ジル・ヴィルヌーヴ
ジル・ヴィルヌーヴの最新ニュースをまとめて検索!
| ジル・ヴィルヌーヴ | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| フルネーム | ジョゼフ・ジル・アンリ・ヴィルヌーヴ |
| 国籍 | |
| 出身地 | 同・リシュリュー |
| 生年月日 | 1950年1月18日 |
| 没年月日 | 1982年5月8日(満32歳没) |
| F1での経歴 | |
| 所属チーム | '77 マクラーレン '77-'82 フェラーリ |
| 活動時期 | 1977 - 1982 |
| 出走回数 | 67 |
| 優勝回数 | 6 |
| 通算獲得ポイント | 107 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 13 |
| ポールポジション | 2 |
| ファステストラップ | 8 |
| F1デビュー戦 | 1977年イギリスGP |
| 初勝利 | 1978年カナダGP |
| 最終勝利 | 1981年スペインGP |
| 最終戦 | 1982年サンマリノGP |
| タイトル | 0 |
ジョゼフ・ジル・アンリ・ヴィルヌーヴ(Joseph Gilles Henri Villeneuve 、1950年1月18日 - 1982年5月8日)は、カナダ人のレーシングドライバー。
姓は「ビルヌーヴ」あるいは「ビルヌーブ」「ビルニューブ」などと表記されることもある。
目次 |
[編集] プロフィール
1950年[1]1月18日、カナダのケベック州モントリオールに程近いリシュリューで生まれ、近郊のベルティエヴィルで育つ。フランス系カナダ人であり、フランス語を母国語とした。
青年時代まではスノーモービル競技の選手で、氷の上に投げ出されながらバランス感覚を磨いた。スノーモービルでは、弟ジャック・ヴィルヌーヴSr.とともにチャンピオンを獲得している。1973年から自動車レースに転向し、フォーミュラ・フォード、フォーミュラ・アトランティックのチャンピオンになる。当時のライバルはケケ・ロズベルグだった。
[編集] F1
[編集] 1977年
フォーミュラ・アトランティックにゲスト参戦したジェームス・ハントの推薦でマクラーレンと契約[2]し、7月17日の第10戦イギリスGPでF1デビュー[3]。このデビューレースでの走りがエンツォ・フェラーリの目にとまり、フェラーリチームがスカウト。チームとの確執から離脱したニキ・ラウダに代わり、第16戦カナダGPからフェラーリに加入する。
しかし、最終戦日本GP(富士スピードウェイ)で、序盤にティレルのロニー・ピーターソンに追突してしまう。ヴィルヌーブのフェラーリは宙高く舞い上がり、立ち入り禁止区域にいた観客らの中に落下。マシンは大破したにもかかわらずヴィルヌーブは無傷だったが、観客と警備員の計2名が死亡、計9名の重軽傷者を出す結果となってしまった。
この惨事は進入禁止エリアで観客が観戦し、警備員が再三の撤退を促していた中で起きたものである。しかし当時の日本ではモータースポーツへの理解が低かったこともあり、ヴィルヌーヴは業務上過失致死の容疑で書類送検され、事実上日本から永久追放処分となってしまった。この事故も一因となり、日本におけるF1開催は10年間にわたり中断されることになる[4]。ヴィルヌーヴは日本を含む各国のマスコミから激しい非難に晒されたが、エンツォ・フェラーリは「死亡事故は今までにもたくさんあった、これがF1レースの世界だ」と擁護した。
[編集] 1978年
1978年からフェラーリでF1フル参戦を開始。第4戦アメリカ西GPでは、首位独走中にクレイ・レガツォーニのシャドウに追突し大クラッシュを起こし、再び物議を醸す。しかし徐々に成績を上げ、第6戦ベルギーGPで4位初入賞、第12戦オーストリアGPで3位初表彰台を獲得。
