ジュディ・ガーランド
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| ジュディ・ガーランド Judy Garland |
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![]() 『オズの魔法使』(1939)より |
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| 本名 | Frances Ethel Gumm | ||||||
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| 生年月日 | 1922年6月10日 | ||||||
| 没年月日 | 1969年6月22日(満47歳没) | ||||||
| 出生地 | ミネソタ州 | ||||||
| 国籍 | |||||||
| 配偶者 | デヴィッド・ローズ (1941–1944)ヴィンセント・ミネリ (1945–1951) シドニー・ラフト (1952–1965) マーク・ヘロン (1965–1967) ミッキー・ディーンズ (1969) |
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| 家族 | ライザ・メイ(娘) ローナ(娘) ジョーイ(息子) |
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ジュディ・ガーランド(Judy Garland、1922年6月10日 - 1969年6月22日)は、アメリカ合衆国の女優、歌手。
女優のライザ・ミネリは、2度目の夫、ヴィンセント・ミネリとの子。同じく女優のローナ・ラフト(Lorna Luft)は、3度目の夫であるシドニー・ラフト(Sidney Luft)との子。
目次 |
[編集] 生涯
ミネソタ州出身。本名はフランシス・エセル・ガム(Frances Ethel Gumm)。父親がボードビリアン、母親がピアニストの家庭で3人姉妹の末っ子として生まれる。芸名の「ジュディ」は彼女が好きだった歌のタイトルから、「ガーランド」はあるボードビリアンが彼女たち姉妹を評して「ガーランド(花輪の意味)のようだ」と言ったことから付けたと言われている。
20世紀前半の、アメリカのポピュラー音楽の歴史は、黒人音楽を白人が受容していく歴史といえる。当時の大物白人男性歌手で黒人的な発声を最初に大幅に取り入れたのは、アル・ジョルソンとエディ・キャンターであり、ジュディ・ガーランドは、最初に大幅に黒人的な発声を取り入れた白人女性のミュージカル・スターである。生前、ジュディ・ガーランドは、しばしば「女アル・ジョルソン」と呼ばれたが、故のないことではなかった。彼女の一生は、女性ジャズ歌手のビリー・ホリデイや女性ロック歌手のジャニス・ジョプリンのように、麻薬を含むさまざまな薬物と奔放なセックスに彩られた破滅型のものだったが、ビリー・ホリデイやジャニス・ジョプリンの場合と同様に、生き急いだことが彼女の魅力の一部になっている。
1929年、2人の姉と共にガム・シスターズの一人としてデビュー。1935年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と専属契約。契約時、ディアナ・ダービンかジュディかどちらか一方と契約を結ぶことになっていた。社長のルイス・メイヤーはジュディの方を追い出すという意味で「デブの方を追い出せ」とプロデューサーのアーサー・フリードに命じた。ところが、キャスティング・カウチ(セックスをした相手に役や契約を回すこと)で悪名高かったアーサー・フリードは、当時13歳のジュディと性的関係をもっていたため、間違ったふりをしてディアナ・ダービンを追い出し、ジュディと契約を結んだ。
契約後、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーはかなり肥満気味の13歳のジュディに極度のダイエットを命じた。13歳にしてダイエット用の薬として覚醒剤(アンフェタミン)を常用するようになる。『オズの魔法使い』を含む、すべてのメトロ・ゴールドウィン・メイヤーのミュージカルでジュディは元気一杯で歌い踊っているように見えるが、ビリー・ホリデイがアヘンやコカインで、ジャニス・ジョプリンがヘロインで陶酔して歌っているのと同様に、実は覚醒剤の使用により「ハイ」の状態で歌っていた。
