トゴン・テムル

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恵帝 ドゴン・テムル
モンゴル帝国
14代皇帝(大ハーン)
王朝 モンゴル帝国
在位期間 1333年 - 1379年
姓・諱 ドゴン・テムル
妥懽貼睦爾
蒙文尊称 Uqaγatu Qa'an
ウカアト・カアン(中期音)
オハート・ハーン(近現代音)
諡号 順帝(明朝による)
廟号 恵帝
生年 1320年
没年 1370年
コシラ
年号 至順 : 1333年
元統 : 1333年 - 1335年
至元 : 1335年 - 1340年
至正 : 1341年 - 1370年)

トゴン・テムルToγon-Temür1320年 - 1370年)はモンゴル帝国元朝)の第14代皇帝(大ハーン、在位1333年 - 1370年)。漢字表記は妥懽貼睦爾。廟号恵宗であるが、明朝による追諡である順帝の名称が使用されることが多い。モンゴル語の尊号はウカアト・カアン(Uqaγatu Qa'an 、オハート・ハーン)。

1368年大都を放棄してモンゴル高原に撤退したため、『明史』では1368年に帝位を失ったとして扱われる。

目次

[編集] 即位以前

トゴンは明宗・コシラが暗殺計画を逃れるため中央アジアに滞在した際に、中央アジア北東部のテュルク系遊牧民カルルク部族の族長の娘との間に長男として生まれた。カルルクは本来チンギス・ハーン王家姻族ではなく、モンゴル王族としては母の出自はあまりよくない。

1328年天順元年/天暦元年)、泰定帝崩御後に発生した内乱の際にはモンゴル高原を経て上都に帰還したコシラに従い元朝に復帰したが、コシラの急死により弟のトク・テムルが文宗として即位すると、トクの甥であるテムルは宮廷から遠ざけられ、はじめ高麗ついで広西に流された。

1332年至順3年)、トクが崩御すると皇后ブダシリはトクの遺志に従いコシラの遺児をハーンに擁立することを提案、大都に留められていたトゴンの弟イリンジバルが即位したが、わずか2ヶ月で病死している。トクの即位以来政権を掌握していたエル・テムルはトクの子であるエル・テグスの即位を計画したが、その母であるブダシリにより固辞され、ブダシリによりトゴン・テムルが広西から召還されることとなった。

エル・テムルにはコシラ毒殺説もあり、既に13歳となっていたトゴンがハーンに即位すれば、自らの政治的権力が低下することを恐れトゴンの即位を妨害、そのためトゴンが大都に到着した後も約半年間即位は延期され、1333年(至順4年)春、エル・テムルの病死により、夏にトゴン・テムルは即位することができた。

[編集] 治世前期の政争

即位したトゴンは従弟エル・テグスを立太子、その母ブダシリが太皇太后としてトゴンの後見人としたが、実際にはエル・テムルの死後も軍閥が政権を掌握していた。中でもエル・テムルの死後軍閥中で勢力を拡大したバヤンが中書右丞相に就任、エル・テムルの遺児による反乱を鎮圧すると、元朝内に強い影響力を有するようになった。

トゴンは20歳を過ぎた頃よりバヤンの専権に反発するようになり、1340年至元6年)、バヤンと対立していたバヤンの甥であるトクトと協力し、トクトによる政変を実行しバヤンを追放した。この政変の影響でブダシリとエル・テグスの母子は追放され、トク・テムル以来政権を掌握してきた旧勢力は一掃されることとなった。しかし新たにトクトとその父マジャルタイによる政権掌握を創出し、トクトの勢力を駆逐すべく1347年至正7年)、トゴンはトクト父子の政敵であった父のコシラやイェスン・テムルの重臣と協力し、トクト父子を甘粛に追放、しかし新たに強大な政治勢力が生まれることを警戒し1349年(至正9年)には再びトクトを政権復帰させるなど、トゴンは重臣間の政争に積極的に関与していた。

このように中央で政争が続く中、地方では天災と疫病が相次ぎ民心は元朝から急速に離反していった。1348年(至正8年)にはに対する厳格な専売制を採用したことにより、専売制に反対する塩の密売商人が中心となる反乱発生を契機に反元反乱が各地で続発した。特に1351年(至正11年)に発生した紅巾の乱中国全土に波及する大反乱となった。

[編集] 治世後期の混乱

1354年(至正14年)、トクトが紅巾の乱の鎮圧に出撃する際、トクトが強大な軍事力を掌握することを恐れたトゴンはトクトを解任して追放した。これによりトゴンはハーンとしての権力を回復するが、トクトら中央政府の軍閥により維持されていた軍事力が瓦解、軍事力は地方軍閥に依存する状態になった。

治世前期には重臣間の政争に介入していたトゴンも、その後は次第に朝政への興味を失い政治の混乱を深まることとなったが。トゴンはかつて広西の配所で『論語』を学び、自ら詩文や書画を嗜むなど、漢族の文人皇帝に類似した気質があった。トゴンが高麗から広西に流された時代には、彼を帝位から遠ざけたいエル・テムルの陰謀により中央アジアで誕生したトゴンはコシラの実子ではないと宣言されていた時期もあり、民間では南宋恭帝の遺児であり、恭帝崩御後に親交のあったコシラにより引き取られたとの風聞が流布するようになっていた。またモンゴル王族に流行していたチベット仏教の秘儀に耽溺するようにもなっていた。

1353年(至正13年)に立太子されていた王子アユルシリダラが成人すると、皇太子は生母奇皇后の支援を得て政権奪取を計画、ハーンに代わって朝政を掌握していたトゴン・テムルの側近たちと激しく対立し始めた。トゴン・テムルはこの政争の調停に影響力を発揮できず、1364年(至正24年)に山西軍閥のボロト・テムルが大都を占拠して皇太子を追放、翌年には河南の軍閥ココ・テムルがアユルシリダラと協力しボロト・テムルを滅亡させることとなった。この内紛の結果、大都の中央政府の政治力と軍事力はほとんど壊滅的な状況となる。

[編集] 元の北走

1368年(至正28年)、元朝は江南で反乱勢力を統一し明朝を建てた朱元璋の北伐軍に敗退した。ココ・テムルも徐達により撃破され、明軍が河北に迫るとトゴンは大都を放棄し上都に逃れた。しかし翌年には上都もまた明軍により陥落、トゴンはさらに北方に位置するモンゴル高原南部の応昌府に移動した(北元)。1370年(至正30年)夏、トゴンは応昌府で崩御し、皇太子アユルシリダラが即位した。

トゴン崩御の段階では元はモンゴル高原を中心に勢力を維持し、東は日本海から西はアルタイ山脈まで支配下に置き、さらに甘粛雲南にも明朝に反対するモンゴル系勢力が存在し明朝による中国支配は不安定なものであった。しかし明朝はトゴンが大都を放棄した時点で中華王朝としての元朝が天命を失い滅亡したと見做し、トゴンやアユルシリダラを皇帝ではなく単に元主と称した。

明朝はトゴンに対し「天意に順じ明に帝位を譲った」という意味の順帝を追諡している。実際にはトゴン以降もモンゴル高原ではクビライの血を引く者がハーンに即位し漢風廟号を贈られた。このトゴン以降の元は、中国全土を支配した大元に対し北元と称され区分されている。

先代:
イリンジバル
モンゴル帝国大元)大ハーン
1333年 - 1368年
次代:
北元に継承
先代:
大元より継承
モンゴル帝国北元)大ハーン
初代:1368年 - 1370年
次代:
アユルシリダラ

最終更新 2009年9月28日 (月) 15:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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