ゾロアスター教

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ゾロアスター教(ゾロアスターきょう、英語:Zoroastrianism、独語:Die Lehre des Zoroaster/Zarathustra、現代ペルシア語:دین زردشت [Dîn-e Zardošt])は、古代バルフ(Balkh、ダリー語ペルシア語 بلخ Balkh )の地に始まる宗教である。バルフは現在のアフガニスタン北部にあり、ゾロアスター教の信徒にとっては、始祖ザラスシュトラが埋葬された地として神聖視されてきた。

ゾロアスター教は、二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教」と言われることもあるが、これは正しくはない。ゾロアスター教の中では、アムシャ・スプンタなど多くの神々が登場する。開祖はザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)である。その根本教典より、アヴェスターの宗教であるともいえ、イラン古代の宗教的伝統の上に立って、ザラスシュトラが合理化したものと考えられる。

光の象徴としての純粋な「火」を尊んだため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれ、また祆教(けんきょう)ともいう。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。ただしアケメネス朝の宗教をゾロアスター教ではないとする立場(たとえばエミール・バンヴェニスト)からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。パーシ(パールシー)教徒とも呼ばれる。

目次

[編集] 概説

聖火台跡(イラン)

イラン高原北東部に生まれたザラスシュトラは、インド・イラン語派の信仰を、善と悪との対立を基盤に置いた壮大な世界観を有し、また、きわめて倫理的な性格をもつ宗教に改革した。

ゾロアスター以前のインド・イラン語派の信仰でも、すでに「三大アフラ」として叡智の神アフラ・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが存在していた[1]。そのため、単にアフラ・マズダーまたはミスラを信仰していることだけでは、ゾロアスター教徒とはならない。異教時代と呼ばれる過去のイラン人と区別するための判断基準は、ゾロアスター教の信仰告白であるフラワラーネにあらわれている。そこでは五つの条件が挙げられている[2]

すなわち、①アフラ・マズダーを礼拝すること、②ゾロアスターの信奉者であること、③好戦的で不道徳な神ダエーワと敵対すること、④アフラ・マズダーが創造した偉大な六つの存在アムシャ・スプンタを礼拝すること、⑤すべての善をアフラ・マズダーに帰すること、である。

上記の五つに加えてさらに、アフラ・マズダーを、創造主ととらえたことが、従来のインド・イランの信仰と著しく異なる点である[3]

さて、ザラスシュトラは、最初に2つの対立する霊があり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命真理などを選び、それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)はや虚偽、を選んだと唱えた[4]

すなわちゾロアスター教では、宇宙の法たる神(光明神)アフラ・マズダーを主神とし、アフラ・マズダーに従う善神スプンタ・マンユに代表される善の勢力と、アフラ・マズダーに背く悪神(暗黒神)アンラ・マンユに代表される悪の勢力の2つの原理によって世界が成立していると説く。このため、を崇拝する。

人間はみずからの自由意志で、善の側か悪の側かに立つことができる。両者の争いの果てに、最終的には善が勝利して、悪を滅ぼし、悪神の勢力は滅ぼされるという宇宙史的運命を主張した。

[編集] 救済の宇宙史観

スピターマの一族に属するザラスシュトラの思想は、バルフの小君主であったウィシュタースパ王の宮廷で受容されて発展した[4]。ザラスシュトラは、アフラ・マズダーの使者であり預言者としてこの世に登場し、善悪二元論的な争いの世界であるこの宇宙の真理を解き明かすことを使命としている。

かれによれば、知恵の主アフラ・マズダーは、戦いが避けられないことを悟り、戦いの場とその担い手とするために世界を創造した。その創造は大地植物動物人間の7段階からなり、それぞれがアフラ・マズダーの7つの倫理的側面により、特別に守護された[4]

神の国』を著した教父アウグスティヌス

創造された「この世界」を舞台とした二つの勢力の戦いが、歴史であるという把握は、キリスト教の初期の神学者であるアウグスティヌス歴史観に先行する世界史観とも言える。ザラスシュトラによれば、「この世界」は常に邪悪な勢力の攻撃を受け、ときに悪や破壊に覆われてしまうこともある。

