チッソ

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曖昧さ回避 日窒は、この項目へ転送されています。昭和戦前における日本の新興財閥については「日窒コンツェルン」をご覧ください。
チッソ株式会社
Chisso Corporation
種類 株式会社
市場情報
GS-フェニックス 4006 2000年4月3日上場
JASDAQ 4006 2000年4月1日上場廃止
本社所在地 〒100-8105
東京都千代田区大手町2-2-1新大手町ビル9階
電話番号 03-3243-6400
設立 1950年1月12日
業種 化学
事業内容 化学製品の製造・販売
代表者 後藤舜吉 会長、岡田 俊一 社長
資本金 78億1,396万8,750円
売上高 単独1,600億22百万円
連結2,169億79百万円
(2007年3月期)
総資産 単独1,222億33百万円
連結2,026億36百万円
(2007年3月31日現在)
従業員数 単独780名 連結2,709名
(2007年9月30日現在)
決算期 3月末日
主要株主 株式会社みずほコーポレート銀行 4.34%
東京海上日動火災保険株式会社 1.52%
株式会社三菱東京UFJ銀行 1.41%
(2007年9月30日現在)
関係する人物 野口遵
外部リンク www.chisso.co.jp
特記事項:JASDAQ市場について:上場廃止当時は店頭管理銘柄
  

チッソ株式会社 (CHISSO CORPORATION) は、日本の化学工業の会社。

戦後の高度成長期に、水俣病を引き起こしたことで知られる。旭化成積水化学積水ハウス信越化学工業の母体会社でもある。

目次

[編集] 概要

液晶事業において、ドイツのメルク社と並び世界のトップシェアを誇り事業の柱としている。 バイオテクノロジー・電子部品部門も展開する一方、旧来からの肥料事業・農事産業部門も継続する。 石油化学部門では、三菱化学の石化セグメント子会社、日本ポリケムとのポリプロ事業統合などで、事業のさらなる展開を図っている。

主な子会社として、チッソ石油化学(事業所:千葉県市原市)、九州化学工業(工場:福岡県北九州市)、チッソポリプロ繊維(事業所:滋賀県守山市)や、ポリプロピレン事業合弁会社の日本ポリプロなどがある。また、国内の合弁相手に吉野石膏や同社とは同根である旭化成がある。

[編集] 歴史

[編集] 沿革

  • 1906年野口遵によって曾木電気株式会社が創業される。鹿児島県伊佐郡羽月村(現在の伊佐市)に曽木水力発電所を建設。
  • 1907年、曾木発電所の余剰電力を利用してカーバイドを製造することを目的として、熊本県葦北郡水俣村(現在の水俣市)に日本カーバイド商会が設立される。
  • 1908年、曾木電気株式会社と日本カーバイド商会が合併し、商号を日本窒素肥料株式会社に変更する(本社は大阪)。水俣工場でのカーバイド製造を皮切りに、総合化学会社となってゆく。昭和初期に業績を伸ばしたいわゆる新興財閥日窒コンツェルンの中心企業であった。
  • 1923年、延岡工場(後の旭化成延岡工場)にカザレー法によるアンモニア合成を導入し硫酸アンモニウム(硫安)の製造を開始(1926年、水俣工場でも開始)。
  • 1926年、信濃電気株式会社と合弁で長野県長野市に信越窒素肥料株式会社(現在の信越化学工業)が設立される。
  • 1927年、朝鮮窒素肥料株式会社と朝鮮水力電気株式会社を設立し、朝鮮の興南(現・北朝鮮咸鏡南道咸興市)を始め、朝鮮半島各地に大規模化学コンビナートやダム、水力発電所を建設する。
  • 1931年、宮崎県延岡市に延岡アンモニア絹絲株式会社(現在の旭化成)が設立される(日本窒素肥料からの分離・独立)。
  • 1945年第二次世界大戦の敗戦により、興南工場を始めとする海外資産・工場設備を失う。日窒コンツェルンは解体され、水俣工場のみが残される。
  • 1947年公職追放令により戦前からの経営陣が退陣。財閥解体により、「積水産業」(現・積水化学工業)設立(後に積水化学の住宅部門が分離独立し積水ハウスが設立)。
  • 1950年、企業再建整備法の適用により日本窒素肥料株式会社は解散し、第二会社として新日本窒素肥料株式会社が設立される。本社を大阪から東京都千代田区へ移転。
  • 1956年、日窒アセテート株式会社(現在の旭化成守山工場)を設立し合成繊維事業に参入する。
  • 1958年、日窒電子化学株式会社(のちの三菱マテリアル野田工場)を設立しシリコンウェハー事業に参入する。
  • 1962年、チッソ石油化学株式会社を設立し石油化学事業に参入する。1963年、チッソポリプロ繊維株式会社を設立しポリプロピレン繊維の製造を開始する。
  • 1965年にはチッソ株式会社へと改称している。


