ジョージ・ハリスン
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| ジョージ・ハリスンMBE George Harrison, MBE |
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| 基本情報 | |
| 出生 | 1943年2月25日 |
| 出身地 | |
| 死没 | 2001年11月29日(満58歳没) |
| ジャンル | ロック サイケデリック・ロック ポップス |
| 担当楽器 | ギター ベース 歌 シタール |
| 活動期間 | 1958年~2001年 |
| 共同作業者 | ザ・ビートルズ トラベリング・ウィルベリーズ プラスティック・オノ・バンド エリック・クラプトン |
| 影響 | カール・パーキンス チェット・アトキンス ラヴィ・シャンカル |
| 公式サイト | georgeharrison.com |
| 著名使用楽器 | |
| ギブソン・J-160E、グレッチ・カントリー・ジェントルマンほか | |
ジョージ・ハリスン MBE (George Harrison, MBE[1]、1943年2月25日[2] - 2001年11月29日) は、イギリス・リヴァプール出身の、ロック・ミュージシャン(歌手・ギタリスト)、映画プロデューサー。1960年代にザ・ビートルズのメンバーとして世界的な人気を博したのち、グループ解散後はソロ・アーティストとして活動した。ソロ活動では「マイ・スウィート・ロード」「ギヴ・ミー・ラヴ」「セット・オン・ユー」などをヒットさせたほか、『オール・シングス・マスト・パス』(1970年)は、ロック・アルバムの金字塔として高く評価されている。
スライドギターの名手としても知られ[3]、ローリング・ストーン誌の2003年8月号のカバーストーリー、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第21位。また、「ローリング・ストーンの選ぶ史上最も過小評価されている25人のギタリスト」では第4位にランクインしている。
2001年に肺癌と脳腫瘍のため逝去。1988年にビートルズのメンバーとして、2004年に個人としてロックの殿堂入りしている。現在「Sir」の称号を故人として初めて授与するかどうか議論されている。
目次 |
[編集] 生い立ち
リヴァプールのアーノルド・グローブ12番地で生まれ育った。父親はバス運転手だった。ダブディル・ロード幼児学校、ダブディル小学校に通い、リヴァプール・インスティテュートに入学した。友人達は彼を「独りぼっちで隅に座っているようだ」と評している。
1950年代の中頃に同校でポール・マッカートニーと出会う。ポールの紹介でジョン・レノンらのバンド「クオリーメン」に参加し、リードギターを担当した。バンドは後にビートルズとなる。ビートルズ加入のきっかけとなったのは、バス2階で行われた即席オーディションにおいて、当時高等テクニックを要した「ローンチー」というギターインストゥルメンタル曲を完璧に弾いたことが、リーダーであるレノンに認められたからだと言われている(彼の家をバンドに貸したからという説も)。
また、「生年月日は1943年2月25日」として、誕生祝も25日に行なっていたが、1992年に「実際には1943年2月24日生である」と述べている。
[編集] ビートルズの中で
ビートルズのメンバーでは最も年下で、主にリードギター、コーラス、ボーカルを担当した。自作曲も20曲以上発表している。その初期に於いて、デッカ・レコードにミック・ジャガーを始めとするローリング・ストーンズを紹介したとされる。また、各種楽器の導入にも貢献し、初期にはエレクトリック12弦ギターを導入し(後にアメリカのグループ、バーズのサウンドに影響を与えたといわれる)、中期にはシタールを導入することで、インド音楽へ傾倒していく。また、後期には初期の型のシンセサイザーをいち早く導入している。
ビートルズ時代のジョージの作品の特徴として、メロディーラインにシンコペーションを多用した曲が多いことが挙げられる(「タックスマン」「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」「嘘つき女」「恋をするなら」など)。インド楽器の導入と同様、ジョンやポールとの違いを打ち出そうとする意識が強かったと思われる。
活動後期になると、自作曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のギターソロにエリック・クラプトン(エディ・クリントンという変名でクレジットされている)を、キーボード・プレイヤーとしてビリー・プレストンをゲット・バック・セッションに参加させるなど、閉鎖的だったバンドのサウンドに、外部の血を入れるという面で、特に貢献した。その作風から、欧米では「静かなるビートル(Quiet Beatle)」の異名を取っていたが、ルックスや振舞いが人気を集めた為に、日本のファンからは「美しいビートル(Beautiful Beatle)」と呼ばれていた。アルバム「リボルバー」の「タックスマン」は、ジョージがビートルズのアルバムにおいて唯一のベストトラック(別名「ベストヒッツトラック」1曲目のことを指す)を飾った作品である。
