ディーン・マーティン
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| ディーン・マーティン Dean Martin |
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![]() 『リオ・ブラボー』でのディーン・マーティン |
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| 本名 | Dino Paul Crocetti |
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| 生年月日 | 1917年 |
| 没年月日 | 1995年12月25日 |
| 出生地 | オハイオ州ステューベンヴィル |
| 死没地 | カリフォルニア州ビバリーヒルズ |
| 国籍 | |
| 配偶者 | ベティ・マクドナルド (1941-49) ジーン・ビーガー (1949-73) キャサリン・メイホーン (1973-76) |
ディーン・マーティン(Dean Martin、1917年6月7日 ステューベンヴィル - 1995年12月25日 ビヴァリーヒルズ)は、アメリカ合衆国の俳優である。ジェリー・ルイスとのコメディ・チーム「底抜けコンビ」で知られる。アメリカではディノ(Dino)の愛称で親しまれている。
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[編集] 来歴
1917年6月7日、アメリカ・オハイオ州の東部、ピッツバーグに程近い小都市ステューベンヴィル(Steubenville)で生まれる。イタリア系のアメリカ人で、出生時の名前はDino Paul Crocettiである。イタリア系移民の子であったので幼少のときは英語が話せずイタリア語を話していた。
高校を中退し、ヤミ酒場(禁酒法時代1920~1933当時:ディノ15歳の時)で密輸酒などの運び役などをしながら棍棒セールスマンとして製鉄所に勤めていた。さらに少年時代から酒場に出入りしてたことから15歳よりウェルター級ボクサーとして懸賞試合でボクシングをしていた。その時のリングネームは『キッド・クロセッティ』である。そのボクシングの試合で鼻を負傷しボクサーを引退する。
その後、バーの用心棒や違法ルーレットカジノのディーラーや元締めなどをして勤めていた。ショウ・ビジネスへの活動の始まりとしては、1940年代初頭にクラブまわりをしていたサミー・アトキンス率いるバンドと知り合い専属歌手となる。当初の歌い出としては当時の流行歌手ビング・クロスビーやミルス・ブラザーズの歌唱スタイルを真似たものであった。その時に名前を本名ディノ・クロセッティ(Dino Crocetti)から最初の名前ディノ・マルティーニ(Dino Martini)と変えている。その後バンド活動中にサミー・アトキンスからイタリア風の名前から英語風のものに変えることをすすめられ名前をディーン・マーティンと改名する。
そしてクラブ歌手として活動中の1946年、アトランティック・シティのクラブで解雇寸前の窮地に立たされた時、偶然ナイトクラブで歌っていたニューヨークで出会った9歳下の無名コメディアン、ジェリー・ルイスと即興でコンビ(Martin and Lewis日本での名称は「底抜けコンビ」)を組み人気が沸騰、それがハル・B・ウォリスの目に止まりコンビで映画「底抜けシリーズ」(パラマウント映画、1949年 - 1956年)に出演して、世界的スターになった。1952年にはおなじパラマウント社の人気シリーズ「珍道中シリーズ」(主演ビング・クロスビー、ボブ・ホープ、ドロシー・ラムーア)にも、同コンビでゲストで乱入している(『バリ島珍道中』(Road to Bali、監督ハル・ウォーカー)。
