉県市原市、2003年シーズンから千葉市が加わった。ホームスタジアムはリーグ開幕時から2005年シーズン途中まで市原臨海競技場、2005年シーズンの途中からフクダ電子アリーナに代わった。練習場は2000年から市原市の姉崎公園サッカー場(フットパーク・あねさき)を使用していたが、2009年10月よりフクダ電子アリーナに隣接するユナイテッドパークに移動した。またクラブハウスも同地に新築している。
[編集] 組織
クラブの運営会社はジェフユナイテッド株式会社(株式会社 東日本ジェイアール古河サッカークラブより2009年10月1日改名[1])。東日本旅客鉄道(JR東日本)と古河電気工業(古河電工)が50%ずつ出資(資本金:4.9憶円)[2]。なお、2008年までは1億円であったが、2009年秋に完成予定のクラブハウス建設費調達などの関係から、2009年に増額された[3]。
クラブ名のJEFは、クラブの母体となったJR East(=JR東日本) Furukawa(=古河)の略称からとられ、UNITED(ユナイテッド=結束した)はクラブとホームタウンの結びつき、結束力を示し、2005年から千葉市を含めた地域との結びつきも含むようになった。1991年に公募により決定される。マスコットは秋田犬の兄弟。背番号2を付けているのがジェフィ(兄)、背番号9を付けているのがユニティ(弟)である。ちなみに両マスコットの背番号は足すと11で、1つのチームを示すものである。チームスローガンは2001年以来「WIN BY ALL!」。ほとんどの他クラブが1年ごとにチームスローガンを設定しなおす中、千葉はこのスローガンを9年にわたって使用し続けており、千葉を象徴するフレーズとして浸透している。
スクール及びジュニアユースチームは市原市の辰巳台地区と習志野市の茜浜地区にある。千葉県外ではこの他に、栃木県宇都宮市、青森県八戸市にサッカースクールを所有している。また宮城県名取市の東北電力名取スポーツパーク(NASPA)と提携してNASPAスクールの運営も行っている。これはジェフがJリーグ発足当初、市原市を中心とし、JR東日本沿線の東北、関東、甲信越の各地域を広域的にネットワークする構想を持っていたことの名残りである。実際、秋田、仙台、山形、新潟と、古河電工の事業所がある福井でホームゲームを開催した実績がある。またスクールのデリバリー版として「サッカーおとどけ隊」が主に市原市、千葉市内の保育園・幼稚園・小学校・中学校くらいまでを範囲として訪問している。また千葉大学と提携して指導者向けの講習も行っている。
ジェフに特有の下部・関連組織としてアマチュアチームとなる「ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズ」がある。このアマチュアチームは市原市民が1995年に立ち上げ、元々人材交流のあったアマチュアクラブチームの「市原スポーツ・クラブ」を2000年よりジェフユナイテッド市原の普及部付けとして改組したもので、2003年からはクラブの名称を冠して「ジェフユナイテッド市原アマチュア」(当時)を名乗っている。こうした下部チームの形態はヨーロッパでは珍しくはない。アマチュアチームの立ち上げ以降日本フットボールリーグへの参加を目指し、2005年に関東サッカーリーグ1部で準優勝、さらに全国地域リーグ決勝大会では準優勝を果たし、日本フットボールリーグへの昇格を果たした。
女子チームとしてジェフユナイテッド市原・千葉レディースがある。レディースチームは当初(1992年)からジェフの下部組織として運営されている。廃部される例が少なくない日本の女子サッカーチームとしては、かなり息の長い存在となっている。
[編集] 特色
クラブ発足当初は古河色を色濃く残しており、監督に古河OBの永井良和を、コーチにこれも古河OBの岡田武史を充てていた。ただし、外国人選手にヨーロッパ出身者を当てる伝統は既にこの頃から始まっており、元ドイツ代表ピエール・リトバルスキー、チェコ出身のパベル・ジェハークを迎え彼ら中心のチーム編成を行っていた。
Jリーグ開幕からこれまでにヨーロッパを中心に、20カ国以上にも及ぶ国籍の選手が在籍しており、これはJリーグ加盟チームで最多である。ヨーロッパだけでなく南米やアジア・アフリカ・オセアニア出身の選手も所属していたことがある。
その後も監督には清雲栄純、奥寺康彦と続けて古河OBを監督に充てていたが、ゼネラルマネージャーに祖母井秀隆が就任した1997年シーズンのヤン・フェルシュライエンから2009年シーズン中のアレックス・ミラーまで、12年にわたってヨーロッパ出身の監督を起用していた。
[編集] 歴史
[編集] 1993年まで(前身時代)
前身は1946年に設立された古河電気工業サッカー部。1965年の日本サッカーリーグにスタート時から参加。日本リーグ、Jリーグを通じて一度も下部(日本リーグ2部、旧JFL、J2)リーグに降格したことのない唯一のクラブチームである[4]。日本リーグ時代は三菱重工(現:浦和レッズ)や日立(現:柏レイソル)とともに丸の内御三家と言われていた。日本サッカーリーグ2回、天皇杯全日本サッカー選手権大会4回、JSLカップ3回優勝の名門。また、1986年/1987年にはアジアクラブ選手権で日本のクラブとしては初めてとなるアジアタイトルを獲得した。
プロリーグ発足に関しては、古河電工単独でのプロクラブ化は難しかったため、1991年に古河電工と取引関係にあったJR東日本と合弁でクラブチームに移行し「東日本JR古河FC」となった。
- プロクラブ化に関しての曲折は古河電気工業サッカー部、また、ジェフユナイテッドの誕生に尽力した小倉純二の項目も参照のこと。
当初は当時、古河電工サッカー部が活動本拠地としていた横浜市をホームタウンとすることを企画していたが、早々に横浜フリューゲルス及び横浜マリノス(当時)が横浜市をホームタウンとすることを決定したため、新たなホームスタジアム探しが始まった。
まず千葉市にかけあったが断られたため、JR東日本の関係から仙台市に話を持っていったがまた断られた[5]。そして、習志野市を本拠地にすることを計画し、ホームスタジアムは秋津公園サッカー場を予定していた。そのためホームタウンが決定する以前の1991年からクラブ事務所と練習場は、距離的にも習志野市に近く、古河電工の事業所が置かれていた浦安市舞浜地区に置いていた。ところが秋津サッカー場周辺の住民が騒音の問題などを危惧してホームタウンとすることに反対したため、習志野市議会の同意を得る事が不可能となり、ホームスタジアム探しは振り出しに戻ってしまった。
