トラバント

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トラバントP50
トラバントP601L(1983年型600 cc)

トラバント (Trabant) は、旧東ドイツの小型乗用車である。「トラビ」(Trabi) の愛称で親しまれた。

目次

[編集] 概要

ベルリン市内を走るトラバント601(チェックポイント・チャーリーにて、1989年)

名称の "Trabant" はドイツ語で「衛星」「仲間」「随伴者」などを意味する語。1957年に打ち上げに成功した、当時友好国であったソ連の史上初の人工衛星「スプートニク1号」を賞賛して命名された。

1958年から1991年までの長期にわたって生産されたが、大まかには1958年〜1964年のP50・P60と、1964年以降のP601に分けられる。長いモデルライフを通じ、大規模なモデルチェンジは行われなかった。

ボール紙のボディの車」といわれることがあるが、実際は長いモデルライフを通じて、ボディの基本材料は綿の繊維を使った繊維強化プラスチック (FRP) である。東ドイツ末期に製造品質が下がってくると表面の質感がボール紙のように見えたことから、西側が仕上げ品質の低さを揶揄した表現である。ただし、末期はレーガン政権下のドルルーブル為替レート操作による共産圏の財政悪化のため、製造コスト低減を図って実際にプラスチックに紙パルプを混ぜ込んでいた。それでも東ドイツでは大変な人気車であり、とりわけ1980年代以降は発注してから10年は待たされるのが普通であった[1]

ベルリンの壁崩壊の直後からは、最新式のフォルクスワーゲン・ゴルフと古色蒼然としたトラバントが、肩を並べて走るようになり、双方のドライバーとそれらを見比べた者に強烈なカルチャーショックを与えた。東側諸国の人々がトラバントに乗って国境検問所を続々と越える光景は、東欧における共産主義体制終焉の一つの象徴的シーンともなった。

生産中止後10年以上を経過し、走行性能・安全性・環境性能が数十年前の水準ということもあって、旧東ドイツ地域および周辺諸国においては、急激に淘汰されている。

ドイツ国内においても、排ガス規制が強化されたことで、2008年1月からはベルリンなどの市街地では、特別に許可を得た車両以外は走行できなくなっている[2]

[編集] 開発までの背景

トラバント生産工場(1990年3月15日撮影)

メーカーは、東ドイツ時代にカール・マルクス・シュタット(現在のケムニッツ)の行政区内にあったツヴィッカウ (Zwickau) に所在した、東ドイツ国営企業のVEBザクセンリンク (VEB Sachsenring Automobilwerke Zwickau) である。第二次世界大戦前のドイツを代表する民族系自動車メーカーアウトウニオンの旧工場のうち、高級車ホルヒの生産拠点で、第二次世界大戦後、東ドイツ地域に含まれたツヴィッカウ工場がその前身であった。

アウトウニオンは元々ドイツの民族系自動車メーカー4社が、外資対抗のため1932年に大合同して成立したメーカーである。オートバイ及び廉価な大衆車DKW, 上級小型車担当がヴァンダラー、中型車をアウディ、大型高級車をホルヒという形で分担した。

このうち1904年創業のDKWは、第一次世界大戦後に自転車補助動力用の2ストロークエンジンを開発して以来、1920年代にはオートバイメーカーとして急成長、1928年からは2ストロークエンジン搭載の小型乗用車生産にも進出して、アウトウニオン結成の中核ともなった企業である。DKWは1931年に、大衆車としては史上初の量産型前輪駆動車である500 cc車「DKW・F1」を発表、以来前輪駆動方式を得意とし、同じアウトウニオン系のアウディにも前輪駆動を導入するなどの進歩性を見せていた。

VEBザクセンリンクは、ホルヒ工場を引き継いだ1949年以来、戦前形DKWの同型車および第二次大戦直前の試作車であったDKW・F9をベースにした800 ccクラスの2ストローク前輪駆動車を製造していた。

しかし1956年以降、このクラスのモデルについてはBMWアイゼナハ工場の後身であるアイゼナハー・モトーレンヴェルクが生産することになり、1957年モデルチェンジで3気筒900 cc車のヴァルトブルクが登場した。ザクセンリンクはより小型のモデルを製造することになり、トラバントはこうして送り出された。