活動初期から中期においては、ソングライターとしては天才メロディーメーカー、レノン=マッカートニーの陰に隠れ目立たない存在であったが、後期になると「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「サムシング」等の名曲を完成させる。しかし、当時ビートルズ内でのジョージの評価は決して高くなく、一つのアルバムにつき2曲しか発表できない、自由にリードギターを弾かせてもらえないなどで不満を募らせる。この確執はゲット・バック・セッションで顕在化し、彼はメンバーの中でも早くからソロ活動を志向するようになる。ドキュメンタリー映画「レット・イット・ビー」の中で、ギターソロをめぐってポールと口論するシーンがカメラに収められている。一連のセッションについて、「最悪だったよ。地獄にいるみたいだった。世界一熱心なビートルズ・ファンでも、あの空気には耐えられないだろう」と語っている。
さらに後年、「世間は、俺を『真面目で寡黙な奴』と思っているみたいだが、それは俺のほんの一面にすぎない。性根は狂っているのさ。何たって、ビートルとして務まったんだから」と自己を鋭く分析して語っていた。
一方で、ビートルズの中でもっとも外部ミュージシャンとの交流が盛んだったのも彼であった。これは彼の人柄によるものが大きく、ブライアン・エプスタインは「ジョージといると本当に心が休まる。ジョンやポールと一緒のときのように、何かしなくちゃいけないというプレッシャーが全くない」と語っており、尊大なところがなく、誠実で人懐っこい性格だったといわれる。エリック・クラプトンやボブ・ディラン、ボンゾ・ドッグ・ドー・ダー・バンドとの交流はよく知られるが、無名時代にロリー・ストーム、リンゴと最初に仲良くなったのも、ビリー・プレストンと仲良くなったのも彼であった。他にも多くのミュージシャンと交流があり、セッションをやるとなれば電話一本で駆けつけてくるような間柄であったといわれる。ロード・マネージャーたちからもジョージの評判は非常によかったという。
[編集] 解散後
[編集] 1970年代前半
ビートルズ解散直後、最も活発に音楽活動を展開したのはハリスンであった。その活動の充実ぶりに彼は多くの評論家から「ビートルズを解散して最も得をした元ビートル」と評された。本格的な初のソロ・アルバムとなった『オール・シングス・マスト・パス』は、異例のLP3枚組として発売されたにもかかわらず全米/全英のアルバムチャートで7週連続1位となる大ヒットを収め、シングル「マイ・スウィート・ロード」も米英それぞれ4、5週連続No.1となっている。自作の曲を正当に評価されず発表の機会を得ることができなかった彼が、書きためていた曲を一気に放出した作品が多く含まれ、伝説のプロデューサー、フィル・スペクターの見事なプロデュースと相まって、その完成度の高さから今もなおロックアルバムの金字塔として評価されている。
翌年8月には、シタールの師であるラヴィ・シャンカールの要請でロック界初の大規模なチャリティー・コンサート(バングラデシュ・コンサート)を開催。エリック・クラプトン、ボブ・ディラン、レオン・ラッセル等が参加したイベントは大成功を収め20世紀最大のロック・イベントとも称された。その模様を収めたライヴ盤は1972年度グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝いた(全米・全英No.1)。
1973年に発売された2枚目の『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』も全英2位・全米で5週連続1位を記録。翌1974年にはA&Mレコード傘下に自らのレーベル「ダーク・ホース」[4]を立ち上げ、そこから彼自身が発掘しプロデュースを手がけた新人やラヴィ・シャンカールのアルバムなどを次々リリースする(彼自身はまだアップルとの契約が残っていたため、このあともしばらくはEMIからレコードを発売し続けた)。それに伴い同年秋にはビートルズ解散後初の大規模な北米ツアーをシャンカールとの連名で行うなど、積極的に活動を続けた。しかしツアー自体は、シャンカールのインド音楽のコーナーを中間に挟む構成や、多忙なスケジュールがもたらしたハリスンの声帯の不調などが原因で失敗に終わり、評論家の間では酷評されてしまった。喉の異常は当時のアルバムにも顕著に現れており、レコードセールスもこれ以降下降してゆくこととなる。同時期には「マイ・スウィート・ロード」にまつわる盗作問題で訴訟を起こされる(最終的に敗訴する)など、順風満帆に過ぎていたソロ活動はこの頃さまざまな不運によって精彩を欠いていた。
[編集] 1970年代後半
1974年にはアルバム「ダーク・ホース」(全米4位)を発表。1975年発売の『ジョージ・ハリスン帝国』(全米8位)を最後にEMIとの契約が満了したハリスンは、ようやくダーク・ホース・レーベルに移籍し、そこから発売される予定のアルバムの録音にとりかかる。しかし、その矢先に彼は肝炎を患って入院してしまう。そのためレコード会社にはアルバムを提出する期限を守ることができず、鳴かず飛ばずのレコードばかり押し付けられて痺れをきらしていたA&Mから違約金の支払いを求める訴訟を起こされてしまう。A&Mに支払う違約金を肩代わりしてもらうことを条件にワーナー・ブラザーズと新たに契約した彼は、「新たな関係が築けてうれしい」と話し、ここから新たなスタートを切ることとなる。ここから1976年に「33 1/3」「慈愛の輝き」という2枚のアルバムを発表し、それぞれ全米11、14位というまずまずのセールスを収めた。
私生活では、親友であるエリック・クラプトンと交際するようになった妻のパティ・ボイドと離婚。仕事上で出会ったメキシコ系のアメリカ人女性オリヴィア・トリニアード・アリアス(勿論、後のオリヴィア・ハリスン)と1978年に再婚し、同年に一人息子のダーニ・ハリスン(父同様にミュージシャン)をもうけている。
1977年ごろからは音楽以外の活動にも興味を示すようになり、副業として始めた映画制作の仕事で大きな成功を収めることとなる。
