スター誕生!

スター誕生!の最新ニュースをまとめて検索!

曖昧さ回避 この項目では、日本テレビで放送された音楽バラエティ番組について記述しています。フジテレビで放送された、堀ちえみ主演のテレビドラマについては「スタア誕生 (テレビドラマ)」をご覧ください。
スター誕生!
ジャンル バラエティ音楽
放送時間 日曜日 11:00 - 11:55
→日曜日11:00 - 11:45(47→38分)
放送期間 1971年10月3日 - 1983年9月25日(619回)
放送国 日本
制作局 日本テレビ
監修 阿久悠
プロデューサー 池田文雄(CP)
出演者 出演者を参照
音声 ステレオ放送1982年10月以降)

スター誕生!』(スターたんじょう!)は、1971年10月3日 - 1983年9月25日の12年間に渡って放送された、日本テレビ視聴者参加型歌手オーディション番組。619回放送。略称は『スタ誕』(-たん)。

目次

[編集] 放送時間

放送日時は、日曜11:00 - 11:55。1982年4月4日以降は、放送時間が『NNN昼のニュース』の時間繰り上げに伴い11:00 - 11:45に短縮された。また、一部地域では放送日時が異なっていた。

[編集] 概要

番組の企画者は審査員の一人でもある阿久悠で、番組のタイトル命名はチーフプロデューサー池田文雄である。明日のスターを夢見る人のための正統派のオーディション番組であり、毎週、厳しい予選を勝ち抜いてきた5-7人程度の挑戦者が歌合戦形式で実力を競う。

同じネット局のよみうりテレビ全日本歌謡選手権』や、兄弟番組である日本テレビ『お笑いスター誕生!!』と共にまさに実力勝負が要求され、猛烈な審査の厳しさ、審査員の辛口批評などが特徴。そして、合格の瞬間、大号泣する挑戦者も多かった。

歌う曲は持ち歌のヒット曲で良い。ジャンルは基本的にアイドルだが、演歌などの他のジャンルでも構わない。

[編集] 視聴率

初回の視聴率は4.7%だった。森昌子デビュー後から視聴率が上昇。1978年5月7日放送分では番組史上最高の28.1%をマークした。初回当時の裏番組は『兼高かおる世界の旅』『圭三訪問』(いずれもTBS系)と『あなたのメロディー』(NHK総合)があったが、番組の人気上昇で『-世界の旅』は9:00に繰り上げ、他の2番組は打ち切りとなった。

[編集] 出演者

[編集] 司会者

  • 初代:萩本欽一 - 1971年10月3日-1980年4月6日[第443回]
    • 当時コント55号で人気絶頂期だった萩本にとって、初めてのソロ活動、かつ司会初挑戦だった。萩本は司会に起用されると「僕、司会なんてしたことないの」と語っている。萩本を起用した理由は「人柄の良さ」「アットホームさ」だという。その期待通り、萩本の出場者に対する親身な接し方、不合格者も暖かく見守る姿勢が審査員たちの辛口批評とのバランスをとる役割を果たし、司会が番組の人気を支える大きな要因となった。萩本にとってはこの仕事の成功が、『欽ドン!』等のその後のレギュラー番組にも結びついてくる。
  • 2代目:谷隼人タモリ - 1980年4月13日-1981年4月5日
    • 谷は出演当時「岩谷隆広」名義だった。タモリは兄弟番組である『お笑いスター誕生!!』にも、審査員として出演していた。2人とも『スタ誕』の司会を知る人は少なく、後年の同窓会(後述)で、タモリは「ほとんどつなぎの様なものでしたねぇ」と語っている。
  • 3代目:坂本九石野真子 - 1981年4月12日-1982年1月3日
    • 石野は『スタ誕』デビュー組の歌手。結婚による芸能界一時引退のために、1981年9月6日放送分で降板した。
  • 4代目:横山やすし・西川きよし - 1982年1月10日-1983年9月25日
    • 当初はきよしが、一般の老人女性と共に担当し、後に単独で務めた。やすしは1982年10月24日放送分から登場。

[編集] 審査員

萩本、谷・タモリ、坂本(・石野)時代
きよし単独時代(きよしは「評議員」と呼んでいた)
やすきよ時代(最末期。最終回まで)