[編集] なぜ2ストロークであったのか

ピストンバルブを用いるクランクケース圧縮型の2ストロークエンジンは、2ストロークガソリン機関としては旧世代に属するエンジンである。20世紀末期以降、2ストロークエンジン自体は、ガソリン直噴式、もしくはディーゼルエンジンを用いた小排気量自動車用エンジンとして、新たな研究の対象となりつつあるが、これらはユニフロースカベンジング方式であり、構造は根本的に異なる。

クランクケース圧縮式の2ストロークガソリンエンジンを4輪自動車に用いることは、21世紀初頭においては完全に廃れている。その最たる理由として、混合気の吹き抜けや、燃料に混合されたオイルの燃焼による使い捨てによって、排出ガス浄化や燃費改善が困難である事実が挙げられる。他にも騒音や熱対策など、2ストロークエンジンが4ストロークエンジンに比して抱えるハンデキャップは多い。圧縮比も4ストロークほど高く取れない。

元々クランクケース圧縮式2ストロークエンジンは簡易なエンジンであり、4輪自動車用としては、世界的に見てもイギリス・ドイツ・イタリア1950年代以前のサイクルカーミニカーバブルカー)や日本(360 cc時代の軽自動車)などの超小型車における使用がほとんどである。だが、排気量に対する出力が大きいことから、一時は4ストロークエンジンを凌駕するエンジンと見られた時期もあった。DKWはその中でも徹底した事例である。

2ストロークエンジンは、4ストロークエンジンに比して爆発頻度が2倍になり、限られた排気量の中で出力を稼ぎやすかった。またその簡素な構造は、製造コストの低さ、メンテナンス性の良好さ、省スペースなどのメリットがあり、4ストロークエンジンの性能が飛躍的に向上する以前には、特に小型車において2ストロークエンジンを採用する積極的動機となった。一方、顕著なデメリットとしては、アイドリング時の不整間隔爆発による振動と、エンジンブレーキの能力が低いことがあり、とくにスロットルを閉じた状態で、高回転が長く続く下り坂では、潤滑切れから焼きつきを起こしやすい。もっとも、潤滑油供給が混合給油から分離給油となってからは改善されてはいる。

コスト面で4気筒エンジンを搭載できない超小型車の場合、小さな2気筒3気筒エンジンだと爆発間隔の短い2ストロークエンジンの方が振動対策面で有利でもあった。DKWは、1950年代〜1960年代にかけて、2ストローク3気筒エンジンのスムーズな回転を「(高級車にしばしば用いられる)4ストローク6気筒に比肩するもの」として売りにしていた。戦後のDKW車には「3=6」というモデルもあり、その3気筒エンジンには、「3=6」の表記が堂々と鋳込まれていたというエピソードもある。

1970年代、アメリカのマスキー法制定以降は排ガス問題以外にも2ストロークエンジンの短所が目立つようになり、西側諸国の市場からは1980年代初頭のスズキ・ジムニーを最後に(特殊な超小型車両を除いて)2ストローク4輪自動車は消えることになった。

だが西側諸国と違い、東ドイツには排出ガス規制などがなかった。このため、トラバントは1980年代後半に至っても、混合燃料方式の2ストロークエンジンのままで、オイル混じりの紫煙を盛大に排出して走行していた。日本の2ストローク車メーカー各社が1960年代後半以降、オイルの分離給油方式で排出ガスの質的改善を図ったのに比べると、明らかに立ち後れていた。一例として、ジムニーに搭載されたスズキ・LJ50型エンジンは、分離・直接給油方式(スズキCCIS)と、ロータリーエキゾーストバルブの設置、点火系のフルトランジスタ化により、燃焼効率を向上。当時、マスキー法よりも厳しいとも言われた日本の昭和53年排出ガス規制を通過。始動直後の極低温時を除き、2ストローク機関としては大幅に紫煙を抑制した。

結果としてトラバントは、2ストロークエンジンの本格的な量産型4輪自動車としては、同じく東ドイツのヴァルトブルクと並んで、世界で最後の存在となった。

[編集] 構成

トラバント601軍用バージョン(旧東ドイツ軍)