千葉県下において次の候補地となったのが同じく古河電工の事業所が設置されており、古河電工の社宅など関連施設が多く存在していた市原市である。市原市議会からの賛同を得て、正式にホームタウンとしてJリーグに登録できたのは締め切り直前の1992年5月だった。ホームスタジアムはそれまで市営の陸上競技場としてこじんまりと使用されていた市原臨海競技場を突貫工事で改修して使用することになった。
[編集] 1993年 - 1997年
Jリーグが開幕した1993年から1995年の3年間は営業面においてクラブの絶頂期だった。特に1993年は観客動員においてヴェルディ川崎(当時)に続く2位。1994年はヴェルディとガンバ大阪に続く3位だった。また、この2年間は平均観客動員が2万人を超えていたが、これは国立霞ヶ丘競技場で主催試合を多く取ったためで、地元・市原臨海競技場でのホームゲーム開催数は少なかった。
成績面では、1997年までリーグ順位は中位から下位、カップ戦もグループリーグ敗退、初戦敗退と振るわなかった。特に天皇杯では、1993年から4年連続で初戦敗退を喫した。さらに1995年はブランメル仙台(現:ベガルタ仙台)、1996年は富士通川崎(現:川崎フロンターレ)と2年連続でJFL勢に敗れる様であり、プロ移行後の天皇杯初勝利は、1997年の対コンサドーレ札幌戦であった。
しかし、選手の個人成績では1994年の得点王・フランク・オルデネビッツ(オッツェ)や、城彰二、中西永輔など活躍をみせた。また、市原ユースから多くのJリーグ選手を輩出しており、スカウティングや育成面では良好だった。
1996年から観客動員の減少が始まり、1997年には総観客動員、平均観客動員がJリーグで最下位になった。以降この位置が常態化し、1997年以降2005年に至るまでの9年のあいだ、年間観客動員がJ1リーグ最下位を記録していた。
この期間、クラブと市原市も少しずつではあるが、地域に密着して行こうとする努力を始めた。当時クラブ事務所と練習場は、ホームタウンを市原市に変更して以降も浦安市に置かれていたが、地理的にかなりの距離がある事から、クラブの中枢機能とホームタウンである市原市の連絡体制が不十分だった。また練習場と試合会場が離れていたため、選手・スタッフの多くが浦安市周辺に住んでおり、試合をするためだけに「市原市に来ていた」状態が続いていた。この状態を改善するため、2000年からはホームタウンである市原市にある「フットパーク・あねさき(姉崎公園サッカー場)」にクラブ中枢機能及び練習場を移し、名実ともに市原市のクラブとしての機能を高めるようになった。
[編集] 1998年
同年にワールドカップが開催される影響から過密日程の中、1stステージを全18チーム中11位で終える。続く2ndステージでは、1stで勝ち点21を積み上げたのに対し2ndでは勝ち点はわずか4の最下位。このため、年間16位となり、翌年からJリーグが2部制導入に伴って、残留争いを繰り広げることとなった。翌年からのJ1に参加するため、迎えた相手はリーグ最下位ながらもJFLの川崎フロンターレを退けたアビスパ福岡だった。第1戦はアウェイながらも2-0と勝利を収め、続く第2戦も2-1と競り勝ち、2戦2勝合計スコア4-1で残留を決める(J1参入決定戦)。なお、アビスパ福岡とは2000年まで3年間、ともに残留争いを繰り広げることとなる。
[編集] 1999年
1stステージを降格圏の15位で終え、前年に続き残留争いをすることに。しかし、2ndステージで追い上げをみせ、負ければその場で降格という中、最終節に残留の可能性を残した。それでも、勝っても他のクラブの結果次第(残留の条件:90分以内で勝利し、福岡が負けるか、浦和が90分以内で勝たないこと)という状況下、アウェイでガンバ大阪を相手に1-0と90分以内で競り勝ち、他会場の結果を待つ。他会場では残留争いのライバル、アビスパ福岡が敗戦、浦和レッドダイヤモンズは延長戦で勝利を挙げる。この結果、ジェフを含め3チームが同じ勝ち点で並んだが得失点差でジェフは他チームを上回ったため、最終節で降格圏を脱出、年間13位で降格を回避した(1999年J1最終節)。
[編集] 2000年
1stステージを11位終えたが、2ndステージで敗戦を重ねて一転最下位に転落し、3年連続で残留争いを繰り広げることに。しかし、1stステージでのアドバンテージが功を奏して、1勝(勝ち点3)差で、15位の京都パープルサンガを上回り、年間14位で残留した。
しかし、3年連続で降格の危機に面したことに対して、サポーターがクラブの姿勢を激しく糾弾。2000年シーズン終了直前の12月7日には、サポーターが市原臨海競技場を占拠して、当時監督のズデンコ・ベルデニックとチーム統括部長の祖母井秀隆の辞任を求める騒ぎとなった。クラブは成績向上を模索してサポーターと話し合いの場を設ける事に同意し、後日姉崎公園サッカー場のクラブハウス前で執り行われたサポーターミーティングが行われる事になった。これが後のサポーター・コミュニケーション・デーの元となった。
[編集] 2001年
シーズン開幕前には、当時韓国代表 FW崔龍洙が加入。1stステージで2位となり、下馬評を大きく覆して見せ、この年から始まったtotoと共に注目を集めた。しかしそれでも観客動員は大きな回復を見せず、これが翌年から始まる抜本的な改革の契機となった。
[編集] 2002年
この年は、調子を落としたものの、1stステージは8位、2ndステージは11位で終え、「万年降格争い」と言われた時代を脱却した。また、Jリーグ開幕以来苦手としていた天皇杯において、初の準決勝進出を果たし、2009年現在での過去最高の成績(ベスト4)を記録している。
[編集] 2003年
チーム力のさらなる引き上げを目指し、祖母井チーム統括部長は1990年のイタリア・ワールドカップでユーゴスラビア代表監督を務めたイビチャ・オシムを監督に招聘。 「賢く走る」、「危険を冒すサッカー」をキーワードにチーム強化を図っていった。 また同時にユース出身で当時21歳の阿部勇樹をキャプテンに指名。改革はチームの意識変化にまで及んだ。 オシムの監督就任1年目の2003年は1stステージ3位、2ndステージ2位、年間総合3位という結果を残し、優勝争いに加わるチームに成長させた。特に、2003年の2ndステージはステージ優勝を逃したものの、優勝した横浜F・マリノスとは同じ勝ち点で並んでの2位だった。