1956年にコンビを解消してからは、シナトラ一家、いわゆるラット・パック の主要メンバーとして、フランク・シナトラ、サミー・デイヴィス・ジュニア、ピーター・ローフォード、ジョーイ・ビショップとともに活動した。映画では主に西部劇、自身の歌もまじえたロマンチック・コメディーなど娯楽映画を中心に多数出演し、1950年代~60年代を代表するマネーメーキングスターの地位を築いた。主な代表作にエドワード・ドミトリク監督の『若き獅子たち』(1958年)、ハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』(1959年)、ヴィンセント・ミネリ監督の『走り来る人々』(1958年)、『ベルは鳴っている』(1960年)、ビリー・ワイルダー監督の『ねえ!キスしてよ』(1964年)などがある。そして1964年からはドナルド・ハミルトン(Donald Hamilton)原作のスパイ小説を基にした映画『サイレンサー』シリーズの全4作に主演、原作のハードボイルドでシリアスな展開とは違いプレイボーイでユーモア溢れるスパイ、マット・ヘルムを演じ、また折からの60年代スパイ映画ブームに乗り同時期に人気絶頂だった『007』シリーズの亜流作品としても話題となった。 後年は『大空港』の副操縦士役など演技派としても知られた。
歌手としても有名で、レコーディングキャリアの本格的な始まりは1948年『マーティン&ルイス』として『底抜け』シリーズ(パラマウント映画)の主題歌(The Certain Party) をキャピトル・レーベルで吹き込んだのを皮切りに、同年キャピトル・レコードと契約し1961年まで在籍、その後フランク・シナトラがリプリーズ・レコードを設立するにともない彼の誘いで1962年にリプリーズに移籍し1980年までにスイング、ラテン、カントリー、R&B、ポップスなどあらゆるジャンルの曲を歌いこなし、多数のアルバム、シングルを残している。主な代表曲に『誰かが誰かを愛してる』 (Everybody Loves Somebody)、『ザッツ・アモーレ』(That's Amore)、『イナモラータ』(Innamorata)、『ヴォラーレ』(Volare)、『思い出はかくのごとし』 (Memories Are Made of This)、『キング・オブ・ザ・ロード』 (King of the Road、グラミー賞受賞曲)などのヒット曲がある。NBCのテレビ番組『ディーン・マーティン・ショー』(The Dean Martin Show、1965~1978)のホストとしても活躍した。またラスベガスでのショーやステージ活動も1987年まで精力的に行っていた。
私生活では、最初の妻ベティ・マクドナルドとの間に4人(1男3女)、2番目の妻ジーン・ビーガーとの間に3人(2男1女)の子供をもうけた。3番目の妻キャサリン・メイホーンとは結婚後わずか3年で離婚している。
晩年は、息子で俳優のディーン・ポール・マーティン(Dean Paul Martin)が飛行機事故死したり(1987年3月21日、没年35歳)、長年の不摂生がたたり体調を崩すなどが原因で、キャリアに対する意欲を失うなど波乱が多かった。1988年には盟友フランク・シナトラからサミー・デイヴィス・ジュニアとの巡業に誘われたものの、リハーサルに遅れてきたり途中で帰ってしまったことから、シナトラが激怒、結局、巡業先のシカゴでリタイヤ、けんか別れしてしまう(その後、ディーンの代役はライザ・ミネリがつとめた)。30年に渡って共に仕事をしてきたシナトラとディーンは、その後再び同じステージに立つことはなかったという。
1995年12月25日、カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビヴァリーヒルズで、肺癌に併発した肺気腫により死去[1]。78歳没。
彼の死は、盟友フランク・シナトラにも大きな衝撃を与えた。シナトラはマスコミに以下のコメントを発表している。 「友が逝ってしまった。長い年月共に仕事をしてきた親友が、彼とは血はつながっていないが兄弟だった。ディーンはいつまでも私の心の奥深くに生き続ける。」
[編集] 主な出演作品
- 底抜け艦隊 Sailor Beware (1952)
- 底抜けコンビのるかそるか Hollywood or Bust (1956)
- 若き獅子たち The Young Lions (1958)
- 走りくる人々 Some Came Running (1958)
- リオ・ブラボー Rio Bravo (1959)
- オーシャンと十一人の仲間 Ocean's Eleven (1960)
- ベルは鳴っている Bells Are Ringing (1960)
- 七人の愚連隊 Robin and the 7 Hoods (1963)
- テキサスの4人 4 for Taxes (1963)
- ねえ!キスしてよ Kiss Me, Stupid (1964)
- 結婚専科 Marriage on the Rocks (1965)
- エルダー兄弟 The Sons of Katie Elder (1965)
