スー族
スー族の最新ニュースをまとめて検索!
スー族(-ぞく、Sioux)はアメリカ合衆国中西部の北部に住むインディアン部族ダコタ族、ラコタ族、およびナコタ族の総称。
目次 |
[編集] 文化・歴史
「スー」という部族名は、略奪民のスー族に食い物にされていたアルゴンキン語族のオジブワ族が彼らのことを「ナドウェズ・スー(Nadouessioux)」、つまり「小さな(siu)蛇(nadowe)」と呼んだものを、17世紀末ごろにフランス人入植者が「スー族」と縮めて呼んだものである。蔑称であるが、インディアンは部族同士を蔑称で呼び合う伝統文化を持っているので、これは特別な例ではない(「オジブワ」も蔑称との説がある)。アメリカ連邦政府との連邦条約交渉などもすべて「スー」の呼称で行われており、現在も公式の部族名として使われている。
「スー族」はアメリカ大平原に住む7氏族からなる部族連合であり、この部族連合では3つの方言が話されたが、それぞれをラコタ語、ダコタ語、ナコタ語という。19世紀末までは定住せず、ティピーに住んで馬に乗り獲物を追い狩猟生活を営む、北部平原で最も勢力を誇った典型的な平原部族だった。因みにティピーとはダコタ語で「住居」の意味である。
アルゴンキン語族に属し、紀元前4000年頃にてオハイオ州のオハイオ川流域でスー族が結成された。そして西に移動し北東部ウィスコンシン州そしてミネソタ州の森林地帯に居住した。しかし、17~18世紀にかけ、オジブワ族との対立及び白人の侵入によって徐々に西方の平原地帯へと追いやられ、平原部族へと変わった(ミネソタ州ミルラック湖やリーチ湖の森林地帯などから移動したとされる)。彼らの神話では、そのときに「コーンを無くした」と表現され、農業不可能な平原でコーン(トウモロコシ)栽培の生活を捨て、完全な狩猟民族に変わらざるを得なかった歴史を伝えている。スー族の支族のひとつ「ミネコンジュー」は、「ミネ(水)・コーン(トウモロコシ)・ジュー(植えるもの)」、つまり「水辺でコーンを植えるもの」という意味で、かつての暮らしを表した名である。
18世紀にスペインから馬が大平原にもたらされると、スー族はいち早くこれを採り入れ、ホース・インディアンとなった。家財道具を載せたトラボイ(Travois)を引く役割は犬から馬に代わり、馬はバッファロー狩りの規模を広げ、部族の力を強大なものにした。
スー族は馬を使って大平原で略奪を行い、また他の平原部族と、栄誉あるスポーツとして「馬の盗みあい」を繰り返した。馬は個人・部族の勢力を表すものとなり、貨幣のない社会で実質的に貨幣となった。かれらは先の婉曲した「クー・スティック」で敵方の身体を打つ(フランス語で「クー」)という、クー遊びを最大の娯楽とした。
シャイアン族、アラパホー族などの平原部族と同盟を結び、オジブワ族、アリカラ族、クロウ族、ポーニー族などとは敵対した。後三者はインディアン戦争ではアメリカ陸軍に「インディアン斥候(Indian Scouts)」として加わり、敵対するスー族と戦った。
19世紀も末になると、他のインディアン部族と同様に、白人による保留地政策によって、遊牧生活は禁止され、保留地(Reservation)内での定住生活を強制される。こうして狩猟民族としての文化の数々が破壊された。(つまりは二度、白人によって文化を破壊されたことになる)
「スー族」というと、派手な羽飾りのついた冠や、ヤマアラシの刺の飾りやフリンジのついた鹿皮のシャツを着たステレオタイプな戦士像が多々見られるが、これは「晴れ着」であって日常的な服装ではない。基本的にインディアンは活動しやすい腰布一枚が定番の姿だった。
[編集] 強制定住
インディアン移住法に基づく白人の保留地政策は南北戦争終了後、西部にも及んだ。スー族は断固これに反抗し、苛烈なインディアン戦争を戦った。さらに大陸横断鉄道が彼らの保留地を分断し、平原部族の命の綱のバッファローが、戦略的に白人によって虐殺され絶滅状態に追い込まれてしまい、保留地で狩猟を禁じられた彼らは飢餓状態となった。保留地への強制定住の引き換え条件のはずの年金(牛・穀物)の支給は、保留地管理官のサボタージュと横領で、約束どおり支払われたことは一度もなかった。飢えたスー族は暴動を起こし、陸軍が派遣され皆殺しにあうという繰り返しが「インディアン戦争」の実状である。
[編集] 偉大なるスーの国
白人の和平委員会は、1868年のララミー砦での条約でスー族に対し、現在のサウスダコタ州全域を覆う規模の広大な土地を「白人が入ることを許されない、スー族の固有不可侵の領土」として「偉大なるスーの国(グレート・スー・ネイション)」を保証した。この広大な領地で、スー族はバッファローを狩り、伝統の生活を営むことを公約で約束された。