[編集] その他の出演者

  • 高橋達也と東京ユニオン(バンド演奏)
  • 岡本章生とゲイスターズ(バンド演奏)最終回担当
  • 横森良造アコーディオン
  • 土居甫振付師)
  • 井上れい子(萩本時代のアシスタント。萩本と同時期に降板)
  • ザ・シュークリーム(ユキクーコイッコ、ノロ。萩本時代最初期のアシスタント)
  • リンリン・ランラン香港出身の双子デュオ。井上と共に萩本時代のアシスタントを務めた)
  • 北村優子(リンリン・ランランと同時期に、デビューコーナーに正式に出演する前に、少しの間アシスタントを務め、合格者の首にメダルをかけていた)
  • 黒部幸英(出演当時は「クロベエ」名義。萩本と同時期に降板)
  • 斉藤清六
  • 雪吹優二郎(ふぶき ゆうじろう…出演当時は「ユージロー」名義。萩本と同時期に降板)
  • 西山浩司
  • 「シンちゃん」
  • ラビット関根(坂本時代)
  • 伊藤さやか(坂本時代-やすきよ時代初期。当初は番組アシスタントを務めた女の子4人組「くれよん」の一員として出演)
  • 若松愛子(きよし単独時代初期に出演した一般の老人女性。元宝塚といっていた)
  • 堀敏彦(きよし単独時代、ゲームコーナー「仲よしきよし」に出演。当時高千穂商科大学に在学中で、浅井企画所属のタレント。現在はテレビ新潟アナウンサー
  • 伊藤英敏(やすきよ時代のナレーション)

[編集] 芸能史における位置付け

この番組でデビューしたタレントの活躍は芸能界地図を塗り替えるきっかけとなった。テレビの草創期から1970年代まで「ナベプロ王国」と称される黄金時代を築いた芸能事務所渡辺プロダクションがその絶対的な地位を失ったのは、ホリプロダクションサンミュージック田辺エージェンシーが力をつけたためであり、それら新興プロダクションへのタレント供給源となったのがこの番組だった。

ただ、ゲストとして渡辺プロ所属のタレント達が出演していた時期もあり、最初期のアシスタントを務めたザ・シュークリームは渡辺プロ所属だった。韓国で開催された予選にも当時渡辺プロ所属だった森進一がゲストとして出演した。第6回決戦大会頃までは番組に関わっていたようである。やがて、これに対抗するため渡辺プロは1973年より独自にオーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』をNETテレビ(現・テレビ朝日)で放映開始する。

ところが『あなたならOK!』の放映日時となった月曜日の夜8時という時間帯は日本テレビが『紅白歌のベストテン』を放送しており、これに渡辺プロの歌手も出演していたため、テレビの芸能史上に残る日本テレビと渡辺プロの間での戦争が起こった。しかし『あなたならOK』は視聴率に恵まれる事なく、結果は失敗に終わった。その後、38回決戦大会の前後ぐらいから番組には再び関わりはじめ、最終的に、渡辺プロは『スタ誕』から、松本明子をデビューさせた。

この番組の成功は“雨後の筍”の如く類似オーディション番組が生まれる結果に繋がったが、そのほとんどは既成の役者(主に子役出身者)を歌手としてデビューさせる傾向が多く、"原石から研ぐ"姿勢のスタ誕を超えることはできなかった。

番組終了後『スタ誕』復活を望む声があった。しかし、中三トリオを仕掛けた堀威夫(ホリプロ創業者、現・取締役ファウンダー)は後のインタビューで「当時は3分で作れるカップ麺が受けた時代だから昨日の素人がアイドル、スターになれる番組が受けた。今は高い金を出して並んででも美味しいものを求める時代だからもう最大公約数を求めるテレビはスターを作る番組は作れないだろう。」と語っていた[1]

[編集] ルール

[編集] 予選会

出場希望の葉書が殺到したため、毎週約500-1000人に絞り、百貨店そごう有楽町店が入っていた読売会館の7・8階のよみうりホールで予選会を行っていた。このため、日曜日のそごうの階段は、応募者の長蛇の列であふれ返っていた。なお、地方で公開録画がある場合は、放送している系列局で行われた。

応募者は、自ら持参した歌本(楽譜)を横森良造に提出し、横森のピアノの伴奏で歌う。

一次審査は、応募者は楽曲から好きな部分を四小節選び歌う。歌詞を忘れたり、歌い始めたと思ったらブザーが鳴ってしまったことも多かったという。この大人数の中から50人に絞り、同じ方法で二次審査を行う。二次審査ではさらに30人に絞られていく。どちらも失格者はその場で退場となる。

最終審査では、30人は1コーラス歌う時間を与えられる。そして、最終的にテレビに出場できる本選進出者が決定する。その人数は当初は14人だったが、時期により変動がある。詳しくは本選と審査方法の欄を参照。