そして最終戦カナダGPでは、PPから独走していたジャン=ピエール・ジャリエのリタイヤもあって、予選3位から初優勝。地元モントリオールに新設されたイル・ノートルダム・サーキットでF1初優勝というドラマチックな展開にカナダ国民が沸き返った。
当初、全くの新人の抜擢に懐疑的だったフェラーリファン(ティフォシ)にも認められ、シーズン後にエースドライバーのカルロス・ロイテマンがチームから放出されることになった。
[編集] 1979年
1979年はフェラーリの競争力が高まり、ヴィルヌーヴの生涯で最も成績の良いシーズンになった。第3戦南アフリカGP、第4戦アメリカ西グランプリ、最終戦アメリカGPで3勝を挙げ、タイトル争いに加わった[5]。最終的にシーズン成績は2位となり、4ポイント差でチームメイトのジョディー・シェクターにチャンピオンを譲ることになるが、これには「エースドライバーのシェクターに対して、チームオーダーを忠実に守った結果」とも言われている[6]。
タイトルは逃したが、そのドラマティックな力走はモータースポーツファンを驚かせ、喜ばせた。第8戦フランスGPでは、ルノーのルネ・アルヌーとラスト3周に、サイド・バイ・サイドの壮絶な2位争いを繰り広げた。このデッドヒートは現在でも「歴史に残る名バトル」の1つとして語り継がれている。アルヌーは良き友人となり、ヴィルヌーヴの死後も息子ジャックのことを何かと気にかけてくれたという。
また、第12戦オランダGPでは、走行中にリアタイヤの損傷でスピンしながら三輪走行を続けた。ピットでリタイアとなったが、マシンが走行不能の状態に追い詰められても決して諦めない闘志は多くのファンを魅了した。
[編集] 1980年
1980年は一転して苦難の年となる。当時はグラウンド・エフェクトカー全盛期で、フェラーリの水平対向12気筒エンジンは幅が広いためボディ横をウイング形状に成型する際邪魔になるため不利と見られていた。1979年はその欠点がさほど表面化しなかったが、1980年は他チームのマシンに比べダウンフォースを確保できない状況でシーズンがスタート。マシン自体もチームメイトのシェクターが「マシンが爆発炎上して粉々になってもドライバーを無傷で守ってくれるほど頑丈なカミオン(大型トレーラー)」と言い切るほど出来が悪く、ヴィルヌーヴは入賞4回・表彰台なしと低迷する。しかしそんな中でも予選でしばしば上位に食い込み、第2戦ブラジルグランプリではスタート直後にトップを走行する場面もあった。
チームメイトで前年のチャンピオンのシェクターも5位入賞1回のみで、予選落ちまで喫するスランプに陥り、この年かぎりで現役引退を決意する。代わりにディディエ・ピローニが加入し、ヴィルヌーヴはフェラーリのエースドライバーに昇格した。
[編集] 1981年
フェラーリはターボエンジンに移行するが、新車126CKは旧態なシャーシ設計が災いし、ヴィルヌーヴが「真っ赤なとっても速いキャデラック」、ピローニが「赤いカミオン」と称すほど挙動が不安定なじゃじゃ馬だったと言われる。総合性能では他チームのマシンより低い状態だったが、ヴィルヌーヴは時折光る走りを見せた。
第6戦モナコGPでは狭い市街地コースをドリフトしながら、ガードレールとの距離をセンチメートル単位でコントロールする走りで予選2位。決勝レースでもアラン・ジョーンズを終盤に抜き去り、優勝を飾る。次戦第7戦スペインGPでは後続の4台のマシンを巧みに抑えこみ、一列縦隊のまま先頭で逃げ切った。1位ヴィルヌーヴから5位までのゴール時のタイム差は僅か1秒24で、「ヴィルヌーヴ・トレイン」と形容された。
雨の中で行われた第14戦カナダGPではレース途中で破損したフロントウィングがめくれ上がり、視界を遮られた状況での走行となる。ついにはノーズごとウイングを失ったが、そのまま走行を続けて3位表彰台を獲得している。
[編集] 1982年、事故死
