ティーガーI

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ティーガーI
ボービントン博物館の初期型
性能諸元
全長 8.45 m
車体長 6.3 m
全幅 3.4-3.7 m
全高 2.93 m
重量 56 t
懸架方式 トーションバー方式
速度 38 km/h(整地
10-20 km/h(不整地
行動距離 125 km
主砲 8.8 cm KwK 36 L/56
副武装 7.92 mm MG34機関銃×2
NbK39 90mm・Sマイン発射機×6
装甲 前面 100 mm
側面および後面 80 mm
上面および底面 25 mm
エンジン マイバッハ HL210 P45
水冷V型12気筒ガソリン
650 hp
乗員 5 名
  

ティーガーI とは、第二次世界大戦ドイツ国防軍武装親衛隊が使用したVI号戦車(制式名称 Panzerkampfwagen VI Ausf. E (Sd Kfz 181) )の通称である。

1942年後半からナチス・ドイツが降伏する1945年まで第一線で活躍した重戦車。一般には英語読みでタイガー戦車という呼び名で広く知られている。登場直後から乗員の間で「無敵の戦車」と伝説化した。 書籍における日本語表記は「六号重戦車」「虎号戦車」に始まり、英語読みの「タイガー」やドイツ語での発音の一つである「ティーゲル」が多く見られたが、現代ドイツ語の音に近い「ティーガー」が1970年代後半頃から見られるようになり、現代ではこの読みで記されることが多い。

目次

[編集] 設計

ティーガーIは以前のドイツ戦車とは主にその設計哲学において異なる。以前のドイツ戦車は機動力と装甲、砲力のバランスを重視したものであった。当時最強の砲力を持つ戦車は50mm砲装備のIII号戦車であり、敵戦車の火力が上回ることもあったが、ドイツ軍は優れた戦術でこの不利を跳ね返した。

ティーガーは機動力を犠牲にしてまでも、火力と装甲を強化した重戦車である。当初VI号戦車となるべく1937年に作られたDW I、及び翌年作られたDW II、さらに後者を発展させたVK 3001(H)が1941年までに3輌試作されたが、これらの開発は中止となり、より大型のVK 3601(H)の開発が優先された。これは1941年5月に発注されたもので、当初から距離1500mで100mm厚の装甲を撃ち抜く主砲と、同様の打撃に耐える装甲が要求されており、この後に遭遇するT-34などではなく、フランスで遭遇したB1 bisやマチルダ歩兵戦車などの連合軍重戦車との戦訓によるものであった。しかし予定されていたゲルリッヒ砲の搭載が中止されたため、8.8cm高射砲を改造した戦車砲の搭載が決定され、新たにVK 4501(H)として再設計され、これが後にティーガーとして採用された。ティーガーIの車体形状とレイアウトはIV号戦車によく似ていたが、二倍以上の重さがあった。これははるかに厚い装甲と大口径の主砲を備えていることに加えて、その為必然的に大きくなる燃料タンクと弾薬格納庫、更に大きなエンジン、強固な変速機とサスペンションを備えた結果であった。

1943年、チュニジアで米軍に捕獲された第504重戦車大隊第1中隊の初期型

IV号戦車の前面装甲は初期型で20mm、強化されたF型で50mmに過ぎない。対してティーガーIの車体前面装甲は100mm、鋳造製の砲塔前面は120mm、側面と後面装甲の厚さも80mm、上面と底部の装甲の厚さは25mmである。後に砲塔の天蓋の装甲は40mmに強化された。装甲板はほぼ平板、砲塔側面は曲げ加工したものを連結して作られていた。装甲の接合はリベットではなく、同時期の他のドイツ戦車同様の溶接による高品質のものであったが、基本フレーム無しで装甲板同士を直接嵌合溶接して組む構成であった。

車体は重すぎ当時の殆どの橋梁の荷重制限を超えており、その為4mの深さまで水中を走行できる仕様とされた。現用戦車では標準的な装備だが、水中でのエンジンの吸気と冷却のためシュノーケルを装備し、車体は完全な水密構造となり生産に手間がかかった。しかも、水中走行の準備には30分かかり、砲塔と主砲は正面真直ぐの位置に固定し、開口部には防水カバーや栓、また空間にはゴムの拡張を行い、車体背面にはシュノーケルが立てられた。ただしこの機構は極初期型のみの装備で、後の生産型では廃止された。