光と闇が争い、この争いが地上の歴史であり、神は真理を教えるため、人間に救済者預言者を定期的に送り出し、人間に救いを齎すという教えは、後のユダヤ教の宗教思想に継承されたと一般に言われる。人は善の戦いに加わり、その行いは死に際して裁かれ、義人は天国へ行き、そうでない者は地獄へと送られる。世界の終わりにはサオシュヤントと呼ばれる救済者が出現する。彼はザラスシュトラの保存された精子から処女を通して生まれ、世の終わりに救世主として現れる。そこで最後の審判がなされ、最終的には悪は滅ぼされて、善なる世界が永遠に続く、とされる。

[編集] 他宗教への影響

ゾロアスター教の影響力は、学説により大きく変動する。ゾロアスターの生まれた年代をいつに定めるのか、またゾロアスター自身の教えがその後どの程度保持されていったのかにはさまざまな異説があるためである。[5]

影響力が高いとする学説の場合、次のように言われることが多い。ゾロアスター教にみられる預言者・救済者の思想、終末論や天国と地獄の存在、最後の審判などの思想は、ユダヤ人のバビロン捕囚時代にユダヤ教に影響を与えた[6]。ユダヤ教を母体としたキリスト教もこれらを継承していると言われる。さらに、大乗仏教において弥勒信仰と結びついたり、またマニ教もゾロアスター教の思想を吸収した[7]イスラム教もまた、ユダヤ教やキリスト教、マニ教と並んでゾロアスター教の影響も受けており、聖クルアーンにもゾロアスター教徒の名が登場する。特に十二イマーム派にある「隠れイマーム思想(マフディー)」は、サオシュヤント思想に多大な影響を受けている。

[編集] ザラスシュトラの幻影

ザラスシュトラおよび、ゾロアスター教に対し、人々は実像以上に膨れ上がったイメージを持った。たとえばゾロアスター教の神官は、占星術の大家であると、ギリシャ人は勘違いした。ペルシア帝国の支配地域の一つにバビロニアがあり、その地域の占星術師をゾロアスター教の神官と取り違えたというのが実際のところであった。また、ゾロアスター教の神官を指す「マギ」という言葉は、マジックの語源となった。実際に神官たちが行っていたのは、防衛的な白魔術にすぎないのだが、人々はそこに魔術や奇術の使い手としてのイメージをこめた。

18世紀後半に、フランス人学者アンクティユ・デュペロンによって古代イラン語文献がヨーロッパに紹介された。つまり、その時点まで、ザラスシュトラの教えは直接検証されることなく、ザラスシュトラのイメージだけが独り歩きしていたことを意味する。19世紀になってやっと、ゾロアスター教の研究が大きく進み、それまで語りつがれてきた「偉大な先覚者ザラスシュトラ」の像は大きく揺らいだ。学者たちは当然そこにプラトンイエスにつながる思想を発見できると期待したわけだが、期待にそうものは発見できなかったためである。[8]

しかし、その後ニーチェが「ツァラトゥストラかく語りき」において、自らの思想をザラスシュトラに仮託して語ると、ニーチェ的なザラスシュトラの虚像が出現した。さらにドイツのナチズムがアーリア民族の優位性を演出するために、その地位が高められた。日本でザラスシュトラが紹介されたのは、この時期に重なる。またそれはドイツ経由で紹介されているため、日本ではザラスシュトラに対し現在でも過剰な期待を寄せる傾向がある[9]

イメージだけが肥大化したザラスシュトラについては、今でもいたるところで語られている。等身大のザラスシュトラを知ろうとするならば、歴史の反省にたち、次の注意が必要となろう。それはたとえ最新の論文であったとしても、以下のポイントが守られていない場合は、ただ幻影だけを追い求める結果になりかねない。 ①ザラスシュトラ自身の言葉を直接検証する。 ②ゾロアスター教の周辺、またゾロアスター以前のアーリア人の諸宗教の影響を考慮する。 ③アヴェスターの中に存在する時差に注意する。(最古層はザラスシュトラの直言であろうが、後世に付け加えられた内容も経典アヴェスターは含んでいる。また全体としては、聖書やマニ教の経典、仏教の経典よりも後に成立している)。

[編集] ザラスシュトラの教えの時代

ゾロアスター教のシンボル、Faravahar

「ザラスシュトラの教え」とペルシア語で表現されるゾロアスタ-教は、イランの民族的宗教詩である『アヴェスター』の最古層に当たるガーサーが成立した、紀元前15世紀から紀元前12世紀頃までに、その原型が作られていたと考えられる。ここより、ザラスシュトラの活動した時代を、紀元前15世紀まで遡らせる考えもある。

