テカムセの戦争
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テクムセの戦争(-のせんそう、英:Tecumseh's War、またはTecumseh's Rebellion)は、アメリカ合衆国北西部領土で、アメリカ合衆国軍とショーニー族酋長のテクムセに率いられたインディアンたちの部族同盟との間で戦われた戦争である。この戦争は1811年のティッペカヌーの戦いでアメリカ軍のウィリアム・ヘンリー・ハリソンの勝利で終わったと考えられがちであるが、米英戦争の時 (1812-1815)までテクムセの反抗は継続したので、米英戦争の一部とも見なされている。
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[編集] 北西インディアン戦争の後
この戦争の2人の主たる敵対者、テクムセとウィリアム・ヘンリー・ハリソンは、1794年に北西インディアン戦争の終わりとなったフォールン・ティンバーズの戦いにまだ若い兵士・戦士として参加していた。テクムセは、北西インディアン戦争を終結させ、ショーニー族や他のアメリカ・インディアンが住んでいた今日のオハイオ州の大部分をアメリカ合衆国に割譲することになったグリーンビル条約に署名することを拒否していた。しかし、その地域の多くのインディアン指導者は条約を受け入れ、それに続く10年間はインディアン部族を統合したアメリカの支配権に対する反抗が影を潜めたままだった。
グリーンビル条約の後、オハイオのショーニー族の大半はオーグレーズ川ワパコネタにあるショーニー族集落に定住し、条約に調印した大酋長ブラック・フーフに率いられていた。北西インディアン戦争に参加したマイアミ族のリトルタートルことミシキナクヮ酋長も条約に調印し、イール川の彼の集落に住んでいた。ブラック・フーフことカテカハッサ酋長と、リトルタートル酋長の二人とも、合衆国の文化を取り入れ順応しようとしていた。
[編集] 宗教復活
ここで、テクムセの弟、預言者テンスクヮタワに導かれたインディアンの移民排斥主義的宗教の復活の動きが1805年に始まり、白人社会への順応を進める酋長達の影響力に脅しをかけた。テンスクヮタワはインディアンに白人のやり方を拒絶させ、合衆国に対するさらなる土地の割譲を止めた。合衆国と協力して行く方向に傾いていた多くのインディアンが魔道士として告発され、何人かはテンスクヮタワの追随者に処刑された。ブラック・フーフも魔道士狩りで告発されたが危害は加えられなかった。テンスクヮタワはグリーンビルの彼の集落からブラック・フーフの合衆国との友好関係の体面を傷つけることもした。
1808年までに白人とワパコネタのショーニー族との間の緊張関係が募り、テクムセとテンスクヮタワは集落を立ち退き、さらに北西に行ってワバシュ川とティッペカヌー川が合流するところの近くにプロフェッツタウンの集落を作った。リトルタートルはこの兄弟に歓迎できないことを伝えたが警告は無視された。テンスクヮタワの教義は広く知られることになり、多くのインディアン部族から追随者を惹きつけた。その部族はショーニー族、カナダのイロコイ族、チカマウガ族、フォックス族、マイアミ族、ミンゴ族、オジブワ族、オッタワ族、キカプー族、デラウェア族、マスクーテン族、ポタワトミ族、ソーク族およびワイアンドット族であった。テクムセはこれら部族同盟の指導者として表に出たが、宗教的な訴えによってその基礎を築いたのは弟テンスクヮタワの方だった。
[編集] 政治的同盟
一方1800年に、ウィリアム・ヘンリー・ハリソンは新しく作られたインディアナ準州の知事となり、ビンセンズにその政庁を置いた。ハリソンはアメリカの拡張のためにインディアンの土地に対する所有権を確保しようとした。特にハリソンはインディアナが州に昇格するために必要なだけの白人の入植者を引き付けようと期待した。ハリソンはアメリカ・インディアンと多くの土地の割譲に関する条約交渉を行い、1809年9月30日のウェイン砦の条約で完結させていた。この条約では、リトルタートルや他の部族指導者が300万エーカー (約 12,000 km2) の土地を合衆国に売却した。[1]
テクムセはウェイン砦の条約のことを聞いて激怒し、その後は傑出した政治的指導者として頭角を現した。テクムセは何年も前にショーニー族の指導者ブルージャケットやモホーク族の指導者ジョセフ・ブラントが提唱した考え方を復活させた。その考え方とは、アメリカ・インディアンの土地はあらゆる部族共通の持ち物であり、全部族の了解無しに土地を売却してはならないということだった。合衆国と直接対峙する時ではなかったので、テクムセの最初の主要な敵対者は合衆国との条約に署名したインディアンの指導者であり、彼ら全てを殺してしまうと脅した。テクムセは広く歩き回り、戦士たちに順応主義者の酋長を捨てて、プロフェッツタウンの反抗に加わるように扇動した。テクムセはウェイン砦の条約が不法だと主張した。テクムセはハリソンに条約の無効化を要求し、アメリカ人は条約で売却された土地の開拓を進めてはならないと警告した。
1811年8月、テクムセはハリソンとビンセンズで会い、ショーニー族の兄弟は合衆国との和平を保つ意図があることを保証した。テクムセはその後、南部に旅していわゆる「文明化五部族」の中で同盟者を募った。南部の部族の大半はテクムセの申し出を拒絶したが、後にレッド・スティックスとして知られるようになるクリーク族の1派だけが、テクムセの武器を取って立ち上がると言う要求に応えた。レッド・スティックスは米英戦争の一部となったクリーク戦争を戦った。
[編集] ティッペカヌーの戦い
| ティッペカヌーの戦い | |
|---|---|
![]() ティッペカヌーの戦い |
|
| 戦争:テクムセの戦争 | |
| 年月日:1811年11月7日 | |
| 場所:今日のインディアナ州バトルグラウンド近く | |
| 結果:アメリカ合衆国軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| アメリカ合衆国軍 | テクムセの同盟軍 |
