スペイン人

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スペイン人
スペイン人の一覧(スペイン人を否認する人々も含む)
総人口

約4000万人

居住地域
イベリア半島
言語
カスティーリャ語非カスティーリャ系諸言語
宗教
カトリックプロテスタント
関連する民族

ラテン系ケルト系古代イベリア人

スペイン人español)はヨーロッパ南西のイベリア半島に分布すると考えられる民族、もしくはスペイン国の国籍保持者。

スペイン語圏では民族という呼称を避けて、「憲法において定義されるスペイン住民」(Pueblo español según la Constitución)と呼ぶ事も多い。

目次

[編集] 概要

分離主義者が主張するイベリア半島民族分布。この論に立つ場合、スペイン人は諸民族の大部分を統合する概念となる。

スペインという国の成立は、西欧主要国の中でも比較的古い部類に入る。しかしスペイン人という民族グループの成立は、統一の立役者としてスペイン人を自負するカスティーリャ王国の住民と、その過程で失われた国々(バルセロナ伯国バスク国など)の住民という対立軸から、今日に至るまでスペイン国民全体を纏める存在にはなり得ていない。またスペイン人(カスティーリャ人)の間でも、初期からのカスティーリャ王国住民と、後々に併合された国(アラゴン王国レオン王国)や、レコンキスタが完成するまでの長期間をイスラム圏で過ごしたアンダルシア地方の住民とで、文化的な対立が存在している。

第二次世界大戦前後から近年に至るまで、フランシスコ・フランコ政権下で推し進められた国家主義政策で地方の民族主義は弾圧されたが、これはカスティーリャ系住民の結束こそ固めたものの、逆に非カスティーリャ人の民族意識を一層に強める効果も齎した。その為かフランコ死後の民主政権では地方で各民族運動が激化する事になり、民主化後のスペインはフランコ政権時代の反省から、自治権の拡大などの政治的譲歩に応じた。1978年に制定された新憲法に記載された「憲法は地方の自治と団結を保障する」との文章はその象徴とも呼べる。

妥協案は多くのスペイン人や地方主義者の穏健派に受け入れられたが、国家主義者達は政府の譲歩を国家崩壊への前哨と批判し政府と地方運動の双方を攻撃した。また地方運動の強硬派も完全な独立を阻止しようとする飴玉だと批判、政府と自派穏健派を攻撃した。この奇妙な対立が最も顕著に現れたのがカタルーニャ州の更なる自治権拡大を定めた法案が議会で審議された時で、殆どの住民がこの法案に賛同する中、カタルーニャ独立運動の最強硬派は、「国家解体の第一歩」「スペインのバルカン半島化」と同法案を批判していた国家主義者グループと共にこの法案に反対していた。

前述の通り、地方民族の多くはスペインという国に関しては経済的・軍事的な連合体として評価しており、急速な独立や内戦には消極的である。しかしそれはあくまでスペインが「多民族国家」である事が大前提であり、彼らの多くは最終的にスペインが連邦制国家や国家連合体へ変化する事を望んでいる。

[編集] 地方対立

[編集] カタルーニャ

詳細は「カタルーニャ人」を参照

カタルーニャ旗を掲げて行進するカタルーニャ独立派のデモ隊。
こうした落書きは然程珍しいものではない。

カタルーニャ人の独立心の高さは、しばしばバスク人と共にスペインの地方運動の象徴として紹介される。カタルーニャ人自身もこうした運動を「カタラニズム」(Catalanism)と呼称し、殆どの住民が程度の差は在れど、カタラニズムに基づいた政治活動に賛同している。

カルタゴ共和国に起源を持つカタルーニャ地方は古代においては他のイベリア住民と同じくローマ帝国の支配を受けてラテン人化され、中世ではフランク王国のイベリア北部占領でイスラム教徒の支配から早々に逃れた。フランク王がバルセロナ伯国を設置すると、フランク領内の人材が一代限りの伯爵として派遣される事になるが、その中の一人であった南仏出身のギフレ1世多毛伯が世襲化に成功した。ギフレはカタルーニャの主流を占めていた南フランス系移民と旧支配層である西ゴート住民双方の血筋を引いており、同地に住まう人々を一つに纏めフランク王権や周辺国から独立した存在にするなど、今日のカタルーニャの基礎を築き上げた。カタルーニャ人のシンボルたるカタルーニャ旗もギフレが用いた紋章を元としている。