戦車の後部にはエンジンルームがあり、その両側のスペースには燃料タンクとラジエターとファンがあった。ガソリンエンジンは排気量21リットルのV12型エンジンのマイバッハHL210P45で、最高出力は650馬力だったがこの巨体には充分ではなかった。250輌目のティーガーIから改良型で最高出力700馬力のHL230P45に換装された。エンジンは60度V12であった。ジーゼルエンジンにくらべ防御上極めて不利だが、加速性能は同等の排気量のそれより良かった。エンジンの始動には車体のリアパネルに空けられた穴を通して、クランクまたは、シュビムワーゲン、もしくは小型の始動用の外部エンジンで始動した。エンジンの交換は上面のグリルのあるハッチから吊り上げ車外にだした。

SS第101重戦車大隊のティーガー


駆動輪は車体前部にあった。重さ11トンの砲塔はエンジンから動力供給される油圧装置を通じて動かされ、全周に約1分かかった。そのため、エンジンの回転数に砲塔の動きは比例した。サスペンションは16のトーションバーからなっており、スペースを節約するためスイングアームは左側で前向き、右側で後ろ向きになっていた。一本のアームに三枚の転輪がついており、不整地でも良好な走行性能を発揮した。転輪の直径は80cmで差込式だった。しかし接地圧を分散し低減するためのこのシステムは、いくつもの問題を抱えていた。内側のホイールから(よくあることだが)ゴムリングが外れてホイールを外す必要が生じた場合、外側のホイールのいくつかも外さなければならず、整備時には大きな負担となった。又、ホイールは泥や雪が詰まって凍り付いて動かなくなることがあり、第一ホイールを外す車両もあった。ソ連軍は、この欠点につけこみしばしばティーガーIがすぐに稼動できない早朝に攻撃を行った。後期型からは内側にダンパーゴムを付けた新しいスチールリムホイールが採用され、後に生き残った初期・中期生産型にも換装して使われている。

履帯の幅は良好な接地圧を得るために前例のない725mmもの幅であった。車幅に制限のある鉄道輸送時には最外側の転輪を外して、列車の車幅に合わせるために、520mm幅の輸送用の履帯をつけ鉄道輸送への便宜を図った。熟練した乗員の場合で履帯交換に約20分を要した。

内部構造は一般的なドイツ戦車同様だった。エンジンとは防火壁で隔てられた乗員用の区画があり、左側の運転手と右側の無線手兼機銃手がトランスミッションをはさんで、一段低い車体前部にあった。彼らの後ろには一段高くなった床と、砲塔と連動した円形の吊床があり、砲塔の回転とともに砲備品や乗員も回転した。ここに立つ装填手は、容易にスポンソン(履帯上の車体側面の張り出し)に搭載されている弾薬を取り出すことができた。砲塔内部左側には砲手が座り、車長はその後ろに位置した。装填手は砲塔右側に立って作業を行うが、走行時に腰掛ける専用の折りたたみ式ベンチもあった。また床から砲塔天井までの高さは157cmだった。砲塔には側面にハッチが設けられていた。また戦車長用のスリットやコマンダーハッチのキューポラの形状は当初筒型だったが、防御上不利なため、後期型ではパンテル同様の御椀形にあらためられた。

東部戦線におけるティーガー(1943年)

主砲の砲尾と点火機構は有名なドイツ軍の8.8 cm 高射砲のものが採用された。8.8 cm Kwk 36L/56砲はティーガーIのための改造版であり、ティーガーIIの8.8 cm Kwk 43L/71とともに第二次世界大戦半ばまでは最も威力があり、終戦まで連合軍に恐れられた戦車砲であった。ティーガーIの主砲は弾道が非常に低伸するもので、極めて正確なツァイスのTZF9b照準機を装備していた。戦時中にイギリスで行われた試射において、1200ヤードの距離でわずか16インチ×18インチの大きさの標的に5回連続で命中させた。ティーガーIはしばしば1マイル以上の距離で敵戦車を撃破したと言われている(第二次世界大戦において大半の戦闘は遥かに近距離でなされていた)。

その他の新たな機構は油圧式のプリセレクターギアボックスとセミオートマチックトランスミッションである。この戦車の大重量はまた新たな操舵機構を必要とした。より軽量の車両に使われるクラッチとブレーキではなく、イギリスのメリット-ブラウン式のシングルラジアス機構の改造版が使用された。
ティーガーIの操舵機構は二つのラジアスを持つタイプだった。それぞれのギアで二通りの一定半径での旋回が可能で、一速での最小旋回半径は4メートル、構造的に超信地旋回も可能であった。変速機は8速だったので、16通りの旋回半径があり、もし旋回半径を小さくしたければブレーキが使われた。操舵機構は操作しやすく時代の先を行っていたが、本戦車は全体としては機械的に進んでいるとは言えなかった。

