テカムセ
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テカムセ、またはテクムセ(Tecumseh / Tecumtha / Tekamthi, 1768年? - 1813年10月5日)は、アメリカインディアンのショーニー族の酋長で、白人への抵抗運動のシンボル的人物。
アメリカでの発音表記は「Tekoomsē」(テクームセ)で、ショーニー族の言葉で「流れ星」、または「天空を横切る豹」、「待ち伏せしている豹」を意味する。
弟のテンスクヮクヮ(Tenskwatawa)と共に、西部の諸部族を連合させ、白人と戦った。テクムセの戦いはテクムセの戦争と呼ばれる。
[編集] 生い立ち
1768年頃にオハイオ州中部のマッド川沿いの、オールドピカの町で生まれた。この時代、拡大する一方の白人入植者は、ショーニー族の領土であった東部地方にも押し寄せ、合衆国はインディアンの領土を力づくで購入し始めた。これに反旗を翻したインディアン部族は、ショーニー族と連合するなどして戦ったが、次々に破れ去り、弱体化して領土を奪われていった。
1811年、テクムセはショーニー族の若き指導者として、合衆国に戦いを挑んだ。これは「ティピカヌーの戦い(Battle of Tippecanoe)」と呼ばれる。しかしこのショーニー族の抵抗戦はウィリアム・ハリソン率いる合衆国政府軍に敗れ、テクムセは当時イギリスの植民地だったカナダに逃れた。
これがきっかけの1つとなり、1812年には米英戦争が勃発。テクムセはイギリス軍と共にデトロイトを攻略するなど戦果を上げた。しかし、オリヴァー・ハザード・ペリー率いる合衆国軍がエリー湖の戦いで勝利すると、イギリス側は補給線を絶たれ、苦戦を余儀なくされた。さらに、イギリス軍の司令官が戦死し、テクムセに協力的でないヘンリー・プロクター(Henry Procter)が後任となったため、テクムセ達はイギリスの後ろ盾を失い、苦しい戦いを余儀なくされた。
1813年、テクムセとイギリス軍は「テムズの戦い」で合衆国軍に敗れた。その後まもなく、テクムセはリチャード・メンター・ジョンソン(後の副大統領)に殺され、その死によって「テクムセ戦争」は終わった。
[編集] テクムセの演説
インディアンの指導者として、テクムセもまた優れた弁舌者だった。
1806年、テクムセはショーニー族の土地への白人入植者の侵入に抗議して、以下のように宣言した。
- 白人たちによる侵略というこの悪を阻止する、唯一無二の方法は、インディアンが一致団結して、土地に対する共通の、しかも平等な権利を主張することしかない。土地というものは、かつて分割されたことなどなかったのだ。 それは我々インディアンたち全員のものだ。
- いかなるインディアン部族も、それがたとえ同じ部族同士であっても、土地を売り渡す権利など誰も持っていない。ましてや、よそから入り込んで来た白人などに売る権利などは断じてないのだ。
1811年には、彼は「ティピカヌーの戦い」を前に、同胞たちに以下のように呼びかけた。
- 今、ピクォート族はどこにいるのか? ナラガンセット族も、モヒカン族も、ポカノケット族も、他にも大勢いた我らが同胞の強力な部族は、どこへいってしまったのか? 彼らは白人(the white man)の強欲と圧迫の前に、あたかも夏の日差しの前の雪のように消え失せてしまった。
- 我々は、それが自分達の番になった今、戦うこともせずに滅びていくべきなのか。大精霊が我々にお与えくださった家、土地、先祖の眠る墓、そしてすべての我々にとって愛しくも神聖なもの、すべてをあきらめてしまうべきなのか? 私はあなた方が私にこう叫ぶだろうことを知っている。「いいや、決してそんなことはない!」と!
[編集] 関連項目
- テカムセの呪い
- ウィリアム・シャーマン (ミドルネームがTecumseh)
最終更新 2009年11月30日 (月) 13:02 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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