他方、『アヴェスター』の「ガーサー」の歴史的な古さは認めるとして、歴史的人物として、古代ペルシアの宗教を改革して、倫理的に高い価値を提示するゾロアスター教として形成したザラスシュトラは、もっと後代の人物であり、アケメネス朝ペルシアが成立すると同じ頃、あるいは、それより少し先行する時代に登場したとの学説もあり、こちらの方の考え方では、ザラスシュトラ及び彼の教えは、紀元前7世紀から紀元前6世紀頃が妥当であるということになる。

ザラスシュトラとその教えの成立年代は、紀元前15世紀から、紀元前6世紀までの幅があり、学問的には正確なところが、依然として不明である。ザラスシュトラの活動についても諸説がある。

[編集] アケメネス朝からサーサーン朝まで

他宗教への影響と同様に、政治に対してゾロアスター教がどれほど影響をもっていたかも研究者により意見が分かれる。宗教と政治への影響力は互いに関連性があるため、他宗教に影響が大きいと考える研究者ほど、政治的影響も強かったと考える傾向にある。研究者によっては歴代王朝の支配下でゾロアスター教は「国教」であったと見なす場合もあるが、見解は統一されていない。

[編集] アケメネス朝

アケメネスペルシア(紀元前550~330年)の歴代の大王たちが、ザラスシュトラの教え、(ゾロアスター教)に帰依していたとする根拠には以下のものがある。

・アケメネス朝第3代の王ダレイオス1世は多くの碑文を残したが、自ら「アフラ・マズダーの恵みによって、王となりえた」と記している[4]

ダレイオス1世によるベヒストゥン碑文
自らの即位の経緯と正当性を主張する文章とレリーフが刻まれている

[10]

・「聖なる火」の祭壇の遺跡が多数存在する。

これらの根拠に対して、以下のような反論も提出されている。

レリーフは、ダレイオス1世が「マズダー教徒」であった証拠にはなるが、「ゾロアスター教徒」であった証拠とはならない。[11]

・火の祭壇は、ゾロアスター以前からアーリア人の宗教で用いられている。[12]

また、ゾロアスター教の影響が「限定的」であった根拠として次のようなものもある。

・「アケメネス朝の古代ペルシァ語の碑文にはザラスシュトラの名前は一度も現れない」[13]

いずれにせよ、初代の王であるキュロス大王が「ユダヤ人バビロン捕囚に対する解放者」と見なされるように、アケメネス朝ペルシアは、異民族の宗教に対して寛容であった。したがって、仮にゾロアスター教がアケメネス朝ペルシア帝国の「国教」であったとしても「支配者の宗教」という意味に限定されると考えられる。帝国に帰属する様々な民族の諸宗教に対しては一定の自由が保障されており、アケメネス朝支配下においてユダヤ人は独自の「シンクレティズム[14]的宗教思想を育むことが可能であった。なお、同時代のギリシャの歴史家ヘロドトスは「ペルシア人はこどもに真実を言うように教える」、「ペルシア人は偶像をはじめ、神殿祭壇を建てるという風習をもたない」と記している[4]

アフラ・マズダー(右)より王権の象徴を授受されるサーサーン朝のアルダシール1世(左)のレリーフ(ナグシェ・ロスタム)
アヴェスター』ヤスナ28章「ガーサー」

[編集] セレウコス朝

アレクサンドロスの征服によってアケメネス朝は滅び、後継者のセレウコスの王朝がペルシアに成立(紀元前312~63年)する。当時、パレスティナからメソポタミアイランにかけて「ヘレニズム」の影響が及んだ。ギリシア文化はインドまで伝播され、逆にインド文化も地中海世界に流れ込んだ。このような文化的シンクレティズムの時代にユダヤ教は新しい神学理論を生み出し、後のグノーシス主義や洗礼教団の起源となる「救済者」(メシア)の教理が流布された。そこから、ミトラス教キリスト教の原型が形成されることとなった。ゾロアスター教も元来は寺院偶像崇拝を認めなかったが、他文明の影響で受容するように変化した[15]

[編集] パルティア王国

セレウコス朝が滅亡し、ペルシア人の帝国であるアルサケス朝パルティア王国)が建国される(紀元前247~紀元後226年)。アルサケス朝においてゾロアスター教の公式教義が確定されたと考えられており、聖典『アヴェスター』を文書化し、古来の伝統を記録する思潮と連動していた。ただし、この時期の宗教がゾロアスター教であったかは、見解が分かれる。パルティアは史料が乏しいため、隣国のアルメニア王国の史料で推測すると、パルティアの宗教はゾロアスター教でなく「ミスラ教」に変質した可能性がある。[16]

