スキタイ

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スキタイ騎馬像・紀元前300年頃・パジリク古墳より

スキタイ(Scythae, Skythai, : Σκύθαι)は紀元前8世紀紀元前3世紀にかけて、南ウクライナを中心に活動していた世界最古の遊牧騎馬民族国家。スキタイはギリシアの歴史家による呼称で、英語ではスキティアScythiaとも言う。ヘロドトスによれば西シベリアからカスピ海黒海地方で活動していた。その文化は、スキト・シベリア文化とも呼ばれる。従来、壁画や銅像の遺品よりコーカソイドとされてきたが、1970年代に発見された南シベリアのアルジャン古墳出土品の考古学的分析により、近年、スキタイ東方起源説が有力になっている[1]

目次

[編集] 起源とその歴史

秘儀の杯に描かれたスキタイ戦士(クル・オバ遺跡より)

紀元前9世紀モンゴル高原に出現する鹿の文様が施された「鹿石」がスキタイの起源と関係があるか不明。文化の中心はドニプロ川からヴォルガ川下流までの地域。

紀元前8世紀カスピ海北岸のカスピ族、黒海北岸に居たキンメリア人を南方に駆逐する形でコーカサスから中東に進入し、アッシリア王サルゴン2世はこれを阻止しようとした。 その後アッシリアと姻戚関係を結びこれを援助してメディアと戦い、前630年頃ニネヴェを解放。しかし、アッシリアが弱体化するにつれその領土を侵すようになる。

前645年~前617年にシリアパレスチナにも侵入。プサンメティコス1世の買収により、エジプトへの侵入は避けられた。

前514年頃、ペルシア帝国ダレイオス1世はスキタイ遠征を企てて失敗している(焦土作戦により撤退)。前5世紀の前半までに、中部ヨーロッパのラウジッツ文化はスキタイ人の侵入によって崩壊した。

前4・5世紀には黒海北岸のオルビア、パニティカパイオンやアゾフ海沿岸の古代ギリシア人の植民都市と密接な関係を持ち、ギリシア植民都市とは穀物・家畜・魚を輸出して、ワイン・オリーブ油・装飾陶器等を輸入していたとされる。とは言え、民族としては少数でその地に根付くこともなく、近隣諸国の略奪侵攻に終始し奢侈品を嗜好した。

紀元前3世紀サルマタイ人の圧力により衰退、しかもその頃には騎馬民族としての属性、勢力を失っていた。生き残った者たちは、ドナウ川流域やクリミア半島に逃げた。

紀元前1世紀頃よりクリミア半島に新たにネアポリス(現在のシンフェロポリ)という名称の都市を建設したとされるが東ゴート人によって撃ち滅ぼされた。その後のスキタイ人の行く末は杳として知られていない。なお現在も真実の明らかになっていない農耕系スキタイ人は、遊牧系スキタイ人ではなく、スラヴ系スキタイ人ではないかと推測されている。

[編集] 文献記録

ほとんどが伝聞の集成であるが、スキタイの神話・風習・地理についてヘロドトス『歴史』第4巻は豊富な記録となっている。ヘロドトスの情報源は、ブグ河右岸のオルビアという町であると考えられる[要出典]


他に聖書における記録があり、聖書にはスクテヤ人の名で登場する。エレミヤ記47のペリシテ人への忠告(「北から水が湧き上がり、川となって押し寄せ…」)を、このスキタイ人の侵入によって説明する説がある[要出典]イスラエルの都市ベテ・シェアン(ベト・シェアン)は、士師記1:27では「スキタイ人の町」と呼ばれ、ギリシア語でスキトポリスという。


[編集] 民族伝承

以下、ヘロドトスの記述に基づく。

  • スキタイ人はギリシアイランなどから文化を取り入れ、特にギリシャ神話に造詣が深く、ギリシア人との関わりも深い。自分たちの民族の祖をゼウス神とドニエプル川の神の娘との子であるタルギタオスと定めている。
  • なおホメロスは、ヘラクレスの子孫であるとも紹介している。ヘラクレスは、ドニエプル左岸のヒュライアという森林地帯で生まれた末の息子スキュテスに弓の引き方と帯の結び方を受け継がせた、とヘロドトスは補足する。
  • ヘロドトスが最も信をおくスキタイ人の起源説によると、彼らはアジアの遊牧民であったがマッサゲタイ人に追われてアラクセス河を越えてキンメリア地方に移住したという。コーカサス山脈を右手にしつつキンメリア人を追っているうちに進路を小アジアに向け、メディアに侵入し28年間小アジアを支配した。
  • ギリシア人に近いところから「農耕スキュタイ人」「遊牧スキュタイ人」、そして最も北方には「王族スキュタイ人」が住む。「彼らを攻撃するものは誰も逃れ帰ることができず、彼らが敵に発見されまいとすれば、誰も彼らを捕捉することができない方法を編み出した」というのがヘロドトスのスキタイ人への評価であった。農耕スキュタイ人はスラヴ系スキタイ人という説がある。
  • 西シベリアからカスピ海黒海地方にまで居住し、ヘロドトスによればシベリアやウクライナの森林地帯から西・南方の草原と農耕地帯を結ぶ毛皮の道が存在し、スキタイ人はそこで毛皮の交易に従事していた。

