ティレル
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| 参戦年度 | 1970 - 1998 |
|---|---|
| 出走回数 | 430 |
| コンストラクターズ タイトル |
1 (1971) |
| ドライバーズタイトル | 2 (1971, 1973) |
| 優勝回数 | 23 |
| 通算獲得ポイント | 621 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 77 |
| ポールポジション | 14 |
| ファステストラップ | 20 |
| F1デビュー戦 | 1970年カナダGP |
| 初勝利 | 1971年スペインGP |
| 最終勝利 | 1983年アメリカ東GP |
| 最終戦 | 1998年日本GP |
ティレル(Tyrrell Racing Organization Ltd.)は、かつてF1に参戦していたイギリスを本拠とするコンストラクター。1970年代の日本ではタイレルと表記されていた。ジャッキー・スチュワートにより2度のタイトルを獲得し、名門チームとして名を馳せた。 若手ドライバーが所属することも多く、ジョディー・シェクター、ミケーレ・アルボレート、ジャン・アレジなどが初期のF1キャリアをティレルで過ごした。 中嶋悟を始めとする日本人ドライバーが在籍するなど、日本と縁の深いチームであった。創始者はケン・ティレル。
目次 |
[編集] 沿革
[編集] 前身
材木商として成功し、F3レースに参加していたケン・ティレルが1960年にFJチーム、Tyrell Racing Organizationを結成。クーパーのマイナーフォーミュラチームとして活動し、ジャッキー・スチュワートやジャッキー・イクスらを輩出した。1968年には、マトラがフォード・コスワース・DFVエンジンを使用するセミワークスチーム、マトラ・インターナショナル(Matra International)を発足、ティレルはそのチーム監督として初めてF1に参戦し、愛弟子スチュワートを擁して1969年のドライバーズ、コンストラクターズ両タイトルを制覇した。しかし、マトラはフォードのライバルであるクライスラー傘下のシムカと提携したため、マトラではフォードエンジンが使えなくなる一方、スチュワートのテストでマトラよりコスワースDFVの方がコンペティティブだとの判断もあり、ティレルはマトラと決別し、新規のコンストラクターとしての参戦を決断した。1970年のシーズン当初はマーチのマシンを使用しつつ、ティレルはマトラのエンジニアだったデレック・ガードナーに新たなシャーシの設計を依頼し、極秘裏にマシンの開発を進めた。
[編集] 1970年代
1970年の第11戦カナダGPで突然オリジナルマシン001を登場させ、優勝争いに加わる戦闘力をみせて周囲を驚かせた。続けて1971年シーズンに投入された、スポーツカーノーズを採用した003の実力も本物で、オリジナルマシンによるフル参戦初年度のこの年にいきなりダブルタイトルを獲得し、1973年にも005でスチュワートがチャンピオンになった。ケン・ティレルとスチュワートの師弟関係、スチュワートと愛弟子フランソワ・セベールのコンビなど、結束力を武器にF1界の驚異的な新興勢力となる。しかし、1973年の最終戦アメリカGPの予選中にセベールが事故死し、このレースが丁度100戦目となるのを機に引退を決めていたスチュワートは、決勝レースに出走することなく引退した。
両ドライバーを失ったことで破竹の勢いは消えたが、ジョディー・シェクターが新エースとなり、パトリック・ドゥパイエと共に優勝戦線で活躍した。1974年は新たにウイングノーズとなった007を第5戦スペインGPから投入、シェクターはモナコGPで2位に入ると、次のスウェーデンGPで優勝。この年イギリスGPにも勝利し、翌1975年の南アフリカGPと合わせて007は通算3勝を数えた。1976年には日本でも有名な6輪車P34を登場させ、再びF1界を驚かせる[1]。だが周囲の好奇の目をよそに、P34は投入直後から確かな戦闘能力を発揮した。デビュー3戦目のモナコGPでニキ・ラウダのフェラーリに次ぐ2・3位、次戦スウェーデンGPではワン・ツーフィニッシュし[2]、コンストラクターズ・ポイントで3位を獲得した。
