タン・シュエ

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タン・シュエ
သန်းရွ
Than Shwe

任期: 1992年

出生: 1933年2月2日(76歳)
政党: 国家平和発展評議会

タン・シュエビルマ語: သန်းရွThan Shwe1933年2月2日 - )は、ミャンマー軍人政治家。階級は最高の上級大将国家平和発展評議会(SPDC)議長。終身国家元首。

1992年4月23日から同国の軍事政権トップとして独裁的地位にある。60歳の定年に達した時、終身国家元首に就任することが決定した。

目次

[編集] 軍歴

1933年2月2日マンダレー管区チャウセー郡のビルマ族家庭に生まれる。1951年高等学校卒業後、翌1952年メッティーラの郵便局員として勤務する。1953年ビルマ士官訓練校(OTS)を卒業し(第9期)、少尉に任官、ビルマ陸軍第1歩兵大隊に配属される。1958年地方心理戦部隊所属中隊長に任命される。1963年中央政治学大学で教鞭を執り、部長を務めた。1966年第101軽歩兵大隊司令部第二作戦参謀。1970年第一歩兵大隊長1975年陸軍参謀本部作戦局第一作戦参謀。1977年第88歩兵師団副師団長。1980年同師団長。1983年南西軍管区司令官。1985年ビルマ国軍参謀次長

[編集] 政治的経歴

SPDCが、1988年の社会主義政権崩壊に対する反応として作られた時、タン・シュエはその21人のメンバーのうちの1人として指名された。彼は議長となったソウ・マウンの片腕となり、その後、1992年4月23日に、健康上の理由によるソウ・マウンの辞任に伴い、国家法秩序回復評議会(SLORC) 議長(国家元首)、国防相、国軍最高司令官として彼の後継者になる。

当初は民主主義運動家、アウン・サン・スー・チー(1990年の選挙の後に自宅軟禁された)に対する制限を緩め始めた。また、1989年にビルマからミャンマーへ国名を改め、1993年には、新しい憲法の記述を命じた。

彼は、経済に関する国家の統制を緩め、ミャンマーの東南アジア諸国連合への参加を支持した。さらに、政治的な腐敗に対して大規模な粛正を行なった。

批判を許容しないとしばしば見なされているが、彼は、国際赤十字委員会およびアムネスティ・インターナショナルを初めてミャンマーに入国させている。しかしながら、軍事政府は、カレン族シャン族の少数民族の迫害を継続した。彼はミャンマー北部のムスリムに対する抑制キャンペーンを行い、これにより概算25万人が、難民としてバングラデシュへ逃れることを強いられた。

[編集] 人物

  • 国民民主連盟など、民主化勢力には妥協を示さない強硬派として知られる。だが、政界に対しての綱紀粛正などから、国民の支持率は決して低くは無いことが伺える。
  • 表現の自由を弾圧し、政権に反対するジャーナリストを拘留・監視している。1990年代の終わりにアウン・サン・スー・チーを釈放したが、2003年には再び軟禁した。
  • 彼は国営の新聞紙上で祝日と式にメッセージを出すが、国内の報道にはめったに出ず、顔写真もミャンマー国内ではほとんど出回っていない。しかし、国外の報道には頻繁に出ており、外交の表舞台においては積極的に写真撮影も許可するほど、ミャンマー国外での露出度は高い。
  • 最近の報告書は、近年、彼が国に対する支配力を強化していることを示唆している。さらに、彼の求心力はキン・ニュン首相の逮捕により著しく高まった。
  • タン・シュエの妻 Daw Kyaing Kyaing は、政治の上で重要な役割を果たしている。彼女は収賄を行なったと噂されており、2004年に公の贈収賄汚職に関係していたとされる。
  • タン・シュエは占星術の予測を彼の政策のうちのいくつかに取り入れているとされる。首都が2005年にヤンゴンからネピドーに移転した理由が占星術の予測であったと強く噂されている。また、ミャンマー連邦の国旗が別の占星術の予測に従ってまもなく変更されるだろうとも言われている。
  • 米紙ワシントンポストの週刊誌『パレード』が選ぶ「世界最悪の独裁者」の2008年度ランキングにて、第3位に選ばれた。

[編集] 外部リンク

先代:
ソウ・マウン
国家平和発展評議会議長
1992年 -
次代:
-
先代:
ソウ・マウン
ミャンマー連邦首相
1992年 - 2003年
次代:
キン・ニュン

最終更新 2009年11月14日 (土) 20:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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