[編集] 本選と審査方法

司会者の変遷により異なっていた。

[編集] 萩本欽一-谷隼人&タモリ時代

本選、つまりテレビに出場できるのは1回7人(組)まで。両代とも後期は5人に削減され(萩本時代は1978年4月から降板までの2年間、谷&タモリ時代は最後の1クール(1981年1月11日-3月15日))、予選会の二次→最終審査は20人→10人だった。

電動昇降のスタンドマイクの前に立って一人1曲、1コーラス歌い、審査を受ける。

結果発表の時、挑戦者の頭上に4桁の電光掲示板がある。舞台の下手(左側)にある。7人時は下段が1-4番で上段が5-7番、5人時は並列であった。会場の一般審査員と5人のプロフェッショナル審査員の合計点数が表示される。

得点は会場500点、プロは各自100点で計500点の1000点満点で、規定の点数に達すれば合格。その点数は7人時250点、5人時は300点。規定の300点時代の頃、305点でしかもギリギリラインで合格した挑戦者も多数いた。

最初に司会者が「まずは、会場の500点から、どうぞっ!!」と言い、会場から手元のスイッチで“投票”。その際にはファンファーレが鳴る。ボード上の数字は水色(初期は豆電球=ドット式)で回転。

まれに会場の段階で合格者が出ることもある。このとき、数字はブラウン管と同じ原理で赤に変わり、外周の赤い豆電球が時計回りに回転。目の前のパトライトが回転して合格を知らせる。

続いて、司会者が「さあ、審査員の先生方の500点が伸びます!どうぞっ!!」と言い、ドラムロールの音が鳴りプロの点数が加算される。数字が回転するのと同時に豆電球が回転。会場の段階での合格者もプロの点数は加算されるが、豆電球とパトライトはそのままで、数字は赤で回転する。失格の場合は点数の低い順から豆電球が消える。合格の場合、豆電球は回転したままで、数字が赤になりパトライトが回転。

得点ボードが赤く付き、パトライトが回転して合格した瞬間、生バンドによるファンファーレが鳴り、萩本、谷&タモリが「○番の方、合格です!!」と言う。さらに「合格!!おめでとう!!○番 ○○サン」の字幕スーパーが出る。

一度、萩本時代に『全国縦断選手権』というものが行われ、日本国内数箇所で予選を行い、それぞれの合格者が決勝に臨んだ。通常の決戦大会は行われなかった。優勝者はデビューはしなかった。他の出場者はその次の決戦大会に出場したが、スカウトのプラカードは誰にもあがらなかった。その中の一人が、後に『君こそスターだ!』でグランドチャンピオンになった、古賀栄子である。

谷&タモリ時代の5人時は、審査基準を歌唱力と個性に重点を置くため、会場の審査を歌っている最中に行っていた。舞台の中央(バンドボックス)左側にデジタル式の電光掲示板を設置し、画面の左下に緑のデジタル表示(クロマキー)を出していた。

合格者は、日本テレビ音楽学院(現・日テレ学院タレントコース)の入学案内書と副賞の奨学金が贈られ、紺色のブレザーコートが羽織られる。最後はバンザイをして締めくくり、エンディングとなった。

また、挑戦者全員には、スポンサーからの参加賞がプレゼントされる。

  • ただし全スポンサー6社(資生堂江崎グリコアサヒビールほか)の内、その中の3社→あとの3社という風に参加賞が変わっていった(つまり全社から出る事はなかった)。

全員失格だった場合はエンディングの際、萩本時代は「バンザーイ、無しよ!」とポーズをとって締めくくった。これも萩本のギャグのひとつになった。なお、谷&タモリ時代は「ゴメン!」の一言だけ、坂本時代は「残念!」の一言だけだった。

[編集] 坂本九・石野真子時代

本選は1回8人まで。予選会の二次→最終審査は30人→16人。

二部構成で、パート1は8人がメドレー形式で歌い、100人の観客が審査する。持ち点は各自1点。点数の高い者がパート2へ進む。その人数は当初は5人、途中から4人に削減。

パート2はハンドマイクで一人1曲、1コーラス歌い、プロの審査を受ける。歌う曲目はパート1と異なる。

結果発表の時、舞台に挑戦者が座っている巨大なデジタル式の電光掲示板が登場。5人の審査員の点数が一人ずつ個別に表示される。ドラムロールが流れながら、坂本が「○○先生、得点どうぞーっ!!」と言う。そして審査員の似顔絵が描かれたランプが点灯し、ファンファーレが流れて点数が表示される。持ち点は1人60点が基準で、クリアすれば赤い豆電球が回転。5人の合計が300点に達すれば合格で、豆電球が上下を取り囲んで回転し、目の前のパトライトが回転し、生バンドによるファンファーレが鳴り、坂本が「○点!!おめでとうー!!」と言う。