[編集] 考古学の成果

エルミタージュ博物館所蔵の黄金製の

[編集] 美術工芸(動物意匠)

シベリア・コレクションやイシク古墳・パジリク古墳から出土した黄金製の美術工芸品は、アッシリア・ルリスタンの東方古代様式、ついでアケメネス朝ペルシアのイラン様式の意匠を帯びる。その動物意匠はスキタイと交易したギリシアの職人がスキタイ人の好みをうけて創造したもので、東方騎馬遊牧民匈奴をはじめとした北方遊牧民の広く継承するところとなった。これらの文化は、総じてスキト・シベリア文化と呼ばれている。

[編集] 研究史

スキタイは自民族による文献を残さなかったが、南ウクライナに異常なほど多く工芸品などによる考古学資料を残した。フランス革命後にロシアに亡命したフランス人たちによって、すでに発掘されていた古代遺物の意義と芸術価値が再発見され、19世紀にはロシア貴族と知識人の関心を引きつける。ケルチ半島のクル・オバ墳墓の発見以後、ケルチにはロシア官吏が常駐して古代遺物の蒐集と科学的な発掘が継続され、1859年の帝室考古学委員会の創立とともに組織は拡大され、黒海沿岸とウクライナ・ロシア各地の大河川沿岸が発掘の対象となる。その貴重な成果は、エルミタージュ博物館の収蔵物で察することができる。スキタイ人の残した黄金製の装飾品・工芸品の写真として、事典や研究書に載せられているもののほとんどは、このエルミタージュ博物館の陳列品である。

1880年頃にニコラス・ヴェセロフスキーによって発見された前6世紀から紀元前4世紀と年代づけられる墳墓群は、スキタイ人の埋葬習慣を記述したヘロドトスに寸毫の差なく一致するものであった。このような考古学による豊富な成果をもとに、初めて南ロシアにおけるスキタイ文明を世界史と関連づけたのは、ロシア出身の歴史家ミハイル・ロストフツェフによる『古代の南露西亜、1921年』である。

[編集] 中世東ローマ帝国における「スキタイ人」

中世東ローマ帝国で書かれたギリシャ語文献には「スキタイ人」という言葉が登場するが、これはこの記事で説明されているスキタイ人のことではなく、当時のキエフ・ルーシの南方の人(後のウクライナ人)々やペチェネグ人クマン人など、古代にスキタイ人が住んでいた土地に住む民族、すなわち東ローマから見れば北方にいる異民族を「スキタイ人」と呼んでいるので、注意が必要である。例えば12世紀歴史家ニケタス・コニアテス帝国に侵攻して来たクマン人を「スキタイ人」と表記している。

これは、東ローマの知識人は古代ギリシャの文化を守ろうとする傾向が強く、上記のヘロドトスの時代の記述の仕方を、そのまま受け継いで書いていたためである。もちろん彼らは古代のスキタイ人とルーシ人やクマン人が別の民族であることを知っていたが、古典に倣うために敢えて「スキタイ人」と書いていた。他に同様の例としてはトルコ人を指して「ペルシャ人」と記述していることなどが挙げられる。 当時としてはルーシと言う地名はなく、固有の名で呼びあらわすことができなかったことも一因であろう。

[編集] 言語

言語ヘロドトスの記録からインド・イラン語派とも、またテュルク語系ともいわれるが詳細は不明である。トルコ共和国ではテュルク民族とされている。自民族による文献を残さなかった。

[編集] 葬制

ヘロドトスによると、スキタイ人の葬制は「あの世」でも現世と同じ生活が送れるように必要なものを埋葬した。中でもスキタイの首長は妻の一人・召使・料理人・馬丁・愛用の馬に加えて、戦争で殺したり捕虜とした者の首を埋葬したとされる。


[編集] 脚注

  1. ^ 林俊雄『スキタイと匈奴』講談社、2007年、PP.78-86。P.120

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 雪嶋宏一著『スキタイ騎馬遊牧国家の歴史と考古』東京 : 雄山閣, 2008. ISBN 9784639020363
  • 林俊雄『スキタイと匈奴』講談社、2007年

[編集] 外部リンク

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最終更新 2009年11月22日 (日) 13:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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