ティーガーIが動けなくなったティーガーIを牽引すると、エンジンはしばしばオーバーヒートし、故障や発火の原因となった為、ティーガーIが僚車を牽引することは禁じられた。駆動輪は低い位置にあるため、余り高い障害物は乗り越えられなかった。履帯はしばしば駆動輪から外れ、その為すぐに行動不能となる悪い傾向があった。履帯が外れて絡まった場合、2輌のティーガーIが牽引のため必要になった。からまった履帯は緊縮がきつくて軸を抜いて外すことができなくなり、その為履帯を爆破して外さなければならないこともあった。
ドイツ軍最大の重牽引車である18t半装軌式牽引車(制式番号:Sd Kfz 9, FAMO社)1台ではティーガーIを牽引できず、しばしば3台連結しなければならなかった(そのせいもあって、同じティーガーIで牽引を試みた場合が多かったらしい)。

ティーガーIは第二次世界大戦の戦車中で重装甲かつ強力な砲を持つ戦車の一つであり、連合軍戦車の強敵だったが、設計は保守的でいくつかの重大な不利があった。装甲板はほぼ垂直に構成され、ソ連のT-34のように傾斜させておらず、充分な防御力を与えるためには厚くて重いものとなってしまった。この過大な重量はサスペンションに負荷をかけたが、これは複雑で修理が困難だった。複雑な変速器と操行装置は、実戦で大きな負荷をかけると壊れやすかった。そのため、移動は基本的に列車で行われた。もし、行軍の必要がある場合は低速で行わなければ、ブレーキやミッションが著しく消耗し、肝心の戦闘ができなくなった。

更に生産コストが非常に高かった。第二次世界大戦中に5万輌弱のアメリカシャーマン戦車と、5万8千輌のソ連のT-34戦車が生産されたのに比べ、ティーガーIはわずか1,350輌、ティーガーIIは500輌弱に過ぎない。ドイツ戦車の設計は複雑で、連合軍戦車に比べ生産コストの面でいずれも高くついたが、ティーガーIはパンターの約2倍、III号戦車の約3倍、III号突撃砲の約4倍も高価だった。もっともティーガーIに近い敵戦車はアメリカのM26パーシングとソ連のIS-2スターリンであり、大戦中に前者は約700輌(うち実戦参加は僅か20輌、最終的な生産数は約2200輌)、後者は3,600輌(うち85mm砲搭載のIS-1が105輌)が生産された。

[編集] 設計の歴史

兵器局から陣地突破用重戦車の開発を依頼されたヘンシェル・ウント・ゾーン社は1937年春から前述のDW I、DW II、VK 3001(H)を開発した。いくつかの試行錯誤を経て、1941年にヘンシェル社と他の三社(ポルシェMANダイムラーベンツ)は75mm主砲を持つ35トン型戦車の設計を提出したが、この計画は1941年5月26日に開発命令が出された、主砲を8.8cm戦車砲に変更した総重量45トンのVK 4501(H)に取って代わられた。

その後、バルバロッサ作戦で遭遇したソ連のT-34は、既成のドイツ戦車を時代遅れのものにしてしまった。ヘンシェル社の設計技師だったエルウィン・アドラースは「ソ連軍の戦車が国防軍のどの戦車よりも優れていると判った時は皆仰天した」と語っている。それまでの試作重戦車を拡大した設計で、後のパンター戦車と異なり、T-34との遭遇以前に開発の始まったティーガーの設計には傾斜装甲などの革新的な設計は採用されなかったが、装甲の厚さがこれを補った。

ティーガーの生産を行うヘンシェル社工場

ポルシェとヘンシェルが試作車の設計を提出し、ラステンブルクにおいてヒトラーの前で比較された。ポルシェ案は故障の多かった変速機を省くために、エンジンで発電機を廻してモーターを駆動する方式を採用し、サスペンションも外部にシリンダーをもつ簡易な設計であった。ヒトラーは関心を示したが、不足していた銅を大量に必要とするためもあって、堅実なヘンシェル案が採用された。ティーガーIことVI号戦車E型の生産は1942年8月に開始された。なお既にポルシェ案の車体も90輌先行生産されており、これを流用してフェルディナントまたはエレファントとして知られることになる重駆逐戦車が製造された。

