ジェンソン・バトン
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| ジェンソン・バトン | |
|---|---|
2005年アメリカGPにて
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| 基本情報 | |
| フルネーム | ジェンソン・アレクサンダー・ライオンズ・バトン |
| 国籍 | |
| 出身地 | サマセット州フローム |
| 生年月日 | 1980年1月19日(29歳) |
| F1での経歴 | |
| 車番 | 1 |
| 所属チーム | マクラーレン '10- |
| 活動時期 | 2000- |
| 過去の所属チーム | '00 ウィリアムズ '01 ベネトン '02 ルノー '03-'05 B・A・R '06-'08 ホンダ '09 ブラウンGP |
| 出走回数 | 170 |
| 優勝回数 | 7 |
| 通算獲得ポイント | 327 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 24 |
| ポールポジション | 7 |
| ファステストラップ | 2 |
| F1デビュー戦 | 2000年オーストラリアGP |
| 初勝利 | 2006年ハンガリーGP |
| 2009年順位 | 1位(95ポイント) |
| タイトル | 1(2009) |
| (記録は2009年終了時) | |
ジェンソン・アレクサンダー・ライオンズ・バトン(Jenson Alexander Lyons Button, 1980年1月19日 - )は、イギリス出身のレーシングドライバーである。
目次 |
[編集] 出生
イングランド・サマセット州フロームにて生を受けた。父親のジョン・バトンはラリークロスで名を馳せた人物で、1976年にはRACイギリスラリークロス選手権でランキング2位を獲得している。
[編集] 初期の経歴
[編集] カート
8歳でカートを始め、早期から成功を収め、1991年のイギリス・カデット・カート選手権では同選手権の34戦を全勝するという圧倒的な成績でタイトルを獲得した。
その後も、全英オープンカート選手権を3度に渡って制するなど活躍を続け、1997年にはカートスーパーAクラス・ヨーロッパ選手権を史上最年少(17歳)で制し、アイルトン・セナ・メモリアルカップを受賞した。
[編集] フォーミュラ・フォード
1998年に四輪にステップアップし、ヘイウッドレーシングからイギリス・フォーミュラ・フォードに参戦した。初年度ながら9勝を収め、この年のタイトルを獲得した。ブランズハッチで開催されたフォーミュラ・フォードの国際レース、フォーミュラ・フォード・フェスティバルにおいても、当時アメリカ選手権に参戦していたダン・ウェルドンを破って優勝を飾っている。
年末にはこの年のマクラーレン/オートスポーツ・ヤングドライバー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、翌年マクラーレンのF1カーをテストする特典を得た。
[編集] フォーミュラ3
翌1999年はイギリスF3に参戦し、参戦初年度ながら3勝を挙げ、年間ランキングでもルーキーとしては最上位となる3位に食い込む活躍を見せた(この年のタイトルはマーク・ハインズ、2位はルチアーノ・ブルティ)。
国際レースにおいては、マールボロ・マスターズにおいて5位、マカオグランプリにおいては優勝したダレン・マニングからわずか0.035秒遅れの2位という、初年度のドライバーらしからぬ結果を残した。
この当時、「オートスポーツ」誌に連載の寄稿を行っていた。
[編集] F1テスト
この年9月、前年の特典としてマクラーレンのテストに参加し初めてF1カーを運転した。続けて、アラン・プロストから直々にオファーを受け参加したプロスト・グランプリのテストドライブでは、レギュラードライバーのジャン・アレジを上回るタイムを記録し注目された。
このF1デビューの際、彼は英国による運転免許を保持していなかったため、父親にサーキットまで運転してもらっていたという。
[編集] F1における経歴
[編集] ウィリアムズ
2000年の初め、F1の名門チームウィリアムズがアレックス・ザナルディの代役を決めるため開催したトライアウトに、チーム代表のフランク・ウィリアムズからオファーを受けて参加した。そしてブラジル人ドライバーのブルーノ・ジュンケイラとの激しい争いの末、ウィリアムズのレギュラーシートを勝ち取った。20歳という異例の若さでのシート獲得だった。
大きな期待とプレッシャーの中で、デビュー2戦目のブラジルGPでいきなり6位入賞を果たした。当時20歳67日だったバトンによる入賞は1962年のベルギーGPにおいてリカルド・ロドリゲスが記録した20歳123日という最年少入賞記録をほぼ40年振りに塗り替えるものであり、さらなる注目を浴びることとなる。その後もドイツGPで4位に入賞するなど、計12ポイントを獲得しランキング8位という成績を残した。
