スペイン立憲革命

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スペイン立憲革命とは1820年1月1日にスペインで起きた革命運動である。「スペイン第1内戦」とも「自由の3年間」とも言われる。スペイン・ブルボン家絶対君主制に対する、自由主義運動である。

目次

[編集] 経緯

ナポレオン戦争によって一時、スペインはナポレオン1世の兄ジョゼフ・ボナパルト1804年に国王ホセ1世として即位した。ホセ1世は近代化政策をとるが1808年には半島戦争と呼ばれる、激しい内戦が勃発した。1812年にはカディス議会で「1812年憲法」を制定した。その2年後、ナポレオン失脚後の1814年にはホセ1世は退位し、ブルボン家のフェルナンドがフェルナンド7世としてスペイン国王になった。しかし、フェルナンド7世はホセ1世の支配下で行われた民主的近代改革を悉く放棄し、絶対君主制を布く。これに自由主義者たちは反発し、「憲法復活」を叫んだ。

[編集] 反乱

一方、ナポレオン戦争で、スペイン植民地のラテンアメリカ地域ではクリオーリョたちによる独立運動が活発となり、パラグアイベネズエラリオ・デ・ラ・プラタ連合州(現在のアルゼンチン)、チリ、ヌエバ・グラナダ(現在のコロンビア)は独立を宣言。1819年の終わりフェルナンド7世はそれを鎮圧させるために国軍をセビリア県のカベーセス・デ・サン・フアンに召集した。その翌年の1月1日にラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌニェス大佐が率いる部隊が「『1812年憲法』復活」を求め、反乱を起こした。

この反乱は当初は兵士の支持が得られないこともあり、失敗するかに見えたが、スペイン各地で同様の反乱や暴動が勃発し、首都マドリードにも反乱の火の手は及んだ。

国王フェルナンド7世は事態を収拾するために「1812年憲法」の復活を承認し、この年の3月7日には、憲法復活を宣誓した。

[編集] 革命

この結果ウィーン体制は動揺し、ラテンアメリカの独立運動はさらに進みメキシコエクアドルなどが独立する。また反乱は革命となり1822年6月30日にはフェルナンド7世はヌニェス率いる革命軍に捕らえられ、廃位。革命政府が樹立された。

このような急進的な自由主義革命は神聖同盟加盟諸国と隣国で同じブルボン王朝のフランスを刺激した。1822年イタリアヴェローナで神聖同盟諸国による会議が行われ、スペインへの干渉、出兵が決定した。1823年4月7日に「聖ルイの息子」と称するフランス軍10万がピレネー山脈を越えて、進軍。革命政府の打倒を図る。この年の8月31日にはトロカデロの戦いがフランス軍とスペイン革命軍との間で戦わされ、フランス軍が勝利し、9月23日にはフェルナンド7世が国王に復位。11月7日にはリエゴ・ヌニェスは処刑され、革命は終わった。

[編集] その後

この「スペイン立憲革命」は失敗したが、リエゴ・ヌニェスはスペイン自由主義運動の象徴となり、彼を歌った「リエゴ賛歌」は1931年スペイン第二共和制の時の国歌となった。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年4月1日 (水) 16:02 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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