チャンバラトリオ

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チャンバラトリオ日本お笑い芸人グループである。所属事務所吉本興業。時代劇風のチャンバラを主題とした、体を張ったネタを披露している。

結成時は3人組だったためトリオを名前に使用しているが、後に4人組となった。しかし2008年11月にメンバーの前田が死去したために、現在は結成時と同じ3人組となっている。

目次

[編集] グループ概要

活動時の衣装は着物やなど小道具に至るまで完全な時代劇様式であるが、頭にはかつらをつけない。舞台上で剣劇風のコントを見せ、ボケ役の顔や頭などをハリセンで叩いてつっこむ。一発叩かれると、大きな音とともに痛がるのがお約束となっている。ちなみに現在、芸人のネタとしてハリセンを使うことはテレビのバラエティ番組などでも珍しくなくなったが、それを考案したのは南方であり、使用したのはチャンバラトリオが最初。使用するハリセンは、南方自らが作り特注の厚紙を使用する。

結成時のメンバーである山根、南方、伊吹の3人は元々は東映京都撮影所で斬られ役をやっていた俳優であり、お笑いの枠にははまらない本格的な殺陣をネタに取り入れている。時には時代劇の演技指導なども行うこともある。

主な弟子にチャンバラJr.宮川花子青野敏行小川リエ、団トリオ(解散)らがいる。チャンバラJr.とはチャンバラ軍団として活動も行なっている。

[編集] メンバー

[編集] 現在

本名は山根利雄(やまね としお)。京都市出身。リーダー、ツッコミ担当。日本大学芸術学部中退。「東映剣会」幹部。阿部久州男に師事。1960年に明治座で初舞台。熱狂的な巨人ファンとしても知られる。脳溢血で倒れるも、復帰。現在吉本に所属する「チャンバラトリオJr.」は、山根が命名した。ぴのっきをの2人が弟子についていた時期がある。
本名は楠本喜八郎(くすもと きはちろう)。和歌山県田辺市出身。頭(かしら、「経歴」の項で後述)、ハリセン係。1955年7月に東映に入社。「東映剣会」幹部。萬屋錦之介に師事。1965年に明治座で初舞台。趣味は競輪で、ゲストとして競輪中継への出演歴も多数ある[1]。近年では映画・Vシネマでのバイプレーヤーとしても活躍している。和歌山県立田辺高等学校卒業
本名は末安高也(すえやす たかや)。福岡県大牟田市出身。ツッコミ担当。東映京都の斬られ役集団「ピラニア軍団」幹部を経て、1994年より加入。

[編集] 元メンバー

本名は伊吹幾太郎(いぶき いくたろう)。京都府京都市出身。ボケ担当。主にハリセンの叩かれ役。「東映剣会」会員で。大友柳太郎に師事。1965年に明治座で初舞台。1994年に経済的な理由で吉本興業を解雇され、脱退。夫人は吉本新喜劇の片岡あや子。
ツッコミ担当。同志社大学中退後の1965年に東映入社後高倉健に師事し、任侠映画の端役などを経てメンバーとなった。暴力団関係者との不明朗な交際や賭博などを指摘され脱退をし、吉本興業を去ることになった。1990年代より現在も続く人気ビデオ映画シリーズ『ミナミの帝王』のプロデューサーとなり、ヤクザの親分役で出演もしている。現在の芸名はゆうき哲也。
  • 山根一輝(やまね いっき)
山根伸介の長男。父・伸介が病気で倒れ、結城脱退後に仲間入りをする。伸介復帰後は引退。
本名は宮川定徳(みやがわ さだのり)。大分県出身。ボケ担当。大分県立高田高等学校卒業後サラリーマンを経て松竹芸能タレント養成所に入る。元々は前田五郎の弟子で、1979年に「前田犬千代・竹千代」結成し翌年3月に初舞台。解散後、チャンバラトリオの弟子を務めていたが1994年より加入。2008年11月9日9時22分、胃がんのため入院していた大阪市内の病院で死去。55歳没。

[編集] 経歴

  • 1961年 「映画ブルーリボン技術賞」受賞。
  • 1963年3月 山根、南方、伊吹の3人で結成。千日劇場をホームグラウンドにする。呼びかけたのは最年長の南方だが、健康上の理由から山根がリーダーとなる。南方は「頭」(かしら)と呼ばれる。
  • 1966年 「京都市民映画技術賞」受賞。
  • 1968年 南方が病気療養のため休養し、結城が加入。その後南方が復帰して4人となるもグループ名はそのまま。
  • 1972年 「第7回上方漫才大賞」奨励賞を受賞。
  • 1976年 「第11回上方漫才大賞」大賞、「第5回上方お笑い大賞」金賞、「第11回NHK上方漫才コンテスト」優秀賞を受賞。
  • 1980年 結城が不祥事で休養。
  • 1983年 結城が脱退。
  • 1990年 結城が復帰。
  • 1994年 伊吹、結城が脱退、志茂山、前田が加入。
  • 2008年 前田が他界。

[編集] CD・カセット

[編集] 映画

他多数

[編集] 著書

[編集] 脚注

  1. ^ その競輪で、家を2軒分手放したことがある。また、阿佐田哲也編、『競輪痛快丸かじり』(徳間書店)によると、競輪学校(1950年に創設)がなければ、自分は競輪選手になっていた、と述べている。

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月5日 (木) 12:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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