[編集] ベネトン/ルノー
続く2001年シーズンについてもウィリアムズとの契約が残っていたが、ウィリアムズはCARTチャンピオンのファン・パブロ・モントーヤがチームに加入したことを受け、バトンをベネトンへレンタル移籍させる決断を下した。
この年のベネトンB201は戦闘力に欠ける車で、入賞はドイツGPのわずか1度、2ポイントに終わり、ランキングも17位に沈んだ。
2002年は前年にベネトンを買収したルノーが自社のフルワークスチーム、ルノーF1を復活させ、生まれ変わった同チームから引き続き参戦することとなる。前年のジャンカルロ・フィジケラに代わってチームメイトとなったヤルノ・トゥルーリに予選では先行を許したものの、レースペースでは終始上回り、チームメイトを上回る14ポイントを獲得し、ランキングも7位とした。しかしながら、3位走行中だったにも関わらずファイナルラップでトラブルによる失速を余儀なくされ表彰台を逸したマレーシアGP、続くブラジルGP、と、4位を2回記録したものの、F1における初表彰台には届かなかった。
チームメイト以上の活躍は見せたものの、チームは翌年に向け、テストドライバーのフェルナンド・アロンソを昇格させることを決め、押し出される形でチームからの離脱を余儀なくされた。これについて、同チームのチーム代表のフラビオ・ブリアトーレは『タイムズ』紙のインタビューの中で、バトンの才能は認めつつも、アロンソを筆頭に契約を結んでいるドライバーが多いルノーとしては政治的に止むをえない判断であった、と後に語っている[1]。
[編集] B・A・R
2003年はB・A・Rに移籍となり、元チャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴをチームメイトとすることとなった。
しかしながら、開幕戦オーストラリアGPで、バトンのピットストップのタイミングにヴィルヌーヴが割り込む形となり、これを大きな要因としてバトンが入賞を逃す結果となった。これが引き金となり、バトンとヴィルヌーヴとの関係は良好とは言いがたいものとなり、結果報道機関を通して舌戦を繰り広げる事態にまで発展してしまった。
レース結果においては一貫してバトンがヴィルヌーヴを上回り、ヴィルヌーヴがこの年2回しか入賞できなかったのに対してバトンは同じ期間に6度の入賞を記録し、差は歴然であった。
もっとも、他チームと比較し客観的に見ればこの年も車の戦闘力は不十分なものであり、第15戦アメリカGPでは自身初となるラップリーダーを記録したものの、表彰台には恵まれず、第6戦オーストリアGPと第16戦日本GPで記録した4位が最高位であった。第7戦モナコGPでは土曜日の予選セッションにおいて大きな事故に見舞われ、同レースを棄権したばかりでなく、翌週のモンツァテストも欠席する事態となった。
前年終盤にヴィルヌーヴがチームから離脱したため、2004年シーズンをB・A・Rチームのエースとして迎えた。チームメイトは佐藤琢磨(正確には前年最終戦、日本GPから)。
この年のB・A・Rの新車B・A・R 006は高い戦闘力を持ち、第2戦マレーシアGPを3位でフィニッシュしF1初表彰台に立つと、ウィリアムズやマクラーレンの不振にも助けられ、年間で表彰台圏内でのフィニッシュを計10回記録した。第4戦サンマリノGPでは自身初のポールポジションも獲得。B・A・Rのコンストラクター・ランキング2位躍進に大きく貢献し、自身のドライバーズランキングも3位とした。その一方で、フェラーリの壁は厚く、またチーム戦略の拙さもあり、初優勝にはあと一歩手が届かなかった。
そんな中、この年はバトンの移籍をめぐる騒動が勃発した。この当時、B・A・Rチームにエンジンを供給していたホンダは将来の参戦計画について明らかにしておらず、ワークスエンジンの供給体制が不透明なチームに留まることを嫌ったバトンはウィリアムズと翌年からの2年契約を締結した。この年の8月にそれが発覚し大騒動を巻き起こしたのである。バトンとウィリアムズの間で結ばれた契約について、B・A・R側は即座に無効の申し立てを行い、結果、FIAの契約承認委員会(CRB)の裁定により、この契約は無効とされ、バトンは翌年もB・A・Rチームに残留することとなった。しかしながら、翌年度の契約についてはバトン自身に有利なパフォーマンス条項を設け、ランキング首位のドライバーから一定の得点以上離されていた場合は自由に離脱可能なものとし、この問題は翌年まで尾を引くこととなった。
そうして迎えた2005年シーズンであったが、前年の好調が嘘であったかのごとく序盤からチームは不振にあえぎ、第4戦サンマリノGPでは3位でフィニッシュしたものの、レース後に重量規定違反による失格とその後の2戦出場停止というペナルティを受けた。第8戦カナダGPではポールポジションを獲得し復調の兆しを見せたものの、シーズンのほぼ半ばとなる第9戦アメリカGP終了時点でノーポイントという事態となってしまった。