少年時代からの趣味だったモータースポーツ観戦にもより一層熱中。ニキ・ラウダやジャッキー・スチュワートなどといったレーサーとの親交を深め、自身もレースにドライバーとして1度参戦している。この趣味は後年まで長く続いたようで、レーサーのデーモン・ヒルと親睦を深めたり、晩年にもカーレースを観戦する姿がたびたび目撃された。モータースポーツ好きを裏付けるように彼は1979年にF1で闘うドライバーたちを歌にした「Faster」(シングル・カットも、全英、全米ともチャート・インせず)を発表している。「Faster」のミュージックビデオではギターを弾いて歌うジョージを乗せたタクシーの運転手がジャッキー・スチュワートという面白いコラボレーションが見られる。「Faster」の印税は、癌で亡くなったF1ドライバー、グンナー・ニルソンの癌基金に寄付されたという。
[編集] 1980年代前半
副業の映画プロデューサーとして成功を収めた一方で、本業の音楽活動からは遠ざかるようになる。1980年に制作したアルバム『想いは果てなく~母なるイングランド』は「キャッチーな曲が少ない、内容が暗い」という理由からレコード会社に発売延期と収録曲の差し替えを命じられてしまう(ジョージ自身が製作したジャケットも気に入らないと要求された)。屈辱を味わいながらもレコーディングを再開した矢先に起こったのが、1980年12月8日のジョン・レノン射殺事件である。このあまりに衝撃的な訃報が音楽業界に与えた影響は大きく、翌81年から1982年にかけてはクイーンやエルトン・ジョンなどによるレノンへの追悼歌が多数ヒットした。ハリスンの1981年のシングル「過ぎ去りし日々」はその代表的な例であり、この曲は全米チャートで最高2位を記録する大ヒットとなった。リンゴ・スターに提供する予定だった曲の歌詞を書き換えて完成したこの曲は、スターがドラム、ウイングス(ポール・マッカートニー夫妻とデニー・レインの3人)がコーラスで参加したことでも大きな話題を呼んだ。内容の差し替えを要求されたアルバムにはこの曲を含む4曲が新たに代わりに収録され、同年にリリースされた。発売延期のせいもあってか全米10位、全英8位とシングルほどの大ヒットとはならなかったが、それでも復調の兆しは垣間見ることができた。
翌1982年には次作『ゴーン・トロッポ』を制作・発表するが、当時の彼は音楽業界に殆ど興味を失っていたようで、アルバムの宣伝には全く力を入れなかった。所属レコード会社のワーナーも宣伝活動には協力しなかったため、アルバムはアメリカのチャートで100位圏外という結果に終わり、その他の国ではチャートインさえできなかった。このアルバムの発表以降、ハリスンはアーティストとしての活動から半引退状態となる。プライベートでときおり楽曲を書くことはあったものの、特に1985年は「最も音楽から離れた年」であったと後年本人は語っている。
[編集] 1980年代後半
本格的な音楽活動から遠ざかっていたハリスンに変化をもたらしたのが1986年公開のマドンナ、ショーン・ペン主演の映画『上海サプライズ』だった。この作品のために彼は数曲を提供し自らも出演。その中で共演したのが熱狂的なビートルズフォロワーとしても知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンである。リンとの出会いにより、彼は再び音楽活動への情熱を取り戻すのだった。映画自体は評論家から酷評され、ペン夫妻の演技やハリスンの書いた主題歌はゴールデンラズベリー賞にノミネートされるなど、汚点ともいえる酷い代物であったものの、この作品の存在は後のハリスンの復活劇に大きな役割を果たした。
1987年に入るとハリスンはリンと共に久々のアルバム制作にとりかかる。同時期には、イギリスのチャールズ皇太子が主催するチャリティコンサート「プリンス・トラスト」にスター、クラプトンらと共に参加。およそ18年ぶりにイギリスでパフォーマンスを行い、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「ヒア・カムズ・ザ・サン」を演奏した。前年の同イヴェントにはマッカートニーが参加しており、2年連続でビートルズの元メンバーが出演したことが話題となった。
ジェフを共同プロデューサーに迎えて制作されたアルバム『クラウド・ナイン』は1987年11月に発売された。このアルバムの発表にあたってジョージは、久々に世界中のメディアで大々的にプロモーションを行い、その甲斐あってアルバムはアメリカをはじめとする世界各国で大ヒットする。日本では最も売れた彼のソロ作品となった。また、シングルカットされた「セット・オン・ユー」は1988年1月20日付のビルボードのシングル・チャートでNo.1(1988年度の年間チャートでも5位)を記録。ハリスンが全米のヒットチャートで1位を記録したのは1973年以来であり[5]、この大ヒットは彼の復活を決定的に印象付けた。また、このアルバムの成功をきっかけに、リンはブライアン・ウィルソンやランディ・ニューマンなどを手がける売れっ子プロデューサーとなり、後の「ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト」でも重要な役割を担うこととなった。同年ジョージはリン、ボブ・ディラン、ロイ・オービソン、トム・ペティらと覆面バンド「トラベリング・ウィルベリーズ」を結成。所属レコード会社が違ったため、実名を伏せ、プローモーションなどの宣伝活動を行わなかったのだが、二枚のアルバムを発表し、1stアルバム『ヴォリューム・ワン』は1989年度のグラミー賞を受賞するなど、大きな成功を収めた。アルバムも6週連続No.3を記録した。
[編集] 1990年代~晩年