[編集] 2004年
1stステージでは勝ちきれず引き分けを重ね、中位に後退。2ndステージでは、首位を独走する浦和レッドダイヤモンズを猛追するも優勝までは届かず、前年に続き2ndステージ2位。
なお、この頃からオフシーズンに主力選手の引き抜きにあうことになる。2003年オフには中西永輔や崔龍洙、2004年オフには茶野隆行や村井慎二というチームのレギュラーが次々退団していったものの、順位を落とすことなく上位争いに加わったが、主力選手の流出は2008年オフまで続くことになる。
[編集] 2005年
2005年、1シーズン制となったリーグ戦において、序盤は出遅れるも混戦となった中盤から徐々に追い上げ、最終節までもつれた優勝争いに加わる健闘をみせた。また、リーグ年間総合成績もオシム就任以来3年連続4位、この年の勝ち点59は2008年までにおいて過去最高記録である。また、ナビスコ杯では優勝し、Jリーグ創設からチーム初となる念願のタイトルを手中にした。
なお、2003年の1stステージ第5節の横浜F・マリノス戦以降、2005年までおよそ3年間、ホームスタジアムである市原臨海競技場(当時)での試合に負けることはなかった。リーグ戦では2005年の第20節でセレッソ大阪に敗れるまで31試合無敗。また、カップ戦含めた公式戦はナビスコ杯のGL第2節で柏レイソルに敗れるまで26試合無敗を記録した。
[編集] 2006年
前年の初タイトル獲得、キャプテンの阿部勇樹をはじめ成長した生え抜き選手、浸透した戦術・プレースタイルを以って、Jリーグ制覇に向けて動き出したこの年、チームの柱となったFWの巻誠一郎が日本代表に選出され、ドイツ・ワールドカップ出場を果たす。しかし、ドイツ・ワールドカップ終了後にオシム監督が日本代表監督として日本サッカー協会(JFA)に引き抜かれるという事態に。無条件で監督を引き渡したクラブに選手・サポーターなど内外から多くの批判が届いた。この際、「クラブとJFAが取り合うことで、最悪の結果、オシムが日本を去る事だけは避けたい」とした旨がフロント陣から発表された。後任にはオシム監督の息子であるアマル・オシムがコーチから昇格して就任した。そして、羽生直剛、佐藤勇人、山岸智ら、いわゆる「オシムチルドレン」が代表に選ばれ、それぞれ代表デビューを飾った。
しかし、チームでは環境は一変。アマル監督が就任してからは、連覇を達成したナビスコ杯以外振るわず、リーグ戦ではパッとせぬままシーズンを11位で終了。天皇杯では、J2の札幌に初戦で敗れる失態も見せた。10月には祖母井部長がフランスのグルノーブルへ引き抜かれ、シーズン終了後には、チームの顔でキャプテンの阿部勇樹が浦和に移籍。また、選手会長の坂本將貴も新潟へ移籍した。フロントは祖母井の後任統括本部長の選任にも後手に回り、唐井直の就任が発表されたのは、選手との契約更改交渉がスタートした後だった。
[編集] 2007年
2007年に入っても巻・佐藤・山岸がチームの今季の方針説明を理由に契約を保留するなど大荒れな年の始まりとなった。シーズン開幕後のチームは調子が上がらず、Jリーグ開幕2連敗・4戦未勝利。第5節の横浜FC戦でシーズン初勝利をあげるも、第8節から第14節には7戦未勝利(3分4連敗)が響き、前半戦は降格ラインでの争いを演じた。さらに、シーズン途中である6月にはイリアン・ストヤノフが一部のメディアで監督批判を行い、謹慎処分の後に契約解除された。後半戦では、代表で経験を積んだ青木、水野、水本など若手の成長もあり、第23節から第28節にかけて、クラブ史上初となる6連勝を記録し降格圏内から脱出こそした。しかし、その後は勝ち星をあげることはできず、最終節では名古屋に0-2で敗れ、シーズン序盤の二の舞を演じ、結局、順位は年間13位、最高でも10位と2桁台にとどまった。また、史上初の3連覇をかけて臨んだナビスコ杯では、当初3連勝を飾るもガンバ大阪に敗戦以降は3連敗を喫し、グループリーグ3位で早々に姿を消す。天皇杯でも、リーグ無敗の大分を相手に破れて4回戦(初戦)敗退と、優勝候補といわれた面影は消え去っていた。シーズン終了後にアマル監督を解任、また唐井統括本部長も解任され、後任の監督・GM候補が二転三転するなど、不穏なシーズンとなった。
[編集] 2008年
2008年は年が明けてもJ1では唯一、監督・GMともに未決定だったため、クラブへの不信感による主力選手の移籍報道が紙面を賑わせた。1月12日に、ようやく後任監督としてヨジップ・クゼの就任を発表。GMには昼田宗昭が就任。また、かつての選手会長だった坂本が新潟から復帰するなど、混乱は沈静化するに見えた。しかしこの報道と同時期に北京五輪代表候補の水野晃樹がスコットランドの名門セルティックへの移籍が決定的と報道された。さらに羽生直剛・山岸智・佐藤勇人・水本裕貴の他クラブへの移籍も決定し、大幅な戦力ダウンで開幕を迎えることとなった。また4月には、淀川隆博社長が任期満了で退任することが発表された。
2008年シーズン開幕前の「サッカーマガジン」によると、「ジェフは(前身の)古河と同様、数年に一度勢いづいて優勝争いに参加するクラブ」とOB選手たちから評されており、「残留できれば上出来」という下馬評だった。その下馬評通り、開幕11試合を終えても未勝利・かつ5節からは15年ぶりの7連敗を喫するなど9敗2分(勝ち点2)で最下位に定着。その責任を取りクゼ監督は解任、新たにイングランド・プレミアリーグのリヴァプールFCから招聘したアレックス・ミラーが監督に就任。ミラー監督が来日した5月10日の京都戦にホームで1-0で勝利し、開幕12試合目にしてシーズン初勝利を挙げた。なお、ミラー監督は登録が間に合わず、指揮は澤入重雄コーチが代行した。
リーグ戦中断期間にミラー監督体制が本格稼動。広島からMF戸田和幸を、鹿島からFW深井正樹が加入するとチーム状態が回復し、勝ち点を重ねるようになった。特に9月14日の東京ヴェルディ戦を皮きりに上位相手に5連勝など快進撃を続け、最下位を脱出。しかし混戦となった優勝および残留争いの激しさからリーグ終盤に失速し連敗。これにより自力での残留の可能性が消滅し、勝っても降格という状況に追い込まれた(1999年時と類似した状況)。なお、第33節の清水戦で敗戦した際には、巻をはじめ多くの選手が「降格」を覚悟したが、他会場の結果により最終節に望みをつないだ。