1977年にはシェクターの移籍に伴いロニー・ピーターソンが加わり、新たにシティコープがスポンサーとなったが、6輪車用のタイヤ開発が滞るなどして成績は精彩を欠いた。ピーターソンは1年でディディエ・ピローニへ交代した。1978年はオーソドックスな008を投入、ドゥパイエがモナコGPを制したが、この年を最後にエルフとシティコープの両スポンサーが撤退、また開発能力に優れたドゥパイエがリジェへ移籍するなどした後のチームの戦力は凋落傾向となった。
[編集] 1980年代
1980年代に入るとターボエンジンへの移行に乗り遅れ、苦戦を強いられた。しかし、ミケーレ・アルボレートが健闘し、DFVエンジンで1982年最終戦のラスベガスと1983年のデトロイトの市街地コースで2勝を挙げた。1983年の勝利はチームの最終勝利であると共に、F1界に一時代を築いた名機DFVエンジンの最後の勝利にもなった。アルボレートはこれらの活躍が認められ、フェラーリへ移籍した。
1984年は、前年までF3を戦っていたマーティン・ブランドルとステファン・ベロフの2人の新人を抜擢した。アメリカ東GPでブランドルが2位、雨のモナコGPではベロフがフェラーリを抜き3位に入るなどターボ勢に食い込む健闘を見せた。ブランドルはクラッシュで足を骨折したため、代役にステファン・ヨハンソンを起用。しかし後に、車検でティレルのマシンに「水タンク事件」が発覚しチームには84年シーズンからの失格が通告され、全成績・全ポイントを剥奪された。1985年は開幕を前年同様、フォードDFVエンジンを積んだ012で迎えるが、シーズン途中からルノーターボエンジンを搭載した014を投入する。このティレルの「ターボ化」により、F1に参戦する全てのマシンがターボエンジン搭載マシンとなり、ターボ隆盛の象徴的な出来事となった。しかしチームの成績は以後も平凡なリザルトに終わった。ドライバーはベロフとヨハンソンで始まったシーズンだったが、ヨハンソンは開幕戦を終えるとフェラーリに引き抜かれ、ベロフはF1と並行して参戦していたWECのスパ1,000kmでのレース中にオー・ルージュでクラッシュし命を落としたため、前年の負傷から復帰したブランドルとイヴァン・カペリがティレル014をドライブした。1986年はほぼ変わらぬマシンをブランドルとフィリップ・ストレイフが駆り、シーズン途中に改良版015シャシーも投入されたが、最高位は最終戦で記録したブランドルの4位が精一杯であった。
1987年、2年後のターボエンジン禁止に先駆けて自然吸気エンジンへ回帰。フォード・コスワース・DFZエンジン(3000ccのDFVを3500ccへ排気量アップ)に変更した。残留したストレイフと、ザクスピードから移籍加入したジョナサン・パーマーが安定した走りを見せ、自然吸気エンジン搭載車を対象としたドライバーズ(ジム・クラークカップ)、コンストラクターズ(コーリン・チャップマンカップ)の両タイトルを獲得した。1988年はストレイフが去ったため、新人ジュリアン・ベイリーを起用しパーマーとイギリス人コンビとなる。しかし前年よりも自然吸気エンジンに移行したチームが他にも増え、相対的にティレルの成績は下降していった。
1989年にターボが禁止になり、同時にハーベイ・ポスルスウェイトをデザイナーとして迎え入れたことにより、ティレルは再浮上のきっかけを掴んだ[3]。
フロントサスペンションのダンパーを通常の2本から1本に変更した「モノショック」を採用した018は、非力ながら軽量なコスワース・DFRエンジンと合わせ軽快な操縦性を備えていた。メキシコGPでは、6年ぶりにフェラーリから戻ってきたミケーレ・アルボレートが3位表彰台へ上がり、018のポテンシャルの高さを証明した。第7戦のフランスGPからキャメルのスポンサードを得たため、マールボロの支援を受けていたアルボレートが離脱し、代わりに国際F3000に参戦中の新人ジャン・アレジが起用され、デビューレースで4位に入賞し注目を浴びる。アレジがF3000に出場する際の代役としてジョニー・ハーバートも018をドライブしたが、足の負傷を抱えており結果が残せなかった。シーズン終了後、チームを3年間支えたパーマーがマクラーレンとテストドライバー契約を結び移籍していった。