エンツォの肝いりにより、ハーベイ・ポスルスウェイトをデザイナーに迎えて作られた新車126C2は、他チームと遜色のないマシンに仕上がり、ようやくヴィルヌーヴはチャンピオンを獲りに行ける環境を手に入れた。
序盤3戦はリタイヤ・失格が続いたが、第4戦サンマリノGPは、ヴィルヌーヴがトップ、ピローニが2位と、2台のフェラーリが他を大きく引き離す状態でレースが進んだ[7]。終盤には「燃費に注意を払い、無用な戦いを避けるように」との意味でピットから「"SLOW"」のサインが出され、ヴィルヌーヴはリスクを冒さず、ペースを落とした。
しかし2位のピローニはレース終盤にヴィルヌーヴを追い越してしまった[8]。このレースは政治的な対立から多くのチームがボイコットし、僅か14台の出走であったため、ヴィルヌーヴは当初「見所の減ったレースで観客を喜ばすための余興」だと考え、トップを奪い返した。しかしピローニは最終ラップで再度抜き返す。裏切りに気付いたヴィルヌーヴはペースを上げてピローニを追ったが、結局2位に終わった。
表彰式でシャンパンを手にはしゃぐピローニの後ろで、ヴィルヌーヴは無言を通したが、内心はピローニに対して激しく怒っていたといわれる[9]。ヴィルヌーヴはこの事件以降ピローニを拒絶。「もうあいつとは口を利かない、チームメイトとしても扱わない」と断言し、両者の関係は修復不可能なほど悪化してしまう[10]。
続く第5戦ベルギーGP(ゾルダー・サーキット)の予選2日目(1982年5月8日)、ヴィルヌーヴはピローニが自身の予選タイムを上回ったと聞くやいなや、再び予選アタックへと飛び出していった。ピローニのタイムを更新することができないままタイムアタックを続ける中、最終コーナーのS字カーブでスロー走行中のヨッヘン・マスのRAMマーチに遭遇。マスはヴィルヌーヴの接近に気付きレコードラインを譲ろうとしたが、ヴィルヌーヴも同じ方向(アウトコース)に動いてしまった。ヴィルヌーヴ車は推定時速230km/hに達していたといわれる。
結果この、ヴィルヌーヴ車の左フロントタイヤがマス車の右リアタイヤに乗り上げ、ヴィルヌーヴ車は回転しながら宙に舞い上がった。マシンは前部から路面に激突して150m垂直状態のまま横転して大破し、この時の衝撃でシートベルトが引きちぎれ、ヴィルヌーヴの身体はマシンから投げ出され、コース脇のフェンスに叩きつけられた。現場や病院で救急隊により蘇生処置が施されたが、ヴィルヌーヴは頚椎その他を骨折しており、その日の夜9時過ぎに死亡した。32歳であった。この一部始終は蘇生処置まで含めて映像として残っており、自動車レースにおける最も悲惨で衝撃的な事故映像の一つとして1983年の「ウィニング・ラン」、1987年の「グッバイ・ヒーロー」などの映画で紹介された。
[編集] 死去直後
ケベックで行われた葬儀には多数のF1関係者が参列、ジョディ・シェクターが弔辞を述べた[11]。遺体は荼毘に付され、第2の故郷ベルティエヴィルの墓地に棺の一部が納められた。また、ピローニは遺族から参列を拒否された。
他のF1ドライバーからもジルの死を惜しむ声が多く上がり、アラン・プロストは「ジルは非凡な、かけがえの無いレーサーだった。彼がいないF1は、もう同じF1ではない」とコメントしている。
ヴィルヌーヴの死亡事故の後、ピローニもシーズン後半に同様の事故に遭って重傷を負い、戦線を離脱した。フェラーリチームはチャンピオン候補であった二人のドライバーを両方失ったが、空いたシートを埋めたパトリック・タンベイとマリオ・アンドレッティの手により、1982年のコンストラクターズタイトルを獲得している。
[編集] 補足
[編集] ピローニ
ヴィルヌーヴ事故死の原因になってしまったピローニだが、実際はヴィルヌーブに対して友情を持っていたと言われる。ピローニは第8戦カナダGPでポールポジションを獲るが、「本来ならここにいるべき男がいない」と涙を見せた。このレースでは決勝スタート時、ピローニはエンジンをストールさせてしまい、後方から追突したリカルド・パレッティが、シーズン2人目の事故死者になるという悲劇が起きている。