12月6日、ホームで迎えた最終節・対FC東京戦では0-2と先行され苦しい状況は一層深刻さを増すが、谷澤達也と新居辰基が途中投入されると、後半29分すぎからのわずか11分間に4得点[6]を挙げ、結果4-2と劇的な逆転勝利を収めた[7]。16位だった東京ヴェルディはホームで0-2で川崎フロンターレに、15位だったジュビロ磐田もホームで大宮アルディージャに0-1で両方とも敗れたため、磐田は16位、東京Vが17位になり、ジェフは年間15位で逆転残留が決定した(2008年J1最終節)。
[編集] 2009年
2009年シーズンは、J1残留の立役者、ミラー監督の続投が正式に発表され、深井も鹿島から完全移籍で獲得し、他チームへの移籍も噂された巻も残留。新たな戦力として、柏からアレックスを、清水から和田拓三を完全移籍で獲得。さらに、鹿島から中後雅喜を、大分から福元洋平を期限付き移籍で獲得するなど、前年とは違い積極的な補強を行ったが、登録選手数はJ1最少[8]。
またクラブ事務所も市原市から千葉市に完全集約された。
リーグ戦開幕後、勝ち切れない試合が多く、また前途の選手層の薄さと怪我人の続出でベンチメンバーさえ不足したことも。そのため、ブラジルのECヴィトーリアからFWネット・バイアーノ、柏レイソルから太田圭輔をシーズン半ばに獲得・補強した。
また、同年7月27日に成績不振を理由にミラー監督を解任。後任には生え抜きの江尻篤彦が就任するとともに、コーチ陣が一新された。
しかし、守備が少しずつ改善した半面、攻撃が巻頼みで、期待のFWネットバイアーノも、プレースタイルが巻と重複するという理由でレギュラー起用にはならず、得点力が低下。その後も成績不振が続き、ついに11月8日の対川崎フロンターレ戦で敗れてJ2降格が決定し、前身の日本リーグ時代を含めて初となる2部リーグ落ちとなってしまった。
なおこの後11月28日に柏レイソルが降格したため、千葉勢はJリーグ創設18年でJ1から姿を消すことになった。同一都道府県のチームが2チーム降格するのはJリーグ史上初である。
[編集] ホームタウン・ホームスタジアム
[編集] ホームスタジアム問題
2002年のシーズン開幕の直前、クラブは千葉市蘇我地区の旧川崎製鉄工場跡地に建設される千葉市総合スポーツ公園球技場(現在のフクダ電子アリーナ)を完成後市原臨海競技場と併用してホームスタジアムとして使用する方針である旨発表した。これには、蘇我地区の目玉となる施設を建設したいためそれを継続して使用してくれる団体を求めていた千葉市と、スタジアム環境の改善を図って観客増を狙いたいジェフユナイテッド市原との間の利害の一致があった。
以下についてはフクダ電子アリーナ、市原臨海競技場、市原スポレクパークの項目も併せて参照されたい。
多くのサポーターは概ねこの発表に対して好意的に受け止めた。理由として臨海競技場の実情が、以下のようなデメリットを抱えていたためである。
- アクセスが非常に不便であり、JR内房線五井駅から徒歩30分かかる。試合日にはシャトルバスを運行しているが、帰りなどは渋滞に巻き込まれるとバスに乗る列に並び始めてから駅に着くまで40分以上もかかってしまう。また内房線の電車の本数も少ない。
- Jリーグ開幕当初はスタジアムでの観戦希望者に対し、スタジアムの収容人数が追いつかず、「チケットが取れない。」という事態を招いた。さらにオフィシャルファンクラブでは自由席の無料招待券を配布したため、前売り段階で完売しているにも係らず無料招待券でスタジアムに観戦しようとするサポーターも多く、スタジアムに行っても試合を観戦出来ない、という事態が発生した。
- Jリーグ開幕から2年間は観客動員数も多かったが、スタジアムへ自動車で来るサポーターのための駐車場が無く、仕方なく近隣の道路等へ違法駐車する車が目立ち、また違法駐車に対する警察の取り締まりも重なり、この取締りにより、観客離れを引き起こした。これに対し後日、近隣工場地帯や商業施設への協力を経て、臨時無料駐車場を設置、シャトルバスで臨時駐車場までの送迎も行なっていた。しかし工場地帯の臨時駐車場は、試合開始前はシャトルバスを運行するが、試合終了後のシャトルバスの運行は行なわれず、決して近いとは言いがたい駐車場まで徒歩で20分以上歩かなければならず、また商業施設の駐車場もバスに並ぶ列や帰りの車の渋滞により、駐車場まで辿り着くのに時間が掛かった。
- その後、より多くの観客動員数を見込み、スタジアムの客席を増設。しかしメインスタンド以外が鉄骨製であり、またバックスタンド後方に民家があるため大きなスタンドを作れない上に防音壁を立て、その分陸上用のアンツーカーの一部を立見席にした急ごしらえのスタンドで対応した事で、施設として大変貧弱だった。また、観客離れが起こりだしてからスタジアムの増設工事が完成したため、観客席を増設したにも拘らず観客席が埋まらない事態を引き起こした。
それに対して蘇我に「移転」した場合、以下のようなメリットが見込まれた。
- 建設予定位置が駅から非常に近く、バスを使わなくても徒歩で移動できる。また京葉線、外房線、内房線のターミナル駅となっており、電車の本数も大幅に増加する。またサポーターの分布が実情としてより人口の多い総武線、京葉線、京成千葉線にシフトしており大多数のサポーターにとって市原臨海よりもより近くにスタジアムが位置することになる。
- 蘇我に建設予定のスタジアムは球技専用であり、陸上競技場だった市原臨海よりも臨場感が増す。また新規にスタジアムを建設するため、スタジアムの環境も改善される。
- 駅から近いサッカー専用のスタジアムという事で観客増が大いに期待される。
また、サポーターの中にはクラブの言うホームエリアの「拡大」では無く千葉市への事実上の「移転」ととらえる向きも出始めた。
2002年の秋からは、スタジアムの概要をサポーターやクラブ、プレーヤー、県及び市協会、Jリーグからヒアリングするイレブン懇談会が始まり、千葉市へ向けられる期待は益々大きくなる事になった。更にこの年、千葉市もホームタウンへ加える広域化が承認され翌年からは市原市に加えて正式に千葉市もホームタウンに加わる事になった。