[編集] サーサーン朝

パルティアを倒したサーサーン朝(紀元後226~651年)は宗教政策を一変させ、ゾロアスター教を正式に「国教」と定め、儀礼や教義を統一させた。その時、異端とされた資料は全て破棄された。他宗教も公式に禁止された。ゾロアスター教の国教化に重要な役割を果たしたカルティールマニ教異端とし、教祖マニ処刑した。『アヴェスター』の文書化はサーサーン朝成立後、半世紀以上経過した3世紀半ばに完成する。しかし、この時代には使用される言語が「中世ペルシア語」に変質しており、「古代ペルシア語」で記述されている『アヴェスター』の「ガーサー」部分は解読困難になっていた。

[編集] イスラム帝国とゾロアスター教の衰退

イスラーム教徒による宗教的迫害」を参照

サーサーン朝はホスロー1世の時代に絶頂を迎えるが、王朝創始後4世紀にして、ムハンマドによるイスラム教の開教を迎える。アラブ族民族宗教として始まったイスラム教は、しかし瞬く間に周縁諸地域に布教され、イスラム帝国の成立と拡大によって世界宗教の偉容を備える。サーサーン朝はイスラム帝国の前、滅亡する。

アラブ族はペルシアを軍事的に征服したが、古くから文明を発展させてきたペルシアは、イスラム帝国を内部から文化的に征服したと捉えられる一面がある。イスラム帝国のもと、ペルシアの文化は再度開花した。

イスラム帝国歴史学者や知識人は、帝国の領土に含まれる土地の宗教や文化慣習を詳細な記録に残した。中世のメソポタミアやイランにおけるゾロアスター教、マニ教ミトラス教などに関する情報は、イスラムの知識人たちの記録によるところが多い。

しかし、『デーンカルド』(宗教総覧)などのパフラヴィー語(中世ペルシア語)文献が伝えるゾロアスター教の姿は、『アヴェスター』の語るゾロアスターの教えとは整合しない部分が多数あり、また、少数派となりながらも、21世紀の今日まで生き延びているゾロアスター教信徒たちの「伝承の教え」と比較しても、食い違いが生じる。

サーサーン朝の国教となる以前のゾロアスター教は世界宗教であった。それは近隣の諸地域の文化に大きな影響を与え、信徒もまた広大な範囲に広がっていた。しかし、国教化と共に、そしてイスラム帝国の勃興と共に、ゾロアスター教は偏狭な面を備える宗教となって行き、その故地であるイランがイスラム化してからは、世界宗教として成熟したイスラム教に取って代わられた。

イスラム教徒の統治下でイランのゾロアスター教徒はズィンミーとされ、厳しい迫害を受けた。ジズヤの支払いは経済的圧迫となっただけでなく、精神的にも多大な屈辱をゾロアスター教徒に与えた。信仰の保持は認められたもののムスリムへの布教は死罪とされ、事実上不可能となった。このこともゾロアスター教が世界宗教から血縁に基づく民族・部族宗教へ衰退する要因となった。さらに寺院の修復や新築には特別の許可を必要とし、その他にも数々のムスリムとの差別待遇が存在した。表立った強制改宗は稀だったが、多くのゾロアスター教徒は差別と迫害を逃れるためにムスリムへの改宗を余儀なくされた。

10世紀、一部の信者は宗教上の自由を求めてインド西海岸に移住し、現地でパールスィー(ペルシア人の意)と呼ばれる集団となって千年後まで続く共同体を築いた。かれらは元来農業を営んでいたが、移住を機に商工業に進出するとともに、土地の風習を採り入れてインド化していった[15]

近代に至り、イランの世俗化の流れの中でジズヤも廃止され漸くムスリムと法的に対等の権利を得るようになったが、イランイスラーム革命に依り再び隷属的地位におかれることとなった。

イランにおいては、ゾロアスター教の聖地に少数の共同体が存続し、21世紀の今日まで細々と教えの伝統を継承している。とはいえ、かつての世界宗教としてのゾロアスター教の姿はイスラームによる厳しい迫害を潜り抜けた今日の宗教共同体には見ることができず、ゾロアスター教は信徒資格を血縁に求める民族・部族宗教へと、逆に後退し衰退してしまった。現在、ゾロアスター教では、信徒を親に持たない者の入信を受け入れていない。