[編集] 1990年代
1980年代末から1990年代前半まで、バブル景気を背景にF1界にジャパンマネーが流れ込んだ。ティレルは日本のドライバー、エンジンメーカー、スポンサーを積極的に導入し、体制の向上を目指した。
1990年、ポスルスウェイトがデザインし、中嶋悟とジャン・アレジがドライブした019は、現在のスタンダードであるハイノーズやアンへドラル・ウイングと呼ばれるアイデアを実現したものであった。また開幕戦の直前にタイヤを参戦以来使用していたグッドイヤーからピレリへ変更し、アイルトン・セナらとバトルを繰り広げたアメリカGPとモナコGPでアレジが2位を獲る[4]など荒れた路面では強みとなったが、シーズン全般でタイヤパフォーマンスに苦しんだ。アレジと中嶋の2人で計16ポイントを獲得した。
1991年にはブラウンがメインスポンサーとなり、前年マクラーレンのダブルタイトル獲得の原動力となったホンダV10エンジン(ホンダRA101E)の供給を受け、大きく期待されるシーズンとなった[5]。初戦のアメリカGPでこの年より加入したステファノ・モデナと中嶋がダブル入賞を果たした他、モデナがカナダGPで2位表彰台する活躍もあったが、シャシーとのバランスと駆動系のトラブルにも苦しんだ。ピレリタイヤも安定した性能を発揮せず、12ポイントの獲得に留まった。メインスポンサーのブラウンとホンダのエンジン供給はこの年のみで終了し、中嶋悟はこの年をもって現役を引退した。
1992年はエンジンをイルモアV10に変更し、ドライバーはアンドレア・デ・チェザリスとオリビエ・グルイヤールとなった。前年のホンダよりも小型・軽量なエンジンを搭載したマシンはバランスが良く、また駆動系のトラブルも大幅に減った。ブラウンや中嶋の引退に伴う日本企業の撤退(カルビーとクラブアングルは継続)が響き資金難に陥るも、グルイヤールの持ち込み資金により何とかシーズンを終えることができた。シャシーは前年の020をイルモアエンジン用にモディファイしただけの020Bであったが、チェザリスが8ポイントを獲得した。
1993年ラルースより片山右京が移籍。ヤマハからV10エンジンの供給を受け、日本たばこ産業(キャビン)など日本企業のスポンサーも獲得して資金事情は改善されたが、ハイテク競争の開発費には十分ではなかった[6]。シーズン中盤まで3年落ちのマシン(020C)で戦うが、ニューシャシー021も失敗作となり、ノーポイントに終わった。
1994年も引き続きヤマハV10を搭載。スポンサーブランドをキャビンからマイルドセブンへ変更し、白と爽やかなブルーの配色となった。この年はハイテク禁止と、セナの死亡事故以後に車体レギュレーションが変更されたが、022はしばしば上位を掻き回す活躍を演じた。スペインGPでは1991年のカナダGP以来、ヤマハエンジンにとっては初めての3位表彰台をマーク・ブランデルが獲得した。メインスポンサーがない状況は変わらなかったが、予選で度々上位に進出した。片山はドイツGPの序盤に2位を走行した。マイナートラブルで好機を逸する場面も多かったが13ポイントを得た。ヤマハエンジンは頻繁なアップデートにより通常想定される年間の伸び幅を大幅に上回るパワーアップを果たした[7]が、後半戦はトラブルが増えた。
1995年は、右京のチームメイトにミカ・サロを迎え、ノキアがメインスポンサーとなった。ハイドロリンクサスペンションを搭載した023を実践投入したが、期待に反して熟成に手間取り、元の仕様に戻すなど5ポイントの獲得と低迷した[8]。ノキアはこの年のみでスポンサーを撤退した。
1996年には新開発となった超軽量コンパクト(重量は95kgと言われた)なヤマハV10エンジン(OX11A)を搭載するも信頼性とパワー不足に悩み、メインスポンサーが無い状況では十分な開発とテストが出来ずに、年間5ポイントに終わった。この年をもってヤマハエンジンとの契約が終了し、翌年以降はチームが消滅する1998年までフォード・コスワースエンジンを使用する事になる。
[編集] 消滅
