トリエステ

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トリエステ
Trieste
トリエステの風景
イタリア
フリウーリ=ヴェネツィア・ジュリア
トリエステ
測地系 北緯: 45°38′10″ 東経: 13°48′15″
標高 海抜 2 m
面積 84.49 km²
人口 208,710 2008年08月31日 
人口密度 2,470 人/km²
分離集落 Barcola, Villa Opicina, Miramare, Grignano, Basovizza, Banne, Cattinara, Conconello, Contovello, Gropada, Longera, Padriciano, Prosecco, Santa Croce, Trebiciano, Servola
隣接コムーネ ドゥイーノ=アウリジーナモンルピーノムッジャサン・ドルリーゴ・デッラ・ヴァッレセジャーナ (SLO)、 ズゴニーコ
CAP(郵便番号) 34100
市外局番 040
ISTATコード 032006
IDコード L424
住民の呼称 triestini
守護聖人 聖ジュスト
祝祭日 11月3日
Comune
Posizione del comune nell'Italia
公式サイト

トリエステTrieste, スロベニア語 Trst, ドイツ語 Triest, ラテン語 TergesteまたはTergestum)は、イタリアの都市。スロベニアとの国境に位置し、スロベニアの都市コペル(イタリア名カポディストリア)と接する。トリエステ自治県の県庁所在地であり、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都である。アドリア海に面し、イタリア海軍の基地がおかれる。

目次

[編集] 歴史

[編集] 古代・中世

現在のトリエステ地域には、紀元前3千年紀以後インド・ヨーロッパ語族であるカルニ人が定住した。その後、イストリア人が定住し、彼らはヴェネティ人がやってくる紀元前2千年紀までに主な文明を残した。

紀元前177年、トリエステは共和制ローマの支配下に入った。ユリウス・カエサル時代にトリエステは植民都市の地位を授けられ、その名をタルゲストゥム(Tergestum)と記録された(カエサルの著作『ガリア戦記』(紀元前51年))。西ローマ帝国滅亡後、トリエステは東ローマ帝国の軍事中心地のまま残った。

788年、伯爵位を持つ司教の宗主下で、フランク王国の一部となった。

1081年以降、市はアクイレイア大司教のゆるやかな支配下に入り、12世紀終盤より中世の自由コムーネとして発展した。

しかしその後2世紀にわたり、近郊の強国ヴェネツィア共和国との戦争が続いた。1369年から1372年にはヴェネツィアが事実上トリエステを支配した。

[編集] オーストリア支配

ヴェネツィアの脅威に対抗できなかったトリエステの自治都市市民たちは、オーストリア公レオポルト3世に、トリエステを彼の封土に加えてくれるよう懇願した。1382年10月、停戦合意締結が、シシュカ村(Šiška、ラテン語名apud Sisciam、現在はリュブリャナの一地区)の聖バルトロメウス教会で行われた。しかし市民らは、17世紀まで自治権の一定部分を保持した。

トリエステは重要な港湾と貿易のハブ地となった。神聖ローマ皇帝カール6世によってオーストリア領内における自由港とされ、1719年から1891年7月1日まで自由港のままであった。カール6世の後継マリア・テレジア時代は、トリエステの繁栄時代の幕開けとなった。

トリエステは、ナポレオン戦争中の1797年、1805年、1809年、3度に渡ってフランス帝国軍に占領された。1809年の占領時には、フランス帝政下のイリュリア州に併合され、その自治権を失った(1813年にオーストリアへ返還された)。そして自由港の地位も中断された。

ナポレオン戦争に伴い、トリエステは『帝国自由都市』(Reichsunmittelbare Stadt Triest)の繁栄を続けた。そしてキュステンラント(Küstenland)と呼ばれるオーストリア帝国直轄領の首都となった。

主要なオーストリアの貿易港・造船中心地としての役割は、後の1836年に船舶会社エスターライヒャー・ロイト(Österreichischer Lloyd、現在はイタリア・マリッティマ)が商業用路線の開設したことで強調された。ロイトはグランデ広場の角に本社を置いた。1913年からロイトは合計236,000トンの62船舶からなる船団を所有していた[1]

