デ・ハビランド DH.106 コメット
デ・ハビランド DH.106 コメットの最新ニュースをまとめて検索!
デ・ハビランド DH.106 コメット
デ・ハビランド コメット (de Havilland DH.106 Comet) は、イギリスのデ・ハビランド社が製造した世界初のジェット旅客機。「コメット」の名称は自社のデ・ハビランド DH.88に続いて二代目である。
定期運航就航後、程なくして、与圧された胴体の繰返し変形による金属疲労が原因の空中分解事故を起こしたが、そこで得られた教訓がその後の航空技術、就中安全向上に果たした役割もまた非常に大きい。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 開発
第二次世界大戦中の1944年にブラバゾン委員会(戦後の航空輸送に関する委員会)が纏めた「500mph(800km/h)で大西洋横断可能」なジェット旅客機計画を受け、デ・ハビランド社が英軍需省の補助金を得て、1946年から開発に着手した。初期案は24席の無尾翼機であった。
開発が難航していたロールス・ロイス エイヴォンの実用化は1950年より先になるという予想の下、敢えて旧式ながら実績のある自社製のゴースト (Ghost) が採用された。アンダーパワーを克服し、高与圧と低温に耐える必要から、機体構造にはモスキートなど同社のお家芸とも言える木製高速機で十分な経験を積んだ、エポキシ接着剤リダックス (Redux)が多用され、圧倒的軽量化と平滑化、高剛性化が図られた。
[編集] 完成
同年に愛息を自社の高速研究機 DH.108 の事故で失ったサー・ジェフリー・デハビランド (Geoffrey de Havilland) にとって、世界初のジェット旅客機の完成は悲願になり、1949年7月27日(自らの57回目の誕生日)の初飛行時には、チーフ・テストパイロットのジョン・カニンガム元空軍大佐と共に、自ら操縦席に座った。これは当時の最新鋭レシプロ機ダグラスDC-7よりも早く、ロッキード・スーパーコンステレーションとほぼ同時であり、追従者は他にない独走状態であった。因みに試作2号機の処女飛行も、翌年の同じ7月27日に同じメンバーで為された。
しかし敗戦国ドイツから多くの航空技術者を移入させたアメリカは、青天井の予算を与え戦時中のプロジェクトを継続させた結果、早くも1947年には後退翼の超革新的な大型ジェット爆撃機B-47を進空させ、その「フラミンゴのようにスマート」と評されたほど優美なフォルムで全世界に衝撃を与えた。対して保守的な外観のコメットには失望の声も半ばしていたという。
[編集] 就航
速度・高度共に前人未到の領域を飛ぶ初のジェット旅客機には、地上支援体制を始め運航システムの殆ど総てを新規開発する必要があり、イギリス空軍、英国海外航空(BOAC、現ブリティッシュ・エアウェイズ)と協働の上、航路開拓も含めて2年間の入念な準備期間が置かれ、その間2機の試作機(G-ALVG, G-ALZK)は世界各地に飛来し先々で羨望を浴びた。
1952年5月、満を持した初の商用運航がBOACのコメット Mk.I によってヒースロー~ヨハネスブルグ間で行われ、所用時間を一気に半減させてみせた。乗客数こそ従来のプロペラ機と同等かそれ未満だったが、従来の2倍の速度だけでなく、天候の影響を受けにくい高高度を飛行することによって快適性もレシプロ機の比ではない事が明らかになり、定時発着率の高さも実証され、初年度だけで3万人が搭乗する人気を博した。
順次航路を全世界に拡大し、翌1953年には試作2号機がファーンボロ航空ショーで超低空90度バンクターンを決めてみせ、南回り航路経由でヒースロー~羽田間にも定期就航した。戦争中にジェット機の試作にまで成功したものの、占領下で航空機開発の一切を禁じられ、ジェット時代の到来に為す術なくいた日本の旧航空技術者達は、コメットの銀翼と快音に切歯扼腕したという。
エールフランスやトランス・カナダ航空などでも運航開始され、懸念された燃費も低廉なジェット燃料と高い満席率で相殺されることが分かり、就航当初の様子見気分は払拭された。日本航空やパンアメリカン航空、南アフリカ航空などの世界中のナショナル・フラッグ・シップから50機以上のバックオーダーを抱え、量産体制に入ったデ・ハビランド社は前途洋々であった。
[編集] 金属疲労による連続事故
詳細は「コメット連続墜落事故」を参照