中森明菜はこの時代、本選3回目の挑戦で合格[2]。点数は、阿久悠: 75、森田公一: 70、都倉俊一: 85、松田敏江: 63、中村泰士: 99の合計392点。この形式での史上最高得点である。中村は本当は100点満点をつけるつもりだったが、ボードは2桁までしか入らないため99点とした。

合格者には中規模のトロフィーが授与された。初代の萩本時代から、決戦大会の最優秀賞獲得者にゴールデントロフィーを授与していたが、通常でもトロフィーが登場するようになったのはこの頃が初めてである。

同代から「スター誕生!」の番組名ロゴ及び、テーマ曲が変更されている。

なお、坂本九はナベプロの影響の強いマナセプロのタレントであり、彼を司会に起用したことについて日テレがナベプロとの和解を模索したと評されている。EDは、合格者・不合格者が前向きに頑張って貰いたいという願いから、「上を向いて歩こう」が使用され、坂本本人が歌っていた。

[編集] 西川きよし時代

本選は当初1回7人、放送時間短縮後は5人が登場。一人1曲歌う。 審査時には坂本時代と同様に舞台に巨大なパネルが登場、挑戦者も座っている。ティンパニロールが鳴り、星の形の10個の電光ランプが8個以上点灯すると合格となり、決戦大会に進出となる。

決戦大会の選考方法が違うので、決戦大会の項目を参照。

[編集] 横山やすし・西川きよし時代

[編集] 前期(1982年10月24日-12月12日)

本選は1回15人が登場し、一人1曲歌う。審査は歌っている最中に行われ、結果は背後の大きな星型の電光掲示板が合格ラインに達すれば合格となり、自動的に決戦大会に進んだ。しかし、やすきよ時代の決戦大会は1回しか行われなかった。詳しくは決戦大会の項目を参照。

[編集] 後期(1983年1月23日-最終回)

「全国選抜歌の選手権」のサブタイトルがついた。ルールも大幅に変更され、決戦大会をなくし、勝ち抜き制となった。一人1曲歌い、即座に審査結果が発表される。5人の審査員の合計が350点(持ち点は一人70点が基準)をクリアすると次の週に進んだ。そして7週連続勝ち抜くとグランドチャンピオンとなり、天井から紙吹雪が降り(風船は入っていない)、審査員から賞状とゴールデントロフィーが授与された。

この回から「グランドチャンピオン」のフレーズが出て来た。それまでは通常大会や決戦大会でも単に「合格」であり、さらに決戦大会合格者の中からは「最優秀賞」と表現していた。

グランドチャンピオン達成の瞬間、「おめでとう!!グランドチャンピオン!!」の字幕スーパーが大きく出た。表彰の際には「1週目『○○(曲目)』…」というように全ての歌った曲目の字幕ロールが出る。この回から、挑戦者がプロ・アマ問わなくなり、プロにはなったものの、ヒット曲に恵まれなかった元プロ歌手も出場していた。また、このやすきよの代から、再び萩本、谷&タモリ時代の番組名ロゴに戻る。

[編集] 決戦大会

1クール(3ヶ月)に1回、合格者が7、8人たまったところで、観客席に芸能事務所、レコード会社のスカウトマンを集めて行われた。通常通り一人1曲、1コーラス歌い、審査員がコメントし、スカウトマンが質問した。

挑戦者はスカウトマンに対し、スカウトしてくれるように呼びかけた。「○番、○○です。一生懸命歌いました。よろしくお願いいたします」というフレーズは、多くの挑戦者が放った。スカウトマンの中には、元ザ・タイガースタローや元ヴィレッジシンガーズのヴォーカル、清水道夫などがいた。

司会者の「どうぞー!!」の合図で、スカウトする意思があれば、会社の名前が書かれたプラカードを掲げた。特に萩本時代、なかなかスカウトマンがプラカードを揚げない状況が続くと「お願い、勝たせてあげてよー!」というセリフもよく出た。プラカードが揚がった瞬間、ファンファーレが鳴り、司会者が「揚がりましたーっ!!おめでとうございまーすっ!!」と言っていた。

規定では、1社しか挙がらなくても合格として認められていたが、その後、会社の組み合わせができなければ保留、または失格になった。もちろん1社からも指名されず、即失格となる挑戦者もいた。そして、合格者(スカウトされた挑戦者)の中から1人「最優秀賞」が審査員から発表された。この方法は人買い批判もされたが、チーフプロデューサーの池田文雄はこれについて、「あれは素人に芸能界の厳しさを教えたかったから」とインタビューで語っている[1]。その他、最優秀賞の次に優秀だった合格者に「審査員特別賞」が、まれに失格者の中から1人、審査員の裁量で次の決戦大会への挑戦権が優先的に与えられる「審査員奨励賞」が発表された。