オーストリア=ハンガリー帝国海軍も、トリエステの造船施設を使用し、基地を置いた。帝国初の主要幹線鉄道、ウィーン=トリエステ間のオーストリア南部鉄道が1857年に完成し、貿易のための価値ある資産そして石炭の供給に利用された。

20世紀初頭、トリエステはジェームズ・ジョイスイタロ・ズヴェーヴォ、イヴァン・カンカル、ドラゴティン・ケッテ、ウンベルト・サーバといった芸術家たちがしばしば集まる、活発な国際都市となった。市はオーストリア領リヴィエラ(Österreichische Riviera)の一部で、中央ヨーロッパに属していた。テルジェスティーノ(Tergestino)と呼ばれる特殊なフリウリ語が19世紀初頭まで話され、次第にトリエステ方言(ヴェネツィア方言)とその他言語(イタリア語、ドイツ語、スロヴェニア語)が勝るようになった。トリエステ方言は人口の大部分が話し、ドイツ語はオーストリア官僚政治の言語、そしてスロヴェニア語は周辺の村落で用いられた。今日、いまだウィーン風の建築と、ウィーン風のコーヒー・ハウスがトリエステの街頭で優勢である。

[編集] イタリア併合

トリエステはトレントと共に、歴史的にイタリア人が暮らしてきたとする全ての土地をイタリアへ併合するという、未回収のイタリア回復運動の中心地であった。第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国は瓦解し、トリエステは1920年にヴェネツィア・ジュリア全体と一緒にイタリアへ併合された。

しかし、併合したことでトリエステの重要性が失われた。また、トリエステは国境の町となったが、新たな国境は後背地をトリエステから分断することになった。

当時人口の25%を占めていたスロヴェニア人は、ファシスト政権の台頭によって迫害を受けた。これが市内部の緊張時代を招き、1920年4月13日、その頂点に達した。イタリア愛国主義者集団が、トリエステ在住スロヴェニア人の文化センターとなっていたナロドニ・ドムへ放火・炎上させたのである。

[編集] 第二次世界大戦と占領

1943年9月8日にイタリアが連合軍と単独講和すると、ドイツ軍は北イタリアを占領し、トリエステ周辺には9月10日にアドリア海沿岸軍事地区(Operationszone Adriatisches Küstenland、略称OZAK)を設置した。OZAKにはイタリアの旧県、ゴリツィア・グラディスカ県、リュブリャナ県、フリウリが含まれ、フリードリヒ・ライナーが率いていた。ただし名目上は、9月23日に建国されたイタリア社会共和国領となった。

ナチス支配下で、イタリア領内唯一の強制収容所がトリエステ郊外リジエラ・ディ・サン・サッバ(Risiera di San Sabba、またはリジャルナRižarna)に1944年4月4日、建設された。市は、イタリア・パルチザン活動も盛んであり、連合国側の爆撃も受けた。

1945年4月30日、ドン・マルツァリとサヴィオ・フォンダ率いるイタリア反ファシスト解放委員会(大戦中のパルチザンによる)が、およそ3500人の志願兵らと組織され、反ナチス暴動を扇動した。

5月1日、ヨシップ・ブロズ・チトー率いるユーゴスラビア・パルチザン軍が到着し、ナチスから市の大半を解放した。ただし、サン・ジュスト城と庭園にあった兵舎には、ニュージーランド軍以外に降伏することを拒んだ者たちが集まっていた。ニュージーランド第2師団は、アドリア海北岸周辺の国道14号沿いにトリエステに向かって進軍を続け、5月2日にトリエステへ入った。ニュージーランド軍到着に伴って5月2日夕方にドイツ軍は無条件降伏した。

チトーのユーゴ軍は6月12日まで市を完全に管理下に置いていた。ユーゴスラヴィア軍に占領されたこの期間は『トリエステの40日』として知られる。この時期、多くのファシスト、国粋主義者、その他大勢の共産体制に好ましからざる人々が殺された。多くはカルソにある甌穴へ、生きながら投げられた。1930年代にイタリア・ファシストによって始められた蛮行に対する同等行為による報復行為の一つである。その後、ニュージーランド軍がユーゴスラビア軍を退去させた。