就航から1年の間に3機の Mk.I/IA が離着陸時の事故で失われたが、乗客に死者は出なかった。何れも高速機特有の挙動に不慣れなパイロットの誤操縦によるものと判断されたが、マニュアルが改訂され運用法が変更された他、既存機にも失速性能向上のための改良が施された。
しかし1954年1月と4月にイタリア近海で2機が連続して墜落し、共に乗客乗員が全員死亡した。回収された残骸の状況などより空中分解が疑われたが、当初原因不明とされたため、コメットは耐空証明を取り消され全機運航停止処分になった。この時羽田に滞在していたがBOAC機も、運航停止の報を受けて急遽本国に取って返している。
[編集] 徹底調査
時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルの厳命を受けたロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント (RAE)によって、1月に墜落した機体の大規模なサルベージと復元作業が行われ、徹底的な調査が実施された。
また与圧された胴体が金属疲労で破壊された可能性が指摘されたため、巨大な水槽を建造して中に胴体を沈め、水圧を掛けて地上で人工的に与圧状態を作り出す、極めて大がかりな再現実験が行われた。アメリカからダグラスも参加した解析の結果、数万フライト分と計算されていた構造寿命が、実際には一桁低かったことが判明した。
1955年2月には、離着陸サイクルで加減圧と熱収縮の反復に晒されたことで発生した金属疲労が原因だとする、最終報告が纏められた。窓枠の角、或いは航法装置取付部に亀裂が発生し、これが成長して機体が破裂的な空中分解に至ったのである。このシーケンスが明らかになったことで、その後のジェット旅客機は窓などの開口部の角が落とされ、また万一亀裂が生じてもその成長を食い止めるフェイルセーフ構造が採り入れられた。
[編集] 再デビュー
連続墜落事故発生当時、製造ライン上にあったエイヴォン搭載のパワーアップ型 Mk.II は、世界各国のエアラインからの発注を総てキャンセルされたが、胴体構造を強化変更し飛行回数を制限した上で、英空軍の輸送機として継続運用され、安全性を実証する傍らデータ収集が続けられた。
続くMk.III は、抜本的な改設計を受け、大西洋横断飛行が可能なストレッチ版の本格仕様に成長し1954年末に初飛行したものの、同年367-80(後のボーイング707)を進空させたアメリカのボーイングが、自社の新型機が実用化するまでの間、FAAに政治的圧力を掛け耐空証明再発行を先延ばしし続けさせたとも言われ、設計着手から10年を経たコメットはこの空白期間にリードを失い、陳腐化を余儀なくされてしまった。
1958年にMk.IVが、英国海外航空の手によって漸くロンドン-ニューヨーク間の定期便に再就航したが、わずか1カ月弱後にデビューしたより高速でより大型のボーイング707やダグラスDC-8ら第2世代機との競合に敗退し、英国海外航空までがボーイング707を発注する上に、事実上の後継機となるイギリス製のヴィッカースVC-10が就航したことなどによりオーダーが途絶えたために、1964年末にシリーズ合計112機をもって生産を中止した。
その後も長らくの間アルゼンチン航空やダン・エア、オリンピック航空やメヒカーナ航空など世界各国の航空会社で運用された。なお、Mk.IIとMk.IVシリーズの事故率は同時代に就航していた競合機より明らかに低く、安全対策が完全に奏功したことを実証してみせたものの、より運航効率の良いボーイング727やマクドネル・ダグラスDC-9などの中型機が登場したこともあり、1982年までに全機退役した。
[編集] 仕様
| コメット Mk. I | コメット Mk. II | コメット Mk. III | コメット Mk. IV | |||||
| タイプ名 | コメット 1 | コメット 1A | コメット 1XB | コメット 2 | コメット 3 | コメット 4 | コメット 4B | コメット 4C |
| 全長 | 28.61 m | 29.53 m | 33.98 m | 35.97 m | ||||
| 全幅 | 34.98 m | 32.83 m | 34.98 m | |||||
| 胴体幅 | 2.97 m | |||||||
| 翼面積 | 188.30 m² | 197.04 m² | 191.30 m² | 197.04 m² | ||||
