ジョン・マグロー
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ジョン・マグロー(1910年)
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| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | ニューヨーク州トラクストン |
| 生年月日 | 1873年4月7日 |
| 没年月日 | 1934年2月25日(満60歳没) |
| 身長 体重 |
5' 7" =約170.2cm 155 lb =約70.3kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| 守備位置 | 内野手 |
| 初出場 | 1891年4月26日 |
| 最終出場 | 1906年9月12日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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| 選出年 | 1937年 |
| 選出方法 | ベテランズ委員会選出 |
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この表について
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ジョン・マグロー(John Joseph McGraw, 1873年4月7日 - 1934年2月25日) は、1890~1920年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの選手、および監督。現役時代の主なポジションは三塁手。ニューヨーク州トラクストン生まれ。右投げ左打ち。ニックネームは"Muggsy"(マグジー)、"Little Napoleon"(リトル・ナポレオン)。監督として2700勝以上を上げ、ニューヨーク・ジャイアンツを10度のリーグ制覇に導いた。勝利至上主義の独裁的な「猛将」として知られている。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 選手時代(1891~1903年)
1891年、アメリカン・アソシエーションのボルチモア・オリオールズに18歳の時入団する。同年リーグ消滅に伴いチームはナショナルリーグに移籍、マグローは3年目の1893年から真価を発揮し始める。チームメイトだったウィリー・キーラー同様、マグローは地面に叩きつけて内野安打を稼ぐ『ボルチモア・チョップ』の使い手となり、長打は少ないものの高い打率を維持する。また四球をよく選ぶスタイルだったこともあり、打率はこの年以降9年続けて3割を超え、出塁率は23試合しか出場しなかった1896年を除いて、1902年まで毎年.450以上を記録していた。1899年には、前任のネッド・ハンロンの後をついでオリオールズの兼任監督となったが、この年はマグロー本人の打率も.391、出塁率は.547にもなった。
1899年に率いていたボルチモア球団が解散、1年だけセントルイスに在籍した後、1901年に新設されたアメリカンリーグに移る。しかしそこでも当時のリーグ顧問だったバン・ジョンソンとの関係が悪くなったことをきっかけに、同年ニューヨーク・ジャイアンツに移籍する。ジャイアンツでは1906年まで試合に出ていたが、1903年以降はほぼ監督に専念していた。
[編集] 監督時代(1899~1932年)
1899年に、マグローは25歳の若さでボルチモア・オリオールズの監督を兼任する。チーム自身は前年に主力の選手を大量に引き抜かれていたものの、リーグ4位の健闘を見せた。ニューヨーク・ジャイアンツ移籍後は、1903年に前年最下位だったチームを2位に躍進させ、1904,1905年と2年続けてリーグを制覇する。1904年リーグ制覇の際は、ワールドシリーズでのボストン・アメリカンズ(現レッドソックス)との対戦を拒否し、シリーズが開催されなかった。
ニューヨーク・ジャイアンツは、その後1911年からの3連覇、1921年からのリーグ4連覇を含め、マグロー監督時代に計10回のリーグ制覇を成し遂げる。1913年には、当時のニューヨーク・ジャイアンツとシカゴ・ホワイトソックスの選手を中心とした世界周遊チームを率い、同年12月に来日、親善試合を行った。
ジャイアンツ監督在任期間は30年に及ぶが、その間チームがAクラス(上位4位まで)になれなかったのは、1902年、1915年、1926年、1932年のわずか4回だけであった。1919年からはジャイアンツのオーナー、またゼネラルマネジャーも兼任していた。またマグローは、選手時代のものも合わせ、計131回の退場処分を受けている。この数は2007年にボビー・コックス(アトランタ・ブレーブス監督)が更新するまで、メジャーリーグ最多だった。
[編集] 引退後
ジャイアンツの監督は1932年に引退したものの、翌年開催された第1回のオールスターゲームで、1試合だけ復帰しナショナルリーグの指揮を取った。翌年の1934年、ニューヨーク州ニューロシェルで脳内出血のため死去。1937年にアメリカ野球殿堂入りした。 なお、マグローの死後、彼の所有物の中からは、契約したがっていたアフリカ系アメリカ人選手の一覧が発見されたという。
[編集] 勝利至上主義と戦術の考案
マグローは選手当時から、「勝てばいいんだ」と公言していて、勝ちへのこだわりから様々な戦術を考案したことでも知られている。現役時代、相手選手が三塁を廻ろうとする際には、必ずベースの内側に立ち、またタッチアップしようとする選手のベルトを引っ張ったりしていた。本塁突入の際には体当たりを忘れなかったという。
選手時代に所属していたボルチモア・オリオールズは、1894年からリーグを3連覇したが、そこでは当時のボルチモアの監督ネッド・ハンロンとマグローによって様々な戦術が生み出された。例えば、外野手からの返球を内野手が中継する『カットオフ・プレー』を始めたのは、この時期のオリオールズが最初である。地面にボールを叩きつけて内野安打を稼ぐ『ボルチモア・チョップ』は、同年チームに移籍してきたウィリー・キーラーの発案を生かしたものだった(ウィリー・キーラーの項を参照)。ヒットエンドランは、以前ホワイトストッキングスのキング・ケリーとキャップ・アンソンが得意としていたプレーを元に戦術として完成させたものである。初めてこの戦術を使った対ジャイアンツとの試合では、13回試みて全て成功させ、対戦相手の監督モンテ・ウォードが「こんな野球があってたまるか」とナショナルリーグ事務局に提訴した、というエピソードも残っている。
戦術の中には、半ば『悪知恵』とも言えるものもある。例えば、相手チームのバントがことごとくファウルになるよう、グラウンドキーパーに命じて、フィールドの三塁線沿いに傾斜をこしらえさせた。また、本拠地の外野の芝生の丈を深くするよう指示した。これは外野の芝の中に1、2個ボールを隠し、外野へ長打が飛んだとき、隠してあったボールを偽って内野手に送球するためだったという。ただ、偽球が中継された後に外野手が本物のボールを送球してしまったりして、この策略は長続きしなかった。