[編集] トリエステ自由地域

トリエステ自由地域(1947-1954)。黄色が中心街。ZONE Aがイタリア領、ZONE Bがユーゴスラビア領となった。のちのスロベニア・クロアチア国境はドラゴニャ川 (Dragonja)。

トリエステと周辺地区は1947年、国際連合管理下においてモーガン・ラインで区切り、北部のZone Aは連合国側が、南部のZone Bはユーゴスラビアが分割占領し、トリエステ自由地域として独立させることが決められた。

1947年から1954年、Zone Aは連合国側軍事政府(アメリカ=イギリス連合軍)が統治した。Zone Bは、おおよそムッジャからカポディストリア(現在のコペル)までの海岸線からなるユーゴ領イストリアに含まれていた。

ユーゴスラビア社会主義共和国の指導者チトーは、モーガン・ラインを横断・Zone Aへの侵攻を数度行い、トリエステ市管理を米英軍から無理矢理奪おうとした。これらの今や忘れ去られた小衝突は、後に始まる冷戦時代の、ごく初期の戦いであった。

[編集] イタリア返還

1954年、トリエステ自由地域は消滅した。Zone Aのトリエステ市は、イタリアへ返還された。南部のZone Bは、かつてZone Aに含まれた周辺の村落の一部とともにユーゴスラビアのものとなった。イタリア併合は、1954年10月26日に正式に宣言された。

ユーゴスラビアとの国境問題と、少数民族の地位問題は、1975年のオージモ条約において明確に解決された。

1991年にユーゴスラビアからスロベニアとクロアチアが分離独立した際、南部はさらに二分割された。クロアチアとスロベニアとの間では新たな領有権問題が浮上した(ピラン湾を参照)。一方で、スロベニアは2004年シェンゲン協定に加盟し、2007年にはイタリアとスロベニアとの国境は解放されたため、国境、国家を超えたトリエステ経済圏の確立が予想されている。

[編集] 気候

トリエステの気候表

気候区分上は地中海性気候となるが、一般的な地中海性気候の特性(夏期の降雨が少ない)とは違い、トリエステは年間を通じて80から100ミリメートルの降雨がある。また年間を通して強風のボーラが吹くことで有名である。

[編集] 統計

2007年、トリエステ人口は203,356人であった。そのうち男性は46.7%、女性は53.3%だった。若年層は合計13.78%、年金生活者は27.9%であった(全国平均は若年層18.06%、年金生活者19.94%)。トリエステの平均年齢は46歳であった(全国平均42歳)。2002年から2007年までの5年間、トリエステ人口は3.5%減った。同時期のイタリア全体は3.85%上昇している[1]。トリエステの出生率は、1000人に対して7.63%で、イタリア東部最低の比率に数えられる(イタリア全体では9.45%)

2006年の調査では、人口93.81%はイタリア人が占めた。最大の少数民族はスロヴェニア人とクロアチア人だが、最大の移民集団はセルビア、アルバニア、ルーマニアからの人々で、人口の4.95%を占めている。アジアは0.52%、サハラ以南アフリカは0.2%である。トリエステでの信仰は、カトリック教会が優勢だが、東ヨーロッパからの移民人口が多いこととバルカン半島情勢の影響から正教会信徒も多い。

トリエステでの主要言語はイタリア語である。また、スロヴェニア語、ヴェネツィア方言、フリウリ語話者も多い。ドイツ語話者とハンガリー語話者の集団もある。

[編集] 交通

ポルト・ヴェッキオ。トリエステ中央駅が見える
トリエステ中央駅
ウニター・ディターリア広場に停車するバス
トラム

[編集] 海運

トリエステ海運は、かつてのオーストリア帝国オーストリア=ハンガリー帝国がトリエステ港を、陸に囲まれた中欧の貿易港としたことで、長期間にわたって繁栄した。19世紀には、ポルト・ヌオーヴォで知られる新しい港湾地区全体が市中心部の北東部に建設された[2]

