ティムール

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ウズベキスタンの古都サマルカンドにあるティムールの銅像。サマルカンドは14世紀中葉からティムール朝の首都だった。

ティムールتيمور Tīmūr/Taymūr, 1336年4月9日 - 1405年2月18日)は、中央アジアモンゴルテュルク系軍事指導者で、ティムール朝の建設者(在位1370年 - 1405年)。

ペルシア語による綴りにより忠実にティームールとも表記される。また、この名は中世モンゴル語では Temür、現代ウズベク語では Temur であり、テムルと表記することもある。語義は「」を意味し、この名を持つテュルク系、モンゴル系の人物は少なくなかった。ティムール自身、その覇道の最中、他の「ティムール」という名を持つ男達と何度か戦っている。

彼の名はヨーロッパでも知られており、戯曲やオペラ(1724年初演のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル作曲『タメルラーノ"Tamerlano"』HWV18など)で取り上げられている。

目次

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

モンゴル部族の一分枝バルラス部の出自で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル貴族の家系に属する。系譜によれば5代前の先祖カラチャル・ノヤンはチンギス・ハーンの次男チャガタイに仕えた有力な将軍であったが、ティムールがシャフリサブズの近郊で生まれたころには零落し、わずか数人の従者を持つに過ぎない小貴族であった。

[編集] 有力者へ

若い頃のティムールはチャガタイ・ハン国の東西分裂と混乱に乗じて、従者を率いて家畜の略奪を行う盗賊のようなことをしていたという。しかし徐々に優れた軍事指揮者としての才能をあらわして次第に人望を集め、西チャガタイ・ハン国の有力者へとのし上がっていった。

1360年、東チャガタイ・ハン国のトゥグルク・ティムールが侵攻してくると、ティムールはこれに従属してバルラス部の旧領を与えられた。しかし、すぐに東チャガタイ・ハン国から離反し、カラウナス部のアミール・フサインと結んで勢力を拡大し、本拠地としてサマルカンドを手に入れた。

この間、戦場で片足を負傷し、「跛行のティムール」を意味する Tīmūr-i Lang というあだ名で呼ばれたことが、欧米で彼の呼び名として知られるタメルラン(またはタメルレーン、クリストファー・マーロウの芝居では綴りが"Tamerlane")になったと言われる。

[編集] ティムール朝の確立

その後、覇権をめぐってフサインと対立し、1370年にフサインの本拠地バルフを攻撃。フサインを殺害してトランスオクシアナの覇権を確立した。これまでにティムールはバルラス部以外の有力部族を傘下に収めており、チンギス・ハーンの三男オゴデイの末裔であるソユルガトミシュという王子をハンに擁立。さらに同年、フサインの寡婦でチンギス・ハーンの子孫にあたる王女を妃に娶って、「チンギス家の娘婿(キュレゲン)」を称した。

チンギス・ハーンの子孫ではないティムールとその後継者たちは自らハンに即位することはなく、他の遊牧部族の将軍たちと同じアミールの称号を名乗るのみであり、名目上はハンであるチンギス家の娘婿にしてハンのもとにあるアミールの最有力者として振舞った。しかし現実には1370年に中央アジアにティムール家の権力が確立し、ティムール家による支配が行われたので、これをティムール朝(ティムール帝国)と呼ぶ。

[編集] 勢力の拡大

ティムールの征服戦争」も参照

ティムール帝国の版図

ティムールはチンギス・ハーンの築き上げた世界帝国の夢を理想としていたといわれる。また自己の権威を確立するためには戦勝を続け、戦利品を配下の諸部族に分配する必要もあったため、外征を繰り返した。

トランスオクシアナを統一後の10年間に東チャガタイ・ハン国の支配するモグーリスタン(東トルキスタン)に遠征を繰り返し、コンギラト部族の支配するホラズムを併合し、ジョチの末裔トクタミシュを支援してトクタミシュをジョチ・ウルスのハンに据えて、周辺の諸勢力を自己の影響下に置いた。1380年からはイルハン朝解体後分裂状態にあるイランに進出してホラーサーンを征服、1386年から始まる3年戦役でアフガニスタンアルメニアグルジアなどまで支配下に置いた。