1991年12月、日本だけでエリック・クラプトンのジョイント・ツアーが行われる。17年ぶりのコンサートツアーであり、25年ぶりの来日公演でもあった。当時息子を事故で亡くした直後だったクラプトンによるハリスン本人への申し入れによって実現したもので、コンサートはクラプトンと彼のバンドによる全面的なバックアップのもとで行われた。1989年のスター、1990年のマッカートニーに次いで、元ビートルズが3年連続で来日したことになる。結局これが、ビートルズ解散後のハリスンの2度目で最後のライヴツアーとなる。クラプトンのコーナー以外のほぼ全容は、翌年発売の2枚組のライヴ盤『ライヴ・イン・ジャパン』に収められている。翌1992年春には、ほぼ同じ曲目と同じバンド(クラプトンは不参加)で自らが支持する政党の支援を目的としたコンサートを本国で行うが、これが彼にとっての生前最後のライヴ・パフォーマンスとなった。
1993年より、「ビートルズ・アンソロジー」のプロジェクトが正式に始まり、マッカートニー、スターとの共同作業が行われる。ジョン・レノンの生前に残されたデモ音源から「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」の2曲が正式なビートルズの新曲として1995年と1996年に相次いで発表され、各国のチャートに入るヒットとなった。
1997年にはシャンカールのアルバム『チャント・オブ・インディア』をプロデュース。このアルバムの制作に全面的に協力したハリスンの思い入れは強く、彼はシャンカールとともに積極的にプロモーション活動を行った。だが同時期に喉頭癌が発覚し、7月に手術を受けることとなる。その後も放射線治療を続け、1998年に世間に手術の事実が発覚した後も数年間再発は見られなかったという。
1999年頃からは自らが過去に発表したソロ・アルバムのリマスターの作業にもとりかかりはじめ、マイペースで新曲の制作も開始。21世紀に向けてミュージシャンとして再始動しようとしていたが、そんな矢先の1999年の晦日に自宅に侵入した変質者にナイフで襲われ、重傷を負ってしまう。幸い命に別状はなかったものの、世間に与えた衝撃は非常に大きかった。この話を聞いた多くの人が、1980年のジョン・レノン射殺を思い出して戦慄し、「80年代の幕開けに死んだジョンの様に、ジョージも21世紀を目前にして死ぬのではないか」と囁かれたのだ。しかし、恐怖するファンを安心させるかのように、2001年、ジョージは自身の代表作である『オール・シングス・マスト・パス』のリマスター盤を発表。そのプロモーション活動の中で、「新作についても完成が近い」ことを明かし、ファンを喜ばせた。
この間にかつてのビートルズのメンバーのピート・ベストと再会している。ジョージ曰く「僕はビートルズ時代にピートになにもしてあげられなかった。せめて、再び彼と逢ってピートに当時のことを謝りたかったんだ」と長年の間ずっと、ピートのことを気懸かりに思っていたという。
しかし、今度は肺癌であったことが発覚、さらに脳腫瘍も併発していたことが判明。フランスでコバルト放射線治療を受け療養生活に入るが、世界中のタブロイド誌ではハリスンの体調に関するさまざまな憶測が飛び交った。本人からは否定のコメントが出されたものの、秋に入ると報道は更に加熱。2001年11月には各国の大衆紙で彼が危篤状態であることが報じられた。そしてそれから間もない同年の11月29日(日本時間11月30日早朝)、肺癌のため彼は滞在先のロサンゼルスで逝去(58歳没)。なお死亡した場所については、オリヴィア夫人がビートルズ・ファンからの追悼の巡礼を逃れるために虚偽の住所を死亡証明書に記載したため、定かではない。
「遺体は荼毘に付され、ガンジス川に散骨された。」という噂も立った。
[編集] 死後
ハリスンが病に侵されなければ生前に完成するはずだった新作は、彼の死から約1年後の2002年11月に『ブレインウォッシュド』というタイトルで発売された(プロデュースはハリスンと彼の息子ダーニ、ジェフ・リンの3人)。2003年度グラミー賞には遺作から“Any Road”と“Marwa Blues”の2曲がノミネートされ、後者は最優秀ポップ・インストゥルメンタル部門を受賞した。また、最優秀ポップ・アルバムに『ブレインウォッシュド』もノミネート、計3部門にノミネートされた。
遺作集のリリースとほぼ時期を同じくしてエリック・クラプトンの企画による追悼コンサート『コンサート・フォー・ジョージ』が行われ、リンとトム・ペティ、マッカートニー、スター、ビリー・プレストン、ジョー・ブラウンと娘サム、ジュールズ・ホランドなど、生前ハリスンと親交の深かったアーティストたちが多数参加した。このコンサートの模様は翌年にCDとDVDでリリースされている。
2004年3月15日にはソロ・アーティストとしてロックの殿堂入りを果たした。同時期にはファンからは長らく発売を熱望されていたワーナー在籍時代のアルバムがデジタル・リマスターを施されて再リリースされ、話題を呼んだ。また、2005年には彼のキャリア最大の功績のひとつである『バングラデシュ・コンサート』のCDとDVDが装いを新たに再発された。2006年9月には、アルバム未収録だった2曲を加えた、1973年発表の全米No.1アルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が、リマスターされて発売された。
2009年4月14日、ハリウッドの殿堂入りを果たした。ビートルズとしては既にグループで殿堂入りしており、個人ではレノンに次いで2人目となった。また、同年5月8日には、アビイ・ロード・スタジオにて、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作していた1967年頃(当時23~24歳)に書かれたとみられる詞が、ビートルズの公式伝記の執筆者であるハンター・デイヴィスによって発見され、大英図書館にて展示された。同年6月16日には自身三枚目となるベスト盤『レット・イット・ロール ソングス・オブ・ジョージ・ハリスン』が発売された(日本盤は7月8日発売)。