[編集] クラブ呼称・市原市との関係
クラブは2003年から「千葉」を加えた新クラブ名のあり方の検討を始めた。この年にサポーターを対象としたアンケートを実施し、その結果、2004年に次のシーズンから新クラブ名を「ジェフユナイテッド市原・千葉」、呼称を「ジェフユナイテッド千葉」とするリリースを発表した。
一方、クラブの新名称が検討されるのに前後して、市原市はホームタウンの軸足が完全に千葉市にシフトされる事を懸念し始めた。市原市も2003年の春頃から市原臨海競技場のサイドスタンド及びバックスタンドの改修工事を検討し始め、そのプランも発表されたが、後にこのプランはバックスタンドのみに縮小された。市原臨海競技場の改修工事は2003年シーズンの終了直前から始められ、2004年シーズンの1stステージ中盤まで続けられた。しかしこのシーズンの開幕直前に新チーム名の呼称を「ジェフユナイテッド千葉」に変更する意向であることを市原市との事前協議の約束を反故にし、突如通告。市原市・佐久間市長が緊急記者会見。クラブ側のやり方を批判し、クラブへ抗議文書を送付。 Jリーグ鈴木チェアマンを訪問し、呼称にも「市原・千葉」の併記を要望した。 市原市では態度の硬化がはじまり呼称も「ジェフユナイテッド市原・千葉」にするように求めて2万人の署名が集められた。これに対してサポーターの評価は概ね低く「2万人分の署名が集められるなら、なぜ臨海がいつも満員にならないのか?」や「そもそも『千葉(県)』に市原市も含まれるのだから、市原を入れる必要はない。名称を市原・千葉にしたのは最大限の譲歩だ」とする意見も聞かれた。一方で「今までホームタウンとして努めてきた市原市に対して誠意が無いのではないか?」とする意見も聞かれた。
結局、呼称問題についてはJリーグ側からの留保期間が設けられたものの、2004年5月18日に最終的にJリーグ理事会から承認され、新チーム名と呼称については2005年2月1日より使用が開始される事になった。改称後、マスコミ等による呼称に関しては市原市が危惧した通り、専ら「千葉」のみが使われる傾向にある。サポーターが唄う応援ソングの中にも「千葉」とコールするものがある。ホームタウンを構成する市原市と千葉市でもそれぞれで呼称の使い方が異なり、広報資料などでも市原市は「ジェフユナイテッド市原・千葉」の表記で統一しているのに対し、千葉市では「ジェフユナイテッド千葉」で統一している。
当初クラブ側は市原臨海競技場とフクダ電子アリーナの双方を2005年からホームスタジアムとして併用していくとした。2005年のフクダ電子アリーナでのホームゲームの開催は、スタジアムが完成し、芝の養生が終わった後の6試合程度にとどまるため、2005年シーズンに関して言えば実質的には市原臨海競技場がメインとなった。
クラブとしては2006年シーズン以後については、観客動員、収支などを検討した上で、どちらをメインのスタジアムにしていくか検討していくとしていた。2006年シーズンについては、市原臨海競技場改修のため、全試合をフクダ電子アリーナにて開催し、その後、市原臨海競技場は予定していた改修工事を行う予定だった。
しかし、当初の計画していた改修工事に関し、日本サッカー協会より今までより厳しい改修工事の以下の条件を提示された。
- 観客席を2万人以上収容出来るようにし、席を全て一つずつに分けること(メインスタンド以外の席は、別れていない長いすのため)
- 客席の2/3以上覆える屋根を設置すること。
- 総座席数に対し、毎試合、観客席の8割以上の観客を動員すること
これに対し、市原市は「これ以上の財政支出は、市民の了解を得られない。」との結論に達し、予定されていたスタジアムの改修工事を断念。それに伴い、今後ジェフ千葉の試合は一切行われないこととなり、全ての試合をフクダ電子アリーナにて行なうこととなった。今後市原臨海競技場は、現在の仮設の観客席を撤去し芝生席に改修を行った後、主にサッカー、陸上等の予選大会等を行っていく方針を決定した。
一方、ソフト面における改革も徐々に始められ、2000年にクラブハウス、練習場が市原市へ移転した後も浦安市ではジュニアユースチーム(ジェフユナイテッド・ジュニアユース舞浜)及び舞浜スクールが活動を続けていたが、2005年に舞浜のクラブ機能は全て閉鎖された。舞浜に代って2005年からは習志野市茜浜地区に新たに練習場が確保され、ジュニアユースチーム(ジェフユナイテッド・ジュニアユース習志野)、習志野スクール及びレディースチームが活動している。
[編集] 戦績
[編集] Jリーグ年度別成績
| 年 | 所属 | 年間総合 | リーグ 順位 |
勝点 | 勝 | 負 | 分 | 得点 | 失点 | ナビスコ杯成績 | 天皇杯成績 | 監督 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 92 | JSL | なし | グループリーグ敗退 | 準々決勝敗退 | 永井良和 | |||||||
| 93 | J | 8位 | S 5位 | - | 9 | 9 | - | 28 | 28 | グループリーグ敗退 | 準々決勝敗退 | |
| N 9位 | - | 5 | 13 | - | 25 | 44 | ||||||
| 94 | 9位 | S 6位 | - | 10 | 12 | - | 34 | 43 | 2回戦敗退 | 2回戦敗退 | 清雲栄純 | |
| N 9位 | - | 9 | 13 | - | 35 | 42 | ||||||
| 95 | 5位 | S 6位 | 45 | 14 | 12 | - | 48 | 40 | なし | 初戦敗退 | ||
| N 7位 | 43 | 14 | 12 | - | 49 | 51 | ||||||
| 96 | 9位 | - | 40 | 13 | 17 | - | 45 | 47 | グループリーグ敗退 | 3回戦敗退 | 奥寺康彦 | |
| 97 | 13位 | 1st 15位 | 13 | 5 | 11 | - | 21 | 34 | 準々決勝敗退 | 4回戦敗退 | ヤン・フェルシュライエン | |
| 2nd 14位 | 15 | 6 | 10 | - | 22 | 35 | ||||||