近世に入って大国化したカスティーリャ王国スペイン王国)がナスル朝イスラム帝国を滅ぼしてレコンキスタを完成させると、程無くバルセロナ伯国は独立を失って従属下に置かれた。だが民族意識の統合に不可欠である文化統一において、南フランスのオック諸語の影響を受けたカタルーニャ語を使い、レコンキスタ完成まで決してスペイン王国に合流しなかった歴史を持つカタルーニャは異端以外の何者でもなかった。カタルーニャ人は度々反乱を起こしてはスペイン王国の悩みの種となり、特に1640年のカタルーニャ反乱en:Catalan Revolt)は世界帝国に躍進していたスペインが凋落する一つの契機となった。

近代に入って衰退著しいスペイン王国がリーフ戦争での醜態を遠因とする内乱に突入する(スペイン内乱)と、多くのカタルーニャ人は地方運動に理解を示していた政府軍側に付いて戦ったが、フランシスコ・フランコ将軍率いる反乱軍に敗れた。フランコ政権は国家主義的な政策を推進し、カタルーニャを経済的に優遇しつつ、カタルーニャ語の使用を禁止するなど、飴と鞭を使い分けての同化を進めたが、カタルーニャ人はむしろ一層に結束を固めた。フランコ没後の民主化によってカタルーニャ人は大幅な自治権を与えられ、カタルーニャ語は明確にスペイン語とは異なる言語と認められた上で公用語の一つとされる。

現在もカタルーニャ人はスペインの地方運動においてもっとも強硬で、地元議会で独立派・自治賛成派議員が多数を占める上に、カタルーニャ人の利益を代表する政党として結成されたカタルーニャ同盟の議員を中央政界に送り出している。バルセロナオリンピックでは、開会式でスペイン国旗以上にカタルーニャ旗を振り回す観客が多かったという逸話が残っている。

[編集] バレンシア

バレンシア地方はカタルーニャ地方の南部に相当する地域で、バレンシア人という独自の民族意識を有している。しかしながら言語面ではカタルーニャ語の方言の域に留まっている為、しばしば議論の対象となる。アンダルシアとカスティーリャの関係と類似していると言える。

[編集] バスク

詳細は「バスク人」を参照

武装組織「バスク祖国と自由」(ETA)の構成員と支持者達。スペイン内戦でフランコ軍との戦いに殉じた独立派兵士の死を悼む式典を行っている。
ETAによって書かれた壁画。シンボルマークにナバラ王国紋章が用いられているのが分かる。

彼ら自身の言葉で言えばエウスカディ人となるバスクの人々は、スペインのみならず世界に良く知られた独立精神を持っている。凄惨なテロ行為や内戦すら恐れない彼らの強烈な自尊心は、一般に知られる言語の特異性だけを理由としている訳ではない。むしろその言語の特異性を生んだ、古代から今日に至るまで一貫して他者と交わらず、征服者に抵抗してきた歴史が背景にある。

今日こそ領域・人口数共に少数派へと転じてはいるが、かつてバスク人はイベリアで最も支配的な勢力となった経験を持っている。それは他のイベリア系諸民族がローマ帝国に飲み込まれラテン人化されていく中、ただ唯一事実上の独立を勝ち得ていた古代の時代が終わりを迎えてからの事になる。イスラム帝国やフランク王国などローマに変わる外国勢力が入り込み始めた中世初期、バスク人は族長イニゴ・アリスタに率いられてフランクとイスラム双方へ反旗を翻し、彼らを破ってバンプローナ王国を築いた。代を重ねてナバラ王国と名を改めたバスク人の国は、アリスタ王の血を引く大王サンチョ3世時代にイスラム勢の一部を従え、更に婚姻外交でアラゴン王国カスティーリャ王国を併合してイベリア北部を席巻し、イベリア王の称号を得るほどの権勢を誇った。