シーズン折り返しの第10戦フランスGPでようやく初入賞すると、後半戦は第19戦であり最終戦中国GPまで10戦連続で入賞するという、きわめて対照的な結果を残した。この年は得意としているドイツGPにおいてシーズン初表彰台3位を記録し、ベルギーGPにおいても3位に入り、年間で2回表彰台に立った。
前年から尾を引いていた契約問題について、前年の時点でバトンはウィリアムズと2006年についての契約を交わしていたが、2005年には急転直下ウィリアムズがこの年限りでワークスのBMWエンジンを失うことが決まったことから、バトンは翻意し、前年とは一転して(ホンダというワークスエンジンを持つ)B・A・Rチームへの残留を希望した。こうした経緯により、事態は昨年にも増して混迷の度合いを深めることとなった。ウィリアムズ側は表向きバトンは契約により移籍すべきであると主張したものの、結局、2005年9月21日、推定3000万ドル(約33億円)という違約金をバトン個人がウィリアムズ側に払う形で、この騒動は落着することとなった。この違約金については、チームから前借りしたもので、当然ながら翌年のB・A・Rチーム残留も決まり、推定8800万ドル(約98億円)で5年契約を交わしたといわれている。年間およそ1760万ドル(約19億円)という計算となり、個人的に支払ったという扱いになるウィリアムズに対する違約金もこの中から支払うことになるとはいえ、契約時点で未勝利のドライバーとしては破格の高額契約でもあった。
この前年からの一連の騒動はウォーターゲート事件になぞらえ、「バトンゲート」と呼ばれた。
この年の末、ホンダはB.A.Rチームの株式100%を取得し、翌年からはフルワークスのホンダF1となることが発表された。
[編集] ホンダ
2006年は、フェラーリで9回の優勝を達成したルーベンス・バリチェロがチームメイトとなった。
前年の最終戦で参戦数が100戦に達していたバトンに対しては、開幕前から母国イギリスで「100戦して未勝利のドライバーはチャンピオンにはなれないのではないか」という声が吹き荒れ、バトンにとっては正念場となるシーズンと目された。
この年の前半は第2戦マレーシアGPで3位表彰台に立ったことを除けば低調に推移したため危ぶまれたが、第13戦ハンガリーGPにおいて参戦113戦目で待望のF1初優勝を飾った(予選出走のみのレースを含めると115戦目にあたる)。これはその時点において、125戦のルーベンス・バリチェロ、119戦のヤルノ・トゥルーリに次いで、史上3番目に遅い初優勝であった。(2009年にマーク・ウェバーが132戦で初勝利をあげて歴代1位となったため、現在では4位である。)
このレースの予選でバトンは4番手のタイムを出したがエンジン交換を行ったためペナルティを受け、14番グリッドからのスタートであった。これは1989年のハンガリーGPで12番手スタートから優勝を得たナイジェル・マンセルを抜き、イギリス人ドライバーとしては1983年アメリカ西GPで22番手スタートから優勝したジョン・ワトソンに次ぐ最も後方のグリッドからのスタートで得た優勝であった。また、ハンガロリンクは同じくイギリス人の元F1チャンピオンデイモン・ヒルが13年前に初優勝を挙げた地でもあるなど、この初優勝はイギリス人ファンには一定の感慨を与えるものとなった。
この年は中盤に低迷したものの、この第13戦の優勝を含め、第12戦から最終戦である第18戦まで7戦連続入賞する破竹の勢いを見せ、特にラスト6戦における獲得ポイントは全ドライバー中最高、年間ランキング6位という活躍を収めた。
シーズン後にカートでの事故が原因で肋骨2ヶ所にヒビが入ったため、その治療のため年末のテストは全てキャンセルした。
2007年もホンダチームに残留し、チームメイトも引き続きバリチェロとなった。 しかし前年の成績から一転、チームのマシン作成失敗が原因で予選第1セッション通過もままならないほどの苦しいシーズンとなった。前半戦は事実上のBチームであるスーパーアグリにも先行を許し、シーズン途中までワークスチーム唯一のノーポイントだったが、フランスGPでバトンが8位入賞し、今季初の1ポイントを獲得した。その後もチームは劇的な向上を得られず、終盤数戦で巧走を見せるも年間6ポイントに留まる(チームメイトは無得点)。
2007年7月20日にホンダF1チームは『2008年も引き続きジェンソンバトンとルーベンスバリチェロ両名のコンビで参戦する』旨を発表したため、現テストドライバーであるクリスチャン・クリエンのレギュラードライバー昇格は無くなった。バトンはB.A.R時代を含めて2008年シーズンで当チームでは6年目、ルーベンスバリチェロは3年目のシーズンを迎える事となる。