ピローニはその後ポイントリーダーになったが、雨で視界不良となった第12戦ドイツGPの予選中、前を走るプロストのマシンに乗り上げ、ベルギーGPのヴィルヌーブと同様の事故を起こしてしまう。ピローニは両足複雑骨折の重傷を負い、タイトルは無論のこと、F1ドライバーとしてのキャリアをも失う結果になった。ピローニは1987年にパワーボートレース中の事故で死亡したが、パートナーの女性は死後に誕生した双子の息子にディディエとジルと名づけた。
実はピローニとヴィルヌーヴは例のサンマリノGP以降、一度だけ言葉を交わしている。ヴィルヌーヴはピローニのいる場所には極力近付かないようにしていたが、ある時ピローニとヴィルヌーヴがお互いすれ違う時に「Salut(やぁ)」と言った際咄嗟に「Salut」と返事をした。この後、ヴィルヌーヴは酷く自分を呪ったという。
[編集] 事故原因
FISAの事故調査委員会はヴィルヌーヴの判断ミスと判定し、マスの責任を問わなかった。レースアクシデントとしては、両者の回避判断が重なってしまった不幸なケースとみなされている。ただしモータースポーツの基本として「速度差の大きい後続車に道を譲る場合はむやみにライン変更せず、後続車に追い抜きの判断を任せる」というマナーがあるのも事実である。
ヴィルヌーヴの事故は、当時多用されていた予選用タイヤの存在が引き金になっている面もある。予選用タイヤは非常にグリップ力が高く好タイムを出しやすいが、その能力を発揮できるのはせいぜい1〜2周で、最高性能を発揮する前後はスロー走行しなければならない。当時は予選出走台数が30台に達し、コース状況が良くなる予選終盤に各車が一斉に出走する渋滞状態が問題視されていた。
そのため予選中には、タイヤの最高性能が出た状態でタイムアタックする車両と、スロー走行する車両がコース上に混在するという、非常に危険な状況が常態化してしまっていた。ヴィルヌーヴの事故の際は、ヴィルヌーヴがタイムアタック中で、追突されたマスはスロー走行中だった。
[編集] 死後の名声
没後、カナダ人としての偉業を讃え、初勝利を遂げたイル・ノートルダム・サーキットはジル・ヴィルヌーヴ・サーキットと改名され、その後もF1カナダGPの舞台となっていた。コースのスタートライン上には「Salut Gilles(やあ、ジル)」の一文が記されている。フェラーリの本拠地であるイタリアのモデナ県マラネッロには、フェラーリの専用テストコース近くに「Via Gilles Villeneuve」(ジル・ヴィルヌーヴ通り)があり、通りの始まる交差点の角に胸像が建てられていて、現在もファンからの献花が絶えない。
また、サンマリノGPが催されるイモラ・サーキットでは、1982年の最後のレースでスタートした3番グリッドにカナダ国旗が記され、1980年に高速クラッシュを演じたコーナーが「Curva Villeneuve(ヴィルヌーブ・カーブ)」と命名された。このコーナーでは、1994年のサンマリノGPでローランド・ラッツェンバーガーが事故死し、以後シケインに改修された。
ヴィルヌーヴが1981年から1982年にかけて付けたカーナンバー27番は、1980年のチャンピオンチーム、ウィリアムズとの交換で与えられた番号だった。当時は各コンストラクターの番号が固定化され、新興チームへ大きい番号が割り振られており、名門フェラーリが27番を付けるのは不振の象徴として嫌われていた。しかし、ヴィルヌーヴの獅子奮迅の活躍と悲劇の死により、27番はティフォシから「偉大な番号」として愛され、フェラーリのエースドライバーを象徴するものとなった。