また前後してバンプローナから多くのバスク人がフランク王国と微妙な関係にあった南フランスの一部地域に移住、これが切っ掛けとなってその地域はバスコニアなる独自勢力として台頭した。このバスコニアが後にガスコーニュの語源となり、ガスコーニュ語バスク語ラテン語の混交により生じたとされている。

しかしナバラ王国はサンチョ3世死後に4人の息子が分割相続した事でナバラ・アラゴン・カスティーリャに再度分裂してしまう。同じバスク人王家(ヒメノ王朝)によって治められた3国の内、最初の宗主国であったレオン王国(アストゥリアス王国)を併合してレコンキスタを主導したカスティーリャ王国や、カタルーニャと連合して大勢力化したアラゴン王国の間に挟まれたナバラ王国は、元の勢威を取り戻すことが出来ないままに衰退する。近世にカスティーリャがイベリアを統一してスペイン王国が成立すると、隣国フランスとスペインの双方に分割併合され、バスク人は国家を失った。

近代に入って民族主義が勃興すると、バスク住民の間でも独立を回復しようとする機運が高まり始める。特にマヌエル・ラメンディにより広められたバスク国運動は、バスク地方が重工業化の成功で経済的に豊かになっていたが故に他地域の住人が移住し、地元住民と軋轢を引き起こしたのも後押しになって大いに盛り上がった。1923年バスク国民党がリーフ戦争の動乱でクーデターを起こしたプリモ・デ・リベラ将軍に弾圧された際も、バスク青年団などの秘密結社が暗躍してバスク独立への工作を続けた。そして独裁政権後の人民戦線政府は自治政府の設立に同意し、バスク青年団のアントニオ・アギレが初代大統領に選出された。

だが同年に人民戦線政府に反対するフランシスコ・フランコ将軍が反乱を起こし、スペイン内戦が発生する。内戦の最中、アントニオ・アギレはゲルニカにあるバスク人の聖地で「祖先の記憶と共に、私の職務を全うする事を誓う」と宣誓を行った。これによりバスク自治政府が成立、数百年ぶりにバスク人の独立が回復した。バスク人は恩義ある政府側について戦ったが戦争は反乱軍の勝利に終わり、自治政府は海外に亡命し再びバスク人は自由を失ってしまう。

フランコ政権では他の地方民族と同じ様に厳しく弾圧され、独自の文化や言語は徹底的に禁止された。この弾圧下で急速に人心を得たのが1959年に結成されたバスク祖国と自由で、バスク国民党の強硬派からなる同組織は各地でテロ事件を引き起こし、スペイン人を震撼させる存在となる。政府側もテロリスト掃討作戦を繰り返し、報復の応酬が際限なく繰り返される中で一層にバスク人の民族主義は強固な物へと変化していく。

フランコ死後の民主政権でバスク自治政府が復活したことでこの戦いには一応の決着が付いたものの、大バスク主義的な「バスク人領域の拡大」「完全な独立」も意見として残っており、これを背景としてバスク祖国と自由もテロ行為を継続している。2006年には同組織が武装解除に応じるとの報道がなされたが、まだ先行きは不透明と言わざるを得ない。

[編集] ナバラ

ナバラは伝統的にスペイン化された人々が多く、必ずしもバスク主義運動には賛同しない傾向がある。

「Espanha」と書かれた看板に「não é Galiza」と落書きされている。2つを続けて読むと「Espanha não é Galiza」(『ガリシアはスペインではない!』)になる。