当初は Pzkw VI Ausf. H の名称で開発されたが、後に Ausf. E と変更された。制式番号はSd.Kfz.181 である。「ティーガー」の愛称はフェルディナント・ポルシェ博士による物であった。

ティーガーIは実質的に試作のまま大急ぎで実戦に投入されたため、生産期間中にわたって大小の改良が続けられた。まずコストを削減するため、初期型にあった潜水能力と外部取り付けの空気清浄機が省略された。そしてスリッド式の車長用ハッチのキューポラをペリスコープによる間接視認方式の安全なものに交換したものが中期型、緩衝ゴムを内蔵した転綸に変更したものが後期型と、後年の研究者によって分類されている。また、修理に戻された本車の一部は、後にシュトルムティーガーに改造された。


運用に当たる戦車兵などの兵士用に製作されたマニュアル『ティーガーフィーベル』は、戦車を女性に例えて(挿絵つき)兵士のキャラクターがその世話をする、という図式でティーガーIの運用法を解説していた。

[編集] 生産

ティーガーIの生産は1942年8月に始まり、1944年8月の生産終了までに1355輌が生産された。当初月産25輌のペースは1944年4月には月産104輌まで増加していた。保有台数は1944年7月1日に671輌数に達したのが最高だった。通常ティーガーIの生産には他のドイツ戦車の2倍の時間がかかった。改良型のティーガーIIが1944年1月に生産開始されると、ティーガーIはまもなく姿を消した。

[編集] 運用

ティーガーIは、主要な敵戦車であるT-34M4中戦車チャーチル歩兵戦車を1600m以上の遠方から撃破できた。対照的に、76.2mm砲を装備したT-34はティーガーIの前面装甲を零距離でも貫けなかったが、側面装甲はBR-350P APCR弾を使用すればおよそ500m以内であれば貫けた。T-34-85中戦車の85mm砲はティーガーIの側面を1,000m以上でも貫くことができた。IS-2の122mm砲はティーガーをあらゆる方向から1,000m以上で撃破することができた。

M4シャーマンの75mm砲はティーガーIの正面装甲を零距離射撃でも貫けず、側面装甲も500m以内でないと貫けなかった。アメリカ軍の76mm砲は、一般的なAPCBC弾を使用した場合、いかなる距離でもティーガーIの前面装甲を貫けなかったが、供給量の少なかったHVAP弾を使用すれば1,000mで前面装甲を貫けた。シャーマン ファイアフライに使用されるイギリス製17ポンド砲は、APDS弾を使用した場合、1500m以上で前面装甲を貫けた。

1943年、シチリア駐留の第504重戦車大隊第2中隊の初期型

通常戦闘距離が短くなるとより厚い装甲を貫くことができる(第二次大戦ではほとんど使用されなかったHEAT弾を除き)。ティーガーIの砲の大きな貫通威力は、敵戦車を相手が反撃できない遠距離から撃破できることを意味する。開けた地形ではこれは大きな戦術的優位だった。敵戦車はティーガーIを撃破するために側面からの攻撃を強いられた。

ティーガーIは1942年9月に初めてレニングラード近郊の戦闘で使用された。ヒトラーの圧力で計画より数ヶ月も早く使用されたため、初期型の多くは機械的な問題を抱えたままであることが判明した。1942年9月23日の初陣で、ティーガーIの多くは故障し、他はソ連のトーチカに据えられた対戦車砲により撃破された。一輌はほとんど無傷で捕獲され、ソ連に同戦車を研究し、対抗手段を準備する機会を与えた。

北アフリカ戦線での最初の戦闘では、ティーガーIは開けた地形で連合国戦車を圧倒できた。しかし機械的欠陥により同時に使用できた数はごく少なかった。レニングラードでの経験をなぞるように、少なくとも一輌のティーガーIはイギリス軍の6ポンド対戦車砲により撃破された。

側面に被弾しながらも貫通しなかった砲弾痕

ティーガーIは過大な重量により渡れる橋は限られており、地下室のある建物跡を横切ることは危険だった。もう一つの弱点は油圧により旋回する砲塔の回転速度が遅いことだった。砲塔は手動で動かすこともできたが、照準の微調整に用いられる程度であった。

