ジークムント・フロイト

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ジークムント・フロイトドイツSigmund Freud1856年5月6日 - 1939年9月23日)は、オーストリア精神分析学者オーストリアの白人系ユダヤ教徒アシュケナジーの家庭に生まれた。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した[1]

非常に詳細で精密な観察眼を示す症例報告を多数残した。それらは、現在においても次々と新しい角度から研究されている。
フロイトの提唱した数々の理論は、のちに彼の弟子たちによって後世の精神医学臨床心理学などの基礎となったのみならず、20世以降の文学・芸術・人間理解に広く甚大な影響を与えた。

弟子たちは、フロイトの考え方のどこかしらを批判した上でこれを受け継ぎ、様々な学派に分岐し、それぞれ独自の理論を展開していった。

目次

[編集] 生涯

[編集] 出自

クラーク大学にて前列左からフロイトスタンレー・ホールユング。後列アブラハム・ブリル、アーネスト・ジョーンズ、フェレンツィ・シャーンドル

1856年オーストリア帝国モラヴィアのフライベルク Freiberg(現チェコ・プシーボル w:Příbor)でアシュケナジーである毛織物商人ヤーコプ・フロイト(45歳)の息子として生まれる。

母親はブロディ出身のアシュケナジーであるアマーリア・ナータンゾーン(1835–1930)で、ユダヤ法学者レブ・ナータン・ハレーヴィの子孫と伝えられている。同母妹にアンナ、ローザ、ミッチー、アドルフィーネ、パウラがおり、同母弟にアレクサンダーがいる。このほか、父の前妻にも2人の子がいる。モラヴィアの伝説の王w:Sigismundとユダヤの賢人王ソロモンにちなんで命名された。そのため、生まれた時の名はジギスムント・シュローモ・フロイト(Sigismund Schlomo Freud)だが、21歳の時にSigmundと改めた。
家族は1859年、フロイト自身が3歳のときにウィーンへ転居。1866年(10歳)にシュペルル・ギムナジウムに入学した。

[編集] 自然科学者としての出発

1873年(17歳)ウィーン大学に入学、2年間物理などを学び、医学部のエルンスト・ブリュッケの生理学研究所に入りカエルヤツメウナギなど両生類・魚類の脊髄神経細胞を研究し、その論文は、ウィーン科学協会でブリュッケ教授が発表した。
またフロイトは、脳性麻痺失語症を臨床研究し論文でも業績を残している。これらは彼がすでに、脳の構造と人間の行動、さらには心的活動に深い関心を抱いていたことを物語る。やがて彼は、脳の神経活動としての心理活動を解明するという壮大な目的を抱いたが、当時の脳科学の水準と照らし合わせると目的へは程遠いという現実にも気づいていた。
しかしながら、フロイトは終生、脳と心の働きの連関を「科学的に」解き明かすことを研究の主旨とし、目標とした。したがって、目標達成の可否はさておき、そうした原点を無視して、フロイトの方向性を「科学ではない」などと早計に断じることはできない。

1881年(25歳)ウィーン大学卒業。1882年(26歳)、後の妻マルタ・ベルナイスと出逢う。彼は知的好奇心が旺盛であり、古典やイギリス哲学を愛し、シェークスピアを愛読した。のちの彼の著作に多く引用されるシェークスピアに関する知識は、この時代に培われたといってよい。
難しいことを平易に書きこなす美文家であり、また非常に筆まめで、友人や婚約者、後には弟子たちとも、親しく手紙を交わした。

なかでも1887年(31歳)から1904年(48歳)の17年間の長きにわたって、親友である耳鼻科医ヴィルヘルム・フリース(Wilhelm Fliess)と交わされた文通は、そっくりそのままフロイトにとって自己の構造や精神分析学の基礎を見い出していったプロセスであり、ちょうど後世に精神分析を志す者たちが精神分析医になるために行う訓練分析にあたる自己省察を、フリースを相手に突き詰めていったものとしてたいへん価値がある。

[編集] パリ留学

1885年(29歳)、パリへ留学し、ヒステリーの研究で有名だった神経学者ジャン=マルタン・シャルコー(Charcot,J.M.)のもとで催眠によるヒステリー症状の治療法を学んだ。このころの彼の治療観は、のちの精神分析による根治よりも、むしろ一時的に症状を取り除くことに向かっていた。この治療観が、のちの除反応(: Abreaktion)という方法論につながっていく。

