タイ・フランス領インドシナ紛争

タイ・フランス領インドシナ紛争の最新ニュースをまとめて検索!

タイ・フランス領インドシナ紛争(タイ・フランスりょうインドシナふんそう)とは、1940年11月23日から1941年5月8日にかけて起きたタイフランス植民地軍との国境紛争である。

目次

[編集] 紛争への経緯

タイ王国はフランスに対し、以前割譲したフランス領インドシナ(以後仏印)領内のメコン川西岸までの領土(フランス保護領のラオス王国の主権やカンボジア王国バッタンバンシエムリアプ両州)の返還を求めた。

当時日本軍が北部仏印進駐を行った為、日本と友好関係にあったタイは日本軍が南部に進駐すると領土要求が難しくなるという懸念が生まれたためである。

当時のタイ政府は軍事政権となっており、あくまで強硬な姿勢だった。しかし、フランス政府はこの要求を拒否した。

[編集] 紛争へ

両国の外交が暗礁に乗り上げた1940年11月23日、タイ空軍が仏印領内を爆撃し両軍の戦端が開かれた。

タイは6機のB-10爆撃機で昼間爆撃を行い、仏印軍は4機のファルマン F.221や6機のポテーズ 542など計10機が夜間爆撃を行った。仏印空軍はこれによりタイ空軍の戦闘機・爆撃機合わせて20機を地上撃破することに成功した。損失はMS406戦闘機2機とF221爆撃機1機だった。また迎撃に上がったMS406がタイ空軍の爆撃機2機を撃墜した。

一方陸軍の動きは遅く、動いたのは年が明けてからだった。

[編集] 陸戦

[編集] タイ軍の侵攻

1941年1月6日、タイ軍は仏印領内のルアンプラバン地方(現ラオス)・バッタンバン地方(現カンボジア)に20個大隊で侵攻開始した。対する仏印軍は10個大隊で、しかも重火器が不足していたため緒戦でタイ軍に圧倒され、撤退した。

しかし、仏印軍はベトナム兵の戦時動員を行いタイ軍を領内の奥深くに誘引し反転反抗をする戦略を立てていた。

[編集] 仏印軍の反撃

1月16日カンボジアのバッタンバンで仏印軍は反撃を開始した。これに対しタイ軍はヴィッカース 6トン戦車を装備する2個戦車中隊から成る機甲部隊を投入し仏印軍を押し返すが、救援に駆けつけた外人部隊オチキス 25mm対戦車砲2門・シュナイダー75mm榴弾砲1門装備)の攻撃により6トン戦車3台が撃破されタイ軍の攻勢は頓挫した。

この反撃をきっかけに仏印軍は一気に優勢に立ちタイ軍を次々と押し戻した。

[編集] 海戦

[編集] コーチャン島沖海戦

詳細は「コーチャン島沖海戦」を参照

タイ艦隊がフランス艦隊に一方的に撃破された。

[編集] 空戦

カンボジア上空では仏印軍の戦闘機MS406とタイ軍の戦闘機P-36空中戦を行っていたが約半月の戦いで双方数機ずつ撃墜され、両者痛み分けとなった。

[編集] 終戦

仏印軍が優勢になると、それまで静観していた日本が仏印に軍事的圧力を加え和平を斡旋し始めた。1941年5月8日、両国は日本の仲介により東京条約を調印し、終戦となった。

条約はタイ側の領土要求(ラオスのメコン右岸のチャンパサク地方及びカンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州)を仏印側が全面的に受諾する内容だったため、仏印にとっては「戦闘に勝って、戦争に負けた」という結果になった。しかし、第二次世界大戦後に日本が敗北すると、タイは取得した領土をフランスに返還せざるを得なかった。なお、タイでは1941年に戦勝記念塔がバンコクに建立されている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年8月24日 (月) 11:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【タイ・フランス領インドシナ紛争】変更履歴

ご利用上の注意