が、その数年後にブラックヒルズで金が見つかると、「偉大なスーの国」は瞬く間に白人に侵食され、細分化されていった。「リトルビッグホーンの戦い」や「ウーンデッド・ニーの虐殺」以後は、懲罰込みの加速度でスー族の土地は没収されていった。こうして「偉大なスーの国」は、不可侵条約を破った白人によって粉々に粉砕されてしまい、飛び地のような各保留地にその面影を残すのみとなっている。
[編集] 現在
現在、ダコタ族はミネソタ州、ネブラスカ州に住み、ラコタ族は大平原のノースダコタ州、サウスダコタ州に住む。もっとも人口が少ないナコタ族はサウスダコタ州のヤンクトン保留地に住む。
スー族の人口は19世紀半ばには2万人であったが、現在は約7万人に達する。そのうち4分の1が現在も祖先と同じ言葉を解すると考えられている。他のインディアンと同様、1950年代からの連邦政府の権利保留解消の方針を受け、現在では登録されたスー族のうち約半分が、保留地外に住んでいる。
[編集] スー族の社会
伝統的に高度な個人主義文化を持つ。男女同権であり、結婚も離婚も男女自由である。これは現在のスーの人々にも根強い。男性同性愛者、社会的半陰陽は「ウィンクテ(女男)」と呼ばれ、他の部族の同様の半陰陽が白人キリスト教徒によって徹底的に弾圧を受け、社会的役割を持っていない中、現在も神聖な赤子の名づけを行うなどの役割をスー族の社会に持っている。
しばしば誤解されるが、「スー族全体を統率する大酋長」といったものは、過去にも現在にもスー族を始め平原部族には存在しない。「酋長」という立場はあくまで「調停者」であり、「裁判官」や「指導者」といった役割を持ったものではない。男子が戦士になるのも戦に参加するのも、すべて個人の自由であり、彼らの行動は他人の指図で決まる性格のものではない。「戦争酋長(ウォー・チーフ)」などとして西部劇映画などに登場する存在は実際には存在せず、白人の全くの思い込み、フィクションである。
[編集] 宗教
精霊信仰であり、大聖霊「ワカン・タンカ」(「大いなる神秘」という意味)を頂く多神教である。20世紀の同化政策によりキリスト教が強制されているが、伝統信仰も根強い。現在も「ビジョンクエスト」や「発汗小屋(Sweat lodge)」は重要な儀式としてあり、「サンダンス」の儀式も盛況である。
[編集] スー族三つの氏族
スー族は全体で「ダコタ」、「ナコタ」、「ラコタ」の三つの氏族に分けられる。支族同士であるが、蔑称での呼び合いが多い。
[編集] ダコタ
東の区分(ダコタ地方かサンティー)に住む。4つの支族がある。「サンティ・スー」、または「サンテ・スー」とも言われ、方言的にラ行の発音が無く、代わりにダ行の発音を当てるので、「ラコタ」→「ダコタ」となった。元々はミネソタ州の森林地帯に定住していた。
ダコタ4つの支族
- ムデワカントン - 「スピリット湖に住む者たち」という意味。
- ワーペトン - 「木の葉に住む者たち」という意味。
- ワーペクテ - 「木の葉の射手たち」という意味。
- シセトン - 「魚の鱗に住む者たち」という意味。
[編集] ナコタ
中央の区分に住み、「ヤンクトン・スー」ともいわれる。方言的にラ行の発音が無く、代わりにナ行の発音を当てるので、「ラコタ」が「ナコタ」となった。
ナコタ二つの支族
- ヤンクトン - 「地の果てに住む者たち」という意味。
- ヤンクトナイ - 「少し地の果てに住む者たち」という意味。
[編集] ラコタ
ラコタは大きく七つの支族に分けられる。
- オグララ - 「自ら分散する」という意味。
- ≪オグララ7つのバンド≫
- パヤブヤ - 「前へ進む理由」という意味。クレイジー・ホースの出身部族。
- タピスレカ - 「スピリット川」という意味。イエロー・ベアー、ホワイト・バードの出身部族。
- キヤクサ - 「断ち切る」という意味。
- ワジャジェ - 「蛇の人たち」という意味。
- イテシカ - 「悪い顔」という意味。 レッド・クラウドの出身部族。
- オユウペ - 「投げ落とす」という意味。
- ワグルヘ - 「のらくら者」という意味。
- ハンクパパ - 「円形にティピーを張る」という意味。シッティング・ブルの出身部族。
- ミニコンジュ - 「水際にコーンを植える者たち」という意味。ビッグ・フットの出身部族。(→ウーンデッド・ニーの虐殺)
- シハサパ(ブラックフット) - 「黒い足」という意味。
- ※英語にすると同じになるが、カナダ・モンタナに住む「ブラックフット族(シクシカ族)」とは無関係。
- オーヘヌンパ(ツーケトル) - 「二つの薬缶」という意味。