[編集] イランのゾロアスター教

ヤズドのゾロアスター教寺院
ヤズドの沈黙の塔

ゾロアスター教は、現在のイランにも小規模であるが信徒の共同体が残存し、現代ペルシア語で「ゾロアスターの教えディーネ・ザルドゥシュトدین زردشت)」と呼ばれている。

イラン中央部のヤズド、南東部のケルマン地区を中心に数万人の信者が存在している。ヤズドでは人口(30万人)の約1割がゾロアスター教徒だとされる。

ヤズド近郊にはゾロアスター教徒の村がいくつかあり、拝火寺院は信者以外にも開放され、1500年前から燃え続けているという「聖火」を見ることができる。

ダフメ(daχmah いわゆる『沈黙の塔』)による鳥葬は、1930年代にパフラヴィー朝レザー・シャーにより禁止され、以後はイスラム教等と同様に土葬となった。現在では活用されておらず、観光施設として残されるにとどまる。

[編集] インドのゾロアスター教

ムンバイに建設された沈黙の塔

サーサーン朝の滅亡を機にイランのゾロアスター教徒のなかにはインドグジャラート地方に退避する集団があり、現在、インドはゾロアスター教信者の数の最も多い国となっている。今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州ムンバイー(旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、開祖のザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。

インドでは、ペルシャ人を意味するパールシー(パールスィー)と呼ばれ、数としては少ないが非常な裕福な層に属する人や政治的な影響力をもった人々の割合が多い。インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、スィク教徒と類似する。インドの二大財閥のひとつであるターターは、パールシーの財閥である。

寺院はマハラシュトラ州のムンバイーとプネーにいくつかあり、ゾロアスター教徒のコミュニティを作っている。寺院にはゾロアスター教徒のみが入る事が出来、異教徒の立ち入りは禁じられている。神聖な炎は全ての寺院にあり、ペルシャから運ばれた炎から分けられたものである。寺院内には偶像はなく、炎に礼拝する。

インド国内のゾロアスター教徒のほとんどはムンバイーとプネーに在住している。またグジャラート州アフマダーバードスーラトにも寺院があり、周辺に住む信者により運営されている。

[編集] 歴史

1100年頃に、イランから移住した。4つの船に乗ってイランから、インドのグジャラートにたどり着いた。船の大きさや乗っていた人の数などの詳細は伝えられていない。このとき、ザラスシュトラが灯もしたとされる火も運ばれた。

パールシーの共同体の伝承では、グジャラートのマハーラージャーとの間で次の様なやりとりがあった。

パールシーの代表者がマハーラージャーに定住の希望を伝えるが、マハーラージャーは「あなた方のための場所は残っていない」と答えた。代表者はコップに一杯のミルクを希望した。ミルクをコップに注いだあと、スプーン一杯の砂糖を溶かしこむが、コップからは一滴のミルクもこぼれることはなかった。そうして、「このように私達がこの地に溶けこみ、地域を甘くすることが出来ます」と述べた。この話に感銘したマハーラージャーは、布教を行わないという条件で定住を許可した。

ゾロアスター教徒は、ゾロアスター教の父を持つものだけという条件である。女性を嫁がせてゾロアスター教徒を増やすことはできない。パールシーの一団はグジャラート内で素朴な農民としての暮らしを始めた。

イギリスがインドに進出した後に、理由は知られていないが、イギリス人がパールシーのサポートを始めることになる。理由として考えられているのは、インド国内でマイノリティーであるパールシーとその他の勢力の間に闘争を作り出し、分割統治を行いやすくすること。パールシーがインドで混血していないのでヨーロッパ人に近い外見をもつのでパールシーをイギリス人とインド人の間に置いて、パールシーに命令する地位を持たせることなど。また、混血していないアーリア人である事などが推測される。

更に、東インド会社によりパールシーの位置は高められて、ほとんどのパールシーはグジャラートからボンベイ(現在のムンバイ)に移住する。主に貿易によってパールシーは財力をつけて行くことになる。伝わる話によれば、イギリス人がアヘンの貿易により中国から追放されたあと、イギリス人のサポートの元にパールシーがアヘンの貿易を行っていた。