良港を多く抱えるイタリアに併合された後、トリエステ港の重要性は下降し、近郊のスロヴェニアにあるコペルとの競争にさらされた。しかし、コンテナ・ターミナルへ運ばれる貿易海運は目覚ましく、市中心部から南には製鉄と原油基地がある。数年間の不振後、安定した成長の過程において変化が港へもたらされ、2007年調査では海上交通において40%増を記録している[2]

[編集] 鉄道

港の存在と、長距離の乗客・貨物輸送の必要性から、トリエステへ鉄道は早くに敷かれた。初の鉄道は1857年に敷かれた。この路線は、1400km離れたリヴィウから、リュブリャナ、ショプロン、ウィーン、クラクフグラーツ近郊のゼンマーリンク峠でアルプス山脈を横切って拡張した。この路線はヴィッラ・オピチナ村を通ってトリエステへ接近する(市から数キロだが標高は300m以上高い)。このため、路線はトリエステ中央駅で終点となる前に北へ32km迂回する[2]

2本目のアルプス縦断鉄道は、ウィーンからイェセニツェノヴァ・ゴリツァを経由するトランサルピナ鉄道の開通と共に、1906年に始まった。この路線は、ヴィッラ・オピチナを経由してトリエステへ近づくが、トリエステの別の鉄道ターミナル駅であるカンポ・マルツィオ駅へ向かって緩やかに南進する方がむしろ距離が短い。この路線はもはや運行されておらず、カンポ・マルツィオ駅は現在鉄道博物館となっている[2]

トリエステへの旅客輸送は現在ヴェネツィアへ向かう鉄道からなる。この路線はローマ、ミラノ、メストレへつながっている。これらの電車は、トリエステ湾北部の湾曲部とつながる中央駅へ達する。イタリア=スロヴェニア間の国際交通は、トリエステを迂回しヴィッラ・オピチナを通過して通っている[2]

[編集] 空港

トリエステ湾の先端にあるモンファルコーネ近郊の、フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア空港が最寄りの空港である。

[編集] 市内の公共交通

地元での公共交通は、トリエステ・トラスポルティが運行している。トラスポルティは、およそ60のバス路線と2つのボート輸送便を運行している。その他に、市中心部とヴィッラ・オピチナの間を直行する独特のハイブリッド・トラムケーブルカー路線を運行するオピチナ・トラムも、トラスポルティの運営である[3]

[編集] みどころ

サン・ジュスト大聖堂
セルビア正教会の教会、サン・スピリディオーネ
ミラマーレ城

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[編集] ミラマーレ城

オーストリア大公で、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の実弟マクシミリアンの元で働いていたカール・ユンケルが、1856年から1860年の間に建てた。付属の庭園は、マクシミリアンの命令で集められ植えられた多種多様な樹木を持つ。2つの池を含む庭園内には、ハクチョウ、ハスの花、マクシミリアンのブロンズ像近くのカステレット、小さな礼拝堂(マクシミリアンがメキシコへ向かって出航した艦船ノヴァーラ号の遺物である十字架を保存)がある。トリエステ自由地域に属していた頃、城はアメリカ軍の駐トリエステ・アメリカ軍本部が置かれていた。

[編集] サン・ジュスト城

かつて城があった遺構の上に設計され、ほぼ2世紀かけて(1368年から1630年)要塞として建てられた。現在は内部に軍事博物館がある。

[編集] 教会

  • サン・ジュスト大聖堂(Cattedrale di San Giusto) - 13世紀。最初に教会として建てられたのは6世紀で、かつてのローマ神殿の上であった。後に教会はロンゴバルド族侵攻で破壊された。大聖堂内には当時のモザイク床が一部残っている。9世紀から11世紀にかけ、旧教会跡地に2つのバシリカが建設された(1つは被昇天の聖母へ、もう1つはトリエステの聖ユストゥスへ献堂)。14世紀に2つのバシリカが1つにされた。サン・カルロ・ボッロメオ礼拝堂は、スペイン・ブルボン家のレジティミストであった、カルロス王子一族の霊廟となっている。
  • サンティッシマ・トリニター・エ・ディ・サン・スピリディオーネ教会(Tempio serbo-ortodosso della Santissima Trinità e di San Spiridione) - セルビア正教会教会。19世紀。東ローマの伝統に基づき、ギリシャ十字型と5つのキューポラを持つ。
  • サン・ニコロ・デイ・グレチ教会(Chiesa di San Nicolò dei Greci) - 1787年。ファサード両側の鐘楼を持つオーストリアの後期バロック様式。マッテオ・ペルトシュ建設。
  • シナゴーグ(Sinagoga - Comunità ebraica) - 1912年

