ジャック・シラク
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| ジャック・シラク Jacques René Chirac |
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| 任期: | 1995年5月17日 – 2007年5月16日 |
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| 任期: | 1995年5月17日 – 2007年5月16日 |
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| 任期: | 1986年3月20日 – 1988年5月10日 |
| 元首: | フランソワ・ミッテラン大統領 |
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| 任期: | 1974年5月27日 – 1976年8月26日 |
| 元首: | ヴァレリー・ジスカール・デスタン 大統領 |
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| 出生: | 1932年11月29日(76歳) パリ |
| 政党: | 共和国民主連合(UDR) 共和国連合(RPR) 国民運動連合(UMP) |
| 配偶: | ベルナドット・シラク |
ジャック・ルネ・シラク( Jacques René Chirac, 1932年11月29日 - )は、フランスの右派政治家。国民運動連合所属。
ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領、及び第1次コアビタシオンでフランソワ・ミッテラン大統領の下で首相(在任・1974年5月27日-1976年8月26日、1986年3月20日-1988年5月10日)、フランス第五共和政第5代大統領及びアンドラ公国共同元首(在任・1995年5月17日-2007年5月16日)。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 大統領になるまで
1932年11月29日、フランスの首都パリで誕生した。父親は銀行員で、後に飛行機会社の役員になった。
リセ・ルイ=ル=グランを経て1954年にパリ政治学院を卒業。在学中にハーバード大学サマースクールに留学経験がある。1956年には軍隊に召集され、将校としてアルジェリア戦争に従軍、負傷した。1959年フランス国立行政学院を卒業して、1959年国家公務員となり、1962年まで会計検査官を務めた後、ド・ゴール大統領の下で首相を務めるジョルジュ・ポンピドゥーの官房に入り、ポンピドゥーの庇護を得、急速に出世した。この頃から旺盛な行動力には定評があり後に「ブルドーザー」の異名を得ている。また、ポンピドゥー首相官房で一緒だったひとりに後に首相となるエドアール・バラデュールがおり、当時から「動のシラク、静のバラデュール」と称され将来を嘱望された存在であった。
1967年にはポンピドゥーの勧めで国会議員選挙に出馬して当選、同年社会問題相として初の閣僚を経験した。その後も閣僚ポストを歴任、ポンピドゥー大統領の下で1972年農相、1974年内相と重要閣僚を務めた。ポンピドゥー没後、ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領の下で1974年5月から1976年まで首相を経験した。同年、ドゴール主義政党の共和国民主連合を継承して、共和国連合を創設し、総裁となる。1986年には再び首相に返り咲く。1977年から1995年まで長くパリ市長を務めた。この間、1981年と1988年に大統領選挙に出馬したが、いずれも社会党のフランソワ・ミッテランに敗れている。
[編集] 大統領就任
[編集] 核実験の強行
1995年5月の大統領選挙でようやく社会党のリオネル・ジョスパンを破ってエリゼ宮殿(大統領府、パリ)の主となった。当選直後、まず包括的核実験禁止条約 (CTBT) の締結を控え、核兵力の確認と誇示のために、南太平洋のムルロア環礁で数度の核実験を強行したが、「駆け込み実験」だと世界的な非難を浴びた(この時、イグノーベル平和賞を受賞)。また、同時に地下核実験を行った中華人民共和国とは共同歩調をとり、両国の関係強化に努めた。
[編集] 再選
2002年の大統領選挙にもジョスパンや極右のジャン=マリー・ル・ペンを破って再選された。2001年のアメリカ同時多発テロ報復(アフガン侵攻)には賛同したが、2003年のイラク戦争では対応が揺れた。直前まで空母シャルル・ド・ゴールを米軍と共にペルシャ湾に派遣、いつでも空爆に参加できるよう準備していたが、反戦世論の高まりとともに反対に転じ、早くから反対を表明していたドイツのゲアハルト・シュレーダー首相と共同歩調を取った。シュレーダーが首相に就任して以来、独仏両国は急速に接近し、欧州連合 (EU) の中核国としての威厳を示すと同時に、頻繁に両国を往来することで、独仏の政治統合を内外に誇示し、東欧各国のEU加盟実現と欧州憲法の発効を急いだ。