[編集] 精神分析の創始

1886年(30歳)、ウィーンへ帰り、シャルコーから学んだ催眠によるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移した。治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが自由連想法であった。これを毎日施すことによって患者はすべてを思い出すことができるとフロイトは考え、この治療法を精神分析: Psychoanalyse)と名づけた。

1895年(39歳)、フロイトは、ヒステリーの原因は幼少期に受けた性的虐待の結果であるという病因論ならびに精神病理を発表した。今日で言う心的外傷PTSDの概念に通じるものである[2]。 これに基づいて彼は、ヒステリー患者が無意識に封印した内容を、身体症状として表出するのではなく、回想し言語化して表出することができれば、症状は消失する(除反応: Abreaktion)という治療法にたどりついた。これは当時隆盛になりつつあった物理学の「エネルギー保存の法則」をも参考にしている。この治療法はお話し療法と呼ばれた。今日の精神医学におけるナラティブセラピーの原型と考えることができる。

自然科学者として、彼の目指す精神分析はあくまでも「科学」であった。彼の理論の背景には、ヘルムホルツに代表される機械論的な生理学唯物論的な科学観があった。脳神経の働きと心の動きがすべて解明されれば、人間の無意識の存在はおろか、その働きについてもすべて実証的に説明できると彼は信じていた。しかし、彼は脳神経に考察を限っていたわけでもなかった。当時の脳細胞の研究は一段落ついており、かわって心理学や、当時の流行病であり謎でもあったヒステリーの解明が新たな挑戦課題となっていた。彼はその挑戦とともに、ヒステリーの解明の鍵であった「性」という領域に、乗り出していったのだった[3]。彼はギムナジウム時代に受けた啓蒙的な教育からして、終生無神論者であり、宗教もしくは宗教的なものに対して峻厳な拒否を示しつづけ、そのため後年にユングをはじめ多くの弟子たちと袂を分かつことにもなった。

やがて彼の関心は心的外傷から無意識そのものへと移り、精神分析は無意識に関する科学として方向付けられた。そして、自我・エス・超自我からなる構造論と神経症論が確立した。

自身がアシュケナジーであったためか、弟子もそのほとんどがアシュケナジーであった。また当時、アシュケナジーは大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんだ[4]。彼は臨床経験と自己分析を通じて洞察を深めていった。『夢判断』を含む多くの著作はこの期間に書かれていった。フロイトは日中の大部分を患者の治療と思索にあて、決まった時間に家族で食事をとり、夜は論文の編纂にいそしんだ。夏休みは家族とともに旅行を楽しんだという。

[編集] ユングとの出会いと訣別

アーリア人ゲルマン人で代々ルター派牧師の家系出身であり、かつ永世中立国スイスのドイツ語圏に属するチューリッヒ大学講師カール・グスタフ・ユングに特別の期待をかけ、ユングも初めはフロイトを深く敬愛した。
フロイトの著作『夢判断』は、はじめ読者が限られていたものの、ユングがこれに目を通し、フロイトの主張を支持することを決意したという。

1910年『国際精神分析学会』創立時、フロイトはユングを初代会長に就任させ、個人的にもしばらく蜜月状態ともいうべき時期が続いたが、無意識の範囲など学問的な見解の違いから両者はしだいに距離を置くようになり、1912年には訣別(フロイト56歳、ユング37歳)し、1914年にはユングは国際精神分析学会を脱退した。

[編集] 晩年

フロイトは第一時世界大戦後、多数の患者を診ることになった。

1923年(67歳)、喫煙が原因とみられる白板症(ロイコプラキア)を発症、以後死に至るまで口蓋と顎の癌手術を33回も受ける。16年間に及ぶ闘病生活にもかかわらず、強靭な精神力から著述、学会、患者治療に超人的活動を続けた。

1938年(82歳)、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツアシュケナジーを学会から追放した時、ユングは自身が会長を務める『国際心理療法医学会』の会員としてドイツ帝国内のアシュケナジー医師を受入れ身分を保証すること、学会の機関紙にアシュケナジーの論文を自由に掲載することの2点を決定し、フロイトに打診した。だが、フロイトは「敵の恩義に与ることは出来ない」と言って援助を拒否、この為、アシュケナジーの医師たちは仕事を失い、強制収容所のガス室に送られ亡くなった。フロイト自身はロンドンに亡命したが、この亡命に関しては、弟子たちがしきりに勧めていたものの、フロイト本人は最後まで逃亡に反対していたという証言がある。