- サイレンサー/沈黙部隊 The Silencers (1966)(2005年11月5日ソニーピクチャーズよりDVD-BOX発売)
- サイレンサー/殺人部隊 Murderers' Row (1966)
- サイレンサー/待伏部隊 The Ambushers (1966)
- サイレンサー/破壊部隊 The Wrecking Crew (1968)
- 5枚のカード 5 Card Stud (1968)
- バンドレロ Bandolero! (1968)
- 大空港 Airport (1970)
- キャノンボール The Cannonball Run (1981)
- キャノンボール2 Cannonball Run II (1983)
[編集] 主なアルバム
- スインギン・ダウン・ヤンダー (1955年、キャピトル・レコード)
- プリティ・ベイビー (1956年、キャピトル・レコード)
- ウインター・ロマンス (1956年、キャピトル・レコード)
- スリープ・ウォーム (1959年、キャピトル・レコード)
- ジス・タイム・アイム・スインギン (1960年、キャピトル・レコード)
- イタリアン・ラブ・ソングズ (1962年、キャピトル・レコード)
- チャ・チャ・チャ・ダ・モ-レ (1962年、キャピトル・レコード)
- フレンチ・スタイル (1963年、リプリーズ・レコード)
- ディノ・ラティーノ (1963年、リプリーズ・レコード)
- ドリーム・ウィズ・ディーン (1964年、リプリーズ・レコード)
- 誰かが誰かを愛している (1965年、リプリーズ・レコード)
- ディーン・マーティンTVショウ (1967年、リプリーズ・レコード)
- フォーエヴァー・クール (2007年、キャピトル・レコード / EMIミュージック・ジャパン)※没後12年を経て、過去の曲からヴォーカルだけを取り出しデジタル化、演奏をリニューアルし収録し直した新譜。
[編集] トリビア
- かつてハリウッドでトム・ハンクス主演、マーティン・スコセッシ監督で伝記映画『ディノ』の製作が浮上したことがあったが結局、この企画は実現しなかった。[2]
- 作品リストには記されていないが、1962年『女房は生きていた』(20世紀フォックス製作)でマリリン・モンローとも共演している。この作品でディノはモンローの夫役で出演していた。結局この作品はモンローの精神不安により撮影が進まず、未完のままお蔵入りとなった。20世紀フォックスの倉庫には現在でもディーンとモンローの幻の共演シーンのフィルム(撮影期間32日:約7分のシーンのみ)の一部が残されている。
- 1968年の映画『サイレンサー破壊部隊』でディーン・マーティンは相手役のシャロン・テートと共に、当時無名だったブルース・リー(この作品でアクション指導を担当)からカンフーの武術指導を受けている。この作品には、これまた当時無名だったアクション俳優チャック・ノリスが敵の部下役で出演していて彼との格闘シーンもある。ディノの人気シリーズだったこの作品のエンドタイトルには『Coming up next the ravagers』(次回、掠奪部隊に続く)と表示され第5作目の予定が立てられていたが、この作品の公開直後シャロン・テートがチャールズ・マンソン事件に巻き込まれ亡くなったために、このシリーズは打切りとなった。
- TFM系で毎週土曜夕方5時から放送されるラジオ番組『サントリー・サタデイ・ウェイティング・バー・アヴァンティ』では、ゲストトークの間の挿入曲でスタンダードヴォーカルの名曲が放送され、ディーン・マーティンの曲も度々聴くことが出来る。
- ローリングストーンズ初期のUSツアーにて、ディーンがホストを務めるTVショウに出演し、ディーンに酷評された。
- 「いとしのオールディーズ」(NHKラジオ第1毎週金曜日20:05~)のテーマとして、ディーンの「誰かが誰かを愛している」が使用されている。
[編集] 日本語版吹替え
声の吹替えを担当した人物
[編集] 脚注
- ^ ディーン・マーティン IMDb
- ^ アメリカWikipedia:Dean Martinより
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月12日 (木) 15:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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