12年間の最高指名社数は、桜田淳子の25社。その他では山口百恵新沼謙治に対して20社、渋谷哲平-18社、伊藤咲子-17社、石野真子-16社、清水由貴子-14社、森昌子-13社、中森明菜-11社、岩崎宏美-8社、ピンク・レディー-8社、岡田有希子-4社、柏原芳恵-3社、小泉今日子-3社、等。最少指名社数1社の人には、渡辺プロダクションのみにスカウトされた松本明子[3]などがいる。

現存する番組の一番古い映像は、桜田淳子の秋田県テレビ予選出場者の選考会フィルム。森昌子・桜田淳子・山口百恵の決戦大会の映像は残されていない。音声のみのテープと写真が存在するだけである。決戦大会で山口百恵は、東宝レコードスカウトマンの「百恵ちゃんは足は太いほうですか」の質問に、「はい、太いです」と返答した。

西川時代の決戦大会は、スカウトマンが2名までスカウトして投票する形式で、投票後に即集計された。結果発表では挑戦者が「おめでとう!(会社名)以上○(数字)社が貴方をスカウトしました。」と書かれた紙が入った封筒を持って待っていた。その後挑戦者が一人ずつ最前列に立って開封、獲得意思のある会社名が書かれていたら合格となり、「ありました」または「受かりました」などと言った。ファンファーレが鳴り、「おめでとう!○○××さん」というテロップが出る中、天井から紙吹雪が降り、トロフィーが授与された。逆に書かれていなかったら失格となり、「ありませんでした」または「受かりませんでした」と言って退場した。この方式でスカウトされたのは、吹田明日香松尾久美子、松本明子である。

やすきよ時代の決戦大会は、1982年12月19日26日の2週に渡って行われた。事実上準決勝となるパート1は全合格者が一人1曲歌い、事実上決勝となるパート2に進める10人が選ばれた。パート2は10人が歌ったあと、スカウトマンが質問。そして萩本・谷&タモリ・坂本時代と同様に、スカウトマンに対し、スカウトしてくれるように呼びかけた。スカウトされたら西川時代同様、「おめでとう!○○××さん」というテロップが出る中、天井から紙吹雪が降り、トロフィーが授与された。この方式でスカウトされたのは、岡田有希子太田貴子高橋美枝である。

この番組は歌手デビューがメインのオーディション番組だったが、決戦大会でプラカードがあがってもデビュー出来たかった人達、歌手以外の芸能人でデビューして有名になった人達は数多くいる。10回決戦大会:1名、11回:1名、12回:1名、15回:1名、17回:3名(一人は最優秀賞受賞者)、19回:1名など。逆に決戦大会では失格になったものの、別口でスカウトされてデビュー、有名になったケースもある。例えば、全日本女子プロレスから女子プロレスラーとしてデビューしたマッハ文朱、決戦大会当日は指名しなかったボンドより翌年原宿でスカウトされデビューした本田美奈子、後にヤマハPOPCONでグランプリを獲得しデビューした本田美緒など。

[編集] その他のコーナー

挑戦者全員の歌の審査が終わったあと、結果発表が出るまでの間、全挑戦者をリラックスさせるため、ゲストとともにいろいろなゲームを行っていた。特に萩本司会時代が知られ、「欽ちゃんと遊ぼう」コーナーと呼ばれており、「こっちむいてホイ!」「ドビン・チャビン・ハゲチャビン」「フルーツバスケット」「古今東西」「あなたにお名前差し上げます」等の数多くのゲームが生まれた。またリンリン・ランランが加入後は、「振りまねコーナー」といって、リンリン・ランランやピンク・レディーのヒットソングの振りまねをやる事が有った。このコーナーから、黒部幸英(「欽ちゃんコーナー初代チャンピオン」、ニックネーム・クロベエ)、西山浩司らがブレイクし、いずれも萩本にスカウトされた。コーナー冒頭でアシスタントの井上れい子が「審査の集計が出るまで、欽ちゃんと一緒に遊びましょうね!」と言っていた。さらに萩本はこのコーナーの企画を手掛けていた。また、谷&タモリ時代にも、タモリのみ出演だが同様のコーナーが行われていた。さらに西川単独時代にも「仲よしきよし」のコーナーがあった。

