ジェンセン・ヒーレー

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ジェンセン・ヒーレー
ジェンセン・ヒーレーMK2
 
 
ジェンセン・ヒーレーMK2
 
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メーカー {{{メーカー}}}
 
親会社 {{{親会社}}}
 
製造国 {{{製造国}}}
 
製造期間 1972-1976
 
設計統括 {{{設計統括}}}
 
デザイナー {{{デザイナー}}}
 
乗車定員 2人
 
ボディタイプ 2ドア・コンバーチブル
 
ハイブリッド
 
エンジン 直列4気筒 ガソリンDOHC1973cc 142馬力
 
モーター
 
最高出力/トルク {{{最高出力/トルク}}}
 
最高出力 {{{最高出力}}}
 
最大トルク {{{最大トルク}}}
 
変速機 4MT/5MT
 
駆動方式 フロントエンジン・リアドライブ
 
サスペンション  前:独立 ウィッシュボーン コイル 後:固定 4リンク コイル
 
全長x全幅x全高 {{{全長x全幅x全高}}}
 
全長 4110mm
 
全幅 1610mm
 
全高 1210mm
 
最低地上高 {{{最低地上高}}}
 
ホイールベース 2340mm
 
車両重量 980kg
 
乾燥重量 {{{乾燥重量}}}
 
総重量 {{{総重量}}}
 
最大積載量 {{{最大積載量}}}
 
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先代
 
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姉妹車/OEM
 
車台共有車
 
同クラスの車 {{{同クラス}}}
 

ジェンセン・ヒーレーはイギリスの自動車メーカー、ジェンセン・モーターズが1972年から1976年まで製造販売した2座席オープンスポーツカー。

オースティン・ヒーレー3000(ビッグ・ヒーレー)など、イギリス製産スポーツカーの輸入販売で成功したアメリカの自動車販売業者、ジェル・クヴェール(Kjell Qvale)が、1970年代のビッグ・ヒーレーを自ら生産することを夢見てジェンセン・モータースの株を買い取り、ドナルド・ヒーリーを会長に招聘、息子のジェフリーも役員に迎え入れて開発したスポーツカー。1972年3月、ジュネーブショーでデビューした。当時の時流をそつなく採り入れた、やや没個性的なデザインはジェフリー・ヒーレーのデザインで、当時北米市場で人気上昇中であった初代日産・フェアレディZ(S30系)に近いボディサイズであった。

ジェンセン・ヒーレー最大の魅力はエンジンで、当初はフォードやBMWの各種ユニットが試された後選ばれたのはロータスがヴォクスホール・ヴィクターのユニットをもとに新開発したコッグドベルト駆動、16バルブの直4DOHC1973cc(LV220型)であった。ヨーロッパ向けのデロルト・ツインキャブ付きでは142馬力/6500rpm、18.0kgm/5000rpmを発し、最高速度は195km/h達した。このユニットはロータス・エリート(第二世代)ロータス・エスプリにも搭載され、その後排気量拡大やターボ化も行われ、1970年代から80年代にかけてロータス社の基幹エンジンとなった。

エンジン以外の機構はオーソドックスで、ギアボックスはサンビーム・レイピアH120用の4速ギアボックスであり、前後サスペンションやステアリング機構はヴォクスホール・フィレンザから、フロントブレーキはモーリス・マリーナの流用と、英国スペシャリストメーカーの定石通り、量産車のコンポーネントを巧みに利用していた。初期モデルは“オーナーがフィニッシュするクルマ”と皮肉られたほど仕上げが悪かったことも、またスペシャリストメーカーの製品の定石通りであった。

ジェンセン・ヒーレーは1970年代前半にまったく新たに開発された数少ない英国製スポーツカーであり、それにふさわしい豪快な動力性能と洗練された運動性能を有していた。米国輸出仕様車同様、ストロンバーグ製ツインキャブ付きとなり、若干のパワーダウンを余儀なくされていた日本仕様車(当時の輸入元はコーンズ・アンド・カンパニー・リミテッド)をテストした当時のカーグラフィック誌1973年2月号によると、最高速度は185.56km/h、0-400m加速15.55秒、0-100km/h加速6.21秒という俊足で、2000ccながらフェアレディZのトップモデル・240ZGに匹敵する性能を誇った。

1973年秋にはMk2に発展、側面にサイドモールが追加され、工作水準もダッシュボードにウッドパネルが追加されるなど高級車メーカー、ジェンセンにふさわしく改善され、エア・コンディショナーやハードトップも装着可能となった。1974年以降のアメリカ輸出仕様車にはゴム製の大型バンパーが追加され、75年型からはギアボックスがゲトラーク製5速MTに変更された。

しかし、1973年の第一次石油危機で大型モデルの売れ行きが不振となったジェンセンは1975年夏に経営危機に陥り、事実上の倒産に追い込まれ、バックオーダーを抱えていたため管財人の元でしばらくは操業を続けたものの、1976年5月についに廃業に追い込まれ、ヒーレーも消滅することとなった。

生産台数はMk1(1972年3月–1973年5月、シャシー番号10000 – 13349)が3,356台、Mk2(1973年8月–1975年9月、シャシー番号13500–20504)が7,142台の、計10,498台であった。姉妹車として2+2スポーツワゴンのジェンセン・GTが1975年にデビュー、翌年の操業中止までに509台生産された。

[編集] 参考文献


最終更新 2009年5月20日 (水) 15:48 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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