ティーガーIの最高路上速度は38km/h、好敵手のIS-2の37km/hと似たようなもの(ただし操縦性はティーガーの方が容易で優れていることは、両軍の報告書で明らかになっている)で、共にほとんどの中戦車よりかなり低速だった。ティーガーIの初期型の最高速度は45km/hほど出たが、1943年秋にエンジンが改造された際に38km/hに落とされた。ティーガーIはまた常に信頼性の不足に悩まされた。ティーガーIの部隊は故障により定数不足のまま戦闘に参加することが多く、部隊での路上行軍ではほとんど常に故障によって脱落する車両が出た。また燃費が悪く、航続距離も短かった。しかし履帯幅の広さが幸いし、重戦車にしては驚くべきことに、ソ連のT-34を例外として大半の戦車より面積当たりの接地圧が低かった。

防御戦闘では低機動力はあまり問題にならず、ティーガーIの装甲と火力は全ての敵にとって恐怖の的だった。遭遇確率の高いパンターの方がより大きな脅威だったが、ティーガーの存在が連合軍兵士に与えた心理的影響は大きく、「タイガー恐怖症(タイガー・フォビア)」を引き起こした。連合軍兵士はティーガーを見かけると立ち向かうよりも逃げ出したが、シュルツェン付IV号戦車のようにティーガーに似ているだけの戦車に対しても同様のことが起こった。ノルマンディー作戦では、1輌のティーガーをやっつけるのに側面や背面装甲を狙うため4-5輌のシャーマンが協力して攻撃した。ソ連のT-34もティーガーを恐れた。それはまるで以前ドイツのIII号戦車がソ連の重戦車を恐れたのと同じであった。連合軍側で受け入れられた戦術は一団となってティーガーに当たることであった。一輌がティーガーの注意を引き付けている間に、他が側面や背面を狙う。弾薬や燃料はスポンソンに搭載されているため、側面を貫通すれば撃破できることが多かった。しかしこれはリスクのある戦術であり、連合軍側は複数の戦車を失うこともあった。ティーガーの部隊を撃滅するには実に巧妙な戦術が必要だった。

チュニジアに進出した第501重戦車大隊の極初期型

ティーガーIは軍直轄の独立重戦車大隊に配備されることが多かった。これら大隊は突破作戦でも、さらに反撃戦においても激戦地に投入された。陸軍の精鋭である大ドイツ師団や武装SS師団の内でも番号の若い精鋭師団はティーガーIをある程度装備していた。

クルスクの戦いで1943年7月7日、SS第1戦車連隊第13中隊第2小隊のフランツ・シュタウデッガー軍曹が指揮する1輌のティーガーは、テテレーヴィノ付近でソ連軍のT-34 約50輌との遭遇戦闘において約22輌を撃破した。シュタウデッガーは弾薬を使い果たし、敵の残車両は退却した。この戦果でシュタウデッガーは7月10日に騎士鉄十字章を受章した。

1944年8月8日、SS第102重戦車大隊第1中隊のヴィリー・フェイ曹長指揮するティーガーはイギリス軍のシャーマン戦車部隊15輌と遭遇、14輌を撃破し、同日中にもう1輌を撃破した。同戦車大隊はノルマンディーの戦いで保有するティーガー全車を失ったが、227輌の連合軍戦車を6週間の内に撃破した。

ミハエル・ヴィットマンはティーガーの多くのエースの中でも最も有名な戦車長であった。彼は様々な車両を乗り継ぎ戦い続け、最後にティーガーに搭乗した。ヴィットマンは一日で戦車数輌を含む20両以上の敵車両を破壊し、ヴィレル・ボカージュの戦い騎士鉄十字章に剣の飾りを受章したが、1944年8月8日に戦死した。

10名以上の戦車長が100輌以上の敵戦車を破壊した。ヨハネス・ベルターは139輌以上、オットー・カリウスは150輌以上、クルト・クニスペルは168輌、ミハエル・ヴィットマンは138輌を撃破した。

[編集] 連合軍による捕獲

1944年6月18日、ローマ近郊の道路脇の溝に突っ込んだ第508重戦車大隊所属のティーガーI(後期型)、アメリカ軍トラックが通り過ぎる

1943年4月21日、第504重戦車大隊の砲塔番号131番のテイーガーIがチュニジアのジェベルジャッファの丘でのイギリス軍チャーチル歩兵戦車との戦闘後に捕獲された。その戦車は修理され、チュニジアでしばらく展示された後、イギリス本国に送られ徹底的に調査された。しかし米英など西側連合国はこのドイツ戦車がいかなる自軍戦車より優れていることが判明したにもかかわらず殆ど対策をとらなかった。これは一つにはティーガーIは大量生産はされないだろうという正しい推測による。またアメリカ陸軍の戦術教条では、戦車対戦車の戦闘には重点をおかず、駆逐戦車に頼るようになっていたことにもよる。一方イギリス陸軍はティーガーIの調査後、17ポンド砲を装備したコメット巡航戦車を投入したが、登場時期がライン渡河作戦以降であったためドイツ戦車と遭遇する機会はほとんどなかった。