この結果、インドの独立時にはパールシーは強い経済力と、支配的な地位や人々の上に立つためのノウハウを身につけていた。

[編集] 現状

パールシー教入信の儀式、Navjote

少数派の民族として生き残るために、パールシーは共同体ともいえるネットワークを作り出し、お互いに協力している。イランから持ち運ばれた火の燃えるパールシーの寺院はムンバイーとプネーにいくつかあるが、異教者の入場は認められていない。パールシーは裕福な層が多く、教育や文化度が高い。

現在、180,000人程のパールシーがインド国内にいるといわれるが、数は減少傾向にある。

パールシーは数世代前までは子供は5人程度もつのが一般的であった。しかし最近はその生活水準の高さから、結婚や子供の数が欧米や日本のような少子化傾向になっている。1人かせいぜい2人、場合によっては一生を独身のままで子供を作らない男性もいる(その宗教的背景から女性の結婚は増加に寄与しない)。この結果、年々パールシーの数は減少している。タタ財閥の相続が行われた際に、タタの名字をもつ相続者は1人しかいなかったといわれている。

インドの3代目首相インディラ・ガンディーは、初代首相ジャワーハルラール・ネルーの娘でありヒンドゥー教徒であるが、パールシーを夫にもつ[17]。ガンディーの家族名を持つパールシーも多い。ただし、ガンディーの家族名はグジャラート出身者に多い名前で、必ずしもパールシーだけの家族名ではない。

[編集] 世界各地のゾロアスター教

[編集] パキスタン

パキスタン政府の公式統計では、同国の人口1億3000万人のうち0.2パーセントがゾロアスター教徒だとされている。主にカラチ一帯に居住しており、インドのパールシー同様に財界で勢力を築いている。

[編集] 日本

日本へのゾロアスター教伝来は未確証であり、ゾロアスター教の信仰・教団・寺院が存在した事実を示すものも発見されていないが、ゾロアスター教は唐時代に中国へ来ており、また日本には吐火羅や舎衛などのペルシア人が来朝していることから、なんらかの形での伝来が考えられている。ゾロアスター教研究者伊藤義教によれば、来朝ペルシア人の比定研究などをふまえて、新義真言宗の作法やお水取りの時に行われる達陀の行法は、ゾロアスター教の影響を受けているのではないかとする説を提出している[18]

また1970年代前半、小説家松本清張が自作『火の路』で、飛鳥時代の日本にゾロアスター教が伝わっていた、という物語を描き話題となった。松本の説によれば、斉明天皇はその信者であり、マギの秘術を使ったために『日本書紀』で神秘的な存在として描かれたのだとも、飛鳥酒船石は神酒ハオマを製造する為のものであったともいう。

[編集] 中国

中国への伝来は、5世紀頃のこととされる。当時、東西に分裂していた華北の北周北斉で広まっていたという。代には祆教と呼ばれ、都の長安洛陽敦煌涼州などに寺や祠が設けられ、ゾロアスター教徒であったペルシア人やイラン系の西域人(ソグド人など)が、薩保や薩宝という官職を設けて管理していた。 景教ネストリウス派キリスト教)・マニ教と総称して三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市であった長安を中心に盛んであった。

唐の武宗の廃仏(会昌の廃仏)の時に、仏教と共に廃毀され、以後は衰退してしまった。

また現在の新疆ウイグル自治区にあたる西域では、ウイグル人の間でマニ教とともに広く信仰されたが、11世紀から13世紀にかけてイスラム化された。

唐代から元代にかけて対外貿易港だった福建省泉州市の郊外には波斯荘という村があり、現在でもペルシャ人の子孫たちが暮らしている。彼らは回族としてイスラム教を信仰しているが、宗教儀式の中にゾロアスター教の名残が見られるという。

19世紀後半から20世紀前半にかけて、上海広州などではインドから渡来したパールシー商人が、租界を中心に独自のコミュニティを築いていた。現在でも香港には「白頭教徒」と呼ばれる数百人のパールシーが定住し、コーズウェイベイ(銅鑼灣)の商業ビル(善楽施大厦)の一角に拝火寺院が、ハッピーバレー(跑馬地)に専用墓地が存在する。マカオには現在パールシーは居住していないが、東洋望山に「白頭墳場」と呼ばれる墓地があり、香港が貿易拠点として発展する前は、マカオにパールシー商人が住んでいたようだ。