1997年にはチームとして「ティレル2000」と銘打って2000年までに勝利とチャンピオンを獲得する事を目標として中嶋企画と提携し、元ドライバー中嶋悟をスポーティング・ディレクターに起用した。また高木虎之介とテストドライバー契約を結び、日本からの資金導入でチームの活性化を図った。右京はこの年よりミナルディに移籍、エンジンもフォードに変更されたが、モナコグランプリでミカ・サロが他のチームのリタイアに助けられ5位入賞した以外はノーポイントに終わり、これがティレルとして最後の入賞となった[9]。またダウンフォース不足を少しでも補おうと、シーズン途中でサイドポンツーンの上にウイングを取り付け「Xウイング」と呼ばれた。
1998年のシーズン前に、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)などによる買収が発表された。しかし、この買収は新チームブリティッシュ・アメリカン・レーシングの参戦権を確保するためだけのもので、ティレルの人材や資産は引き継がれないものであった[10]。よって、この年を最後にティレルは名実ともにF1から消えることになる。また、前年に導入したXウイングを前提とした車造りをしたが、スペインGPを前にして禁止令が出た事で、想定していたエアロダイナミクスのバランスが崩れて、開発作業にとどめを刺された形となった[11]。加えてケン・ティレルは契約したかったヨス・フェルスタッペンが採用されなかった事に激怒し、チームを離脱した。この年には虎之介がティレルからF1デビューし予選、決勝共に好走したが、結局チームにはレースに参加するだけで車の開発資金が無く、ポイントも挙げることなくその歴史に幕を下ろした。ティレル公式サイトの、別れを告げる挨拶の文末には、「sayonara(さよなら)」と記されていた。
1999年には元デザイナーのハーベイ・ポスルスウェイト博士がホンダF1(HRD)のテストで訪れていたスペインバルセロナで死去、続いて2001年にはチーム創設者のケン・ティレルが亡くなった。
[編集] 変遷表
| 年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | 優勝数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1968年 | マトラ・インターナショナル(ティレル) | マトラMS10 | D | フォードDFV | エルフ | ジャッキー・スチュワート ジョニー・セルボ・ギャバン |
||
| 1969年 | マトラ・インターナショナル(ティレル) | マトラMS80 | D | フォードDFV | エルフ | ジャッキー・スチュワート ジャン=ピエール・ベルトワーズ |
||
| 1970年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | マーチ701 001 |
D | フォードDFV | エルフ | ジャッキー・スチュワート フランソワ・セベール ジョニー・セルボ・ギャバン |
- | 0 |
| 1971年 | エルフ・チーム・ティレル | 001,002,003 | G | フォードDFV | エルフ | ジャッキー・スチュワート フランソワ・セベール ピーター・レブソン |
1 | 7 |
| 1972年 | エルフ・チーム・ティレル | 002,003,004,005,006 | G | フォードDFV | エルフ | ジャッキー・スチュワート フランソワ・セベール パトリック・ドゥパイエ |
2 | 4 |
| 1973年 | エルフ・チーム・ティレル * Blignaut Lucky Strike Racing (004) |
005,006 | G | フォードDFV | エルフ | ジャッキー・スチュワート フランソワ・セベール エディー・ケイザン クリス・エイモン |
2 | 5 |
| 1974年 | エルフ・チーム・ティレル * Blignaut Embassy Racing (004) |
005,006,007 | G | フォードDFV | エルフ | ジョディー・シェクター パトリック・ドゥパイエ エディー・ケイザン |
3 | 2 |
| 1975年 | エルフ・チーム・ティレル * Lexington Racing (007) |