[編集] 特筆・エピソード
- 映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場するムーンライト・グラハムは、マグロー監督下のジャイアンツで1905年に1試合だけ守備に出場した選手である。
- 1911年のシーズン途中、マグローは、チャーリー・ヴィクター・ファウスト(ビクトリー・ファウスト)という男と出会う。ファウストは「君がジャイアンツに加われば、ジャイアンツは優勝する」と易者から予言されたのだという。マグローは、野球選手でも何でもなかったこの男の言葉を信じ、8月11日のゲームから彼を本当にベンチに入れるようになった。同年のジャイアンツは彼の言う通り、残り50試合で40勝という終盤の快進撃を演じ、あっさりと優勝してしまった。ファウストはチームの「お守り」として1913年まで帯同し、この間ジャイアンツはリーグを3連覇している。
- 1901年史上初めて、ネイティブアメリカンであるチャーリー・グラントを選手登録したが、試合応援にネイティブが押し寄せたため、
当時は有色人種選手は認められていなかったため、登録を抹消された。
[編集] 通算成績
[編集] 打撃成績
※数字の後の"*"は、記録不明の箇所があることを示す。
| 試合 | 打数 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 得点 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 四球 | 死球 | 犠打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1099 | 3924 | 1309 | 121 | 70 | 13 | 1024 | 462 | 436 | 74* | 836 | 134 | 46(+) | .334 | .466 | .410 |
[編集] 獲得タイトル・記録
[編集] 監督としての戦績
※順位は年度最終順位
| 年度 | チーム | リーグ | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1899年 | BAL | NL | 152 | 86 | 62 | .581 | 4位 | |
| 1901年 | BAL | AL | 135 | 68 | 65 | .511 | 5位 | |
| 1902年 | 58 | 26 | 31 | .456 | 8位 | 開幕~6月28日 | ||
| NYG | NL | 65 | 25 | 38 | .397 | 8位 | 7月19日~ | |
| 1903年 | 142 | 84 | 55 | .604 | 2位 | |||
| 1904年 | 158 | 106 | 47 | .693 | 1位 | |||
| 1905年 | 155 | 105 | 48 | .686 | 1位 | WS優勝 | ||
| 1906年 | 153 | 96 | 56 | .632 | 2位 | |||
| 1907年 | 154 | 82 | 70 | .539 | 4位 | |||
| 1908年 | 157 | 98 | 56 | .636 | 2位 | |||
| 1909年 | 158 | 92 | 61 | .601 | 3位 | |||
| 1910年 | 155 | 91 | 63 | .591 | 2位 | |||
| 1911年 | 154 | 99 | 54 | .647 | 1位 | |||
| 1912年 | 154 | 103 | 48 | .682 | 1位 | |||
| 1913年 | 156 | 101 | 51 | .664 | 1位 | |||
| 1914年 | 156 | 84 | 70 | .545 | 2位 | |||
| 1915年 | 155 | 69 | 83 | .454 | 8位 | |||
| 1916年 | 155 | 86 | 66 | .566 | 4位 | |||
| 1917年 | 158 | 98 | 56 | .636 | 1位 | |||
| 1918年 | 124 | 71 | 53 | .573 | 2位 | |||
| 1919年 | 140 | 87 | 53 | .621 | 2位 | |||
| 1920年 | 155 | 86 | 68 | .558 | 2位 | |||
| 1921年 | 153 | 94 | 59 | .614 | 1位 | WS優勝 | ||
| 1922年 | 156 | 93 | 61 | .604 | 1位 | WS優勝 | ||
| 1923年 | 153 | 95 | 58 | .621 | 1位 | |||
| 1924年 | 110 | 61 | 48 | .560 | 1位 | 開幕~5月20日、7月8日~ | ||
| 1925年 | 120 | 65 | 55 | .542 | 2位 | 開幕~5月2日、6月9日~ | ||
| 1926年 | 151 | 74 | 77 | .490 | 5位 | |||
| 1927年 | 122 | 70 | 52 | .574 | 3位 | 開幕~8月30日 | ||
| 1928年 | 155 | 93 | 61 | .604 | 2位 | |||
| 1929年 | 152 | 84 | 67 | .556 | 3位 | |||
| 1930年 | 154 | 87 | 67 | .565 | 3位 | |||
| 1931年 | 153 | 87 | 65 | .572 | 2位 | |||
| 1932年 | 40 | 17 | 23 | .425 | 6位 | 開幕~6月1日 | ||
| 通算 | 4768 | 2763 | 1947 | .587 | ||||
[編集] 記録等
- リーグ優勝:10回(1904,1905,1911-1913,1917,1921-1924年)
- ワールドシリーズ優勝:3回(1905,1921,1922年)
- オールスターゲーム出場:1回(1933年)
- ナショナルリーグ通算勝利数:2669勝(リーグ記録)
[編集] 出典・外部リンク
- Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 年度別成績 (Retrosheet)
- Circle Change(野球史関連コラム)
- 芝山幹郎 『大リーグ二階席』(晶文社, 2005年)
- Alfonso Park
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最終更新 2009年10月28日 (水) 10:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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