[編集] ガリシア

詳細は「ガリシア人」を参照

「ガリシア」の名がローマ統治時代に存在したケルト系のガラエキア人に由来する所から分かるように、この地域はローマの支配化にあってなお、それ以前に居たケルト人の勢力や文化が強く保存された地域であった。中世には民族系統不明のスエビ人がこの地にスエビ王国をうちたてた。この地のイスラム教徒支配は非常に短期間であったため、他に比べイスラム文化の痕跡は非常にわずかで、こうした要素はイスラム文化の影響が強い他地域と明らかに異なる文化をガリシア人に与えていった。

19世紀頃からガリシア特有の文化を、ガリシア人をスペイン(カスティーリャ)化しようとするスペイン王国から護ろうとする運動が起き、同運動はガリシア語友愛会(en:Irmandades da Fala)により「ガリシアズム」(Galicianism)と名付けられた。これは直ぐに政治活動と結び付き、多くの地域政党が設立されたがスペイン内戦後の独裁権下で弾圧された。皮肉な事にガリシア人を初めとする地方民族を弾圧した政権の、主フランシスコ・フランコ将軍は他でもないガリシア出身者であった。その為か、同地の住人はカタルーニャ人やバスク人に比べれば分権運動に穏当であるとされるが、ガリシア人がガリシアより更に小さな規模(つまり街や市単位)での独立心が旺盛である事もその背景に存在しているとされる。しかし多くのガリシア人は「連合としてのスペイン」に同意しているだけで、「民族としてのスペイン人」である事は否定するケースが多い。また独立論者が居ないわけではなく、ガリシアの州議会にはガリシアを国家とする政党が議席を持っている。

ガリシア人は独自性の要である言語の面でスペインの隣国ポルトガルポルトガル語と類似する部分が多く、言語学的に両者の元となった言語(ガリシア・ポルトガル語と仮に呼称されている)は古代ローマの属州ガラエキアで話されていた俗ラテン語が元になっている。この言語は、現在のガリシア州にアストゥリアス、レオン地方のガリシア隣接地域、およびドウロ川以北の北部ポルトガルで話されていた。ポルトガルの独立によって政治的に分断された結果、またレコンキスタの進展でこの言語が南部ポルトガル語に移植された結果、ガリシア語とポルトガル語(標準ポルトガル語)の間には徐々に違いが生じて行った。故にガリシア人の中にはスペインから分離してポルトガルと合同しようとする運動もわずかながらあるが、現在ほとんど政治的に力を持たないのが現状である。これもスペインにおける分離運動の一種と呼べるが、「ガリシア民族」を否定する事ことにつながるためガリシア内の民族主義者とは対立する場合が多い。

[編集] カナリア

カナリア諸島の独立派が主張するカナリア旗。

カナリア諸島は先史時代の時点で何らかの文化グループが存在していた歴史ある地域だが、同地を探索したカルタゴ人の航海者が「無人の遺跡のみが残る」と書き残しており、古代に至る前に一度滅んだものと思われている。その後、島は何時ごろからか移民を開始したベルベル人が支配するようになるが、近世時代にノルマン人系のフランス貴族ジャン・ド・ベタンクールに占拠され、彼はベルベル系の先住民(グアンチェスと呼ばれるようになっていた)を支配下に置き、カスティーリャ王国から「カナリア王」の称号を得た。代償にスペイン人(アンダルシア系が多数を占めた)を多数移民させ、先住のグアンチェスは激しい弾圧に晒された。

後にベタンクールがポルトガル王国に同地を売り渡した為、今度はポルトガル人が大挙して移民し、これが契機になりポルトガルとスペインが戦争に突入した。戦争はスペインの勝利に帰し、以降スペインの隷属化に置かれる事になり、グアンチェスやポルトガル人ヴァイキングはアンダルシア人に取り込まれて消失していった。しかし完全にその痕跡が消えたというより、むしろそれはカナリア系スペイン人の独自性として転化したと言うべきで、島国としての閉鎖性も相まって本土のスペイン人とは異なる帰属心を形成していった。政治的にも離れた地域である為に比較的容易に自治権を達成したが、フランコ政権時代に剥奪された。

