ジェームス三木

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ジェームス三木(じぇーむす みき、男性、1935年6月10日 - )は、日本脚本家作家、元歌手。本名・山下清泉(やました きよもと)。血液型は、B型。

ペンネームの由来は「税務署行き」をもじったもので、歌手時代にディック・ミネに芸名をつけてもらおうとしたところ「これから税務署に行かなくちゃならない」と言われた事から来ているとされていたが、これは事務所がつくったネタだとも言われている。小津安二郎の脚本家としての別名「ゼームス槇」に肖ったとの説も或る。

13年間歌手として活動するが、いっこうに芽が出ず、脚本家へ転身したのちもこの名前を使いつづけている。脚本家としてのデビューは「七人の刑事」だったが、名前を覚えてもらえず「ジュース三本」と誤植されたこともあった。

自身が引揚者であり、護憲派としても知られている。

目次

[編集] 来歴・人物

満州奉天市(現・中国遼寧省瀋陽市)から小学生の時に引き揚げる。中学2年の時、父が心臓病で急死。学業は優秀で大阪府立市岡高校に首席で入学。父の死後、医師である叔父の勧めで大阪大学医学部を受験する予定だったが、演劇や恋愛に熱中して学業成績は300人中126番に低下。高校2年の時、演劇部で自ら主演・演出した芝居が大阪府高校演劇コンクールで1位入賞。これを期に俳優志望となり、俳優座養成所の入所試験を受けたところ、12倍の競争率を突破して合格。1953年、3年生の5月に高校を中退して上京し、第5期生として俳優座養成所に入所。

しかし学費や生活費を稼ぐためのアルバイトに追われ、なおかつ大阪弁が抜けなかったことによるコンプレックスも災いして養成所を2年で中退。その後テイチクレコードの新人歌手コンクールに応募したところ、200倍の競争率を突破して合格。月給6800円でテイチクの専属歌手となり、ディック・ミネ三波春夫の前座を務める。テイチクからはフランク永井ビクター)の対抗馬として売り出されていたが人気が出ず、地方巡業など歌手として13年間の下積み生活を送る。その間、大学入学資格検定大検)に合格する。

1960年3月1日憲子夫人と結婚。生活のため横浜のナイトクラブ「ナイトアンドデイ」の専属歌手となる(この時の後輩に無名時代の青江三奈がいた)。30歳を過ぎて人気が落ち始めた頃、新聞広告を見て文芸同人誌に小説『装飾音符』を発表、この作品が『新潮』に転載される。これを機に文芸志望へ転じ、シナリオ研究所に研究生として入所。半年後、昭和43年(1968年)、処女作『アダムの星』で第18回新人映画シナリオコンクールに準入選を果たす。この作品が映画監督野村芳太郎の目にとまり、ナイトクラブ歌手と二足の草鞋を履きながら野村に師事。34歳のとき映画『夕月』で脚本家としてデビュー。1983年には脳腫瘍で入院したが生還し、現在、映画監督、舞台演出小説随筆なども手がけている。

1992年から1993年にかけて、元妻憲子の著書『仮面夫婦』(祥伝社)『夫婦戦争』(現代書林)によって家庭内暴力[1]や動物虐待[2]や不貞を暴かれ、また『春の歩み(或る美青年)』と題する女性遍歴ノートの中で自ら性交した女性たち(1952年から1970年まで173人に及ぶ)の容姿や「器械」(性器)を「65(点)」「A級」「B級」「C級」「ベタベタと、濡れ過ぎるやうな、ダラシない性器」[3]「踏みあらされし、砂川町のタンボの如き局所」[4]などと詳細に批評・採点し、なおかつ足に障害のある女性を抱いた経験について「興味の中心は、この女が×××(引用者註、足が悪いことの表現) であると云ふ一事に尽きた。後は、只もう、不潔感と、後悔の念で、ツバを吐きかけたくなった。二度とこの女の顔は思ひ出したくない。不愉快な思ひ出である。××(引用者註、前歯の形に関する慣用語) で、×××(引用者註、足が悪いことの表現) で、クビに大きな傷痕のある女」[5]「×××(引用者註、足が悪いことの表現) は良し──と云ふ格言?は脆くも潰された。×××は所詮×××なり、伝説を信ずる勿れ」[4]などと差別的な記録を残していたことが明らかにされてスキャンダルとなった。このため50本以上の講演をキャンセルされ、NHKの番組出演も降ろされるなどの損害を受ける。このため、1992年名誉毀損で典子と祥伝社を刑事告訴。1993年には典子と祥伝社に1億3712万9823円の損害賠償を求めて民事提訴した。民事については、1994年、被告側が500万円の和解金を支払うことで解決。しかし離婚については金銭面で折り合いが付かず、2000年2月にようやく離婚成立となった[6]。典子との離婚が成立した直後、27歳下の元国際線スチュワーデスと再婚[6]

長男は俳優山下規介。弟の山下六合雄(やました くにお、1945年5月29日 - )にも脚本や作曲を手がけた作品がある。

愛煙家としても知られ、昨今の公共の場所の禁煙に対し、「せめて70歳以上は、いつどこで喫煙してもよいと、大目にみてくれるとありがたい」と朝日新聞の投書欄[7]に投稿している。

[編集] 主な作品

[編集] 脚本

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[編集] 舞台

[編集] ゲームソフト

  • 『ワンチャイコネクション』(1994年

[編集] 小説

[編集] 作詞

[編集] その他

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

  1. ^ 『夫婦戦争』p.206によると、まだよちよち歩きだった長女が三木の妹の形見のランドセルで遊んでいると、三木はうるさいと言ってそのランドセルを長女に投げつけた。その結果、長女は唇を切って6針縫う重傷を負った。
  2. ^ 『夫婦戦争』pp.201-204によると、三木は牝の柴犬を飼っていたとき、発情期に牡犬が寄ってくるのをうるさがって「臭いでオスが寄ってくるのだから、石油をかけて臭いを消せばこなくなる」と言ってバケツ2杯の石油をその柴犬の下半身にかけて火傷を負わせ、果ては半身不随にしてしまったことがある。その3年後、三木はその柴犬を引越しのついでに独断で捨ててしまった。
  3. ^ 『夫婦戦争』p.113
  4. ^ 『夫婦戦争』p.117
  5. ^ 『夫婦戦争』pp.117-118
  6. ^ 福田ますみ「ジェームス三木・山下典子 『仮面夫婦』の『春の歩み』壮絶バトル」(『新潮452006年9月号、p.67)
  7. ^ 朝日新聞2008年8月4日朝刊

最終更新 2009年11月12日 (木) 20:37 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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