決戦大会の合格者が出演し、萩本ら司会者の問いかけに答える形で報告する「スタ誕情報局」コーナーも設けられた。合格者の大半は、芸名とデビューの予定月日を告知する。

また、不定期的だが、番組出身の新人歌手を紹介するデビューコーナーがある。デビュー曲のタイトルと歌手名のオブジェをステージのセットとして使い、新人歌手を大々的にアピールしていた。また、客席に小ステージを設けることもあった。

[編集] 公開録画と収録場所

原則として毎月2回、東京都内にある後楽園ホールで2週分収録して、一般観覧客を招いて行なわれた。後楽園ホールがプロレスやプロボクシングなどのほかの興行や、メンテナンスで使用できない場合は、調布グリーンホールなど、郊外の公会堂を使用していた。

また、年に3、4回は、地方で公開録画も行なわれた。現地の日系人が出場してハワイ大会も行われた。1975年沖縄海洋博会場からも公録が行われた。また、西川時代はキャンプ形式で1度だけ山中湖のキャンプ場でロケを行い放送した。

[編集] セットの変遷

萩本・谷&タモリ時代

上部に丸みを帯びた長方形の連なった模様の飾りが配置され、中央部にタイトルロゴがある(時期により金色の日本地図も併設されていた)。また、飾りの中には黄色のパネルが埋め込まれ、このパネルには提供スポンサー名が印刷されていた。長方形の飾りの外側には丸みを帯びた左右対称のL型の板があり、双方に日本テレビ音楽学院(現・日テレ学院)のマークが飾られていた(谷&タモリ時代はマークが変更、バックが銀色で竪琴と獅子が青系となった)。飾りの下には大階段があり、挑戦者がイントロと共にスタンドマイクの前に駆け下りてくる。階段の両脇には萩本時代は大きな手摺りと造花が飾られていたが、谷&タモリ時代には撤去された。ビッグバンドの配列は、階段の右半分は右からグランドピアノ(下段)・女性コーラス(上段)→ギター系(下段)・女性コーラスの待機場所→アコーディオン(横森良三)→チューブラーベル(上段、コーラスの待機場所とアコーディオンは1978年からシンセサイザー用のスペースになる)。1979年 - 80年にはギター系の下に電気ピアノが入ることもあった。左半分はドラムスブラスで、指揮者は左半分側にいた。また、1970年代後半にはドラムスの下にラテンパーカッションが入った(配列は後楽園ホールでの収録の場合を基準にしている。地方の公会堂では、ステージの構造上逆の配列になっていた)。ちなみに、野外での収録(前述のハワイ大会や沖縄海洋博等)の際には階段とビッグバンドのない簡素なセットになり、バンド演奏はあらかじめ録音したもの(?)を使用していた。挑戦者5人時代、舞台下手にある電光掲示板の上部には、左側はタイトルロゴ(両代共通)、右側は萩本時代は放送回数、谷&タモリ時代は収録場所のある都市名(たとえば後楽園ホールなら「東京」)が掲げられていた。

坂本時代

ビッグバンドは中央から左寄りのピット内に収められ、右側に階段がある。バンドの配列は、中央側がグランドピアノ→ドラムス(下段)・シンセサイザー→ギター系(中段)・ラテンパーカッション→女性コーラス(上段)、左側はブラスで、その手前に指揮者がいた。下手・上手と階段上部にはカーテン付きの衝立(階段上部はやや大型。上手には提供スポンサー名が掲げられている)。背景は通常は青系である。

西川時代

ビッグバンドは坂本時代と同様にピット内に収められているが、萩本・谷&タモリ時代の時に似ている。バンドの配列は、階段の右半分は右からグランドピアノ→シンセサイザー(下段)・ギター系(中段)・女性コーラス→ラテンパーカッション(上段)、左半分はドラムスとブラスで、その手前に指揮者。下手・上手にはカーテン付きの衝立。その上に提供スポンサー名が掲げられている。背景は通常は青系であるが、結果発表の時に巨大なパネルが登場する(決戦大会時にはセットの一部になり、結果を見て「合格」なら星型のランプが点滅する)。また、背景を隠すため、タイトルロゴが印刷された左右両開きのスライド式の板もある。

やすきよ時代

中央の階段がなくなり、オーケストラピットが中央に集中し、その代わりに左右に階段が設けられた。また、『スター誕生!』のロゴの星の部分に電飾が埋められた。提供スポンサーは両方のL型の板にパネルで張られていた。

審査員席

萩本時代の7人時と坂本時代は客席の最前列で(特設のテーブルがあった)、それ以外は舞台の上手(右側)にて審査していた。萩本時代の5人時と谷&タモリ時代には、背後に番組出身者の写真が飾られていた。

[編集] 出場者

[編集] 主な合格者

(合格した時期が早い順番から)