| 98 | 16位 | 1st 11位 | 21 | 7 | 10 | - | 31 | 31 | 準優勝 | 3回戦敗退 | ||
| 2nd 18位 | 4 | 2 | 15 | - | 18 | 44 | ||||||
| 99 | J1 | 14位 | 1st 15位 | 12 | 4 | 9 | 2 | 19 | 34 | 2回戦敗退 | 3回戦敗退 | 1st:ゲルト・エンゲルス 2nd:ニコラエ・ザムフィール |
| 2nd 11位 | 16 | 6 | 19 | 0 | 22 | 22 | ||||||
| 00 | 14位 | 1st 11位 | 19 | 6 | 8 | 1 | 22 | 22 | 2回戦敗退 | 準々決勝敗退 | -2・8:ニコラエ・ザムフィール 2・9,10:神戸清雄 2・11-:ズデンコ・ベルデニック |
|
| 16位 | 9 | 3 | 11 | 1 | 15 | 27 | ||||||
| 01 | 3位 | 1st 2位 | 27 | 10 | 5 | 0 | 35 | 26 | 準々決勝敗退 | 準々決勝敗退 | ズデンコ・ベルデニック 天皇杯:神戸清雄 |
|
| 2nd 5位 | 23 | 7 | 6 | 2 | 25 | 28 | ||||||
| 02 | 7位 | 1st 8位 | 23 | 7 | 5 | 3 | 22 | 23 | 準々決勝敗退 | 準決勝敗退 | ジョゼフ・ベングロシュ | |
| 2nd 11位 | 18 | 6 | 9 | 0 | 16 | 19 | ||||||
| 03 | 4位 | 1st 3位 | 27 | 8 | 3 | 4 | 34 | 17 | グループリーグ敗退 | 準々決勝敗退 | イビチャ・オシム | |
| 2nd 2位 | 26 | 7 | 5 | 3 | 24 | 18 | ||||||
| 04 | 4位 | 1st 7位 | 22 | 5 | 3 | 7 | 28 | 23 | グループリーグ敗退 | 4回戦敗退 | ||
| 2nd 2位 | 28 | 8 | 3 | 4 | 27 | 22 | ||||||
| 05 | 4位 | 59 | 16 | 7 | 11 | 56 | 42 | 優勝 | 5回戦敗退 | |||
| 06 | 11位 | 44 | 13 | 16 | 5 | 57 | 58 | 優勝 | 4回戦敗退 | -12節:イビチャ・オシム 13節-:アマル・オシム |
||
| 07 | 13位 | 42 | 12 | 16 | 6 | 51 | 56 | グループリーグ敗退 | 4回戦敗退 | アマル・オシム | ||
| 08 | 15位 | 38 | 10 | 16 | 8 | 36 | 53 | 準々決勝敗退 | 4回戦敗退 | -11節:ヨジップ・クゼ 12・13節:澤入重雄(代行) 14節-アレックス・ミラー |
||
| 09 | - | - | - | - | - | - | - | グループリーグ敗退 | 4回戦敗退 | -19節:アレックス・ミラー 20節-:江尻篤彦 |
||
[編集] 獲得タイトル
[編集] 個人タイトル
- 1994年 - フランク・オルデネビッツ
- 2005年 - イリアン・ストヤノフ、阿部勇樹
- 2006年 - 阿部勇樹
- 2006年 - 山岸智
[編集] 公式戦対戦通算成績
[編集] 対戦通算成績と得失点
| 対戦クラブ | J1 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | ||||||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | |||||||
| コンサドーレ札幌 | 3 | 0 | 3 | 10 | 9 | - | - | - | - | - | 1 | - | 2 | 2 | 3 | ||||||
| ベガルタ仙台 | 4 | 0 | 0 | 13 | 5 | - | - | - | - | - | 1 | - | 1 | 3 | 2 | ||||||
| 水戸ホーリーホック | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | 1 | - | 0 | 4 | 0 | ||||||
| 鹿島アントラーズ | 10 | 2 | 24 | 44 | 74 | 1 | - | 0 | 2 | 0 | 0 | - | 1 | 0 | 2 | ||||||
| 浦和レッズ | 13 | 5 | 16 | 43 | 53 | 2 | 1 | 2 | 10 | 9 | 0 | - | 1 | 1 | 2 | ||||||
| 大宮アルディージャ | 4 | 0 | 2 | 8 | 7 | 1 | 1 | 0 | 2 | 1 | |||||||||||
| 柏レイソル | 12 | 5 | 9 | 42 | 36 | ||||||||||||||||
| 東京ヴェルディ | 13 | 1 | 18 | 43 | 56 | ||||||||||||||||
| FC東京 | 4 | 6 | 6 | 27 | 30 | 2 | 0 | 0 | 4 | 2 | |||||||||||
| 川崎フロンターレ | 3 | 2 | 3 | 8 | 9 | 1 | 1 | 0 | 5 | 4 | 1 | - | 2 | 7 | 3 | ||||||
| 横浜F・マリノス | 10 | 3 | 23 | 55 | 64 | ||||||||||||||||
| 横浜FC | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | - | - | - | - | - | |||||||||||
| 湘南ベルマーレ | 9 | 0 | 7 | 30 | 27 | - | - | - | - | - | 0 | - | 1 | 1 | 2 | ||||||
| アルビレックス新潟 | 3 | 2 | 1 | 11 | 11 | 1 | 1 | 0 | 3 | 2 | |||||||||||
| ヴァンフォーレ甲府 | 3 | 1 | 0 | 9 | 6 | - | - | - | - | - | 2 | - | 0 | 6 | 3 | ||||||