現在は自治権を回復しており、地方運動も独立運動と言うよりも、それを理由とした経済支援を目当てにしている部分があるとされる。とはいえ、同じ島国ながらカタルーニャ主義者かスペイン主義者(エスパニョル)の何れかしかいないバレアレス諸島の住人に対し、カナリア諸島の住人はカナリア民族としての部分を意識している事は紛れもない事実である。

[編集] アンダルシア

詳細は「アンダルシア人」を参照

アンダルシア人の「国父」、歴史学者ブラス・インファンテの銅像。彼の功績と殉死を示したオブジェの傍にはアンダルシア旗が立てられている。

イベリア半島は中世時代を通して、欧州におけるイスラム教キリスト教の戦いの最前線であった。西ローマ帝国の崩壊から程無くして中東と北アフリカを席巻したウマイヤ朝イスラム帝国はイベリアに上陸し、一時はイベリアの殆どを征服するほどの猛威を振るった。トゥール・ポワティエ間の戦いフランク王国を初めとした西欧諸侯軍に敗れたため、彼らはイベリア半島と他の西欧を隔てるピレネー山脈を越える事は出来なかった。その後、在地のキリスト教勢力の反撃(レコンキスタ)と内乱で徐々にイスラム帝国は南方へと追いやられ、最終的には滅ぼされるが、それは裏を返せば地理的に南であればあるほどイスラム文化が深く浸透しているという事でもあった。大きな目で見ればイベリア全土が多かれ少なかれイスラムの影響を受けている(ナポレオンが「ピレネーを越えればそこはアフリカだ」と揶揄するなど、キリスト教価値観を根底に置く他のヨーロッパからは異端視されがちである)が、その中でも取り分けアンダルシア地方は最後までイスラム帝国の牙城であった土地であるため色濃くイスラム支配の痕跡が残り、時に同じイベリア住民からも異端視される独自性を育んでいった。

アンダルシアで民族運動が過熱するのは19世紀からの事で、その前身は無政府主義という形で現れていた。イサベル2世の治下で最も勢いを得た無政府主義者達の反スペイン運動は、アマデオ1世退位後の第一共和制を経て次第にアンダルシア人の民族主義に基づいた運動へと変化を見せ、1883年にはスペインを合衆国にし、アンダルシアをその構成国の一つとする憲法草案が出されている。1918年には歴史学者ブラス・インファンテがアンダルシア国旗と紋章を制定し、それを旗印としたアンダルシアの地域政党を旗揚げする。彼はアンダルシア人の自治運動を組織化し、大きな成果を収めたことから今日「アンダルシアの国父」と賞賛されている。フランコ政権下でインファンテが処刑されたが、決してアンダルシア人の自尊心が失われる事は無く、最後まで同化されなかった。

民主化を達成した後、ガリシア語やカタルーニャ語が公用語の地位を得ていく中、アンダルシア語は方言としての地位に留め置かれるなど不遇の地位にあり、度々大規模なデモや暴動が発生している。2005年、アンダルシア州政府が自治法を修正する際、アンダルシアを「国家」とする部分を「歴史的国籍」という微妙なニュアンスに変更した時にも大きな批判が寄せられ、アンダルシア人の完全な民族的独立への希望が失われていない事を示した。2月28日はその自治法が制定された事を祝って「アンダルシアの日」とされ、その日はアンダルシアの各地でアンダルシア州歌が歌われる。「アンダルシア人よ立ち上がれ、我らの地と自由の為に、長き戦いの後に、白と緑の旗を再び掲げよ…」の歌いだしから始まるこの歌は、アンダルシア人の精神を率直に歌い上げていると言えよう。

[編集] カスティーリャ

詳細は「カスティーリャ人」を参照

「スペイン」の作り手であるはずのカスティーリャ人にも「反スペイン」は存在する。

今日の「スペイン」および「スペイン人」「スペイン語」は、ひとえにカスティーリャ王国が諸国を統一したからこそ存在する概念であり、その文化的統一も他民族をカスティーリャ人の文化に染める事で成立したと言っても良い。しかしだからといって、必ずしも全ての「カスティーリャ人」がスペインという概念に賛同しているとは限らない。