[編集] 決戦大会で失格となった出場者

  • マッハ文朱(この回の合格者に山口百恵がいた)
  • 中真理子(この回の合格者に梶たか子、片平なぎさ、小林美樹がいた。その後『全日本歌謡選手権』に挑戦、1週落ちるものの審査員の裁量で再挑戦の機会が与えられ、10週連続で勝ち抜いた)
  • 日野美歌(本選で敗退)
  • 柳葉敏郎(本選で敗退)
  • 佐久間レイ(二度決戦大会に挑戦も失格。最初の挑戦で審査員奨励賞を受賞(その回の合格者に河上幸恵がいた)、2度目の挑戦時の合格者に中森明菜がいた)
  • 新井由美子
  • 本田美奈子
  • 徳永英明(本田と徳永が出場した回の合格者に松本明子がいた)

[編集] その他の出場者

  • 古手川祐子は番組に何度も応募したが、別なプロダクションに所属して女優デビューした後に書類選考を通過した。
  • 田中美佐子は番組に応募したが、返ってきたのは公開録画の観覧案内だったらしい。
  • 野沢直子は番組に応募したが、一次審査で不合格だった。
  • 大江千里は番組に応募したが、予選会で不合格だった。最終審査まで進んだかは不明。ちなみに松本明子とは偶然にもデビューが同じ日(1983年5月21日)だった。
  • 河合奈保子は番組に応募するも、書類選考の段階で選外となった。

[編集] 放送回のエピソード

[編集] 100回記念

  • 1973年8月26日放送は通常の審査と結果発表に加え、これまでの番組出身者が一同に登場。同時に森・桜田・山口の「花の中三トリオ」が確立した。

[編集] 200回記念

[編集] 300回記念

[編集] 400回記念

  • 1979年6月3日放送は通常回の後楽園ホールを飛び出し、巨人軍多摩川グラウンドからの放送。
  • 『スタ誕』デビュー者と、審査員が阿久悠監督・森田公一コーチ率いる紅軍「レッドスターズ」と、都倉俊一監督・中村泰士コーチ白軍「ホワイトスターズ」に分れてソフトボール大会をした。また審判を萩本が務めた。実況(兼ナレーター)は、当時局アナの徳光和夫が担当した。
  • 参加したデビュー者の背番号は、合格した順ずつに付けられた(例えば森昌子は2、桜田淳子は13という風に)。
  • ユニフォームは、レッドは白地に黒のストライプ、ホワイトは肌色無地で、胸マークは双方とも番組タイトルだった。また女性歌手用は双方ともホットパンツ状で、上半身部はレッドは赤のラグランスリーブ付き、ホワイトは襟付きであり、更に頭にはサンバイザーを付けていた(男性は野球帽)。
  • フェンスには番組スポンサー(これは後楽園ホールでのバック装飾も同じ)のほかに当時のネット局のロゴ(読売テレビは現行のytv'ロゴではなかった)が描かれていた。
  • 勝負は、4-1でホワイトスターズの勝ち。最高殊勲選手賞は、デビュー間もない井上望が受賞した(理由は「5回完投したから」)。
  • なお勝利チーム「ホワイトスターズ」の都倉監督と中村コーチは、勝負には勝ったものの、「メンバーの内3名出し忘れた」という責任で、「バツ賞」(つまり罰ゲーム)として、グラウンドを1周させられた。
  • 最後は、萩本球審を出演者全員で胴上げして締め括った。

[編集] 萩本最終日

  • 萩本が最後の司会を務めた1980年4月6日(第443回)放送は、通常のレギュラー回で結果発表のあと、次期司会者(谷隼人&タモリ)と萩本時代の出身者が登場し、萩本のお別れに、何人か涙ぐんだ。
  • スタッフ紹介のあと、萩本と同時に番組を卒業する井上れい子とクロベ・ユージローと同時にゲートに立ち去った。
  • 萩本は次期司会者の2人にメッセージを送った。

[編集] 山口百恵の最後の出演

[編集] 500回記念

  • 1981年3月29日と4月5日放送は、通常回の後楽園ホールを飛び出し、日本武道館からの放送。
  • 全デビュー者がメドレーでデビュー曲を数小節ずつ歌ったが、引退者はデビュー当時のポスターとともに出席できない理由が会場からアナウンスされた。
  • その時点での司会者は坂本九・石野真子が担当しており、それに加え萩本欽一も会場に駆けつけた。
  • この回の記念放送では坂本時代のロゴではなく、萩本・谷&タモリ時代のロゴが使用された。
  • 池田文雄プロデューサーは、当時胃の疾患で入院しており、不運にも番組を直接見届けることはできなかった。