| 清水エスパルス | 13 | 3 | 20 | 41 | 58 | - | - | - | - | - | 0 | - | 3 | 2 | 6 | ||||||
| ジュビロ磐田 | 11 | 5 | 16 | 49 | 69 | - | - | - | - | - | 1 | - | 0 | 1 | 0 | ||||||
| 名古屋グランパスエイト | 9 | 3 | 24 | 46 | 74 | ||||||||||||||||
| 京都サンガF.C. | 11 | 0 | 5 | 40 | 25 | - | - | - | - | - | 1 | - | 0 | 4 | 0 | ||||||
| セレッソ大阪 | 12 | 1 | 11 | 40 | 37 | - | - | - | - | - | 0 | - | 1 | 2 | 5 | ||||||
| ガンバ大阪 | 16 | 3 | 17 | 64 | 60 | ||||||||||||||||
| ヴィッセル神戸 | 8 | 1 | 11 | 41 | 41 | 1 | 0 | 1 | 4 | 2 | |||||||||||
| サンフレッチェ広島 | 11 | 5 | 18 | 44 | 57 | 5 | 0 | 1 | - | - | |||||||||||
| アビスパ福岡 | 8 | 1 | 5 | 34 | 22 | - | - | - | - | - | |||||||||||
| 大分トリニータ | 9 | 1 | 0 | 27 | 6 | 4 | 2 | 0 | 10 | 3 | 0 | - | 1 | 1 | 3 | ||||||
| 横浜フリューゲルス | 10 | - | 8 | 29 | 33 | 2 | 0 | 1 | 4 | 7 | 0 | - | 1 | 1 | 2 | ||||||
| 計 | 202 | 50 | 240 | 777 | 868 | ||||||||||||||||
[編集] 戦績の傾向・特徴
- 他クラブとの相性など
- 鹿島アントラーズ、横浜F・マリノス、名古屋グランパス、清水エスパルスに対して分が悪い。
- コンサドーレ札幌に対しても相性が良くない。
- 札幌がJリーグに初昇格した1998年は2戦して2敗。
- 2002年の札幌の勝利数わずか5勝のうちの1勝が千葉。
- 2008年の札幌のリーグ戦勝利数わずか4勝のうちの1勝は千葉、しかも札幌の同年最多得点勝利。
- 天皇杯も札幌に2度初戦敗退している。
- 同じ千葉県内にホームタウンを置く柏レイソルには、2008年時点で公式戦は勝ち越しているが、ちばぎんカップでは大きく負け越している(後述)。
- ジュビロ磐田、ヴィッセル神戸にも少々分が悪かったが、その2チームには持ち直しつつある。
- 突出した例として、大分トリニータに対してはリーグ戦で無敗である(2009年7月現在)。カップ戦を含めても、2007年の天皇杯で1度敗れたのみ。またシーズン初勝利や公式戦の最多得点なども大分戦で記録することが多い。
- また、京都サンガF.C.に対しても分がある。
- なお、大分・京都に対しては、最下位、残留争いの立場にあった2008年のリーグ戦でも無敗無失点(3勝1分3得点)であり、同年5月にはその2チームとの連戦でシーズン初勝利と久しぶりの連勝を記録。
- 大会との相性
- カップ戦では、天皇杯に弱いが、Jリーグカップには強い傾向がある。
- 先述した柏レイソルとの間で行われるプレシーズンマッチ・ちばぎんカップでは4勝11敗(2009年時点)で負け越している
- 「Jリーグオリジナル10」では唯一、「Jリーグスーパーカップ」に出場したことが無い。(2009年現在)
[編集] 主な記録
[編集] クラブ記録
- 連勝
J1
- 6連勝【2007年 第23節 対大分トリニータ(フクダ電子アリーナ) - 第28節 対ヴァンフォーレ甲府(小瀬スポーツ公園陸上競技場)】
- ホームスタジアム無敗
J1
- リーグ戦 31試合【2003年 1st第5節 対横浜F・マリノス - 2005年 第18節 対川崎フロンターレ】
- 公式戦 26試合【2003年 1st第5節 対横浜F・マリノス - 2005年 第2節 対柏レイソル】
- リーグ戦 連敗
J1
- 7連敗
- 【1993年 N 第12節 対ヴェルディ川崎(宮城) - 第18節 対名古屋グランパスエイト(瑞穂)】
- 【2008年 第5節 対 鹿島(カシマ) - 第11節 対浦和レッドダイヤモンズ(埼玉)】
- リーグ戦 未勝利
J1
- 17試合【2007年 第29節 対浦和レッドダイヤモンズ(フクアリ) - 第11節 対浦和レッドダイヤモンズ(埼玉)】
- リーグ戦 開幕未勝利
J1
- 11節【2008年 第1節 対ガンバ大阪(万博) - 第11節 対浦和レッドダイヤモンズ(埼玉)】
- もっとも遅いシーズン初勝利
- 5月10日 【J1 2008年 第12節 対京都サンガF.C.戦(フクアリ)】
- ※ 前身の古河時代を含めても遅い。
- 最多得点試合
J1
- 6得点
- 【1995年 第17節 対横浜フリューゲルス(市原臨海)-マスロバル[2]、中西永輔、ルーファー[3]】
- 【2007年 第23節 対大分トリニータ(フクアリ)- 得点者:佐藤勇人、山岸智、水野晃樹[2]、工藤浩平、青木孝太】
- 最多失点試合
J1
- 6失点
- 【1993年 ニコスシリーズ第18節 対名古屋グランパスエイト(瑞穂)】
- 得点差
J1
- 勝利 - 6点差(6-0)【2007年 第23節 対大分トリニータ(フクアリ)】
- 敗北 - 6点差(0-6)【1993年 N 第18節 対名古屋グランパスエイト(瑞穂)】
- 国内トップリーグ所属
- 通算:43シーズン連続
- 日本サッカーリーグ:27季連続(前身・古河電気工業時代)
- Jリーグ(J1):16季連続(ジェフユナイテッド市原・千葉)
[編集] 個人記録
- ハットトリック
- パベル 【1993年1st 第12節(6月23日)対 浦和レッズ】
- オッツェ 【1994年2nd 第1節(8月10日)対 ガンバ大阪】
- 新村泰彦 【1995年1st 第24節(7月15日)対 ガンバ大阪】
- ルーファー 【1995年2nd 第17節(10月18日)対 横浜フリューゲルス】