現在マッカートニーに続き、英国王室から「Sir」の称号が与えられる見込みとなっている。
[編集] 日本公演
- 1991年 with エリック・クラプトン
- 12月1日・横浜アリーナ、12月2日,3日,10日,11日,12日・大阪城ホール、12月5日・名古屋市国際展示場、12月6日・広島サンプラザ、12月9日・福岡国際センター、12月14日,15日,17日・東京ドーム
[編集] ディスコグラフィー
[編集] オリジナル・アルバム
- 『不思議の壁』 - Wonderwall (Film Soundtrack, 1968)
- 『電子音楽の世界』 - Electronic Sound (1969)
- 『オール・シングス・マスト・パス』 - All Things Must Pass (1970, remastered 2001)
- 『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』 - Living in the Material World (1973, remastered 2006)
- 『ダーク・ホース』 - Dark Horse (1974)
- 『ジョージ・ハリスン帝国』 - Extra Texture (Read All About It) (1975)
- 『33 1/3』 - Thirty Three & 1/3 (1976, remastered 2004)
- 『慈愛の輝き』 - George Harrison (1979, remastered 2004)
- 『想いは果てなく~母なるイングランド』 - Somewhere in England (1981, remastered 2004)
- 『ゴーン・トロッポ』 - Gone Troppo (1982, remastered 2004)
- 『クラウド・ナイン』 - Cloud Nine (1987, remastered 2004)
- 『トラベリング・ウィルベリーズ ヴォリューム・ワン』 - Traveling Wilburys, Volume 1 (1988)
- 『トラベリング・ウィルベリーズ ヴォリューム3』 - Traveling Wilburys, Volume 3 (1990)
- 『ライヴ・イン・ジャパン』 - Live In Japan (1992, remastered 2004)
- 『ブレインウォッシュド』 - Brainwashed (2002)
[編集] 編集アルバム
- 『バングラデシュ・コンサート』 - Concert for Bangladesh (1971, remastered 2005)
- 『ザ・ベスト・オブ・ジョージ・ハリスン』 - The Best of George Harrison (1976 compilation)
- 『ダーク・ホース 1976-1989』 - Best of Dark Horse 1976-1989 (1989 compilation)
- 『ダーク・ホース・イヤーズ 1976~1992』 - Dark Horse Years 1976-1992 (2004 box-set compilation)
- 『レット・イット・ロール ソングス・オブ・ジョージ・ハリスン』 - Let it Roll Songs of George Harrison (2009 compilation)
[編集] シングル
- 『マイ・スウィート・ロード』 - My Sweet Lord (1970, remastered 2000)
- 『美しき人生』 - What Is Life (1971)
- 『バングラ・デッシュ』 - Bangla-Desh (1971)
- 『ギヴ・ミー・ラヴ』 - Give Me Love (Give Me Peace On Earth) (1973)
- 『ダーク・ホース』 - Dark Horse (1974)
- 『ディン・ドン』 - Ding Dong, Ding Dong (1974)
- 『二人はアイ・ラヴ・ユー』 - YOU (1975)
- 『ギターが泣いている』 - This Guitar (Can't Keep From Crying) (1975)
- 『ジス・ソング』 - This Song (1976)
- 『人生の夜明け』 - Crackerbox Palace (1977)
- 『トゥルー・ラヴ』 - True Love (1977)
- 『イッツ・ホワット・ユー・ヴァリュー』 - It's What You Value (1977)
- 『ブロー・アウェイ』 - Blow Away (1979)
- 『愛はすべての人に』-Love Comes To Everyone (1979)
- 『ファースター』 - Faster (1979)
- 『過ぎ去りし日々』 - All Those Years Ago (1981)
- 『ティアードロップス』 - Teardrops (1981)
- 『愛に気づいて』 - Wake Up My Love (1982)
- 『アイ・リアリー・ラヴ・ユー』 - I Really Love You (1983)
- 『オ・ラ・イ・ナ・エ』 - Dream Away (1983)
- 『アイ・ドント・ウォント・トゥ・ドゥ・イット』 - I Don't Want To Do It (1985)
- 『セット・オン・ユー』 - Got My Mind Set on You (1987)
- 『FAB』 - When We Was Fab (1988)
- 『ディス・イズ・ラヴ』 - This Is Love (1988)
- 『チアー・ダウン』 - Cheer Down (1989)
- 『プアー・リトル・ガール』 - Poor Little Girl (1989)