1939年にミュージカル『オズの魔法使』で、大ブレイクする。当初『オズの魔法使』のドロシー役は、人気子役だったシャーリー・テンプルが演じるはずが映画会社間でトラブルになったため、代役としてジュディが急遽演じることになった。この役でアカデミー子役賞(Academy Juvenile Award)を受賞する。結果『オズの魔法使』はジュディの才能を大々的に世に知らしめるものとなった。一方で余りにも人気が出たため彼女のスケジュールは過密となってしまい、この映画の公開直後から覚醒剤(アンフェタミン)に加えて睡眠薬(セコナル)を常用するようになる。現在から見ると信じられないことだが、当時は睡眠薬も覚醒剤も、害が十分に分かっておらず、MGM社はセコナルとアンフェタミンをジュディに服用するよう勧めていた。
それ以降、仕事面ではミッキー・ルーニーとコンビを組んだ裏庭ミュージカルシリーズ、『若草の頃』、『ハーヴェイ・ガールズ』、『イースター・パレード』といったMGM映画の大作に次々と主演するようになり、全盛期を迎える。しかし、一見清純で明るく健康そうな表面的なイメージとは裏腹に、1940年代初頭から神経症と薬物中毒が少しずつ確実に表面化していった。やがて1940年代の後半のある時期からは、神経症と薬物中毒による精神の不安定が仕事にも深刻な影響を与えるようになり、スタジオへの遅刻や出勤拒否を繰り返すようになる。1947年に、ジュディ自身が「私の最初の精神病院入院」と呼ぶサナトリウムへの長期入院や自殺未遂事件を起こす。
この間、マネー・メイキング・スターのランキングで、1940年10位、1941年10位、1945年8位という偉業を成し遂げている。
1949年に映画『アニーよ銃をとれ』の撮影中に明白な精神異常状態になったジュディはアニー役から下ろされ、また同年に計画されていた『ブロードウェイのバークレー夫妻』でも主役を降ろされた。ジュディの代役として起用されたのが、同作の主演のフレッド・アステアとかつてRKOでコンビを組んでいたジンジャー・ロジャースである。
1950年の『Summer Stock』(日本では劇場未公開)を最後にMGMを解雇されることとなる。ショックを受けた彼女は再び自殺未遂事件を起こし、翌年にヴィンセント・ミネリと離婚。1952年、シドニー・ラフトと3度目の結婚をし、彼や友人のビング・クロスビーたちの勧めに従ってハリウッドを離れ、ロンドンやニューヨークでのコンサートに拠点を移す。結果としてこれが成功し、ジャズ歌手としてのジュディの歌唱力は人々に再認識される。
1954年には再び銀幕に復帰し『スタア誕生』でアカデミー主演女優賞にノミネートされる。しかし、ワーナー・ブラザーズは彼女の『スタア誕生』撮影の期間における遅刻や出勤拒否に怒りをあらわにしていた。結局、前評判を覆す形でグレース・ケリーに敗れ、受賞はならなかった。彼女の私生活は再び荒れはじめ、数度の自殺未遂を起こす。銀幕からも去り、コンサートやショウの分野で活動するようになる。1961年、彼女は7年ぶりに銀幕に復活。『ニュールンベルク裁判』でバート・ランカスターやマレーネ・ディートリッヒと共演し衰えない演技力を見せた。この作品でアカデミー助演女優賞にノミネートされた。また同年行ったカーネギー・ホールでのコンサートを収録したライブ・アルバムはグラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、ジュディ自身も最優秀女性歌唱賞を受賞する。
だがその後、薬物中毒と神経症は悪化。逮捕されることはなかったものの、FBIはジュディを監視していた。後に、情報公開法により膨大なFBIの監視記録が公表されている[1]。