[編集] 欧州統合の失敗
しかし、この急速な欧州統合政策は、東欧からの労働力流入と外国人の増加による社会文化の変質から国民の不安を招き、2005年の国民投票で欧州憲法が拒否される結果となった。盟友シュレーダーも、すぐ後の総選挙でわずかに敗北、首相を退任したため、両首脳が進めた欧州統合政策は行き詰まった。また、パリへの2012年夏季オリンピック招致を目指し、積極的にロビー活動を行ったが、7月に宿敵イギリスのロンドンに敗れる。これに伴って、国民からの求心力が急落した。さらに10月には各主要都市で黒人やアラブ系の若者を中心にパリ郊外暴動事件が起こり、戒厳令を発する事態にまで陥った。
この問題は彼の責任というよりも、長年にわたる移民の同化政策が破綻した結果である。また2006年3月には若者向け雇用促進策「初期雇用契約 (CPE)」を核とする機会均等法を制定したところ、これに反対する市民らにより国内で暴動が多発し、各企業や公共機関によるストライキも多発。4月にはCPEの事実上の撤回を余儀なくされ、政治的に大きなダメージを負い、同月の調査では第五共和制下の大統領として最低の支持率を記録した(29%、LE JOURNAL DU DIMANCHE紙)。
[編集] 引退
欧州憲法の国民投票失敗以後は急速に求心力が低下していたため、当初意欲を見せていた2007年大統領選における三選は困難との見方が広まっていった。保守派の重要候補であるニコラ・サルコジとの関係は1995年の大統領選挙以来冷え込んでいるため、自ら出馬するかどうかが焦点となっていたところ、2007年2月に「(今までとは)別の形で国に貢献したい」とメディアに語り引退を表明。3月にはサルコジを支持すると発言した。2007年5月16日に退任。
[編集] 大統領退任後
[編集] 疑惑
フランスの週刊紙カナール・アンシェネはシラクが大統領を退任した直後の2007年5月23日に、シラクが日本の旧東京相和銀行(現東京スター銀行)に巨額の隠し口座を持っていたとされる問題で、近くフランス捜査当局から事情聴取を受ける可能性が高いと報じた。5月16日に退任したシラクは1か月後に訴追免除の特権が切れたため、同年7月19日に聴取された。この疑惑にシラク本人はマスコミの取材に対し、「真実と名誉のために戦う」と宣言。「事件に関する好き勝手な発言は認めない。(有罪と立証されるまでは無罪であると定めた)推定無罪の原則を踏みにじるものだ」と述べた。
また、2007年11月にシラクのパリ市長時代の職員架空雇用疑惑に関する捜査が開始された。シラクはパリ市長を務めていた際、自身の政党(共和国連合)の党員をパリ市の「架空職員」として雇用し、給与を党の資金に流用したとされる。2009年10月30日、この疑惑によりシラクは公金横領と背任の罪でパリの司法当局に起訴された[1][2]。 第五共和制下のフランスで、大統領経験者が刑事事件に絡んで訴追されたのは初めてとなる。
[編集] 財団
大統領退任後は持続可能な開発と文化間・文明間対話のために財団を創立した。名前は「シラク財団」でジャック・シラク前大統領はその財団の理事長を勤めている。このシラク財団は当面の優先助成分野として、「良質な医薬品へのアクセス」、「水へのアクセス」、「森林破壊・砂漠化対策」、「絶滅が危惧される言語・文化の保護」の4つを掲げている。
[編集] 人物と業績、評価
シラクを語るには、シャルル・ド・ゴールとジョルジュ・ポンピドゥを抜きにすることはできない。シラクもド・ゴール主義者のひとりとしてフランスの国益、フランスの栄光が行動の指針となっていた。
政治の師であるポンピドゥー大統領はシラクの旺盛な行動力を「自宅からエリゼ宮までトンネルを掘って欲しいと言えば、翌日まで完成させて出口で待っているだろう」と表現している。その一方で「目標に向かってしゃにむに走る男だが、成熟が課題」と評した。
シラク評では、社会党大統領として政敵であり、コアビタシオンでは大統領と首相として政権を共にせざるを得なかったフランソワ・ミッテランも興味深い考察をいくつか残した。孤高の皮肉屋であったミッテランはシラクを「自分が何故回っているのかも知らずに回り続けるコマのような人間」「何というエネルギー、何という行動力、何という快活さ、惜しむらくは、冷静な判断力に欠ける」と行動力に比して内省的な思考の不足を述べた。一方でミッテランはシラクの力量を正当に評価してもいる。1988年大統領選挙に惨敗し失意の中にあったシラクをミッテランは「戻ってくるだろう」と、その行動力を発揮して権力の中枢に復権することを予言した。
大統領時代の功績としてあげられるのは、イラク戦争に反対したことである。アメリカ主導によってイラク戦争が行われようとした際、側近のド・ビルパン外相らを通じて開戦に反対した。シラクおよびフランスの意図はアメリカの一極支配、単独行動主義への警戒・反発や高まる反戦世論への反応という側面が強かったが、結果としてイラク戦争後の混乱や大量破壊兵器が存在しなかったことにより、フランスの良識を広く知らしめることになったという評価がある一方、その後しばらく米仏関係は冷え込み、フランスの影響力を削ぐことになったという批判もある。