- 『エニイ・ロード』 - Any Road (2003)
- 『あの空の彼方へ』 - Stuck Inside a Cloud (2003)
アメリカ・日本のみで発売されたシングルも含む。
[編集] トリビュートアルバム
- 『Gentle Guitar Dreams』 - (2002)
- GOT MY MIND SET ON YOU/ホフディラン
- I NEED YOU/ムーンライダーズ
- WHEN WE WAS FAB/鈴木茂バンド
- SOMETHING/沢田研二
- THE LIGHT THAT HAS LIGHTED THE WORLD/白鳥マイカ・田中和将・亀井亨・根岸考旨
- IF I NEEDED SOMEONE/TIMESLIP-RENDEZVOUS
- WHAT IS LIFE/THE COLLECTORS
- TAX MAN/BOX(杉真理・松尾清憲)
- I ME MINE/野宮真貴 with 花田裕之
- FAR EAST MAN/高野寛
- HERE COMES THE SUN/堂島孝平
- DING DONG, DING DONG/hi*limits&黒沢健一
- WHILE MY GUITAR GENTLY WEEPS/千住明
[編集] 主なセッション参加作品
- ジョン・レノン - 『Imagine』
- リンゴ・スター - 『Ringo』『Vertical Man』
- クリーム - 『Goodbye』(クレジットはL'Angelo Misterioso)
- バッドフィンガー - 『Straight Up』
- ニッキー・ホプキンス - 『The Tin Man Was A Dreamer』(クレジットはGeorge O'Hara)
- ゲイリー・ムーア - 『Still Got The Blues』
- エレクトリック・ライト・オーケストラ - 『Zoom』
- ディープ・パープル ディープ・パープルのコンサートに飛び入り参加「ルシールを演奏」
[編集] 主な使用楽器
[編集] アコースティック・ギター
- ギブソン・J-160E・デビュー前にマネージャーのブライアン・エプスタインから買ってもらったもの。ジョン・レノンとお揃いだったが、ジョンがその後何回か壊したり、盗難にあって買い換えたのに対して、ジョージはこの1本のみを使い続けた。
- ハープトーン12弦 アメリカ、ニュージャージーのメーカー。ホワイトアルバムの頃購入。ピッギーズで使われた説がある。
- ギブソン・J-200
- ギブソン・J-2000 1991年日本公演時に使用。
- マーティン・D-28
- マーティン・D-35
- マーティン・D-12-35 - D-35の12弦モデル
- ゼマティス - モデル名は不明だが、ジャンボタイプの12弦や比較的シンプルなモデルまで7本以上所有しているといわれている。
- ホセ・ラミレス (Jose Ramirez)モデル名不明のクラシック・ギター 映画「A HARD DAY'S NIGHT」の中で使用しているが、ジョージが実際に所有していたかどうかは不明(映画の撮影の為に用意された備品の可能性がある)。
[編集] エレクトリック・ギター
- ハグストロム・フュチュラマ・グラジオッソ (Hagstrom Futurama Grazioso)
- デビュー前に使用していた安価なギター。単純に見た目が当時の若いミュージシャン達が憧れていたフェンダー・ストラトキャスターに似ているため購入したといわれているが、見た目はかなりフェンダーのそれとは異なっていて、シングルコイルのピックアップが3つあるのとボリュームのつまみが3つあり、白い大きなピックガードがあるくらいしか共通点はない。
- ギブソン・ES-345
- 1965年に撮影された一連のプロモーション・フィルム(「アイ・フィール・ファイン」「涙の乗車券」「ヘルプ!」「デイ・トリッパー」「恋を抱きしめよう」)でその姿を確認できる。1965年のイギリス・ツアーで使用している写真が残されている。
- ギブソン・SG・スタンダード
- 「ペイパーバック・ライター」「レイン」のプロモーション・フィルムでその姿を確認できる。ステージでは1966年5月のNMEポールウィナーズコンサートでのみ使用、また同年のツアー時にはスペアとして用意されていた。
- ギブソン・レスポール
- 57年製ゴールドトップのものをSGと同じチェリーレッドにリフィニッシュしたもの。もともとはエリック・クラプトンの所有であったが、1968年8月初旬にクラプトンからジョージに譲られ、8月7日からレコーディングで使用し始める。[6]1968年9月4日にレヴォリューションのPV撮影時にジョージが使用、同年9月6日のホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープスにおいてクラプトンがソロをオーバーダブしている。[7]ジョージはこのギターを1968年から1969年にかけてメインギターとして利用している。[6]その後もジョン・レノンの「オー・マイ・ラヴ」のレコーディングでもこのギターを使用していた(DVD「ギミ・サム・トゥルース」でその模様が確認できる)。このギターは1974年の北米ツアー中に盗難の被害にあっているが、犯人は探し当てられ新品のレス・ポールと交換で買い戻されている。愛称はルーシー。これ以外にも、1969年12月,ロンドン・ライシウムにおけるプラスティック・オノバンド参加時にはクラプトンから借りた黒の59年製3ピックアップレスポール・カスタムを(クラプトンは”ロッキー”を使用。)、1991年の日本公演では60年製サンバーストのレスポール・スタンダードを使用している。
- グレッチ・デュオ・ジェット (Gretsch Duo Jet)