| 高さ | 8.70 m | 8.99 m | ||||||
| 自重 | 5,670 kg | 5,350 kg | 6,125 kg | 9,160 kg | 9,200 kg | 10,930 kg | ||
| 最大離陸重量 | 47,620 kg | 52,160 kg | 53,070 kg | 54,430 kg | 65,760 kg | 73,480 kg | 71,610 kg | 73,480 kg |
| 乗客 | 36 | 44 | 58 | 56 | 71 | 79 | ||
| 乗員 | 4 | |||||||
| 巡航速度 | 725 km/h | 770 km/h | 805 km/h | 850 km/h | 805 km/h | |||
| 最大限界上昇高度 | 12,800 m | 12,200 m | 11,500 m | 11,900 m | ||||
| 航続距離 | 2,415 km | 2,850 km | 4,065 km | 4,345 km | 5,190 km | 4,025 km | 6,900 km | |
| エンジン、推力 | デ・ハビランド ゴースト 50 Mk1 22.2 kN Schub | デ・ハビランド ゴースト 50 Mk2 22.8 kN Schub | デ・ハビランド ゴースト 50 Mk4 23 kN Schub | ロールス・ロイス エイヴォン 503 32.5 kN Schub | ロールス・ロイス エイヴォン 523 44.5 kN Schub | ロールス・ロイス エイヴォン 524 46.7 kN Schub | ロールス・ロイス エイヴォン 525B 46.7 kN Schub | |
| 初飛行日 | 1949年 | 1952年 | 1957年 | 1953年 | 1954年 | 1958年 | 1959年 | 1959年 |
| 製造数 | 11 | 10 | 4 | 22 | 1 | 28 | 18 | 28 |
[編集] ニムロッド
詳細は「BAE ニムロッド」を参照
コメットを原型として、燃費改善のためロールス・ロイス スペイターボファンエンジンに換装した対潜哨戒機ニムロッドが1967年から64機製作され、英空軍で現用中である。
ロッキード L-188 エレクトラ同様、劣速と低燃費が哨戒機としての適性を満たし、かつ適当なサイズ、出自が旅客機のため搭載電子機器にとっても良好な居住性、長時間滞空性能、ジェット燃料使用による資材共通化などが評価された。
主翼付根にエンジンを集中配置しているため、1発停止時のトリム変化も最少で済み、哨戒時には燃料節約のため単発飛行も可能である。
[編集] カラベル
詳細は「シュド・カラベル」を参照
エールフランス航空がコメット Mk.I を発注した際、中短距離向け双発ジェット旅客機の開発中だったシュデスト (SNACASE) 社との間で、開発期間の短縮を目的に、胴体設計、操縦系を含む運航システムの殆どを技術供与する旨の契約が交わされ、コメットの機首をそのまま流用した同機は1955年に初飛行した。
カラベルはこのジャンルで初めて成功したジェット旅客機になり、最終的にコメットを上回る279機が生産され2000年代まで運航された。この英仏国際共同開発は、後の超音速機構想でも再び行われ、コンコルドに結実する。従ってコンコルドの操縦席周りの印象がコメット、カラベルと似ているのは、同じ血が流れているからであって偶然の一致ではない。
[編集] 主なカスタマー(軍用機を含む)
[編集] 民間
- 英国海外航空(BOAC)
- 英国欧州航空(BEA)
- BEA エアツアーズ
- ダン・エアー
- チャネル・エアー
- エールフランス航空
- オリンピック航空
- ミドルイースト航空(MEA)
- ユナイテッド・アラブ航空
- エジプト航空
- イースト・アフリカン航空
- スーダン航空
- メヒカーナ航空
- アルゼンチン航空
- AREAエクアドル航空
[編集] 軍
- イギリス空軍
- カナダ空軍
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年10月27日 (火) 13:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【デ・ハビランド DH.106 コメット】変更履歴