007 | G | フォードDFV | エルフ | ジョディー・シェクター パトリック・ドゥパイエ イアン・シェクター ジャン=ピエール・ジャブイーユ ミシェル・ルクレール |
4 | 1 |
| 1976年 | エルフ・チーム・ティレル * Scuderia Gulf Rondini (007) * OASC Racing Team (007) * Heros Racing (007) * Lexington Racing (007) |
007,P34 | G | フォードDFV | エルフ | ジョディー・シェクター パトリック・ドゥパイエ イアン・シェクター サンドロ=ペゼンティ・ロッシ オット・ストゥッパッシャー 星野一義 |
3 | 1 |
| 1977年 | エルフ・チーム・ティレル * Muritsu Racing Team (007) |
P34/2 | G | フォードDFV | エルフ | ロニー・ピーターソン パトリック・ドゥパイエ 高橋国光 |
6 | 0 |
| 1978年 | エルフ・チーム・ティレル | 008 | G | フォードDFV | エルフ | パトリック・ドゥパイエ ディディエ・ピローニ |
4 | 1 |
| 1979年 | キャンディ・ティレル・チーム チーム・ティレル |
009 | G | フォードDFV | エルフ | ディディエ・ピローニ ジャン=ピエール・ジャリエ ジェフ・リース デレック・デイリー |
5 | 0 |
| 1980年 | キャンディ・ティレル・チーム | 009,010 | G | フォードDFV | エルフ | ジャン=ピエール・ジャリエ デレック・デイリー マイク・サックウェル |
6 | 0 |
| 1981年 | ティレル・レーシング・チーム | 010,011 | M A |
フォードDFV | バルボリン | エディ・チーバー ケビン・コーガン リカルド・ズニーノ ミケーレ・アルボレート |
9 | 0 |
| 1982年 | チーム・ティレル | 011 | A | フォードDFV | バルボリン | ミケーレ・アルボレート スリム・ボルグッド ブライアン・ヘントン |
6 | 1 |
| 1983年 | ベネトン・ティレル・チーム | 011,012 | G | フォードDFY | バルボリン | ミケーレ・アルボレート ダニー・サリバン |
7 | 1 |
| 1984年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 012 | G | フォードDFY | シェル | マーティン・ブランドル ステファン・ベロフ ステファン・ヨハンソン マイク・サックウェル |
-(水タンク事件) | 0 |
| 1985年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 012,014 | G | フォードDFY ルノーEF15 |
エルフ | マーティン・ブランドル ステファン・ベロフ ステファン・ヨハンソン イヴァン・カペリ フィリップ・ストレイフ |
9 | 0 |
| 1986年 | データ・ジェネラル・チーム・ティレル | 014,015 | G | ルノーEF15、EF15B | エルフ | マーティン・ブランドル フィリップ・ストレイフ |
7 | 0 |
| 1987年 | データ・ジェネラル・チーム・ティレル | DG016 | G | フォードDFZ | エルフ | ジョナサン・パーマー フィリップ・ストレイフ |
6 | 0 |
| 1988年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 017 | G | フォードDFZ | エルフ | ジョナサン・パーマー ジュリアン・ベイリー |
8 | 0 |
| 1989年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 017B,018 | G | フォードDFR | ユニパート | ジョナサン・パーマー ミケーレ・アルボレート ジャン・アレジ ジョニー・ハーバート |
5 | 0 |