1939年(83歳)、末期ガンに冒されたフロイトはモルヒネによる安楽死を選択し、ロンドンで生涯を終えた。最後の日々を過ごした家は、現在、フロイト博物館になっている。

フロイト自身の子供たちのなかで、アンナ・フロイトが父の仕事を引き継ぎ、児童心理学の世界で活躍し、これが晩年のかれの慰めのひとつになった。

[編集] 子孫の系譜

孫:ルシアン・フロイド
画家
孫:クレメント・フロイド
著述家・ブロードキャスター・政治家
曾孫:エマ・フロイド
ジャーナリスト
曾孫:ベラ・フロイド
ファッションデザイナー
曾孫:マシュー・フロイド
メディア王で、ルパート・マードックの娘と結婚。またのエドワード・バーネイズは広告産業の生みの親の一人である。

[編集] 理論

[編集] 心理的=性的発達段階

[編集] 主な著作

邦題は訳者によって異なる場合がある。( )内はドイツ語の原題。なお、英語訳のリストについてはFreud's Bibliographyを参照のこと。2009年現在『フロイト全集』全23巻が岩波書店で刊行中。

  • 『ヒステリー研究』(Studien über Hysterie)ヨーゼフ・ブロイアーとの共著, 1895年
  • 『フリースへの書簡集』1887-1904年(With Robert Fliess: "The Complete Letters of Sigmund Freud to Wilhelm Fliess",Belknap Press, 1986)
  • 夢判断』(Die Traumdeutung)1899年(出版1900年)
  • 『日常の精神病理学』(Zur Psychopathologie des Alltagslebens),1901年
  • 『性理論に関する三つのエッセイ』(Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie),1905年
  • 『ジョークと無意識との関連』 (Der Witz und seine Beziehung zum Unbewußten),1905年
  • 『トーテムとタブー』(Totem und Tabu),1913年
  • 『ナルシシズム論』(Zur Einführung des Narzißmus),1914年
  • 『快楽原則の彼岸 / 快原理の彼岸』(Jenseits des Lustprinzips),1920年
  • 『自我とエス』(Das Ich und das Es),1923年
  • 『幻想の未来』(Die Zukunft einer Illusion),1927年
  • 『文明への不満』(Das Unbehagen in der Kultur),1930年
  • 『モーゼと一神教』(Der Mann Moses und die monotheistische Religion),1939年
  • 精神分析入門』(Abriß der Psychoanalyse),1940年
  • 『系統発生的幻想 - 転移神経症概観』(1983年発見の手稿)
    ハーヴァード大学による出版案内

[編集] 評価と業績

フロイトは、マルクスニ-チェとならんで20世紀の文化と思想に大きな影響を与えた人物の一人である。しかし、彼の理論に対しては生前から批判も絶えず[5]、彼の業績をどの程度評価するかは未だに議論の対象になっている。当時の常識とは180度異なる見解をとった意味で、コペルニクスダーウィンとも並び称される。イギリスの王立の科学協会から、ニュートン、ダーウィンに続いて三人目となる科学的評価も受けている。また、シュールレアリズム運動を率いた作家たちはその美術運動の理論的基礎をフロイトに求めるなど精神分析の登場は20世紀文化史における一大事件といってもよいだろう。

正常か異常かを問わず人間の心理は共通同一の原理で動いており、人の行動には無意識的な要素が作用していると考えることは、自身の合理性を疑わない19世紀の知識人を驚かせた。フロイトは、催眠状態での暗示によって、被験者が実験者の促した行動をとり、かつなぜその行動をとるのかしばらくわからずにいた事実から、「無意識」の行動における影響について着想を得たのだった。

フロイトは当時得体の知れない流行となっていたヒステリーの治療にあたり、患者[6]が「おしゃべり」をすることで症状の軽減が見られることに着目し、こうして「自由連想法」が生まれた。[7]

フロイトの「力動論」はエネルギー保存の法則を元にしているとも言われる。患者の症状は無意識に抑圧された内容の形を変えた表れである、ととらえ、ヒステリー患者たちが身体的な症状部位に関する言葉、関連したエピソードを想起するに至ってから症状から回復することも確かめられた。[8]

