スティーブン・フォスター

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スティーブン・フォスター
Stephen Foster
基本情報
別名 アメリカ音楽の父
出生 1826年7月4日
アメリカ合衆国ペンシルベニア州ルイスヴィル
死没 1864年1月13日
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市
職業 作曲家
  

スティーヴン・フォスター(Stephen Collins Foster、1826年7月4日 - 1864年1月13日)は、ヘンリ・クレイ・ワークと並んで、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。「アメリカ音楽の父」とも称される。

目次

[編集] 生涯

ペンシルベニア州ピッツバーグの隣町ルイスヴィルで、比較的裕福な家庭に10人兄弟の末っ子として育つ。音楽教育はほとんど受けなかったにもかかわらず、二十歳になるまでにすでにいくつか歌曲を出版していた。

1846年オハイオ州シンシナティに転居し、兄の蒸気船会社で簿記を務める。シンシナティ在住中に、最初のヒット曲《おおスザンナ》を発表。これは1848年9年カリフォルニアゴールド・ラッシュの賛歌となった。1849年に出版された曲集『フォスターのミンストレル・ソング集Foster's Ethiopian Melodies』には、「クリスティ・ミンストレルズ」によってヒットした《やさしいネリー" Nelly Was A Lady"》が収録されている。

同年フォスターはペンシルベニアに戻ってコンサートを開き、クリスティ・ミンストレルズと共演、最も有名な歌曲が書かれる時代の始まりとなった。1862年ニューヨーク市に転出。

フォスター歌曲の多くは、ミンストレル・ショーの伝統に則り、時流に乗ったが、アフロ・アメリカンの音楽を単にカリカチュアしてみせたというよりも、白人向けに書かれた当時の楽曲には珍しく、黒人奴隷の苦しみに共感を示してみせている。白人作曲家として最初に、睦み合う黒人夫婦を描き出したのがフォスターである。これゆえにフォスターは、とりわけフレデリック・ダグラスの称賛を勝ち得ることになった。フォスターの歌曲はほとんどが南部における日常を扱っているにもかかわらず、フォスター自身は1852年に新婚旅行でニューオーリンズを訪れたのを別とすれば、南部で直接的な経験をしていない。

フォスターはプロの歌曲作家として生計を立てようとしており、プロの作曲家と見なしてよいのだが、当時は現代的な意味で「作曲家」という職業分野は確立されてはいなかった。その結果、部分的には、音楽著作権や作曲家の印税に対する配給の乏しさのため、フォスターは自分の出版譜がもたらした利潤をほとんど受け取ることができなかった。複数の出版社がしばしば競合してフォスター作品の独自の版を出しながら、フォスターには報酬を与えなかったのである。1862年初頭にフォスターの運は下降線をたどり始め、そうなると彼の新作歌曲の質も落ち始めた。これは、作詞を引き受けるようになったジョージ・クーパーとのチームワークのせいでもあったかもしれない。戦時経済も出版に向けてのフォスターの努力に災いした。

フォスターはマンハッタンのノース・アメリカン・ホテルに滞在中に、落ちぶれ果てて(所持金38セントしかない状態で)、37歳で死去した。亡骸はペンシルベニア州ピッツバーグのアレゲーニー墓地に埋葬されている。

[編集] 後世への影響

フォスター自身はクラシックの器楽曲をほとんど作曲していないが、後にフォスターの歌曲は、ドヴォルザークによって編曲されたり、チャドウィックアイヴズ、NHK室内管弦楽団らの管弦楽曲に引用されるなど、クラシック音楽の作曲家にも影響を及ぼした。

生家は今でも解体されずに残っている。

[編集] 主な作品

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年9月19日 (土) 13:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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