[編集] 番組の終焉

番組の衰退は萩本の降板後から始まった。萩本降板後の1980年以降、「ホリプロタレントスカウトキャラバン」に代表されるように芸能事務所が直接アイドルをスカウトする形式が定着化し、番組への応募者も徐々に減少していった。谷&タモリ時代、坂本時代、やすきよ時代も決戦大会の合格者は出ているものの、人気歌手が徐々に少なくなっていく。さらに、1982年10月にスタートしたフジテレビ笑っていいとも!増刊号』が若者中心に流れ、司会者・審査員を頻繁に交代し、ルールを変えるなどのてこ入れを行ったが、これらも功を奏さず視聴率は下降線を続け、ついに1983年9月25日をもって12年・619回の歴史に幕を閉じた。  

[編集] 最終回

  • 最終回には初代司会者の萩本からVTRによるコメントがあった。番組冒頭に番組出身の歌手が集結し(復帰したばかりの石野真子も出ていた)、ナレーターの伊藤英敏が5分間紹介した。また、前週まで末期の段階でGC規定数週に満たなかった出場者が2人出たため、その週にクリアした出場者は認定書を贈られた。番組エンディングには今後デビューが見込まれる合格者を紹介した後、全員で番組テーマ曲「スタ誕賛歌」を歌った。
  • 「スタ誕賛歌」の前奏部分で「12年の足跡」を縦向き横文字ロールで紹介した。応募総数が約200万通、予選参加総数が約60万人、番組出場者総数が5500組、うち決戦大会出場者総数が423組、うちプロデビュー者は81組。終了時点で41組が現役で活躍し、以降のデビューを控えていた者が18人いた。

[編集] 番組終了後

[編集] スタッフ

(1980年時点のもの)

  • 監修:阿久悠
  • 構成:河村シゲル、太田イサム、源高志、詩村博史 / 萩本欽一
  • 振付:土居甫
  • アコーディオン:横森良造
  • 編曲:高見弘
  • チーフプロデューサー:池田文雄
  • プロデューサー / ディレクター:金谷勲夫、清水和夫、宮嶋章、吉岡正敏ほか
  • 製作:日本テレビ

なお、地方収録の場合は各ネット局が制作・技術協力として参加した。

[編集] 放映ネット局

[編集] 関連項目

1974年11月14日に『実録・スター誕生!1974』を放送。大半がフィルム構成で、高一トリオが横森良造とリハーサル中に談笑したり、予選会での歌唱シーンを再現していた(森昌子は本名(森田昌子)を名乗っていた)。また、黒木真由美の予選会と本選の追跡取材、彼女が駒を進めた第11回決戦大会も一部(最優秀賞を受賞した岩崎宏美の獲得交渉の模様も含めて)収録されている。

[編集] 備考

一部メディアで、石川さゆりは『スタ誕』出身という紹介があったが、これは誤りである。

他番組では不合格、『スタ誕』では合格し大ブレイクした人としてはピンク・レディー、石野真子など、その逆のパターンは本田美奈子、徳永英明などがいる。

[編集] 参考書籍

  • テレビ人生!「そんなわけで!!」録(著・池田文雄、コアラブックス)1985年12月 
  • 夢を食った男たち - 「スター誕生」と黄金の70年代(著・阿久悠、小池書院1997年7月 ISBN 4883157628
  • 夢を食った男たち - 「スター誕生」と歌謡曲 黄金の70年代(著・阿久悠、文春文庫。上記の再発版)2007年12月 ISBN 416732105X

[編集] 出典

[ヘルプ]
  1. ^ 読売新聞芸能部編『テレビ番組の40年』日本放送出版協会(NHK出版)、1994年11月 ISBN 4140801921
  2. ^ 中森明菜著『本気だよ -菜の詩・17歳-』小学館、1983年5月 ISBN 4093631212
  3. ^ 1993年に放送された同窓会では、「私だけ『お笑いスター誕生!!』という雰囲気がしてならない」と言って事実上謝罪したが、当時司会をしていた西川きよしは「いいがなあ。」と言って慰めていた。

[編集] 番組の移り変わり

日本テレビ系列 日曜11:00 - 12:00
(1971年10月 - 1982年3月)
前番組 番組名 次番組
11:00-にっぽんの時間
11:15-ペアでハワイへ歌のチャンピオン
スター誕生!
11:00-スター誕生!
11:45-NNN昼のニュース
日本テレビ 日曜11:00 - 11:45
(1982年4月 - 1983年9月)
スター誕生!
(11:00 - 12:00)
スター誕生!

最終更新 2009年11月22日 (日) 15:05 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【スター誕生!】変更履歴

ご利用上の注意