シラクはもともと親米的な人物として知られており、2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降は対米協力を強力に推し進めた。イラク戦争でも、実際の開戦までの過程では、米軍と共にペルシャ湾に艦船を派遣して空爆に備えたり(上述)、「二段階攻撃論」を主張するなど、当初から開戦反対を唱えていたドイツとは異なり米国との共同歩調を模索していたのも事実であり、それだけに直前になって開戦反対に回ったことに対して、米国からは「裏切られた」との反応が少なくなく、米仏関係は極度に悪化した。このためアメリカとの関係改善が大きな政治課題として残されたが、任期中には本格的な改善に至らず、対米関係修復を志向するサルコジの台頭を招いた。
国内問題では、1995年7月16日大統領就任直後に第二次世界大戦中、フランス警察が行ったユダヤ人迫害事件であるベルディブ事件に対して、追悼式典に出席した上で、始めてフランス国家の犯した誤りと認めた。自ら総裁を務める共和国連合を中心とする右派にも波紋を拡げる演説ではあったが、国民の多数がシラクの演説を支持した。
最大の政治的失点は2005年欧州憲法条約の国民投票における否決である。フランスの欧州憲法採択の手法としては国民投票と議会における批准という二つの選択肢があったが、シラクはリスクの高い国民投票に賭け、失敗した。このシラクの失敗はシラクの政治的威信の低下とともに欧州統合の失速、欧州統合におけるフランスの威信低下をも招いたという点で致命的であった。
若者を中心とする失業、移民の増加による多文化社会とそれに伴う社会的亀裂も、シラクは修復することができなかった。もとよりシラク個人の責任ではないが、治安の悪化は移民排撃を主張するルペン率いる国民戦線や、寛容よりは治安維持を重視するサルコジの台頭を招きフランス社会は重大な岐路に立っていると言えよう。
[編集] 家族
ベルナデット・ショルドン・ド・クルセル夫人との間に2人の娘があり、そのひとりクロード・シラクは長年、大統領の広報担当アシスタントを務めている。また、インドシナ系難民の養女がいる。
[編集] 親日家
ジャック・シラクは親日家として有名で、日本文化に対する造詣も深い。幼少期にパリの東洋美術館、ギメ美術館を観覧し東洋美術に関心を持ったのが日本へ関心の始まりである。学生時代には『万葉集』を読み、その後も遠藤周作など日本文学を愛読する。温泉も好きで、来日時には、しばしば入浴する。また、日本古美術の膨大なコレクションを所蔵する。来日時、首相官邸に展示していた土偶を埴輪と説明した通訳をたしなめた。以来「土偶と埴輪を区別できる親日家」と呼ばれる。さらに、愛犬の名前に「スモウ」とつけるほどの大相撲の大ファンでもある。駐日大使館の重要な任務の一つは、エリゼ宮に大相撲の結果を場所中毎日報告することだったとさえいわれる。1999年1月に小渕恵三首相(当時)が訪仏した際、貴乃花が明治神宮に奉納した綱と軍配を贈ると、大喜びしたというエピソードもある。また、エリゼ宮を訪問する日本の要人に「源義経とチンギス・ハーンの関係」などを話題にして驚嘆させた。2005年3月26日の来日は公私合わせて45回目になるが、真っ先に大阪で開かれている大相撲春場所を訪れ、27日に愛知万博を見た後、28日に天皇、首相と会見した。
外交政策的にも日本を重視した姿勢が見られた。2003年11月29日にイラクで日本人外交官2人が殺害された事件では、翌30日に「大変な悲しみを覚える」「困難な事態に日本と連帯して取り組んでいきたい」とする書簡を小泉純一郎首相に出した。2005年4月25日に発生したJR福知山線脱線事故では、翌26日に「事故を知り、深い悲しみを感じている。遺族に対して私から、仏国民からお悔やみを申し上げる」と小泉首相に弔意を表明した。2006年9月6日に悠仁親王が誕生した際には、英国女王エリザベス2世と並びいち早く今上天皇に祝賀のメッセージを送った。2007年1月12日には、安倍晋三首相との会談でシラクは「日本のいない安保理は馬鹿げている」と日本の常任理事国入りへの支持と協力を約束した。
日本テレビ系番組『第9回アメリカ横断ウルトラクイズ』(1985年)では、当時パリ市長だった彼の招請によりパリが決勝地となった(番組内では自身もVTR出演をした)。また1986年に行われた大相撲のパリ公演は市長として自ら主催し、1995年はフランス大統領として、またも自ら主催者になった。
[編集] 脚注
- ^ 「シラク前仏大統領を起訴 パリ市長時代の「職員架空雇用」」 共同通信社、2009年10月30日。2009年10月31日閲覧。
- ^ 「シラク前大統領起訴 パリ市長時代の架空雇用事件で」 産経新聞、2009年10月31日。2009年10月31日閲覧。
[編集] 関連項目
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arz:جاك شيراك
最終更新 2009年11月8日 (日) 22:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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