ジグミ・シンゲ・ワンチュク
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| ジグミ・シンゲ・ワンチュク | |
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| ブータン国王 | |
ジグミ・シンゲ
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| 在位 | 1972年7月21日 - 2006年12月14日 |
| 戴冠 | 1974年6月2日 |
| 出生 | 1955年11月11日(54歳) ティンプー県、ティンプー デチェンチョリン宮殿 |
| 配偶者 | ドルジ・ワンモ |
| テシャリン・ペム | |
| テシャリン・ヤンドーン | |
| シャンゲイ・チョーデン | |
| 子女 | ジグミ・ケサル・ナムゲル ジゲル・ウゲン Khamsum Singhye ジグメ・ドルジ ウゲン・ジグメ Chimi Yangzom Sonam Dechen |
| 王家 | ワンチュク家 |
| 王朝 | ワンチュク王朝 |
| 父親 | ジグミ・ドルジ・ワンチュク |
ジグミ・シンゲ・ワンチュク(Jigme Singye Wangchuck, 1955年11月11日 - )は、ブータンの第4代国王。1972年に16歳で即位。開明的な国王として知られ、強大な国王の権限を徐々に縮小する民主化政策を進めている。ジグメ・シンゲ・ワンチュク。ラテン文字転写表記は 'Jigs med Seng ge dBang pyug。
[編集] 略歴
1955年11月11日ティンプーのデチェンチョリン宮殿にて誕生。インドと英国に数年間留学の後、国王の為にパロに設立されたウゲン・ワンチュク・アカデミーで、少数の学友と共に 内外から厳選された教師団による教育を受ける。 1971年に計画委員会議長に就任。1972年には、実質上の皇太子となるトンサ・ペンロプに任命された。
同年7月21日、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクが外遊先であるケニアのナイロビで崩御したため、急遽第4代国王に即位。この時点で彼はまだ16歳であり、世界最年少の国王として話題となった。2年後の1974年6月2日、戴冠式を迎えた。1988年10月31日に結婚。名門の出身ウギェン・ドルジ氏と、同じく名門の出であるトウジ・ザム夫人の間の6人姉妹のうち、次女~五女の4姉妹を娶り、5男5女をもうける。1999年には戴冠25周年を迎えた。
2006年12月9日に勅令を出し、14日に長男のジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクに譲位した。
[編集] 政策
統治面においては、その手腕を大いに発揮し、第3代国王の時代から進められてきた、国際社会参画と国内政治改革を一層推進した。内政に関しては、保守的な面と革新的な面を併せ持ち、国民総生産にかわる「国民総幸福量」(GNH)という概念を提唱したことでも有名である。
革新的な面としては、1998年以降の国王権限の縮小を挙げる事ができる。行政の実権の返上と国家元首への専念を基本とし、国民議会に国王不信任決議の権利を付与し、国王定年制を提案、閣僚任命権を放棄し国会議員による無記名信任投票とし、任期を5年に定め、内閣を刷新した。また、行政の実権を担う首相職を設立し、各閣僚が任期1年の輪番制で首相を担当するというシステムを導入した。また、急速な近代化を憂い、「急ぎ過ぎない開発」を主眼とした自然環境の保護を進めている。 なお、国王の権限縮小は第3代国王の時代から徐々に実施されてきており(例えば1968年の国民議会議決拒否権の放棄、1969年の国民議会への国王不信任決議権付与)、形式上は絶対君主国家ではなくなった。
一方、保守的な面としては、国家的アイデンティティの補強が挙げられる。1985年の公民権法改正以降、急速な西欧化に苦慮した政府は、1989年に「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系の民族衣装着用の義務付け、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などを実施した。これに不満を持ったネパール系住民が1988年以降反王制運動や反政府運動を繰り広げ、後に国外流出を招き、「南部問題」としてブータン政府を苦悩させた。
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最終更新 2009年8月21日 (金) 23:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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