- デビュー直前から1963年中頃までステージおよびレコーディングで使用。一度手放したが、その後買い戻しており、現在も遺族が所有している。アルバム「クラウド・ナイン」のジャケットでジョージが持っているのが、このギター。ボディは黒だが、塗装ではなくセルロイドを貼り付けていて、これはドラムメーカーでもあった同社のギターの特長でもある。なお、同型でボディー・カラーの異なる(赤色)ジェット・ファイアー・バードを弾く写真も残されている。
- グレッチ・カントリー・ジェントルマン (Gretsch Country Gentleman)
- デビュー直前から1963年後半から1965年初頭までステージおよびレコーディングで使用。ミュート・スイッチの数や形状等から、少なくとも3本所有していたものと思われる。ダブルカッタウェイのホロウボディで、サウンド・ホールは開いていない(fホールのペイントのみ)タイプのモデル。ピックアップはハムバッカーであるフィルタートロン。インタビューで黒にリフィニッシュしたと述べている。
- グレッチ・テネシアン (Gretsch Tennessean)
- 1965年のアメリカ・ツアーや映画「Help!」での使用がよく知られているが、1964年のフランス公演での使用が確認されている。シングルカッタウェイのホロウボディで、サウンド・ホールは開いていない(fホールのペイントのみ)タイプのモデル。ピックアップはシングルコイルであるハイロートロンで、強い高音が特徴。カントリー・ジェントルマンの下位機種。
- リッケンバッカー425 (Rickenbacker 425)
- ジョージが1963年に、結婚してアメリカに移住した姉に会いに行った際に購入したもの。テレビ番組「レディ・ステディ・ゴー」出演時に使用している。色は購入当時は下記360/12と同じファイア・グロー(チェリー・サンバースト)だったが、ジョン・レノンの325と同じ色にしたいというジョージの希望で黒くリフィニッシュされた。ネックは325より長いミディアム・スケールである。
- リッケンバッカー・360/12
- ア・ハード・デイズ・ナイトのイントロの1コードを奏でた事で有名な12弦ギターで、12弦独特の分厚いコーラス感と明るいサウンドが特徴。1963年製と1964年製の2本所有していた。'63の方は初アメリカツアーの際に、リッケンバッカーから直接プレゼントされたもので、ボディのエッジがシャープで、テールピースは平たいコの字型のタイプであり、'63年12月の試作2本目のものであった。'64の方は日本公演でも使用されたもので、ボディのエッジは丸みを帯びていてRickenbacker の R の文字を象ったテールピースを使っている。1本目はソロ時代のプロモーションフィルムにも登場し(「ディン・ドン」「FAB」)、現在も遺族が大切に保管しているが、2本目は後に盗難に遭い紛失した。
- エピフォン・カジノ
- 1966年のコンサート・ツアーのメイン・ギターとして使用。ビグスビー・トレモロが取り付けられており、型の違いにより全体的にやや細身なシェイプをしている点がジョン・レノンの同モデルと異なる。色はジョン・レノン所有のモデルと同じくサンバーストだったが、後にジョン同様に塗装を剥離した。現在はロンドン郊外のフライアー・パークにある自宅の壁に掛けられているという。
- フェンダー・ストラトキャスター
- ジョージはビートルズのメジャー・デビュー前より、バディ・ホリーやハンク・マーヴィンらの影響でストラトキャスターを欲しがっていたが、当時は高価で手が出ず、ビートルズのデビュー後しばらくは、グレッチやリッケンバッカー、ギブソンを使用した。
- 1965年の初頭、ジョージは『ヘルプ!』セッション時に、ジョンとお揃いでストラトキャスターを入手した。色はソニックブルー、61年製のスラブボードと呼ばれるローズ指板のものである。その後ジョージ自身の手によりサイケデリック塗装がほどこされ、マジカル・ミステリー・ツアーにおけるアイ・アム・ザ・ウォルラスの映像で確認できる。愛称はロッキー。
- ジョージはこれ以外にも多数のストラトキャスターを所有し、ビートルズ解散後はメイン・ギターとして使用した。代表的なものとして、1971年のバングラデシュ難民救済コンサートでは、60年代製のボディに50年代製のメイプル・ネックが装着されたホワイトのモデルを、また1974年のアメリカ・ツアーでは、'50年代製のサンバーストのモデルを使用。1991年の日本公演では、トリノ・レッドのエリック・クラプトン・モデルをはじめ数本を使用した。また、フェンダーの下位ブランド、Squier製のストラトキャスターも所有、1987年のプリンス・トラスト・コンサート出演時に使用していた。もともと息子ダーニに買い与えた安価な日本製のモデルだが、意外な造りと音の良さをジョージが気に入り、自分で使ったという。2006年に限定リイシューされた同モデルの型番には、彼の愛称「ダークホース」の略であるDHが付けられている。
- フェンダー・テレキャスター・オールローズ
- 1968年にフェンダー社が特注を受けて製作。エレキギターでは通常指板材として使用されるローズウッド(紫檀)を用いて、ボディとネックが造られている。1969年『レット・イット・ビー』のレコーディング・セッションで使用。映画『レット・イット・ビー』では全面的にフィーチャーされている。'69年12月、ジョージがデラニー&ボニーのツアーにサポート参加した際、デラニー・ブラムレットに譲渡された。この他には、「セット・オン・ユー」のプロモーションフィルムで使用した、メイプル指板で、ボディがバタースコッチ・フィニッシュの一般的なテレキャスターも所有していた。
- フェンダー・エレクトリックXII
- フリッツ・ブラザーズ・ロイ・ブキャナン・ブルースマスター (Fritz Brothers Roy Buchanan Bluesmaster)