また、戦争帰還兵達との臨床経験や娘の一人の死を通じ、: Todestriebすなわちデストルドー(死の欲動)あるいは タナトス(死の本能)についても考えるようになった。(参照:生の本能・死の本能

フロイトがこだわった点、彼の精神分析理論の科学性については疑問の余地がある。カール・ポパーは実験やデータなどの反例による理論修復の機会を拒否する精神分析論の独善的な姿勢を批判している。フロイトの精神分析は、「無意識の仮説」によって解明されるべき問題行為が、推理的方法を用いる、一人の”客観的証人(分析者)”にとってのみ意味を持ち、”本人”にとって意味を持たないという、正義と才能の確実な保証の無い分析者による「独裁」が行われる危険性を産み出した。[9]  [10]。自身の理論への一方的とも言える還元という問題を、精神医学に上乗せした根源とは、無神論者でユダヤ人であること、そして金銭面と社会情勢の影響によって、更に彼の男性的な欲動によって、どうしても権力的なものを求めなければならなかった事によると思われる。

しかし、フロイト自身がこの精神の病理という分野に大きなスポットライトを当てた業績は誰にも否定できないものがある。フロイトの時代の医学では精神病理の治療はほとんど進んでおらず、脳内のメカニズムを解明する可能性はほとんど存在しなかったのだ。一方でフロイトが、良質な科学者がそうであるように、現象を重んじ、しばしば理論を修正していっていたという意見がある。彼の判断の基礎には臨床的な経験があり、彼はそれ等を重んじたのである。そのこと自体は称賛に値する。

しかし、現代の精神医学においては、フロイトの理論自体が高く評価されているとはいえない。その理由としては、嗜好性の強い独特の性的一元論に代表される、およそ通常の現代人の感覚にそぐわない違和感のある内容という事があげられる。性的一元論は、そもそも彼自身の心の病理からくるとする意見もあるが、当時のヴィクトリア朝時代の抑圧性の非常に強い時代にあっては、まさに紳士を自認する人間たちが性的な領域を否認することに、フロイトは欺瞞を感じたのだった。性理論の形成に関しては、当時の抑圧の強い時代において、フロイトがその観点の強調に革命的意味を持たせていたことを念頭に置く必要がある。また、例えば心的外傷トラウマ)といった考えは、現代においても通用する。

だが、性理論への偏向自体はとりもなおさず、フロイト自身の政治的な立場から自身の主張を一つのものの見方に限ってしまうことになり、科学者としての彼の姿勢に非難があがる結果にもつながった。さらに、それ以後の精神分析や心理学の発展により、フロイトの主張とは異なる新たな見解や方法が生み出されてきた歴史的経緯もある。

フロイトは自身も語るように一介の開業医ではあったが、精神病理に対する治療のアプローチとして心理的な側面を発見したのは一種の革命に近いものがあったといってよいだろう。科学といえば唯物論に偏りつつあった当時の風潮の中で、人間の心理に主眼を置いた視点の重要性は、見逃すべきではない。彼は「」について唱えていたのだという意見があり、それははからずも彼がその晩年において、人の一生を「仕事」と「愛」に集約していたエピソードからもうかがえる。