| 1990年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 018,019 | P | フォードDFR | エルフ | 中嶋悟 ジャン・アレジ |
5 | 0 |
| 1991年 | ブラウン・ティレル・ホンダ | 020 | P | ホンダRA101E | シェル | 中嶋悟 ステファノ・モデナ |
6 | 0 |
| 1992年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 020B | G | イルモア2175B | エルフ | アンドレア・デ・チェザリス オリビエ・グルイヤール |
6 | 0 |
| 1993年 | ティレル・レーシング・オーガナイゼイション | 020C,021 | G | ヤマハOX10A | エルフ | アンドレア・デ・チェザリス 片山右京 |
13 | 0 |
| 1994年 | ティレル | 022 | G | ヤマハOX10B | BP | 片山右京 マーク・ブランデル |
7 | 0 |
| 1995年 | ノキア・ティレル・ヤマハ | 023 | G | ヤマハOX10C | Agip | 片山右京 ミカ・サロ ガブリエル・タルキーニ |
9 | 0 |
| 1996年 | ティレル・ヤマハ | 024 | G | ヤマハOX11A | エルフ | 片山右京 ミカ・サロ |
8 | 0 |
| 1997年 | ティレル | 025 | G | フォードED | エルフ | ミカ・サロ ヨス・フェルスタッペン |
10 | 0 |
| 1998年 | ティレル | 026 | G | フォードZETEC-R | エルフ | リカルド・ロセット 高木虎之介 |
10 | 0 |
*枝がついているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など
[編集] ティレルが導入した技術
[編集] 6輪車
ティレルが1976年と1977年に使用したF1界初の6輪マシン(通称「6輪タイレル」)であるP34。後輪2本のタイヤは通常サイズだが、前輪はリム10インチの小径タイヤを左右4本装着していた。
詳細は「ティレル・P34」を参照
[編集] ハイノーズ
1990年モデルの019で採用された、フロントノーズを高く持ち上げる空力的な車体形状。これをきっかけに、F1マシンデザインはハイノーズへとシフトすることとなり、ティレルのエポックメイキング的な発明として評価されている。
ウイングカーの禁止後、前後車輪間の車体下面を平滑面とする「フラット・ボトム規定」下で、デザイナーはダウンフォース獲得策を模索していた。マシンのノーズ部分を若干高くして車体下面に気流を流しこむ「ハイノーズ」のアイデアは、エイドリアン・ニューウェイが設計したマーチ881や、ジョン・バーナードが設計したフェラーリ 639や640でも(外見ではわからないように)試みられていた。
空力専門家のジャン・クロード・ミジョーは、1989年モデルの018での同様の試みを経て、翌年の019で周囲を驚かせる大胆なハイノーズ化を行った(特に019の形状はイルカの頭部に似ていたことから「ドルフィン・ノーズ」とも呼ばれた)。車体下面のプレートを延長する「抜け道」でフラット・ボトム規定をクリアし、高く持ち上げたノーズからコクピット下まで広い空間を作り、気流の「吸入口」としたのである。また、フロントウイングも路面との距離を保つため、ノーズマウント部から斜めに下げていく形状とした。これは、アンヘドラル(下反角)ウイングと命名され、またF4U戦闘機の逆ガルウイングに準えて「コルセアウイング」とも呼ばれた。
このハイノーズマシンは1990年のサンマリノGPでデビューし、ジャン・アレジによってモナコGPで2位を獲得したのを頂点に、中嶋悟とともにチームがコンストラクターズランキング5位を獲得する原動力となった。翌年以降、各チームが多種多様なハイノーズを登場させたが、アンヘドラルウイングは中央空間のウイング面積が減ることがネックとなり、やがてベネトンの2点吊り下げ式ウイングがスタンダードとなった。
[編集] Xウイング
