ジョセフ・P・ケネディ
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| ジョセフ・P・ケネディ
Joseph Patrick Kennedy
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| 生年月日 | 1888年9月6日 |
| 没年月日 | 1969年11月18日 |
| 前職 | 実業家 |
| 所属政党 | 民主党 |
| 親族 | ジョン・F・ケネディ(大統領) ロバート・ケネディ(司法長官) エドワード・ケネディ(上院議員) |
| 配偶者 | ローズ・フィッツジェラルド・ケネディ |
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| 任期 | 1934年 - 1935年 |
| 大統領 | フランクリン・ルーズベルト |
“ジョー”ジョセフ・パトリック・ケネディ(Joseph Patrick "Joe" Kennedy, Sr.、1888年9月6日 - 1969年11月18日)はアメリカ合衆国の実業家・政治家である。
「プロテスタントでなければ政治家になってはいけない」という当時のアメリカ国内の暗黙の掟を初めて破ったカトリックの政治家として、そして第35代大統領のジョン・F・ケネディと同政権下の司法長官ロバート・ケネディの父として知られる。一方で、マフィアとの深い関係が度々取り沙汰された人物である。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
ジョセフはボストンでパトリック・J・ケネディの子として生まれた。パトリックは成功した実業家でアイルランド系カトリックの共同体の指導者だった。ジョセフはアイルランド系カトリックが彼ら自身をヤンキーの排除の犠牲者であると看做す非常に党派的な環境で育った。パトリックやその係累も多くが民主党で活動した。
パトリックの家庭は酒類販売業での成功と地方政治上での有力な役目などで繁栄し快適なものだった。ボストンの名門公立高校、ボストン・ラテン・スクールでのジョセフは平均以下の成績だったが学級委員長の選挙に勝ったり、学校の野球クラブでのプレーなどでクラスの人気者だった。
[編集] ビジネスの成功
父親の財産を元に株取引(その多くがインサイダー取引であった)などで財産を成し(特に、RCA株の買占めは有名)ビジネスマンとして大きな成功を収めたが1920年代の禁酒法時代には酒類の違法製造や密売にもかかわり、この頃よりマフィアと密接な関係を持つことになる。また、禁酒法時代に違法酒造ビジネスを通じてつき合いがあったマフィアのフランク・コステロは「ジョゼフが金持ちになる手助けをしたのは俺だ」と豪語していた。1929年の世界恐慌による株価暴落を事前に察知し、持ち株の殆どの売り逃げに成功し、他の投資家たちが破産するのを尻目に莫大な利益を得た。以後はそれを元手に堅実な業家に専念した。相場から撤収する時期を知ったのは、靴磨きの少年が株の話をするのを聞いた[1]時だと言う。
[編集] 政界入り
1932年に、フランクリン・ルーズベルトの政治資金を集め政界に進出する。1934年、当時の証券業界に蔓延していた多数の不正への対策として設立された証券取引委員会の初代委員長に任命される。後述するようにジョセフ自身がインサイダー取引やマフィアとの違法ビジネスなど数々の手口を駆使して大富豪に成り上がった人物であったため、この人事には反発が強かった。この人事についてルーズベルトは「オオカミを捕らえるためにオオカミを使う。彼なら取引のからくりを何でも知っている」と発言したという[2]。 1938年にはイギリス大使に任命される[3]。 しかしその後、ドイツのナチス党への宥和政策を支持したことにより辞任に追い込まれて政治生命を絶たれる。
ジョセフ自身は将来自分は大統領になれるものだと思っていた。そのため、自分の果たせなかった大統領の夢を息子達に託した。彼らに対する競争意識を植え付ける英才教育は凄まじく、「どんな事があっても、どんなを手を使ってでも、我々は勝たねばならない。そして、おまえ達は大統領を目指さなければならない」というのが口癖であったことは現在でも語り草になっている。
また、知的障害のある長女[4]が、思春期になり精神的不安定を示すようになり、これに心を痛め、症状の改善のためロボトミー手術を受けさせた。彼女は後に長女は施設に隔離され、手術を受けたこと自体が秘された。このことは後に批判された。ただし、当時は医学界でロボトミーは当時は精神的疾患の画期的治療方法として考えられていた。
[編集] 死去
1961年12月に脳梗塞を発症。1963年11月にジョンが暗殺された後は事実上の引退生活に入った。ロバートが暗殺された翌年の1969年11月に81歳で死去した。
[編集] 暗黒街との関係
[編集] 密売酒
最初は株取引や投資などで財産を成したビジネスマンだったが禁酒法時代には酒類の密売にもかかわり、マフィアと関係を持つことになる。
一部資料によると酒の密売でマフィアの縄張りを荒らしてしまったため、命を狙われたことがあったという。その時は当時のシカゴ・マフィアの大ボスのポール・リッカに仲裁してもらったという過去があるという。
1920年代前半にマサチューセッツ州の海岸では酒を積んだボートを待つジョセフの姿が目撃されている。禁酒法時代に酒の密売をしていたことは生涯通じての弱みとなる。その後、禁酒法が廃止されると高級ウィスキーの輸入業者にもなった。また、息子のジョンの大統領選挙の際にはそのマフィア人脈を使い票のとりまとめを依頼した事が明らかになっている。
[編集] ギャンブルと愛人
禁酒法廃止後も、暗黒街との関係は続いた。ジョセフはギャンブル好きで1日に1万ドル使うときもあった。フロリダで経営していた競馬場に行くと、夜には愛人を連れてナイトクラブに行った。しかしマスコミを金で買収していたため、その頃は世間での印象は清潔そのものだった。「家族思いの父親」、「財界の名士」、「将来の大統領候補」とまで言われていた。
その後政界入りした息子たちがマフィアを厳しく追求したとき、これに相い対峙する組合とマフィアが息子たちの政治生命を危機に陥れるのではないかと恐れ、ジョセフはロバートに主席顧問の職を退くよう忠告していた。
[編集] 脚注
- ^ 靴磨きの少年でさえ株に手を出そうとしていることを知り、相場が頂点に達していることを察知した。
- ^ 産経抄2008年9月12日
- ^ ルーズベルトは野心的なジョセフを恐れており、これは一種の閑職であった[要出典]。
- ^ Rosemary Kennedyジョン・F・ケネディの妹(年子)。2005年に死去。
[編集] 関連項目
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: - |
証券取引委員会委員長 1934年 - 1935年 |
次代: ジェームス・ランディス |
| 外交職 | ||
| 先代: フランクリン・ルーズベルト |
イギリス駐箚アメリカ合衆国大使 1938年 - 1940年 |
次代: ジョン・ウィナント |
最終更新 2009年11月23日 (月) 09:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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