2008年も前年と同じチーム体制で参戦したが、過去2年と一転してチームメイトであるバリチェロの後塵を拝し続けるシーズンとなった。スペインGPでの6位入賞のみで年間3ポイントに留まりランキング18位と低迷した。その後2008年12月5日にホンダF1チームはF1撤退を発表したが2009年からはロス・ブラウンによるマネジメント・バイアウトで誕生した新チームブラウンGPから参戦することが決定した。
[編集] ブラウンGP
2009年3月5日に、撤退したホンダF1チームを、チームそのチーム代表であるロス・ブラウンがマネジメント・バイアウトしたことで、新チームブラウンGPに生まれ変わったことが発表された。バトンとバリチェロはそのままレギュラードライバーとして残留した。 使用マシンBGP001は、本来ホンダRA109になるはずだったもので、2008年の開発をホンダが事実上諦めて作り上げたものである。そのため大きな規約変更も影響し、他チームのマシンより秀でた性能を発揮。シーズンオフ中のテストはあまり行うことができなかったが、その数少ないテストでもかなりの好タイムを記録し、注目を浴びた。
開幕戦オーストラリアGPでは、チーム初参戦でポールポジションを獲得した。自身としては三度目。チームメイトのバリチェロは2位を得て、フロントローをいきなり独占。レースでも2台独走し、チームデビューレースで1-2フィニッシュを果たした。チームのデビューレースでの優勝は32年振り、同1-2フィニッシュは1954年以来という衝撃的な結果である。
一週間後のマレーシアGPでは、スタートで4位に後退するものの、直前に驚異的なファステストラップを叩き出してからのピットストップで、ヤルノ・トゥルーリやニコ・ロズベルグをオーバーテイク、トップを奪還した。最終的には大雨によってレースは中断され、規定距離の75%以下のまま終了し、ハーフポイント制が適用されて5ポイントを得た。このレースでバトンはハットトリック(ポールポジション・優勝・ファステストラップを1レースに得る)とファステストラップ(2戦後のバーレーンGPでヤルノ・トゥルーリが記録するまでは最も遅い記録)を初めて達成している。
次の中国GPは再び雨のレースとなり、予選5位、決勝はレッドブルのセバスチャン・ベッテルとマーク・ウェバーの後ろで3位表彰台に甘んじる。4戦目バーレーンGPでは4番グリッドからベッテルと、今年初のポールポジションを獲得したトゥルーリを従え優勝。このとき今年初めて、レーシング・スピードでチェッカーフラッグを受けた(以前3戦は後続車と大差があるなどで、速度を緩めて受けていた)。
本シーズン最初の大きなマシン改良が施されたスペインGPでは、バトンはマシンバランスの不調を訴えていたが、にもかかわらずポールポジションを獲得。決勝ではスタート直後チームメイトのバリチェロに先行されるも、バリチェロがオーバーステアに苦しみ3ストップ作戦に変更したこともあって、ピットストップで逆転、彼を従えて1-2フィニッシュする。
モナコGPでは自身4度目、モナコでは自身初のポールポジション。週末の間バランスに苦しんでいたが、Q3で出したタイムがこの週末で彼の出した最も速いタイムとなった(Q2よりも0.114秒速かった)。そのうえ燃料搭載はQ3上位8位のうちバリチェロに次いで重い――これは開幕戦オーストラリアと似た状況である。バトンは第1スティントでグレイニングに苦しんだ程度で、自身初の3連続優勝、そしてチームに3度目の1-2フィニッシュをもたらした。
トルコGPではフリー走行1回目で11位,2回目で12位と出遅れるも,予選となればポールポジションこそベッテルに奪われ2番手,汚れた側のグリッドからスタートすることになったが,決勝レースでは1周目にミスでコースオフを喫したベッテルをあっさりかわすと,その後はまったくその座をおびやかされることもなく終盤は余裕のクルージング。4連勝で今季6勝目を挙げた。 ドライバーズポイントでも2位バリチェロに26ポイント,3位ベッテルに32ポイント差をつけて独走していたが、イギリス、ドイツ、ハンガリーで失速している。 第12戦ベルギーGPでは1周目の多重クラッシュにより、自身今季初のリタイアを喫してしまった。(結果的に今期唯一のリタイア)
第16戦ブラジルグランプリでは、予選で14位と出遅れ、ポールポジションを獲得したチームメイトでランキング2位のバリチェロに大きなアドバンテージを築かれたものの、決勝ではスタート直後のクラッシュや、その後の度重なるオーバーテイクで順位を大きく上げた。終盤にはバリチェロがパンクによる予定外のピットインでバトンの後方に沈み、5位入賞で最終戦を待たずして2009年のワールドチャンピオンを獲得した。
2009年はリタイアしたベルギーGP以外は全てのレースで入賞した。中盤以降は優勝こそ無かったものの入賞を続けた事で、開幕から一度もポイントリーダーの座を譲らずにチャンピオンとなった。
[編集] マクラーレン