1997年にデザイナーマイク・ガスコインが発案した子持ちウイング(ウイングレット)の一種で、サイドポンツーン上の垂直支持板に取り付けられた。レギュレーション上では空力付加物が規定されていない空間を利用したもので、SF映画『スターウォーズ』シリーズに登場する架空の戦闘機Xウイングに準えて、こう呼ばれた。低速コースでダウンフォースが必要なアルゼンチンGPで初投入された。ガスコインは小型エアロパーツを追加する手法を好み、2006年まで在籍したトヨタでも用いている。
1998年から他チームも同様のデバイスを採用し始め、フェラーリなどのトップチームにも広まった。しかし、同年のアルゼンチンGPでザウバーのジャン・アレジがピットイン時にエアホースを引っ掛ける事故が起きると安全性に問題があり、更には翌戦のサンマリノGPでフェラーリが初めて使用していくのを見てマシンの美しさが見損なっていくことを懸念し、その次のスペインGPを前に突然使用禁止処分が下った。なお、1998年は、X型でなく1本あるいは2本のステーで支える形式になった。
[編集] 水タンク事件
1984年のアメリカ東GP後の車検で、ティレルのマシン(012)の水タンクから微量の炭化水素が検出された。これがエンジン出力の違法なアップに関係していたことが判明、レギュレーション違反との判定が下された。ティレルは控訴し出走を継続したが、第13戦オランダGP終了時点で裁判所から控訴棄却の裁定が下り、これによって、このシーズンのティレルチームと、所属ドライバーステファン・ベロフとマーティン・ブランドル、ステファン・ヨハンソンの、ティレルから出走した記録・ポイントが全て剥奪され、第14戦イタリアGP以降の残り3戦を出走除外となった。この事件は「水タンク事件」と呼ばれる。
[編集] 脚注
- ^ 同マシンは日本において折からのスーパーカー・ブームとも相まって、ラジコンやミニカー、スーパーカー消しゴムなどになり莫大な版権料をチームにもたらした。
- ^ その後もドイツGPまでの3戦と北米・日本のラスト3戦で2位に入り、出走した13戦中8戦で2位以上に入賞している。
- ^ ポスルスウェイトは一時ザウバーに移籍したが、その後復帰しチームの消滅まで仕事を続けた。
- ^ これらの目立った活躍でアレジは翌年フェラーリへ移籍した。
- ^ エンジン変更に伴い、燃料をエルフからシェルに変更したが、マクラーレンが前年まで使用したV10用のスペシャルガソリンではなく、スタンダードなF1用ガソリンの供給だった。
- ^ 車高調整システムも他のチームの様な「油圧式」ではなく「電動式」の為に、レース途中で車高システムの電源を落として走る事もあった。
- ^ GRAND PRIX Special 特集ヤマハ・エンジン「撤退10年後」の真実シリーズ 全5回
- ^ 右京はこの年のポルトガルGPのスタート直後に大クラッシュを起こし、翌ヨーロッパGPではテストドライバーのガブリエル・タルキーニが代役で出場した。
- ^ シーズン前は「信頼性のあるフォードエンジンでより多く入賞出来る筈だから、車体は冒険をしないデザインで」とシーズンに臨んだが、むしろエンジントラブルが原因でのリタイアが多かった。
- ^ 実際には人材難でティレルに在籍していた一部の人間がBARへ再就職が出来た。
- ^ カスタマーエンジンであるにも関わらずトップスピードだけは上位という事態が起こった。
[編集] 関連項目
- モータースポーツ
- F1世界チャンピオンの一覧
- F1コンストラクターの一覧
- ティレル - B・A・R - ホンダF1 - ブラウンGP
- 岡山国際サーキット
[編集] 過去スポンサー
- エルフ
- シティコープ
- ベネトン
- キャンディ
- デロンギ
- データゼネラル
- コートーズ
- キャメル
- エプソン
- PIAA
- 日本信販
- クラブアングル
- ブラウン
- カルビー
- キャビン/マイルドセブン
- Apan777
- 北辰物産
- ノキア
- 大韓航空
- フォンドメタル
- モトローラ
- ブラザー
- YKK
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最終更新 2009年10月31日 (土) 19:35 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【ティレル】変更履歴