- 1991年の日本公演時に使用された。テレキャスターをベースにしたカスタムモデル。
- メイトン・マスターサウンド (Maton mastersound)
- メイトンはオーストラリアのギター・メーカー。1963年のステージ写真で使用が確認できる。
[編集] エレクトリック・ベース
- フェンダー・ジャズベース
- 1967-68年製と思われる、カラーはサンバーストで、ポジション・マークがブロック(四角)のモデル。1968年の『ザ・ビートルズ』セッションより使用。ポール・マッカートニーのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』中ジャケットにて、ポールが右利き用のジャズ・ベースを演奏している写真が掲載されており、これと同一品である可能性がある。
- フェンダー・ベースVI
- これも1967-68年製と思われる、カラーはサンバーストで、ポジション・マークがブロック(四角)のモデル。「ヘイ・ジュード」のPVで使用。但し、ジョン・レノンが「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」や映画「レット・イット・ビー」にて演奏している「レット・イット・ビー」「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」の演奏シーンで同じものを使用していたため、ジョージが所有していたものかどうかは不明である。1991年のジョージの日本公演では、エリック・クラプトン・バンドのアンディ・フェアウエザー・ロウ(元エーメン・コーナー)が「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」にて全く同仕様のモデルを演奏しており、同一品であった可能性がある。
[編集] アンプ
- ヴォックス・AC-30(VOX AC-30)
- ヴォックス・AC-50(VOX AC-50)
- ヴォックス・スーパー・ビートル(VOX SUPER BEATLE, VOX AC-100, VOX AC-200)
- ライブにおいて観客から殆ど音が聞こえない状況を打開するため、出力の低いAC-30などのアンプに代わって、ヴォックス社よりビートルズのライブのために開発・提供された大型で高出力のスタックアンプ。100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのあるサウンド。ボリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つサウンドより箱鳴りのサウンドの方が大きく聞こえる。1966年の日本公演でも使用。現在は生産停止。
- フェンダー・ベースマン
1964年製。ホワイトトゥーレックスモデル。元々はラバーソウルセッション時にポールがベースアンプとして導入。 サージェントペパーズあたりよりジョージが”ギターアンプ”として使い始める。 ゲットバックセッションのトゥイッケナム後半でも使用し、解散後のイマジンセッションの時も メインアンプとして愛用された使用歴の長いアンプである。
[編集] その他
[編集] 関連項目
- ビートルズ ージョージ・ハリスンがかつて所属していたロック・バンド
- ジョン・レノン
- ポール・マッカートニー
- リンゴ・スター
- ピート・ベスト - ジョージ・ハリスンの旧ビートルズ時代の唯一の親しい友人
- エリック・クラプトン - ジョージの大親友。ジョージの元妻・パティと再婚後離婚
- ラヴィ・シャンカール - シタールの師匠
- ビリー・プレストン - ビートルズ時代からの友人。ジョージの北米ツアーに帯同した他、度々ジョージのアルバムに参加
- コンサート・フォー・ジョージ - 追悼ライブイベント
- グレッチ - ビートルズ初期に愛用したエレクトリックギターのメーカー
- モンティ・パイソン
- トラベリング・ウィルベリーズ - ボブ・ディランらと結成したバンド
- ハリスン (小惑星) - ジョージ・ハリスンにあやかって名付けられた小惑星
- ダーニ・ハリスン - 息子
[編集] 脚注
- ^ 一部にハロルド-Haroldというミドルネームがあると記されているものがあるが、ジョージの出生証明書などにミドルネームは記載されていない
- ^ 出生届上は 25日
- ^ 1969年のデラニー&ボニーのライブツアーに参加したことをきっかけにスライドギターを習得したと言われる
- ^ 『レノン=マッカートニー』の2人に比べて自身を「穴馬」に例えたネーミング。
- ^ このヒットにより「最も長い間隔を開けてNO.1ヒットを飛ばした男」としてギネスワールドレコーズ(旧称ギネスブック)に認定されている。
- ^ a b アンディ・バビアック 『Beatles Gear 日本語翻訳版』 坂本信訳、リットーミュージック、2002年、224-225ページ
- ^ アンディ・バビアック 『Beatles Gear 日本語翻訳版』 坂本信訳、229ページ
[編集] 外部リンク
- ジョージ・ハリスンの全アルバム、シングルの英・米・日におけるチャートアクション一覧
- "Beatle George Harrison dies" CNN
- "George Harrison dies" - BBC News article dated November 30, 2001
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最終更新 2009年9月13日 (日) 01:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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