[編集] 関係者

[編集] 脚注

  1. ^ 彼が心理学者であるか否かは心理学精神分析をどのように定義するかにより判断が分かれる。少なくとも、彼自身は著作の中で自分を心理学者だと述べている(例えば、Freud(1914/1999) S.205, Freud(1933/1999) S. 13)。
  2. ^ しかし、フロイトはやがて、「不安神経症」の原因として「性的虐待」を除外するようになる。なぜならば、性的虐待を受けたと訴える患者の多くが、実は性的虐待を受けていないことが分かってきたからだ。無論、被害が皆無だったわけではなく、フロイトは少なくとも数件においては性的虐待がほぼ確実だと報告している。 フロイトはしかし、他の大部分が事実に反するからといってそれを無視はせず、むしろ「なぜ」患者がそう考えるのかという側面から考察を進めた。いわゆる「客観的事実」としては誤りでも、患者にとって何かしらの「心的現実」があるという考えである。 発達心理学者E.H.エリクソンはフロイトの理論を元にして、神経症患者達が性的な側面において損なわれており、患者達が過去において例外なくその発達課題を適切にこなせていなかったことを見いだした。
  3. ^ すでにシャルコーが、ヒステリーの原因を「閨房の秘密」にあると彼にほのめかしていた
  4. ^ 後にフロイトは大学教授の職を手に入れた。
  5. ^ 「ユダヤ人の似非科学」というような揶揄、非難が浴びせられた。 また、苗字のFreudヘブライ語: שמחה‎ Simcha(シムハ "喜び"を意味する)の独訳に由来するが、英語圏では、初期の精神分析学に対する社会的不信から、しばしばFraud(詐欺師)と揶揄された。一方、精神分析的解釈からすると、言葉の錯誤には無意識の働き(コンプレックス等)が読み取れるため、精神分析派はそうした現象を逆に一種の錯誤の結果として解釈するかもしれない。
  6. ^ フロイトは医学畑出身でこの用語を用いた
  7. ^ フロイトにこの重要な洞察をもたらした聡明な一人目の患者は、やがて有名な社会革命家になった
  8. ^ 彼は、抑圧された願望自体は消えることなく、無意識の領域に追いやられる、とした。また、意識の注意が和らぐ睡眠中の夢にも、その現れが見られるとし、その例として彼は、南極探検隊が遭難した際、食糧が底をついた彼等が一様に見た夢が、食糧に関するものだった例を挙げている。抑圧される内容の中には、意識にとって受け入れがたい性質のものもあり、本人にとって想起が苦痛となる性質のもある。それらは、忘却の対象となるが、無意識にとどまり、症状が見られる場合は、抑圧された何かしらのエピソードが原因だと考えられた。自由連想法では意図的に本人の批判的意識を和らげるよう促し、抑圧された部分が意識にのぼってくるように工夫し、その解明を図った。
  9. ^ フロイトは意識から無意識へ抑圧された内容の表れが夢において見られるとしたのだが、普段抑圧されがちな内容が報告されれば、フロイトの理論を支持すると見なし、そうした内容を見なかったという報告があっても、「フロイトが間違っていると言いたい」という患者の願望の歪曲された形だ、といった解釈をした。仮定を支持するような現象にしろ否定するような現象にしろ、結局は仮定を支持する形で理論に吸収されることになり、それに対する疑問が投げかけられているわけだ。
  10. ^ 心理的な現象を説明する際に、本人の主観的報告に基づくデータの科学性を疑問視する声があるが、人の心理には主観的な側面も重要な意味を持つために、平均的な抽象的データのみに重点を置くことは、個々の個別性を無視してしまうことになり、現象の把握としては不十分だと言える。(が、後者は大まかな比較をする際に役に立つ。また、後年アメリカの心理学では、操作的手法を用い、カウンセリングを行った場合と行わなかった場合の結果の違いを明確に示し、主観・客観両面からのアプローチするものが現れた。)フロイトは客観的には事実でないとしても、本人に真実性をもって迫っている場合を、本人にとっての「心的現実」ととらえた。

[編集] 参考文献

  • 小此木啓吾 『精神分析の成立ちと発展』(精神医学叢書) 弘文堂, 1985年
  • Freud, S.(1914/1999). Zur Psychologie des Gymnasiasten. In: Gesammelte Werke (Bd. 10, pp. 203-207). Frankfurt am Main: Fischer Taschenbuch Verlag. (Original work published in 1914)
  • Freud, S.(1933/1999). Warum Krieg? In: Gesammelte Werke (Bd.16, S.11-27). Frankfurt am Main: Fischer Taschenbuch Verlag. (Original work published in 1933)
  • ピーター・ゲイ『フロイト』鈴木晶訳 みすず書房全2巻, 2004年 ISBN 4-622-03188-4, ISBN 4-622-03189-2

[編集] フロイトが登場するフィクション

  • シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険』ニコラス・メイヤー著 - およびその映画化作品
  • 『ホームズ対フロイト』キース・オートリー著
  • 映画『ビルとテッドの大冒険』

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ
  • フロイトが生涯こころに描いていたのは、科学として脳と心の関係を追究することだった。
  • フロイトの理論は反証可能性を欠くため疑似科学であると批判されることがある。

[編集] 外部リンク

ckb:سیگمۆند فرۆید

最終更新 2009年11月22日 (日) 13:27 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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