| 指揮官 | |
| ウィリアム・ハリソン | テンスカタワ |
| 戦力 | |
| 1,000 | 550-700 |
| 損害 | |
| 死者62、傷者126 | 死者50、傷者70 |
テクムセが南部にいる間に、ハリソン知事は1,000名以上の部隊を引き連れ、ビンセンズからワバシュ川を遡ってテンスカタワとその追随者を脅そうとした。ハリソン隊は途中で今日のテレホート近くにハリソン砦を造った。ハリソン砦にいる間に、陸軍長官のウィリアム・ユースティスからの命令が届き、もし必要ならばプロフェッツタウンにインディアン達を追い払うために武力を行使しても良いと言うことだった。1811年11月6日遅くにハリソン隊がプロフェッツタウンの外に到着した時、一人の若いインディアンが白旗を振りながら馬で町の外に現れた。そのインディアンは、和平のための会合をもつために翌日まで戦闘をしないことを要求するテンスカタワの伝言を伝えた。ハリソンは同意したが、テンスカタワの提案を疑い、夜通し歩哨を立てていた。テンスカタワは恐らくハリソンが集落を襲おうと考えていると思い、先制攻撃を撃つ賭けに出ることを決め、約500名の戦士をアメリカ軍の宿営地に向かわせた。
どのようにしてその戦闘が始まったのか現存する資料では正確なところが不明であるが、ハリソンの立てた歩哨が11月7日の夜明け前に進軍してくるインディアン戦士に遭遇した。ハリソンの兵士たちが銃声を聞いて目覚めた時、すでにインディアンに囲まれかけていることが分かった。激しい戦闘が起こり、インディアン戦士がハリソン隊の防衛線を突き破り宿営地の中まで入って来た。歩哨たちが宿営地に逃げ帰ってくると、兵士達は直ぐに自発的に集団を作り、防衛線を確保しながら反撃を開始した。この日の朝の間、ハリソン隊は何度も攻撃を跳ね返し、遂にインディアン戦士は撤退した。ハリソン隊は68名が戦死または瀕死の重傷となり、また約120名が負傷した。インディアンの被害は諸説あるが、歴史家の推測では50名以上が戦死し、70ないし80名が負傷した。[2]
テクムセが直ぐにも援軍を連れて帰ってくることを恐れたハリソンはその陣地の防御を固めることを命じた。翌11月8日、ハリソンが少数の兵士にインディアン集落を偵察に行かせると、集落はもぬけの殻だった。インディアンは夜の間に村から抜け出していた。勝ち誇ったアメリカ軍は集落を焼き払いビンセンズに戻った。ハリソン軍の方が損害の大きい戦いではあったが、結果をみればハリソン軍の勝利という解釈がなされた。
[編集] その後
この戦闘の結果、ハリソン隊の武器がインディアン戦士を傷つけることはできないと予言していたテンスカタワにとって、その威信と兄の信頼を失ったことで厳しい打撃になった。これは重大な挫折とはなったが、テクムセは南部から戻ると密かに同盟の再結成を始めた。アメリカが1812年に米英戦争を始めると、テクムセはカナダのイギリス軍も味方にした。その結果カナダの人々はテクムセをカナダの防衛者として記憶したが、米英戦争でのテクムセの行動はインディアンを外部からの力から守るための努力の継続であり、その途中で倒れることになった。
ハリソンはティッペカヌーの戦いがテクムセの同盟に致命傷を負わせたと主張した。ハリソンはこのことで、「ティッペカヌー」という渾名を貰い、この勝利の記憶を民衆に伝えて1840年の大統領選挙で勝利した(第9代アメリカ合衆国大統領)。
[編集] 脚注
- ^ Treaty with the Delawares, Etc., 1809. Indianapolis: Indiana Historical Bureau.
- ^ Casualty figures and force sizes from Sugden, pp. 235-6, and Edmunds, p. 115.
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- Cleaves, Freeman. Old Tippecanoe: William Henry Harrison and His Time. New York: Scribner's, 1939.
- Dowd, Gregory Evans. A Spirited Resistance: The North American Indian Struggle for Unity, 1745-1815. Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1992.
- Edmunds, R. David. Tecumseh and the Quest for Indian Leadership. Boston: Little Brown, 1984.
- ———. "Forgotten Allies: The Loyal Shawnees and the War of 1812" in David Curtis Skaggs and Larry L. Nelson, eds., The Sixty Years' War for the Great Lakes, 1754-1814, pp. 337-51. East Lansing: Michigan State University Press, 2001.
- Sugden, John. Tecumseh: A Life. New York: Holt, 1997.
- ———. "Black Hoof" in American National Biography. Oxford University Press, 1999.
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月14日 (土) 03:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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