[編集] 欧米

19世紀以降、インドからのパールシーの移住に伴い、イギリス、ドイツ、スウェーデン、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ブラジル、シンガポールなどにはゾロアスター教のコミュニティがあり、現地の印僑社会で重要な役割を果たしている。

[編集] 逸話

[編集] パールシー出身の著名人

[編集] 脚注

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  1. ^ 「(アフラ・マズダーは)『リグ・ヴェーダ』では単に「アスラ(Asura)=主」として知られていたようで、ある詩句では、この二柱(火の神ミスラと水の神ヴァルナ)の下位の「主」は、次のような言葉で語りかけられている。『あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して空に雨を降らせる。…あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して、あなたたちの法を守る。リタ(=自然の法則)を通して宇宙を支配する』(「リグ・ヴェーダ」5:6,3:7)。三柱の「主」は、ともに非常に倫理的な存在で、アシャ(=イランでの自然の法則の呼び名)/リタ(=同インドでの呼び名)を擁護しつつ自らもこれに従う。これらの高度な観念は、原インド・イラン語族が早くも石器時代に発展させたものであり、彼らの子孫の宗教に深く織り込まれている」(『ゾロアスター教』メアリー・ボイス著P.14~15より)
  2. ^ 「私は自ら、マズダーの礼拝者であり、ゾロアスターの信奉者であり、ダエーワ(好戦的で不道徳な神)を拒否し、アフラの教義を受け入れることを告白します。アムシャ・スプンタ(=「聖なる不死者」の意味。特にアフラ・マズダーが創造した六つ偉大な存在を指すことが多い)を礼拝します。善にして宝にみちたアフラ・マズダーに、すべての良きものを帰させます」(ヤスナ12:1。メアリー・ボイス著『ゾロアスター教』P.50-52参照)
  3. ^ 「ここでは(ゾロアスター教徒の信仰告白の中では)、アフラ・マズダーは創造主として尊ばれているが、彼が、異教時代のイラン人にとってもそうみなされていたとは考えられない。なぜなら、もし彼ら(=異教時代のイラン人)が、どれか一つの神に創造的な活動を属させるとするならば、その神は(アフラ・マズダー、ミスラ、ヴァルナの三大アフラの中で)むしろ下位のアフラで、多分遠く離れて在る「叡智の主」の命令を実行する神であったヴァルナであったろうから。これは、おそらくゾロアスターの教義の中でもきわだった特徴の一つであった」(『ゾロアスター教』メアリー・ボイス著P.52)
  4. ^ 山本(2006)
  5. ^ たとえばメアリー・ボイスは、現代のゾロアスター教徒たちの中でも意見の相違があることを認めている。彼女自身はゾロアスターの影響力を高く見ているが、それでも彼女は著書の中で次のように書いている。「改革主義者はかつて、自分たちの預言者の教えは初期に崩壊したという理論を受け入れたため、祖先が生き、多くの場合そのために苦しんで死んだ信仰は誤っていたのだと非難した。さらにこの理論によれば、ゾロアスター自身の教義は、その死後ほとんど直ちに失われてしまったことになるので、宗教史上は何の影響力ももち得なかったことになる。改革派は、このように偉大な遺産を棄てなければならなかった」(『ゾロアスター教』1983。P.319)
  6. ^ たとえばメアリー・ボイスによれば、アケメネス朝のキュロス王が、ユダヤ教を含む他宗教に寛容な政策をとったことで、「ユダヤ人はこの後もペルシア人に好感を持ち続け、ゾロアスター教の影響を一層受容しやすくなった」という(『ゾロアスター教』1983。P.74)。ただし、メアリー・ボイスがその著書の中で前提としている条件には、次のいくつかのことがある。ゾロアスターの出生が紀元前1500年から1200年の間であること(P.4)。ユダヤ人を前536年に解放したキュロス王がゾロアスター教の信仰を持っていたということ。また、この時点ですでに救済者の思想がゾロアスター教の中で成立していた、ということである(以上P.72-76)。だが、これらの前提条件に対しては意見が分かれるところでもある。
  7. ^ こうした影響に関する最新の論文としてWerner Sundermann, 2008, Zoroastrian Motifs in Non-Zoroastrian Traditions, Journal of the Royal Asiatic Society vol.18, Iss.2, pp. 155-165を参照。
