ジャン=ピエール・ベルトワーズ
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| ジャン=ピエール・ベルトワーズ | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| フルネーム | ジャン=ピエール・モーリス・ジョルジュ・ベルトワーズ |
| 国籍 | |
| 出身地 | 同・パリ |
| 生年月日 | 1937年4月26日(72歳) |
| F1での経歴 | |
| 所属チーム | マトラ, BRM |
| 活動時期 | 1967 - 1974 |
| 出走回数 | 85 |
| 優勝回数 | 1 |
| 通算獲得ポイント | 77 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 8 |
| ポールポジション | 0 |
| ファステストラップ | 4 |
| F1デビュー戦 | 1967年アメリカGP |
| 初勝利 | 1972年モナコGP |
| 最終勝利 | 1972年モナコGP |
| 最終戦 | 1974年カナダGP |
| タイトル | 0 |
ジャン=ピエール・モーリス・ジョルジュ・ベルトワーズ(Jean-Pierre Maurice Georges Beltoise, 1937年4月26日 - )は、フランス人の元レーシング・ドライバー。1965年フランスF3、1968年F2チャンピオン。
目次 |
[編集] プロフィール
元々は2輪でレースのキャリアをスタートさせたが、その後4輪に転向。
1964年、スポーツカーレース参戦時における大クラッシュで負傷。これ以後、右肘を曲げることが出来なくなるハンディを抱えることになる。しかし、翌1965年にフランスF3でチャンピオンを獲得するなど、以後も活躍を見せる。
[編集] F1
[編集] マトラ時代
1966年第6戦ドイツGPにおいて、マトラのF2マシンでF1に出走。8位で完走を果たしている。翌年は3戦にマトラのF1マシンでスポット参戦。第10戦アメリカGPで予選を通過し、F1マシンでのデビュー戦となった。
1968年より本格参戦、開幕戦の南アフリカGPで6位に入り初の入賞を果たすと、続くスペインGPでも5位に入賞、この際に初のファステストラップも獲得している。また第5戦オランダGPでは2位に入り、初の表彰台を獲得した。
その後も1971年までマトラから参戦。1970年までは何度も入賞し、優勝こそ無いもののシーズンに数回表彰台にのぼる活躍を見せていた。しかし、1971年は6位入賞1度の不本意な成績に終わり、シーズン終了後BRMに移籍する。
[編集] BRM時代
BRMの初年度となった1972年、豪雨の第4戦モナコGPにて予選4位から初優勝。スタートから終始トップを走り、2位のジャッキー・イクスに28秒差をつけての完全勝利だった。しかしシーズンを通しては、モナコGP以外は表彰台はおろか、入賞すら無しという不本意な結果に終わる。
1973年も入賞3回のみであり、表彰台は無しという結果に終わる。1974年は第3戦南アフリカGPで2位に入り、久々に表彰台にのぼるが、他の入賞は5位2度のみという結果であり、最終戦のアメリカGPでは予選落ちを喫している。
結局、この年をもってF1からは姿を消すこととなった。シリーズ最高位は、マトラ時代の1969年の5位である。
[編集] F1後
F1後も、スポーツカーレースでは活躍。1980年代にはプジョー505GTIを駆ってフランスのツーリング・カー選手権で多くの勝利を挙げた。また、ラリーにも参戦していたこともある。
[編集] 補足
- マトラ・チームと縁が深い。スポーツ・カーレースにおいては同チームで実績を残した他、前述のようにF1でも長年マトラを駆っていた。
- 1971年のブエノスアイレス1000kmレースにおいて、トラブルでマシンがストップした後、ピットが近かった為にマシンをコース上で押してピットまで運ぼうとしていた。しかし、危険と避難を促されその場を離れた後、イグナツィオ・ギュンティがコースに残されていたベルトワーズのマシンに激突。
- 炎上したマシンに取り残されたギュンティは焼死し、ベルトワーズは「無謀な行為によってギュンティを死に追いやった」としてアルゼンチン警察に逮捕されてしまった。その後保釈金を払い、すぐに開放され帰国している。
[編集] 関連項目
最終更新 2009年10月23日 (金) 06:16 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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