ジャング・バハドゥール・クンワール
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ジャング・バハドゥール・クンワール (Jang Bahadur Kunwar、またはJung Bahadur 1816年6月18日 - 1877年2月25日)は19世紀、ネパールの軍人、政治家。1848年5月1日にジャング・バハドゥール・ラナ Jang Bahadur Ranaに改名した。
ラナ家の宰相による独裁政権を樹立した。二回にわたって宰相を務めている。その期間は、
本名はビール・ナルシン・クンワールであるが、母方の叔父・マテバール・タパからもらった「ジャング・バハドゥール」で有名になった。
彼は単なる独裁者ではなく、宮廷の内紛をなくしたり、官僚制や法制度を整備するなど、ネパールの近代化に尽くした。ネパール史上もっとも重要な人物の一人であるにもかかわらず、近代の歴史家は100年続いた独裁国家を設立し国民を抑圧し、経済的に最貧国に陥れたとしか評価しない。実際、ネパールの暗黒の歴史を作ったのは彼の従兄弟たちである。
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[編集] 前半生
ジャング・バハドゥールは軍人の家系に生まれた。曽祖父は18世紀に、プリトゥビ・ナラヤン・シャー王に重要な軍事指導者として仕えた。祖父は中国との戦争(1791-1792)でやはり重要な役割を果たしている。父親は宮廷内でラナ・バハドゥール・シャーが暗殺されたとき、即座に暗殺者を殺害した。この功績により、彼は「カジ」の称号を賜り、子孫代々に受け継がれることになった。
ジャング・バハドゥールは1832年、16歳で初陣を飾った。孫のブリムセン・タパによると、彼は仕事を失い財産を減らしたという。彼は数年間、北インドを放浪して歩いた。1840年、ネパールに帰国し砲兵大尉となる。1841年、王のボディーガードとなり、1842年、王宮で「カジ」として仕えることになった。ジャングの母方の叔父、マトバール・シンが権力者に返り咲くと、ジャングは彼とともに出世するが、シンは彼の野心を嫌い、法定相続人の補佐役に左遷した。
[編集] コト虐殺事件
1845年9月ファッテ・ジャング・チャウタリアが首相になると、ジャング・バハドゥールは連立政府の第4位になった。しかし、政治の実権は皇后の秘密の愛人で軍参謀長ガガン・シン・バンダリに握られていた。ジャングは、ガガン・シンに野心のサインを見せることなく、女王に取り入った。ジャングはガガン・シンが持っていた7個連隊のうち3個連隊の指揮官になった。陰謀や反陰謀が繰り返される中、1846年9月14日夜、ガガン・シンは宮廷のバルコニー祈祷中に射殺された。皇后はジャングにただちに全廷臣を王宮警護隊の庭(コト)に集めるよう命じた。皇后の命により、ジャングは部下たちにコト内部にいれ、皇后の命令があるまで出さないよう命じた。このコト内部ではさまざまないきさつの後、首相はじめ多くの廷臣が虐殺された。ジャングと6人の兄弟は生き残り、翌日、皇后の命により、ジャングは首相となる。 殺されて空席となった廷臣の役職には弟たちや親戚をつけた。その2年後、インド王族の子孫であることを表す「ラナ」の姓を名乗ることになる。
[編集] バスニャットの陰謀
皇后・ラクシュミデヴィは、自分の息子を王位に付けることのみ考えていた。クンワールはこれに反対だったので、皇后はクンワールの暗殺を企てた。バスニャットの陰謀―参加者の多くが最後の有力貴族「バスニャット家」に属していた―は裏切りに合い、首謀者は1846年処刑された。 陰謀の背後に皇后がいたことがわかったので、国王と、皇后はインドのバラナシに亡命した。
1845年5月、クンワールはラジェンドラ国王を退位させ、スレンドラ皇太子を王位につかせる。クンワールはスレンドラを操り、自分の一族に権力を集中した。1850年までに、すべての政敵を追放。
1851年、英国を旅行し、近代化の必要性を実感する。
[編集] 近代法の制定
近代化に着手したクンワールはまず、法制度の近代化(民法、刑法、行政法を含む)に着手する。これは1854年、「ムルキ・アイン」という1400ページにわたる大法典として完成した。1856年ジャング・バハドゥールは首相の座を弟に譲る。それと同時に国王は、首相の職をラナ家の世襲とすることを決めた。これが、104年間にわたるラナ家支配の始まりであった。ジャンガ・バハドゥールは1877年死去する。
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年10月14日 (水) 10:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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