1388年、トクタミシュがティムール朝領を攻撃したのをきっかけに3年戦役を終了したティムールは、トクタミシュを破ると再びイランへの遠征を再開し、1392年から始まる5年戦役でムザッファル朝を滅ぼしてイラン全域を支配下に入れ、バグダードに入城してマムルーク朝と対峙した。ティムールはさらに北上してカフカスを越えトクタミシュを破り、ヴォルガ川流域に至ってジョチ・ウルスの都サライを破壊し、ルーシ諸国まで侵入し、1396年に帰還した。

バヤズィトのもとへ訪れるティムール

1398年、ティムールはインド遠征を決行し、デリー・スルタン朝を破ってデリーを占領した。1399年に始まる7年戦役では、アゼルバイジャンで反乱した三男ミーラーン・シャーを屈服させ、グルジア、アナトリア東部からシリアに入ってダマスカスを占領し、さらにイラクに入ってモースルを征服した。1402年、中央アナトリアに転進したティムール軍はアンカラの戦いバヤズィト1世率いるオスマン朝軍を破ってオスマン朝の拡大を挫き、アナトリアのオスマン領をバヤズィトに領土を奪われた旧領主に返還して帰還した。この遠征でかつてのモンゴル帝国の西半分がほぼティムールの支配下に入り、オスマン朝、マムルーク朝がティムールに名目上服属して、ティムールの支配地域は大帝国に発展した。

1404年末、ティムールは20万の大軍を率い、を破り、の旧領を奪還することを目指して中国遠征を開始した。しかし、ティムールは遠征途中にわかに発病し、1405年2月、オトラルで病没した。

サマルカンドにカスティーリャ王国使節団(現在のスペイン王国の大半)の一員ゴンサレス・デ・クラヴィホの旅行記に、晩年と死の様子が詳しく述べられている。

日本語訳書は『遥かなるサマルカンド』(リュシアン・ケーレン編、杉山正樹訳、原書房、1998年)。フランス語版を元にしている。

[編集] 評価

ティムールは軍事にかけては天才的で、生涯に交えた戦いではほとんど負けたことがなく、また都市のもつ経済的重要性をよく理解してその保護につとめた。彼が都としたサマルカンドにはさまざまな施設が建設・整備されて繁栄をきわめ、チンギス・ハーンと比較して俗に「チンギス・ハーンは破壊し、ティムールは建設した」と言われる。しかし、敵が抵抗した場合には、デリーを占領したとき捕虜数万人を処刑した、バグダードを占領したとき徹底した略奪・破壊を加えた、など外征先では冷酷な破壊者でもあった。

ティムール一代で築かれたティムール朝は、その支配もティムールの個性に大きく拠っており、ティムールの生前に確固たる支配体制が築かれることはなかった。そのため、ティムールの死後その帝国は急速に動揺し、分裂してゆく。


グリ・アミール廟

[編集] 禁断の棺

グリ・アミール廟(『アミールの墓』の意)にある彼の黒石の棺の裏には「私がこの墓から出た時、最も大きな災いが起こる」というような言葉が刻印され、棺は開封されることなかった。しかし、1941年6月19日になってソ連の調査により初めて開封され、脚の障害などが確認された。そのわずか3日後、バルバロッサ作戦(ドイツによるソ連への奇襲)が実行され、これがソ連から見た第二次世界大戦の戦端となった。のちに畏怖を抱いたソ連によって蓋が鉛で溶接され、これ以後二度と開封されていない。

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク


先代:
-
ティムール朝の君主
初代:1370年 - 1405年
次代:
ハリール・スルタン


pnb:تیمور

最終更新 2009年10月17日 (土) 15:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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