トライアンフ・ドロマイト

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トライアンフ・ドロマイト
スプリント
1850
1500
乗車定員 5名
ボディタイプ 4ドア セダン
エンジン 直列4気筒OHV・1296/1493cc
=SOHC・1850cc
DOHC・16バルブ1988cc
変速機 4速MT/3速AT
駆動方式 FR
全長 4114mm
全幅 1575mm
ホイールベース 2438mm
デザイン ジョバンニ・ミケロッティ
生産台数 204,003台
後継 トライアンフ・アクレイム
-このスペック表は試行運用中です-

トライアンフ・ドロマイト(Triumph Dolomite)イギリス自動車メーカーブリティッシュ・レイランド(BLMC・1975年に国営化されて以降はBL)のトライアンフ部門が1972年から1980年まで生産した小型乗用車である。当初はBMW・1602/1802/2002アルファロメオ・アルフェッタをライバルとした高性能なスポーティサルーンとして発売されたが、経営難のBLMCは新しい車体を開発することが出来ず、1965年に登場した前輪駆動の1300のものをベースとしていた。

ドロマイトの語源は苦灰岩という鉱物であるが、車名はイタリアの東アルプス山系であるドロミーティに由来し、1930年代に人気を呼んだスポーティーカーの名称を復活させたものである。

当時のBLMC車が発売した新型車としては珍しく、ドロマイトは市場では比較的好評に迎えられたが、メーカーではそれを下級モデルの販売にも利用しようと、1976年以降は1300の後継モデルであった後輪駆動(FR)車のトレド1500TCをも「ドロマイト1300/1500」に改名してシリーズに加えたため、それ以降の「ドロマイト」はトライアンフ製小型セダンの単なる総称となってしまった。

1980年をもって生産中止となり、1981年からは日本のホンダ・バラードをベースとしたアクレイムに切り替えられたため、最後の純粋な英国デザインのトライアンフ乗用車となった。

目次

[編集] 概要

最初に登場したドロマイトは「1850HL」であった。その成り立ちは1965年に登場した前輪駆動車・1300を後輪駆動に改めて1970年に登場していた大衆車・トレド[1]に、トライアンフがサーブ・99用に生産・供給していたSOHC1854ccエンジンを搭載し、車体をフロント周りを4灯式ヘッドライトに改め、テールを延長して上級車風に化粧直ししたものであった。[2]

[編集] 1850HL

最初のドロマイトは1850HL一種類で、1971年のロンドン自動車ショーで発表されたが、BLMCを悩ませた労働争議の影響で、生産開始は1972年10月までずれ込んだ。[3]

1850HLのライバルはBMW・1602/1802、あるいは英国車ではフォード・コーティナ2000GXLなどであったので、装備は充実しており、木目張りのダッシュボード、完備した計器類、厚いカーペットや上質なファブリックシートが標準装備となっていた。最高速度は160km/h、0-60マイル加速11秒という性能は、当時としてはスポーティセダンとして十分なものであった。間もなくオーバードライブもオプション装備可能となり、高速巡航はより快適なものとなったし、3速オートマチック仕様も追加された。

1850は1980年までに79,010台が生産された。

[編集] スプリント

ドロマイトの性能はこのクラスとしては十分なものであったが、BMW・2002tiiアルファロメオ・アルフェッタのような高性能な輸入スポーツサルーンには太刀打ち出来ず、市場でもこれらより格下のモデルと見なされた。これらに対抗する高性能版として1973年6月に追加されたのがスプリントであった。ローバー・P6の設計で名高い名エンジニア、スペン・キングが開発したエンジンはDOHC16バルブという当時としては高度な設計で、1988ccツインキャブ付きで127馬力を発生[4]

この英国の量産車では初めてのDOHC16バルブエンジンによって、ドロマイト・スプリントは最高速度192km/h、0-60マイル加速8.4秒の高性能車となった。この高性能を支えるべく、2000/2500及びTR6のギアボックス、リミテッドスリップデフ、強化型ブレーキ(リアは依然としてドラム)が与えられ、外観もアルミホイール、レザートップ、フロントスポイラーが装備されて1850HLと区別された。1850HL同様、オーバードライブ[5]、そして当時のスポーツモデルには珍しく3速オートマチックも選択可能であった。当時の英国での新車価格は1740ポンドで、これはBMW2002tiiより1000ポンドも安く、市場からは好評に迎えられた。

1976年にヘッドレストやラジオが、1978年にフロントの合わせガラスが、1980年にはリアのフォグランプが標準装備となるなどの改良を受けつつ、22,941台のスプリントが生産された。

スプリントは1974年から1978年までイギリスツーリングカー選手権(BTCC)に参戦、1974年にはメーカーチャンピオンとなり、1975年にはAndy Rouseがドライバーズタイトルを獲得した。彼とTony Dronは1974年のスパ・フランコルシャン24時間レースでの総合5位も獲得している。

[編集] 1300/1500

1976年3月、それまで前後が短いボディを用いてきたトレドと、寸法はドロマイトと同じながらフロントグリルが異なり、リアガーニッシュを持たなかった1500TCにもドロマイトと同じボディが与えられることになり、両車はそれぞれドロマイト1300ドロマイト1500と改称された。この結果ドロマイト・シリーズは角型2灯式ヘッドライト・1296ccの「1300」、1493ccの「1500」、4灯式ヘッドライトを持ち従来の1850HLと同様な装備を持つデラックス版の「1500HL」、そして従来からの「1850HL」と「スプリント」という車種体系になった。オーバードライブと3速オートマチックは1500以上で選択可能であった。

1976年から1980年までに32,031台の1300と、70,021台の1500/1500HLが生産された。1980年8月、トライアンフを長年生産していたコヴェントリーのカンレー工場の閉鎖に伴い、トライアンフ・スピットファイアと共に生産を終了した。

[編集] 注釈

  1. ^ 前輪駆動の1300は優れた性能を発揮したが、機構が複雑でコスト高であったため、1959年から生産されていたヘラルドの需要層には受け入れられなかった。後輪駆動化したトレドの登場により、ヘラルドはようやく1971年にその役目を終えた。
  2. ^ 大衆車に大きなエンジンを搭載して4灯式ヘッドライトの上級モデルを生み出す手法は、ヘラルドの上級版として1962年に登場したヴィテスと同じであった。
  3. ^ 阿部モータース(現在はBMW東京地区販売店「Abe BMW」を経営)は日本への輸入を計画し、世評の高さから好調な販売が期待されたが、生産開始の遅れから1973年夏に一台の1850HLがサンプルカーとして輸入されただけに終わった。混乱した生産現場では、日本でも厳しくなりつつあった公害対策・安全基準に対応した日本向け仕様車を少量生産することが困難であったためである。ドロマイトの輸入断念により、日本で売られるBLMCのセダンは1973年以降1980年代初頭まで、100万円台ミニ1000の上がいきなり500万円クラスのローバー・3500というラインナップになってしまい、BMC・ADO16などからの代替需要を吸収できず、日本での英国車の市場を自ら狭めることとなった。
  4. ^ 目標は135馬力で、車名も「ドロマイト135」が予定されていたが、試作段階では150馬力をマークしていたものの、労働争議で技術水準が低下していた生産ラインで安定的に生産できる限界が125馬力であったと言われる。
  5. ^ 1975年5月以降はサイドストライプや着色ガラスと共に標準装備となった。
ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年8月15日 (土) 11:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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