1963年を最後に銀幕から姿を消し、1965年にはシドニー・ラフトとも離婚。その後、2度結婚、結果として生涯に5回結婚した。1969年6月22日に睡眠薬の過剰摂取で死去した際、『オズの魔法使』でカカシを演じたレイ・ボルジャーは彼女の死に対して「もう彼女は疲れてしまったのだ」とコメントし、2度目の夫ヴィンセント・ミネリとの間に生まれた長女ライザ・ミネリは、「母はハリウッドが大嫌いだった」「母を殺したのはハリウッドだ」と発言し、ハリウッドではなくニューヨークで葬儀を執り行い、ニューヨーク郊外の墓地にジュディを埋葬した。
彼女は莫大な収入を浪費してしまっており、400万ドルの借金だけが残り、埋葬の費用にも事欠いた。ジュディを知る関係者で彼女の死に驚くものは一人もおらず、むしろ「予想より長くもったな」というのが大方の感想だったという。没年齢は47歳だが、長年にわたる薬物・アルコール中毒と荒淫の結果、遺体は老人のような有様だった。葬儀の時に出席者の間で、「ジュディは今回だけは遅刻をしなかったな」といういささか不謹慎なジョークが囁かれたという。
ジュディは性体験が豊富であり、MGM時代プロデューサー全員と性的関係を結んでいたことは有名である。またあらゆるタイプの性体験を楽しんでいた[2]。彼女の伝記作家のデイヴィッド・シップマンによれば、ジュディは最初の夫で作曲家のデヴィッド・ローズに「ある種のセックスをするよう求め」たところ、夫が「そんな変態的なことをするなんて…」とショックをうけ、それが離婚の原因になったとのことである[3]。また、同性愛に対しても全くこだわりがなかった。ジュディは同性愛者に対して理解を示していた数少ない有名人の一人であり、彼らのアイドル的な存在でもあった。ジュディ自身もバイセクシュアルだった。彼女のレズビアンの相手の中には、児童書『エロイーズ』シリーズ(井上荒野の和訳あり)の著者ケイ・トンプソンが含まれる[4]。ちなみに、ジュディの父親と二度目の夫ヴィンセント・ミネリも両性愛者だった[5]。そのために、彼女の死のニュースは同性愛者のコミュニティに大きな悲痛をもたらした。史上初のゲイの暴動であるストーンウォールの反乱の原因の一つは、彼女の死によるショックが影響していたとも言われている。同性愛者の隠語で「ドロシー(=ジュディ)のお友達」とは同性愛者を指し、同性愛解放運動の場では必ずと言っていいほど「虹の彼方に」の曲がかかる。また、「虹の彼方に」にちなみ「レインボー・フラッグ」(虹の6色)は同運動の象徴とされている。
なおアメリカ合衆国郵政公社(US Postal Service)は、過去に彼女をデザインした記念切手を発売しており、1990年3月23日に発行されたアメリカクラシック映画切手の4種のうち1種には、オズの魔法使いでドロシ-役に扮したものが描かれている。もう一つは2006年6月10日に俳優シリーズとしてジュディの肖像画切手が発行されている。
[編集] 主な出演作品
- 1935年 - サンタバーバラ祭
- 1937年 - 踊る不夜城、フットボール・パレード
- 1938年 - 初恋合戦
- 1939年 - オズの魔法使、青春一座
- 1940年 - ストライク・アップ・ザ・パンド
- 1941年 - 二人の青春、美人劇場
- 1942年 - フォーミー&マイガール、ブロードウェイ
- 1943年 - ガール・クレイジー
- 1944年 - 若草の頃
- 1946年 - ハーヴェイ・ガールズ、ジーグフェルド・フォーリーズ、雲晴れるまで
- 1948年 - イースター・パレード、踊る海賊、ワーズ&ミュージック
- 1950年 - サマーストック
- 1954年 - スタア誕生(A Star Is Born)
- 1961年 - ニュールンベルグ裁判
- 1963年 - 愛の奇跡、私は歌い続けた
[編集] 伝記映画
- ジュディ・ガーランド物語
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
- ジュディ・ガーランド - Internet Movie Database (英語)
- Judy Garland インターネットラジオチャンネル ―Judy Garlandの音楽を中心に放送(Pandora)
最終更新 2009年11月23日 (月) 13:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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