その後、パトリック・タンベイ(1982-1983年)、ミケーレ・アルボレート(1984年-1988年)、ナイジェル・マンセル(1989年)、アイルトン・セナ(1990年・この年のみ27番はマクラーレンに付けられた)、アラン・プロスト(1991年)、ジャン・アレジ(1992-1995年)らが27番を受け継いで戦った。アレジは攻撃的なスタイルから「ジルの再来」と呼ばれ、1995年のカナダGP(上述の通り、ジルの名のついたサーキット)で1勝を挙げた。1990年には、前年度チャンピオンのプロストがフェラーリに移籍してきたため、皮肉にもライバルのアイルトン・セナが27番を付けることになった。セナ、アレジは、ヴィルヌーヴを尊敬していたといわれ、アレジが幼少の頃は、自分の部屋にヴィルヌーヴの等身大ポスターが貼っていたという。
27番の伝統はミハエル・シューマッハが移籍してきた1996年に終わる。前年のドライバーズチャンピオンの付ける1番とチームメイトの2番以外は前年のコンストラクターズの順位の順番に従ってカーナンバーを付けるという規定が設けられたためである。2007年時点では参戦チーム数が最大12に制限されており、各チーム2台で最大25番[12]までしか使用されないため、27番は現在「欠番状態」になっている。
[編集] 親子二代の夢
ヴィルヌーヴが死亡してから15年後の1997年、息子であるジャック・ヴィルヌーヴがF1のワールドチャンピオンを獲得し、父の果たせなかった夢を達成することになる。ジャックは27番を付けて1995年のインディ500を制し、同年のCARTシリーズのチャンピオンにも輝いている。
[編集] 評価
具体的な数字はポールポジション2回、ファステストラップ8回、優勝6回、チャンピオン経験なしであり、記録的に見れば「少し速いドライバー」レベルのものである。しかし、傑出した才能やクリーンな姿勢から「史上最高のF1ドライバー」「記録より記憶に残るドライバー」と賞賛されることもある。
ドライビングスタイルは、自身が「以前から憧れていた」と語るロニー・ピーターソンと同じく、大胆にアクセルを踏み、カウンターステアを当てながらマシンを横向きに滑らせて走る豪快なタイプだった。果敢な走りで先行車を次々に抜いていく"タイガー"型ドライバーの典型で、ドラマチックな走りを展開するため観客に人気が高かった。「ポールポジションからスタートしてそのまま優勝するより、最後尾からスタートして6位になるレースの方がいい」という発言も残している。また、どんなに激しいバトルの最中でも、他のマシンに故意に接触するような卑怯な真似は決してせず、オーバーテイク後に相手のラインを残すなど常にクリーンでフェアなバトルを展開した。
エンツォ・フェラーリは、ヴィルヌーヴと同様に、身の危険を顧みない勇猛な走りで多くのファンを魅了した戦前の伝説のドライバー、タツィオ・ヌヴォラーリになぞらえて、亡き息子のディーノと同様に彼を愛した。エンツォがドライバーに親しく接するのは珍しいことだったと言われる[13]。ヴィルヌーヴ全盛期のフェラーリがマシンとしては低迷期だったのも、勇猛な走りの一因ともされる。
また、コーナーを極限状態のスピードで通過し、少し速過ぎると思えば次の周回でスピードを緩めるなどして、常に全開(限界スピード)で戦っていたと言われる。「ここのコーナーでは時速何マイルまでなら大丈夫」と頭の中にインプットしており、周囲からは彼は決して無茶な運転はしていないとの声もある。抜群のドライビングセンスのため、他のドライバーがあるコーナーでスピンしてしまう速度であっても、ヴィルヌーヴは楽にそのコーナーをクリアすることができたという評もある。