[編集] 古代遺跡

  • リッカルドのアーチ(Arch of Riccardo) - 紀元前33年。ローマ時代の城壁に建てられた。アウグストゥス門。旧市街の狭い通り、ピアッツェッタ・バルバカンに立つ。十字軍からの帰途、イングランドリチャード1世がここを横切ったと信じられていることから、リッカルド(リチャードのイタリア語名)のアーチと呼ばれるようになった。
  • ローマ時代の劇場 - ローマ都市テルゲストゥム時代、アウグストゥス帝の命令で紀元前33年頃に建てられた城壁で囲まれていた。市は1世紀から2世紀に飛躍的に発展した。石造のローマ劇場は、海に面したサン・ジュスト丘の裾にある。円形演技場の階段の最上部と、舞台は木製であったと想像される。

劇場を飾る彫像は、1930年代に日の目を見て、現在は市立博物館の所蔵となっている。トラヤヌス帝時代からある3つの碑文はQ. Petronius Modestus(劇場の発展に密接に関係した人物名)の名が記載され、1世紀半ばにつくられた。

[編集] 洞窟

トリエステ県全体には、10の洞窟が存在する(フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州全体では24)。トリエステ台地(Altopiano Triestino)は、カルストまたはカルソと呼ばれ、イタリア国内でおよそ200 km²の面積を占め、多種多様な大きさの洞窟がおよそ1500箇所ある。最も有名なのは、グロッタ・ジガンテで、サン・ピエトロ広場一つが優に収まる。観光目的で入れる世界最大のものとなる。そして深さ350mあるトレビチアーノ洞窟は、ティマヴォ川の流れる低地にある。ティマヴォ川は、スロヴェニア側のシュコツヤン洞窟で内部に潜ることができ、海から約1kmで合流する前におよそ30km流れる。ドゥイノ近くには温泉が湧き、かつてローマ人たちはここが死の国の入り口だと考えていた。

市内にあるカフェ・デッリ・スペッキ

[編集] その他

  • リジエーラ・ディ・サン・サッバ(en) - イタリア国内唯一であった第二次世界大戦中の強制収容所。現在は博物館となっている。
  • フォイベ甌穴(Foibe) - 国定記念物。大戦後にユーゴスラビア・パルチザンが統治した期間、イタリアのファシストへの報復として処刑が行われた
  • 市立自然史博物館(Civico Museo di Storia Naturale di Trieste) - ヒト科の化石がある
  • 市立トリエステ植物園(Civico Orto Botanico di Trieste)
  • トリエステ大学付属植物園(Orto Botanico dell'Università di Trieste)
  • ロサンドーラ谷(Val Rosandra) - スロヴェニアとの国境地帯にある国立公園
  • バルコラーナ・レガッタ(Barcolana) - トリエステ湾で開催されるヨットレース。毎年10月第2日曜日に開催される。

[編集] 出身者

[編集] スポーツ

[編集] 周辺のコミュニティ

[編集] 姉妹都市

友好都市協定を、ヴェネツィアリュブリャナと結んでいる。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ Hubmann, Franz, & Wheatcroft, Andrew (editor), The Habsburg Empire, 1840 -1916, London, 1972, ISBN 0-7100-7230-9
  2. ^ Ammann, Christian; Juvanec, Maj (May 2007). “Discovering Trieste”. Today's Railways (Platform 5 Publishin Ltd): pp. 29-31 
  3. ^ "Trieste Trasporti S.p.A.". Trieste Trasporti S.p.A.. 2007年April 27 閲覧。

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ


最終更新 2009年11月25日 (水) 14:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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