- ルーファー 【1995年2nd 第20節(11月4日)対 サンフレッチェ広島】
- バロン 【2000年1st 第1節(3月11日)対 京都パープルサンガ】
- 崔龍洙 【2003年1st 第5節(4月26日)対 横浜Fマリノス】
- 崔龍洙 【2003年1st 第6節(4月29日)対 京都パープルサンガ】
- 阿部勇樹 【2006年J1 第27節(10月14日)対 鹿島アントラーズ】
[編集] ユニフォーム
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[編集] チームカラー
- チームカラーは黄色、緑色、赤色の3色(ラスタカラー)
- 黄色は千葉県の県花である菜の花、緑色はJR東日本の、赤は古河電工のコーポレートカラーからきている。
- 2005年シーズンからユニフォームには新たに紺色を使用。
- 紺色については「千葉市、市原市が面している海(東京湾)の色」「市原市の旗の色が群青色」「千葉市のコミュニケーションマークのカラーが青」ということで採用した。
[編集] ユニフォームスポンサー
| 掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 胸 | 富士電機ホールディングス | 富士電機 | 2007年〜 | |
| 背中 | JR東日本 | Suica | 2009年〜 | |
| 袖 | 君津住宅 | 君津住宅 | 2006年〜 | |
| パンツ | ペリエ千葉 | PeRIe | 2009年〜 |
[編集] ユニフォームサプライの遍歴
[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表
| 年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
| 1992年 | SEGA | Pentel | - | - | asics |
| 1993年 | SEGA | Pentel | JR EAST FURUKAWA | - | Mizuno/asics |
| 1994年 | SEGA | Pentel | JR EAST FURUKAWA | - | Mizuno/asics |
| 1995年 | SEGA | びゅう | JR EAST FURUKAWA | - | Mizuno/asics |
| 1996年 | SEGA | 0088(日本テレコム) | JR EAST FURUKAWA | - | Mizuno/asics |
| 1997年 | J-PHONE | 0088(日本テレコム) | JR EAST FURUKAWA | - | Mizuno |
| 1998年 | JR東日本 | 古河/古河電工不動産 | 古河電工 | - | Mizuno |
| 1999年 | JR東日本 | 古河 | 古河電工 | - | Mizuno |
| 2000年 | JR東日本 | J-PHONE | 古河電工 | - | Mizuno |
| 2001年 | 古河電工 | - | JR東日本 | - | Mizuno |
| 2002年 | 古河電工/オートウェーブ | 古河電工 | JR東日本 | - | Mizuno |
| 2003年 | オートウェーブ | JR東日本 | 古河電工 | - | Mizuno |
| 2004年 | オートウェーブ | JR東日本 | 古河電工 | - | Mizuno |
| 2005年 | オートウェーブ | 古河電工 | JR東日本 | - | Mizuno |
| 2006年 | オートウェーブ | 君津住宅 | Sammy | QBハウス | Mizuno |
| 2007年 | 富士電機 | 君津住宅 | Sammy | - | Kappa |
| 2008年 | 富士電機 | 君津住宅 | - | -/Sammy | Kappa |
| 2009年 | 富士電機 | 君津住宅 | -/Suica | PeRIe | Kappa |
[編集] 関連項目
- ジェフユナイテッド市原・千葉の選手一覧
- 間瀬秀一
- 千葉ロッテマリーンズ
- ちばぎんカップ
- モオノキ
- U-31
- ジェフ魂12
- 光永亮太 - オフィシャルサポーターズソング『Over』を唄う。ジュニアユース出身
- 蒲田健
- 国鉄115系電車 - 新潟地区で「ジェフカラー」と呼ばれる塗装とクラブのロゴを入れて走行した編成が存在した
[編集] 脚注
- ^ 法人名の変更について ジェフユナイテッド市原・千葉
- ^ ジェフユナイテッド市原・千葉 クラブプロフィールより
- ^ ジェフユナイテッド市原・千葉オフィシャルサイト - 第9回 サポーターコミュニケーションデー 議事録について (2)より
- ^ ただし、降格寸前を経験したことは多々ある。古河電工時代では特に1978年のJSLで最下位となり、入れ替え戦を経験した(結果は残留)。また、ジェフとなっても幾度も残留争いに加わっており、1998年から2000年、2008年には降格の危機に瀕した(詳細は当項目#1998年、#1999年、#2000年、#2008年をそれぞれ参照)。
- ^ 第7回研修 「ベガルタ仙台の歴史と今後」【仙台スタジアムの創設について】(みやぎスポーツボランティアネットワーク)
- ^ 29分に谷澤のパスから新居、32分に巻が落としたボールを谷澤がそれぞれ決め同点に追いつく。その後、35分にレイナウドが自ら得たPKを成功させて逆転、40分に再び谷澤が独走からゴールを決めた。
- ^ 他会場でニッポン放送の解説をしていた金子達仁はこの逆転劇を聞いて「『フクアリの奇跡』と呼んでもいい」と語っている。この他にも「絶望から希望へシナリオを書きかえた」「わずか11分で、地獄から天国へ」など各会場で驚きの声が上がった。
- ^ 出場機会のない若手選手をJ2のチームやジェフの下部チームに移籍させたためことにもよる。
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年12月1日 (火) 09:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【ジェフユナイテッド市原・千葉】変更履歴