フリー走行でもウォームアップランでも彼は常に全開(限界スピード)だったと言われ、一人でいつもタイムアタックをしているようだったという評もある。ラウダがその点について、ヴィルヌーヴに「どうしてそこまでリスクを冒す必要がある?私のようにゆっくり走り始め、そこから徐々に速くしていけば良いじゃないか?」と聞くと、ヴィルヌーヴは「ニキ、俺の知っているドライビングというのはこういうやり方だけだ。いつだって全開で行くんだよ」と答えたという。また「骨折しても、病院で直してもらえばいいんだ、そうだろ?」と、事故に対する危険性を全く感じていなかったと見る向きもある。ラウダはヴィルヌーヴを「the craziest devil(狂いきった悪魔)」と称している。
その一方で、勇猛な走りがクラッシュを呼びやすかったことも指摘されており、いくつかのレースで「危険」と具体的な非難を浴びたこともある。デビュー間もない時期の富士での大事故も、そして死亡した際の事故も、いずれもフォーミュラカーの特性[14]を考えれば可能な限り避けるべきケースで発生している。「エア・カナダ」と揶揄された時期もあり、死去に際し「来るべき時が来ただけ」という冷ややかな反応もあったといわれる。
ヴィルヌーヴが活躍した時代のF1マシンは、グラウンド・エフェクト構造によりコーナリングスピードが急激に上昇してしまっていた。ヴィルヌーヴの死が一因となり、翌1983年にフラットボトム規制が定められ、グランドエフェクトは事実上禁止された。
[編集] エピソード
- プライベートでは飾らない気さくな人物として知られていた。率直な性格で、フェラーリチームではご法度とされるマシン批判も厭わなかった。また、サーキットに自身のモーターホームを持ち込み、家族と寝泊りするなど、庶民的な生活スタイルを愛していた。
- 一方で、サーキット外でもスピード狂の性格は変わらず、幾つもの「公道伝説」を残している。ピローニ曰く、過去には愛車のフェラーリでイタリアの高速道路をピローニとともに270~280km/hのスピードでかっ飛ばして、どちらが長くアクセルペダルを床まで踏み続けられるかを競っていたこともある。
- モナコからフィオラノの区間をブレーキを踏まずに僅か2時間45分で走破したという伝説があり、この記録は未だに破られていない(普通の速度で行くと5時間30分かかる)。
- イタリアンレッドにペイントされたビルヌーブの自家用車フェラーリ・308にシェクターが初めて同乗した際、ジルは混雑していて殆ど車の切れ目のない高速道路を、220km/h以上のスピードでジグザグ走行をしながらすり抜け、突如進路変更をしてきた大型車と接触しそうになるもビルヌーブは少しも動揺せずにサイドブレーキを引いて瞬時に車を真横に向け、ドリフトによる減速でこれを回避した。大型車のリアバンパーすれすれに自車のサイドボディが迫りながらも、ビルヌーブは余裕の表情を浮かべていた[15]。目的地に着いて車を降りたシェクターは「二度とジルの運転する車には乗らない」とコメントした。
- 一方、シェクターが運転している車の助手席にジルが乗っていたときは、突然フロントガラスの前に新聞紙を広げ「ジョディ、おまえの記事が載ってるぞ!」と叫ぶ危険極まりないいたずらも行っている。
- ハーベイ・ポスルスウェイトは、F1ドライバーでさえ嫌がるジルの助手席に乗った人間としては極めて珍しいことに、「世界で一番上手なドライバーの助手席なのだから、ここは世界で一番安全な場所」とコメントしている。しかし、一緒に食事に行く際、脇道から飛び出してきたスクーターの老人を華麗なブレーキングとドリフトで360度ターンでかわした際には、ポストレスウェイトは翌日の新聞にヴィルヌーヴが老人を跳ねた記事が載ることを鮮明にイメージしてしまったという。
- スポーツカー以外にも高価なパワーボートやヘリコプターを乗り回し、同乗者に恐怖を体験させている。燃料切れ寸前のヘリコプターを電線の近くでブラブラと乗り回していたこと、目的地までギリギリの燃料しか積んでおらずエンジンをかけたり切ったりを繰り返して飛んだこともあった[16]。
- パワーボートは700馬力のフォードV8を二基搭載した、出力重量比を完全に無視したもので、同乗者にとってこのボートに乗ることは恐怖経験でしかなかった。若い頃は父親の所有する車のスペアキーを作り、夜中に乗り回していた。
