スト権スト

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スト権スト(すとけんすと)とは、なんらかの理由でストライキ行為を法令により禁止されている労働者が、ストライキを行う権利を求めて行うストライキである。当然、法令などには違反するストライキとなる。

日本で単にスト権ストと言った場合、1975年に公共企業体等労働組合協議会(公労協)が行ったストライキを指すことが多い。本項ではこれについて詳述する。

[編集] 公労協のスト権スト

公共企業体(いわゆる三公社五現業)の職員は、公共企業体等労働関係法(昭和23年法律第257号)によってストライキが禁止されていたが、公労協は順法闘争や違法ストなどで抵抗していた。これに対し日本国有鉄道総裁の藤井松太郎は1975年10月21日、国鉄当局の見解として条件つきでスト権付与を認める考えを明らかにし、労組側はこれを好機と捉えて11月26日に「スト権スト」に踏み切った。

国鉄では国鉄労働組合(国労)・国鉄動力車労働組合(動労)が中心となって10日間のストを指令し、旅客・貨物ともほぼ全面的に列車の運転を休止した。旅客輸送では鉄道への依存度が高い首都圏を中心に通勤・通学客に大きな影響を与え、マスコミはスト突入にあわせて職場に泊り込むサラリーマンや休校に追い込まれる学校、並行私鉄線の混乱などを大きく報じた。

一方政府は、貨物輸送がストップすることで首都圏の生活物資が不足し、社会混乱が発生する事態を想定。防衛庁などとも対応を協議した[1]。しかし都内の物価はスト4日目から値下がりに転じ、実際には大きな混乱は起きなかった。政府が調査したところ、生活物資輸送の大半は既に自動車にシフトしている実情が明らかになったため[1]内閣総理大臣三木武夫12月1日に「ストに屈しない」との声明を発表した。この事態を受けて国労と動労はただちにスト中止に動き、12月3日までの8日間でストは収束。8日間で旅客列車14万2502本、貨物列車4万1317本が運休した。

当時の政府部内では、条件つき付与論に傾いていた三木に対し、自由民主党副総裁椎名悦三郎自由民主党幹事長中曽根康弘などはスト権付与に反対。前内閣総理大臣の田中角榮率いる田中派(七日会)は「違法ストに対して強硬に対処せよ」と公労協に対して強い反発を示していた。藤井は責任を取って国鉄総裁を辞任し、国鉄は国労・動労を相手取って202億円の損害賠償訴訟を起こした(1994年和解)。

このスト権ストで組合側は敗北し、動労は組織防衛の観点から政府側との全面対決を避け、スト戦術からの転換を図ってゆく。国労も内々にスト放棄を決めていたが、様々なセクトが入り込んで組織として統一が取れなくなっていたため結局スト放棄を決められなかった。国労執行部の弱体ぶりを世間に晒すこととなり、後に国鉄分割民営化を巡って組織分裂の末路をたどることとなる。

1974年に23日に達していた国鉄の年間スト延べ日数は、スト権スト以降、1976年には8日、1977年には6日と急減した[1]。また、国鉄の貨物輸送は信頼を失い、1972年度に1.85億トンあった貨物取扱量は1975年には1.41億トンにまで減少し経営をさらに圧迫することとなった[2]

[編集] 脚注

  1. ^ 有賀宗吉『国鉄職員と組合運動の戦後史』(「鉄道ジャーナル」1984年10月号、鉄道ジャーナル社)
  2. ^ 運輸省「運輸白書」昭和48年版および昭和51年版より。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月16日 (月) 16:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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