  8. ^ 18世紀の翻訳の経緯と、その後のヨーロッパの学説への影響については『宗祖ゾロアスター』前田耕作著P.95-101を参照
  9. ^ 青木健 『ゾロアスター教』を参照のこと。
  10. ^ 「ダリウスがゾロアスター教徒であったことには証拠がある。ペルセポリスの宮殿には有翼のフラワシ、あるいはアフラ・マズダーのシンボルが浮き彫りされている。ペルセポリスの遺跡には、火の寺院であったと伝えられる建築物もある。さらに、ダリウスの治世に造刻された碑文には、王の統治がアフラ・マズダーの恩寵によるものだと述べられている」(P・R・ハーツ『ゾロアスター教』P.59)
  11. ^ ゾロアスター教徒の信仰告白の一節に「マズダー教徒でありゾロアスター教徒である私は」という言い回しがある(『ゾロアスター教』メアリー・ボイス著P.52参照)。アフラ・マズダーはゾロアスター以前からインド・イラン人の間で信仰されていた神なので、マズダーを信じるだけではゾロアスター教徒とは言い切れないのである。またP・R・ハーツは著書『ゾロアスター教』で、「ダレイオス1世がゾロアスター教徒であった」と論じているが、訳者である奥西俊介は「訳者あとがき」の中で次のように反論している。「現在のゾロアスター教徒がフラワシの像とし、自分たちの象徴にしている有翼円盤人物像も、研究者の多くは、アフラ・マズダーの像だとする。この像はアケメネス朝ペルシァの遺跡に見られる。しかし、同王朝の事実上の開祖ダリウス一世がマズダー信者であったことは確実だが、ゾロアスター教徒であったかどうかは明白ではない。」(P・R・ハーツ著『ゾロアスター教』P.171-172)
  12. ^ 「(ゾロアスター以前から)イラン人の祭司は、いずれかの神々にむけて礼拝式を捧げたが、(火と水にきまった供物を捧げるという)儀礼そのものは、いつも同じであったとみられる」(メアリー・ボイス『ゾロアスター教』P.18)
  13. ^ P・R・ハーツ著、奥西俊介訳『ゾロアスター教』P.171-172(P・R・ハーツの書いた本文ではなく、訳者の奥西俊介の「訳者あとがき」で、訳者が著者に対して反論している一節)
  14. ^ 「宗教混淆」、「混淆宗教」、「習合」と翻訳される概念であるが、「シンクレティズム」という単語のまま用いることが多い。
  15. ^ 山下(2007)
  16. ^ 「古代アーリア人の神格には存在していなかった『アラマズド=アフラ・マズダー』が『すべての父』と尊敬されている点では、アルメニアの宗教はゾロアスター教のようにも見える。しかし、ヤシュトの段階でやっと復権した『ヴァハグン=ウルスラグナ』や『ミフル=ミスラ』が非常に重要な地位を占め、宗主国ローマ皇帝をミスラ神になぞらえている点は重要である。これを重視するならば、アルメニア的ゾロアスター教≒パルティア的ゾロアスター教の主神はミスラであり、ひいては『ゾロアスター教』という呼称自体が不正確で、本来はミスラ教というべき」(青木健『ゾロアスター教』P.91-92)。また、次のような記述もある。「概説書によっては、この歴代王朝(アケメネス王朝ペルシャ~アルシャク王朝パルティア)の支配化ではゾロアスター教が国教の位置にあったと説かれる。しかし、厳密には、古代アーリア人の諸宗教とゾロアスター教の境界線は曖昧で、そのどちらとも取れる諸宗教が幅広く受容されていたとしか言えない」。(P.104~105))
  17. ^ 宗教的寛容と世俗主義を唱えたネルーもこの結婚には反対したといわれる。
  18. ^ 伊藤義教『ペルシア文化渡来考』 岩波書店(1980)

[編集] 関連項目

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[編集] 参考文献

 前田耕作編・監訳 東洋文庫 ISBN 4582806090
  • 山下博司 「第Ⅱ章_インドの歴史と宗教」『インドを知る事典』 山下博司・岡光信子(共著)、東京堂出版、2007年。ISBN 978-4-490-10722-7
  • 山本由美子 「ゾロアスター教」『週刊朝日百科 シルクロード紀行18 ペルセポリス」』 合志太士(編)、朝日新聞社、2006年。
  • 堀尾幸司 『キリスト殺しの真相』文芸社
  • 妹尾河童 『河童が覗いたインド』新潮文庫 ISBN 410131103X

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最終更新 2009年11月20日 (金) 00:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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