2010年シーズンについては、バトンは当初ブラウンGPへの残留を希望する発言を行っていたが、年俸に対する希望がチーム側と折り合わず交渉が難航[2]。そのため移籍も視野に入れ他チームとも交渉を行った結果、最終的にマクラーレンへ移籍することになった。なおマクラーレンとの契約内容は「複数年契約」ということ以外は非公開となっている[3]。
[編集] F1での年度別成績
(2009年終了時)
| 年 | 所属チーム | 車番 | ランキング | 獲得ポイント | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | 予選最高位・回数 | FL記録回数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2000年 | ウィリアムズ・BMW | 10 | 8位 | 12 | 4位・1回 | 0回 | 3位・1回 | 0回 |
| 2001年 | ベネトン・ルノー | 8 | 17位 | 2 | 5位・1回 | 0回 | 9位・1回 | 0回 |
| 2002年 | ルノー | 15 | 7位 | 14 | 4位・2回 | 0回 | 6位・1回 | 0回 |
| 2003年 | B.A.R.ホンダ | 17 | 9位 | 17 | 4位・2回 | 0回 | 5位・1回 | 0回 |
| 2004年 | 9 | 3位 | 85 | 2位・4回 | 10回 | 1位・1回 | 0回 | |
| 2005年 | 3 | 9位 | 37 | 3位・2回 | 2回 | 1位・1回 | 0回 | |
| 2006年 | ホンダ | 12 | 6位 | 56 | 1位・1回 | 2回 | 1位・1回 | 0回 |
| 2007年 | 7 | 15位 | 6 | 5位・1回 | 0回 | 6位・1回 | 0回 | |
| 2008年 | 16 | 18位 | 3 | 6位・1回 | 0回 | 10位・1回 | 0回 | |
| 2009年 | ブラウン・メルセデス | 22 | 1位 | 95 | 1位・6回 | 9回 | 1位・4回 | 2回 |
[編集] エピソード
- 2009年にはモデルの道端ジェシカとの交際が発覚し話題となった[4]。交際のきっかけは、道端が2006年のモナコGPに雑誌の取材で訪れた際に知り合ったことと言われている[5]。二人は2009年のオーストラリアGPなどでもツーショット姿をメディアに捉えられており[6]、既に交際は公然のものとなっている。
- ホンダ在籍時には、ホンダの航空機業界参入第1弾となるHondaJetの1号機のオーナーとなると伝えられていた。しかし本人は川井一仁の取材に対し「ホンダのF1撤退に伴いその話も消滅した」と語っている[7]。
[編集] 出典
- ^ 『タイムズ』オンライン版・2005年9月9日記事 - [1]
- ^ バトン、ブラウン残留交渉が難航 - F1-live.com・2009年10月4日
- ^ VODAFONE McLAREN MERCEDES SIGNS REIGNING WORLD CHAMPION JENSON BUTTON TO MULTI-YEAR DEAL - マクラーレン・2009年11月18日
- ^ 道端ジェシカ、F1バトンと海越えロマンス - SANSPO.COM・2009年1月30日
- ^ 道端ジェシカ&F1バトン“セレブ愛” - スポーツ報知・2009年1月30日
- ^ 道端ジェシカ、バトンとともにメルボルン入り - F1-Gate.com・2009年3月26日
- ^ 『GRAND PRIX SPECIAL』(ソニー・マガジンズ)2009年5月号「突撃!ピットレポーター川井ちゃん」
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
| スポーツのタイトル | ||
|---|---|---|
| 先代: ルイス・ハミルトン |
F1ドライバーズチャンピオン 2009年 |
次代: - |
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|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 3 | 5 | 7 | 9 | |||||||
| 2 | 4 | 6 | 8 | 10 | |||||||
| 11 | 14 | 16 | 20 | 22 | |||||||
| 12 | 15 | 17 | 21 | 23 | |||||||
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最終更新 2009年11月23日 (月) 11:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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