全長3.5 m, 車幅1.5 mのコンパクトなサイズである。定員は4名。

エンジンは直列2気筒2ストロークの空冷エンジン横置き配置で、前輪駆動方式であった。4輪自動車のエンジン横置き配置は2気筒クラスでは珍しいことではなく、1931年のDKW・F1からして2気筒横置きエンジンである。一般に横置きエンジンの最初とされるイギリスのMini1959年、アレック・イシゴニス設計)は、大きな4気筒エンジンを横置きにしたことに意義があった。

ラダーフレーム上に別体のボディを載せる古典的構造で、大きな強度を必要としないことから、ボディの一部はFRPで造られていた。このため軽量に仕上がり、車重は600 kg強に過ぎない。東ドイツで物資が不足するようになるとボディ材料の繊維がボール紙様となり、末期には粗悪な製品となっていた。

2ドア3ボックスのリムジーネ(セダンボディ)のほか、ユニバーサル(ステーションワゴン形)もあった。1964年以前のP50・P60は丸みの強いボディでフロントグリルがなかったが、1964年以降のP601はやや直線化されて屋根が浅くなり、フロントグリルも設けられた。

ブレーキは全期間を通して4輪ドラムブレーキであったが、明らかに性能不足であった。

ヘッドランプのHi-Lo切り替えスイッチは灯体の真下にあり、切り替え操作は一旦降りて行なう必要があった。これは1990年放送の『世界まるごとHOWマッチ』の特番で取り上げられ、出演者のビートたけしは「(ライトの切り替えで一旦降りるなんて)向こうの人は随分足が速いな」や「自分の車に轢かれる人がいる」とギャグを飛ばした。また浦沢直樹作の『MASTERキートン』単行本第10巻第2話「緑のフーガ」では、この切り替え操作を行う描写が登場する。

[編集] エンジン

クランクケース圧縮式2ストローク空冷直列2気筒エンジン。初期形P50(1958年〜1962年)では500 cc, その排気量拡大型P60(1962年〜1964年)では600 ccとなり、ボディ回りなどをマイナーチェンジした1964年以降のP601でもこれが踏襲された。P601のエンジンスペックは594 cc, 最大出力23 HP/3,800 rpm(DIN. 26 HP/4,200 rpmというデータもある)、最大トルク5.5 mkg/3,000 rpmで、1970年代の日本の軽自動車にやや劣る程度の内容である。

公称最高速度はP601の場合で95〜105 km/hといわれる。到底連続走行できるようなものではなかったが、4人乗せて80 km/h以上のスピードは出た。ただし、加速時間は相応なものが必要である。

[編集] 燃料タンク

古典的2ストローク機関の例に漏れず、エンジンオイルをガソリンに混合給油する方式である。

24リッターの混合燃料タンクは、ボンネット内のダッシュボード前方に置かれていた。第二次世界大戦以前の自動車と何ら変わらない配置である。タンクは常にエンジンより高い位置にあるため、燃料供給は重力による自然流下で、燃料ポンプは不要であった。

このレイアウトは簡潔ではあるが、正面衝突時やエンジンの異常過熱時には発火するおそれがあり、安全性の面では極めて不利である。もっともフォルクスワーゲン・ビートルなど同時代の自動車もフロントノーズに燃料タンクを収めており、衝突時の発火危険性はトラバント固有の問題ではなかった。

燃料計は付いていないので、給油口に棒を入れて残量を確認したり、燃料を入れた際のトリップメーターの数値を覚えて給油時期を逆算する必要があった。

[編集] 変速機

ギアボックスはコンスタントメッシュ(常時噛み合い式)の4速型であるが、ノン・シンクロメッシュであり、スムーズな変速にはダブルクラッチが必要であった。1970年代以降はほとんど博物館級と言ってよい古典的変速機であった。

シフトレバーはコラムシフトであった。1930年代に大型のアメリカ車から普及し始めたコラムシフトは、1950年代にはヨーロッパでもブームとなり、小型車での採用も珍しくなくなっていた。トラバントもその流れに乗ったといえる。狭い車内幅を有効に使う一策として、コラムシフト採用にはそれなりの意味があった。

しかし、リンケージの複雑なコラムシフトは自動車高速化に伴うマニュアルトランスミッションの5速化への対応が技術的に難しかったことから、1960年代後半以降の西側自動車界ではフロアシフトタイプに回帰するようになった。それでもトラバントは最後までコラムシフトを堅持し続けた。皮肉なことにトラバント消滅後の1990年代後半に入って、室内スペースを有効に使う手段として再び普及した。この時代に主流になったオートマチックトランスミッションでは、シフトレバーはトランスミッションに直結しておらず、フロア配置の必然性がなくなったのである。いずれにせよトラバントとは無縁の技術革新であった。