[編集] 水俣病

詳細は「水俣病」を参照

同社の水俣工場が触媒として使用した無機水銀の副生成物であるメチル水銀を含んだ廃液を海に無処理でたれ流したため、水俣病を引き起こした。1960年代に電気化学から石油化学への転換が遅れたことに加え、1962年7月から翌1963年1月まで続いた労働争議の影響で製品の販路を失うなど経営状態が悪化し、1965年には無配になった。水俣病裁判での敗訴後は被害者への賠償金支払い、第一次オイルショックなどにより経営がさらに悪化。債務超過・無配継続により1978年に上場を廃止した。その後株式は店頭管理銘柄(現在はグリーンシートオーディナリー区分に編入)となり、制約つきで流通している(株式の取り扱いはみずほ証券のみが認められている)。同社は現在では実質上、国の管理下にある。水俣病問題は発生から数十年経過した現在でも未だに解決を見ていない。2006年には損害賠償訴訟でチッソ側が時効を主張し、非難を浴びている。なお、水俣工場は現在も操業を継続している。

日本興業銀行から転じた江頭豊1964年から1971年にチッソ社長、1971年以後は同会長、同相談役を務めた。社長時代には一旦謝罪したが、その後被害者と対峙するようになり、水俣病被害者との話し合いは進まなかった。この時期のチッソの対応が、水俣病問題の解決を遅らせたとする声も多い。現在でも鹿児島県熊本県には6000人以上の水俣病認定申請者がいる。

[編集] 水俣病関連

  • 少なくとも1953年頃より、水俣湾周辺の漁村地区などでなどの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった。
  • 1956年5月1日、新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。
  • 1959年熊本大学医学部水俣病研究班が水俣病の原因物質は有機水銀であると公表
  • 1970年11月28日、株主総会を大阪厚生年金会館で開催。会社経営者側は、会場正面入口近くに多くの「警備員」を配置し、株式を取得して総会に出席しようとする水俣病患者・家族・支援者(1株株主)の入場を妨害した。会場に入場出来た1株株主の発言も総会屋の野次によって妨害された。総会はわずか5分で閉会した[1]
  • 1972年1月7日千葉県市原市のチッソ石油化学五井工場で、同社従業員(を装った暴力団員)ら約200人が、抗議に来た水俣病患者ら15人に集団暴行。この中には胎児性水俣病患者の写真を撮り世界に発信していた国際写真家ユージン・スミスもおり、患者と会社側と水俣病被害者の交渉を撮影中暴行を受け、カメラを壊され脊椎を折られ片目失明の重症を負った。警察は暴行した暴力団員は逮捕せず、この時抗議した水俣病患者を逮捕した。ユージン・スミスは、この時の暴行を告訴せず、写真撮影に没頭した[要出典]
  • 1976年熊本地方検察庁が、吉岡喜一元社長と西田栄一元工場長を業務上過失致死傷害罪で熊本地方裁判所に起訴した。1988年3月に最高裁で有罪が確定したが、患者からは「今ごろ有罪になっても…」という声が上がった。

[編集] 脚註

  1. ^ 1970年「新聞記事見出しによる水俣病関係年表1956-1971」熊本大学図書館、及びリンク先の切り抜き参照。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年10月30日 (金) 14:16 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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