1951年9月25日、捕獲されたティーガーIはボービントン戦車博物館にイギリス軍需省によって正式に寄贈された。1990年6月、本車が完全に稼動できるように修復作業が始まった。2003年12月、ABRO(陸軍基地修理組織?)による大規模な修復作業の末、完全に稼動可能なエンジンを装備した131号車は博物館に戻された。

[編集] ソ連軍の反応

ティーガーIはより軽装甲のドイツ戦車に対して戦果を上げていたソ連の重戦車KV-1や中戦車T-34に対する対抗策として登場したとも言える。

ティーガーIが東部戦線に初登場したのは1942年12月だった。翌年1月に捕獲されたティーガーIはソ連に対抗策をとらせることとなった。ティーガーIが現れるまで、ソ連はもっぱら戦車の生産数量を重視し、質的な改良は量産を遅らせるため見送られてきた。

ソ連の対抗策はいくつかの形をとった。152mm砲を装備した自走砲の早急な開発が命じられた。SU-152自走砲は25日という記録的な早さで設計を完了し実地試験に入った。ソ連時代の記録では、同車を装備した一個連隊が定数不足のままクルスクに5月に送られ、クルスクの戦いで12輌のティーガーIと7輌のエレファント駆逐戦車を破壊したとされた(しかしソ連崩壊後判明したデータにより、事実とは異なっていたことが判明している。そもそも、この戦いで様々な理由で全損となったティーガーは10ないし11輌であった)。また、新型重戦車が計画され、1943年末に85mm砲装備のIS-85(後にIS-1)、1944年始めに122mm砲装備のIS-122(後にIS-2)が就役した。そしてその車台を使用したISU-152ISU-122自走砲が完成した。T-34は1944年には新たに85mm主砲を装備した3人乗り砲塔を与えられた。終戦間際には、新たな牽引式対戦車砲となるBS-3 100mm野砲が供給された。これらの新兵器は全て既存の車輌や砲の拡大改良型であったため、すぐに大量生産に入ることができた。

ソ連の戦車の最大の脅威はドイツ重戦車と比較してのその圧倒的な生産量であった。わずかに1,350輌のティーガーIと500輌足らずのティーガーIIが生産されたに過ぎない一方、58,000輌のT-34、4,600輌のKV-1、3,500輌のIS-2が生産され、合わせて66,000輌のソ連戦車が1,850輌のティーガーI/ティーガーIIと対していた。約6,000輌が生産されたパンターと各型合計約8,200輌が生産されたIV号戦車を数に入れてもドイツ戦車の総数は約15,000輌にしかならないため、米英戦車を計算に入れなくてもソ連戦車の総数がドイツ戦車の総数の4倍以上という数的優位にあった。

[編集] 対戦車兵器としてのティーガーI

木陰に身を隠すティーガー、手前の乗員が履帯の跡を消している

ティーガーIはもともと陣地突破のための攻撃用兵器として設計されたが、実戦投入されたときには軍事情勢は劇的に変化しており、主に敵戦車隊の突破を阻止する「火消し役」としての機動防御戦闘に多用された。

ティーガーIが他のドイツ戦車と比較して傑出した対戦車兵器だったかは疑問がある。個々の車両の戦果として、パンター戦車の内でもティーガーIに匹敵する連合軍戦車の撃破実績を残したものもいる。全体として東部戦線でも西部戦線でもドイツ戦車は連合軍戦車より戦果を上げた。一例として、ノルマンディーで8月には6,000輌の連合軍戦車が1,400輌のドイツ軍戦車に対峙していたが、装甲、兵装、機動性の全てにおいて劣り、ドイツ軍戦車の3倍の損失を出した。しかしこの不利は空軍の優位によっておおむね帳消しにされた。連合軍の空の優位のためドイツ軍戦車は大きな戦果を上げるために集結して行動することはできなかった。

ソ連軍と西側連合軍の戦車生産台数を考慮すると、ティーガーIが敵より10倍の戦果を上げる必要があったが、いくつかの重戦車大隊はこれを上回る戦果を上げ、例えば大ドイツ師団所属の隊は16.67倍の戦果を上げた。

[編集] 外部リンク

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最終更新 2009年12月1日 (火) 10:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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