その例としてスペイン語の呼称問題がある。地方主義者はスペインの言語的多様性を無視しているとしてカスティーリャ語をスペイン語と呼ぶ事に批判的だが、当のカスティーリャ語の話者からも同様の声が聞かれる事がある。その多くはカスティーリャ語圏の左派勢力で、彼らはスペインはカスティーリャの帝国主義者と王家が生んだ「誤った産物」であり、解消されねばならないと主張している。またカスティーリャ人にとってもスペインに属する事は他文化の流入で自文化を見失いかねないとも批判している。もとより地方分権運動は左派的なものであり、左翼勢力と地方民族主義が結びつくのは珍しいことではない(アイルランドIRAバスク祖国と自由スコットランド国民党なども社会主義を基調としている)。

[編集] ムルシア

ムルシア州はタイファというイスラム系諸国からの影響を強く引き継いでおり、ある程度の独立主義の運動が存在する。話される言語はカスティーリャ語に含まれるが、アラビア語の影響が非常に強い。

[編集] エストラマドゥーラ

エストラマドゥーラ州で話される言葉はエストラマドゥーラ語という独立言語に分類されている。だがこの地域ではアンダルシア地方とは逆に、言語・文化ではカスティーリャと遠いながらも地方運動は余り盛んではない。

[編集] カンタブリア

この地域は伝統的にカスティーリャ地方に含まれてきたが、レオン地方やバスク地方との十字路であったことから独自の文化を育んでいる。独立主義の政党が存在する。

[編集] アラゴン

詳細は「アラゴン人」を参照

アラゴン人は中世時代に建国されたアラゴン王国と、その治世下で用いられたラテン語の方言(アラゴン語)により定義される。古来からバスク人カタルーニャ人、そしてカスティーリャ人と多くの異民族との連合や支配を経てきたが、そのいずれにも染まる事はなかった。近世にはイタリアギリシャにも領土を持つ大国に成長するが、やがてカスティーリャ王国に飲み込まれ、独立の気運を失っていった。

フランコ政権下でアラゴン人は徹底的に弾圧され、アラゴン語はカタルーニャ語とは異なりその勢威を保つ事が出来なかった。フランコの支配が終わった現在ではアラゴン人の10%しかアラゴン語を話せないという苦境に立たされてしまっている。しかしこうした弾圧は逆に眠っていたアラゴン人の独立精神を呼び覚ます事になり、隣国カタルーニャの影響もあってかアラゴンでは盛んに独立運動が進められ、地域政党が議席を獲得している。

[編集] アストゥリアス(レオン)

アストゥリアス王国レオン王国)は後に統一国家となるカスティーリャの旧宗主国として知られている。ゴート人の亡命貴族ペラヨがアストゥリアス族(現地の在来部族)を率いて建国した同国は最初にイスラム勢力に反旗を翻したイベリア人国家でもあり、レコンキスタを「スペイン人(或いはイベリア住民全体)の団結」と「イベリアのヨーロッパ回帰」と考えるスペイン王国にとって、同国の系譜を引く事は政治的に重要な事柄だった。スペイン王太子がアストゥリアス公を継ぐ習慣もこれに由来している。

しかし当のアストゥリアス人は上記の功績を強い誇りとしつつも、自分達の祖先の功績をスペイン人の事績とされるのを必ずしも快くは思っていない。民主後の改革においてもアストゥリア語がスペイン語の方言である疑いがあるとされたり、スペイン全州が自治州に移行した際にもアストゥリアス人の居住区だけが幾つかの州に分断されるなど、露骨に冷遇されていることがその傾向に拍車をかけている。2007年には「レオン・アストゥリアス自治州」設立を求めるデモが発生し、同年にはレオン民族同盟が地方選挙で10%以上の得票を得て躍進した。

[編集] 民族旗の一覧

[編集] 関連項目

[編集] 注釈

es:Pueblo español según la Constitución

最終更新 2009年9月16日 (水) 17:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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