[編集] サスペンション

前後とも横置きリーフスプリングで吊られた独立懸架(フロントはウィッシュボーン、リアはトレーリングアームとトランスバース・リンク支持)。リーフスプリング同士の摩擦・摺動によってダンパーとしての効果も得ようとするものであるが、独立懸架としては旧式な設計である。

[編集] 評価

トラバントは1958年の登場時点では、一見、さほど時流に遅れた自動車ではなかった。前輪駆動の3ボックスボディを持つ2ストローク600 cc級ミニカーは、同時期の西側諸国にも散見された。

しかし、トラバントの基本構成は1930年代のDKWと大差ないもので、大きな進歩を遂げたとは言い難かった。またFRPなど複合材料による車体構築は、戦前のDKWにおけるプラスチックボディでの軽量化の試みを引き継いだものであったが、現実のFRPボディは通常の鋼板ボディに比して強度が劣り、生産性も低い、大量生産される大衆車には適さなかった。

これらトラバントの問題点は早期に明らかになっていたはずであるが、社会主義体制下の計画経済においてはこれを再検証し、抜本的改良を加えるまでに至らなかった。P60系からP601系へのモデルチェンジも、当時流行のイタリアン・デザイン風に屋根を薄くリデザインするなどの表面的な手直しでしかなかった。競合メーカーのない体制で、一度完成された設計を敢えて変更する必要がなかったのである。

同時代の西側諸国では安全・環境規制の厳格化や企業間競争、技術革新によって小型大衆車は年々改良され、長足の進歩を遂げたが、トラバントは「進歩」とは無縁なままに時代から取り残された状態で生産続行され、ついには社会主義体制の硬直性の象徴ともいうべき存在となってしまった。

このような代物でも、東ドイツの庶民にとっては贅沢品である上に、注文から納車までには途方もない年月がかかり、10 - 12年待ちが当たり前ですらあった。そのため「買う予定はないがとりあえず注文をする」ということも普通に行なわれていた。注文してから実際に購入するまでの期間があまりに長いために、すぐ手に入る中古車の方が新車よりも高値で取引されていた。

東西融合の象徴的な車であったことから、1990年前後には日本でも輸入を試みるショップが存在したが、排出ガス規制をクリアできず商業的な面では成功しなかった。

なお、東西自由化後に行われた最後のモデルチェンジでは、旧東側の生産体制(つまり雇用体制)を確保することから、フォルクスワーゲン製エンジンを搭載した、西側対応モデルが発表された。このモデルには、カブリオレ仕様や、カーステレオのオプションなど、旧来の東側の体制では考えられなかったような豪華装備バージョンも登場し、主に話のネタのために西側の住人が購入したという。最後まで冷戦を象徴する存在であった。

この車を題材にした『ゴー・トラビ・ゴー』(Go Trabi Go) というコメディ映画が1991年に製作され、翌年には続編も作られた。

ヨーロッパでは、統一ドイツのみならず、21世紀初頭になって人気を博している。わざわざ程度の良い中古車を調達し、レーシングカーラリー仕様に改造するマニアまでいる。実際に、ワークス体制ではないながらも世界ラリー選手権に出場したことがある。

[編集] トラバントnT

トラバントnT

2007年、トラバント生産開始50年を記念して、ドイツの模型メーカーヘルパがトラバントの復活計画を発表した。

同年9月、第62回フランクフルト・モーターショー (IAA) でヘルパ社はミニチュアモデルを展示[3]。居住性向上のため室内が延長されて4ドアとなり、トランクは逆にP601より短くなった。

2009年9月のIAAで「nT」というモデル名で公開された。リチウムイオン電池で駆動する45 kWのモーターを搭載する電気自動車となり、ドアは再び2枚に戻った。航続距離は100マイル(約180 km)、最高速度は80 mph(約128 km/h)に達する。ヘルパが中心となっている開発元では、2012年までの市場投入を目指して出資者を募っており、生産に至った場合は29,000ドル前後での販売を予定している[4]

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年11月12日 (木) 13:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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