- シチャング(ブルーレ)(en:Brulé) - 「焼けた脛」という意味。シカング・オヤーテ(Sicangu Oyate)とも呼ばれる。レオナルド・クロウドッグの出身部族。
- イタジプチョ(サン・アーク) - 「矢を持たない者たち」という意味。
[編集] スー族とヨーロッパ人の関わり
[編集] フランス人毛皮商人との同盟
17世紀末、ダコタはフランス人商人と同盟を結んだ。フランス人商人は北米の毛皮貿易でイギリスに対して利点を獲得しようとしており、イギリスは最近ハドソンズベイ会社を設立したばかりであった。ダコタはこうしてヨーロッパの経済システムとインディアン間の激しい戦いに誘い出された。
[編集] 1862年ダコタ戦争
前年の不作と冬の飢餓のすぐ後の1862年、連邦の支給は遅れていた。地元の商人はダコタにそれ以上の貸し付けをするつもりはなく、その結果、数名のダコタの男性が白人の農家と彼の家族のほとんどを殺害した1862年8月17日をきっかけに、ミネソタ川沿いの白人の入植地に向けて攻撃を仕掛け、ダコタ戦争が始まった。
1862年11月5日のミネソタの軍事法廷で、303名のダコタ・スーが、数百名の白人とヨーロッパ人の農家をレイプして殺害したことで有罪を宣告され、絞首刑の判決を下された。被告を守る弁護士や目撃者は許されず、5分未満の裁判で多くが断罪された。リンカーン大統領は284名の戦士の死刑宣告を返送し、1862年12月26日のミネソタ州マンケイトにおける、38名のダコタの男性の絞首刑の実行の時に署名をし、その後4年間ダコタへの年金の支給を中断して、代わりに白人の遺族にそれを与えた。その後、リンカーン大統領によって赦された男性をアイオワの刑務所に送り、そこで半分以上が投獄されている間に死亡した。
[編集] ダコタ戦争の余波
反乱中と反乱の後、多くのダコタとその親類はミネソタとダコタ東部からカナダへ逃れたか、ミズーリ川東岸のクロウクリーク保留地へと移動させられる前の少しの間にジェームス川流域に定住した。数名の者はヤンクトナイと結びついて、合衆国軍と戦い続けていたラコタの一団に加わるためにはるか西へと移動した。
他の者はミネソタとその東の、21世紀まで残るノース/サウスダコタ州の小さな保留地に残ることができた。ある者はネブラスカへ向かい、そこはミズーリ川東岸の今日のダコタ・スー部族の保留地となっている。カナダに逃れた者の子孫は、8つの小さなダコタ部族保留地として残っている。
[編集] 「ボズマン戦争」と「パウダー川の戦い」
「ボズマン街道の戦争」と「パウダー川での戦い」とは、1866年から1868年までのワイオミング準州とモンタナ準州で行われたスー族およびシャイアン族と合衆国の間の武力紛争のことで、白人から彼らにとって著名なスー族部族員であるレッド・クラウドにちなんで、「レッドクラウド戦争」とも呼ばれる。ワイオミング北中部のパウダー川流域の占有権を巡って行われた戦いで、そこにはモンタナの金鉱山への第一のアクセスルートであった「ボズマン街道」が通っていた。
戦争は1968年の「ララミー砦条約」で和解がもたれ、白人は「砦を閉じ、ミズーリ以西のダコタ地方、ブラックヒルズ、プラット川とビッグホーン山脈間の土地を、永久に彼らに与える」と条約で約束した。
ちなみに、レッド・クラウド自身はこの戦いになんら関与していない。またこの時代のスー族の大権限を持った長老たちは「ビッグ・ベリー(大きな腹)」と呼ばれていたが、レッド・クラウドはこの「ビッグ・ベリー」のなかにも属していない。スー族とシャイアン族にとっては、「パウダー川の戦い」は彼らの戦争であって、「レッド・クラウド戦争」は、単に白人側がそう呼んでいるだけのことである。
[編集] ブラックヒルズ戦争
1876年から1877年、ブラックヒルズ戦争が起こった。ラコタと彼らの同盟が合衆国軍と一連の紛争をした。最初の戦いはパウダー川の戦いに始まり、最後の戦いはウルフ山で行われた。
[編集] ウーンデッド・ニーの虐殺
ウーンデッド・ニー・クリークでの虐殺は、合衆国とラコタの間の19世紀最後の大きな虐殺事件だった。
1890年12月29日、合衆国第7騎馬隊の500名の部隊は、ラコタ族の一派、ミネコンジュー族のシハ・タンカ・バンドの一団をネブラスカ州オマハへと強制移動させる任務の途上で、彼らを無差別銃撃で虐殺した。ミネコンジューは混乱の中逃げ惑い、女と子供を含む150名以上のミネコンジュー族が死亡した。
徹底的な無差別銃撃であり、死んだ白人兵士25名は味方からの誤射によるものだった。シハ・タンカ・バンドの多くがゴーストダンス教を信奉していたことが虐殺の要因となった。