- ワイン嫌いで、フランス料理を食べる際はコカコーラを飲んでいた。
- 高級な食事にはめっぽう興味がなく、いつも言う言葉は「ステーキとポテトで十分」。
[編集] 経歴年表
- 1977年 F1参戦(チーム:マクラーレン/フェラーリ)(M23・フォード/312T2・フェラーリ)
- 1978年 F1(チーム:フェラーリ)(312T2/312T3・フェラーリ)シリーズ9位
- 1979年 F1(チーム:フェラーリ)(312T3/312T4・フェラーリ)シリーズ2位
- 1980年 F1(チーム:フェラーリ)(312T5・フェラーリ)シリーズ14位
- 1981年 F1(チーム:フェラーリ)(126CK・フェラーリ)シリーズ7位
- 1982年 F1(チーム:フェラーリ)(126C2・フェラーリ)シリーズ15位
[編集] 注釈
- ^ レースキャリアへの影響を考え、プロフィールでは1952年生れと偽っていた。
- ^ 当時マクラーレン代表だったテディ・メイヤーは、ハントとヨッヘン・マスに次ぐオプション契約しか結ばなかった。
- ^ フェラーリ以外のチームでF1グランプリを走ったのは、このレースのみ。
- ^ 1987年に鈴鹿サーキットで再開された。
- ^ 当時のF1は数回の優勝でチャンピオンになることが多く、現在よりも接戦だった。
- ^ シェクターは「ジルがチームメイトで良かった。そうでなければチャンピオンにはなれなかった(彼がチャンピオンを取った可能性も高い、の意)。」と語っている。また、ヴィルヌーヴ本人は正直に「チャンピオンを取りたかった」旨のコメントを残しているが、あくまで自分がナンバー2という立場を貫き通した。チャンピオン決定の舞台となったイタリアグランプリでもチームオーダーを守り抜き、シェクターを抜こうとしなかった。シェクターのチャンピオンが確定したレース後、「シェクターのマシンが壊れてくれる事を祈った」と冗談めかしてコメントしている。
- ^ この時、3位のミケーレ・アルボレートには1分近く差があり、フェラーリの1-2フィニッシュは決定的だった。
- ^ ピローニは「SLOW」のサインを「燃費に注意を払えば、抜いても構わない」と解釈していたという説もある。
- ^ ピローニはヴィルヌーヴに友情を感じており、この事件も必ずしも悪意ではなかったという意見もある
- ^ サンマリノGP後のインタビューにて、1979年イタリアGPでの自分と状況を比較した上での批判も行った。
- ^ 「彼の死により、2つ悲しいことがある。1つは彼が僕が今まで会った中で一番純粋な男であったこと、もう1つは彼がF1史上最速のレーサーだったこと。自分のすることを愛し、精魂を込めていた。でも、私達の元を離れてはいない。彼がモータースポーツ界に残したものは、語り継がれるからです」等と述べた。
- ^ キリスト教文化圏で不吉とされる13番は飛び番として除かれる為。
- ^ エンツォは、安全を重視する知性派ニキ・ラウダとは対立していた。
- ^ タイヤ同士が接触するとマシンが舞い上がる。
- ^ この時、シェクターは両目を覆って、もはやこれまでと観念していたという。
- ^ このときにはシェクターが同乗していた。
[編集] 関連項目
- モータースポーツ
- ドライバー一覧
- F1ドライバーの一覧
- ヴィルヌーヴ (映画):2009年公開予定。ジルとジャックの人生を描く[1]。
[編集] 外部リンク
|
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||
最終更新 2009年11月5日 (木) 07:25 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【ジル・ヴィルヌーヴ】変更履歴


