トロフィム・ルイセンコ
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トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコ(Трофи́м Дени́сович Лысе́нко, Trofim Denisovich Lysenko, 1898年9月17日(ユリウス暦)/9月29日(グレゴリオ暦) - 1976年11月20日)は、ソ連の農学者。
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[編集] 略歴
ウクライナの農家に生まれる。キエフ農業専門学校を卒業後1920年代の初めからキーロヴァバード農事試験場に勤務し、1930年にオデッサ遺伝淘汰学研究所に転勤、まもなく所長となる。1939年には全ソ連・アカデミー会員および農業アカデミー総裁をはじめとして多くの政治的要職を歴任した。
1956年にルイセンコを支持していたスターリンへの批判が起こるとともに彼の農政上の失敗も明らかとなり農業アカデミー総裁を辞任したが農業アカデミー会員と科学アカデミー会員にはとどまった。
1942年に公刊された著書『農業生物学 Агробиология』は主要論文を収録したものでほとんど毎年出る版ごとに、新しい論文を追加していた。
[編集] 業績
禾本科やマメ科の植物について春化(ヤロビザーチヤ)の研究をし1929年に植物の段階発生説をたてた。遺伝の研究にすすみ、1935年から環境の操作により植物の遺伝性を後天的に変化させうることを主張、また1941年には接木の台木の性質が接ぎ穂の形質を変化させるとする接木雑種の成功を主張し、育種学者としてソ連農業に貢献したとされていた。
現代生物学がアウグスト・ワイスマンやトーマス・ハント・モーガンの観念論に支配されていると強調し、これを改革してイヴァン・ミチューリンの主張するネオ・ラマルキズム的生物学の方向に確立すべしと唱えた。
1948年以降ルイセンコの学説は、スターリン思想に合致するものとしてソ連生物学界の公式見解として承認され、権力によってニコライ・ヴァヴィロフなどの反対論者を追放するにいたった。この迫害によってヴァヴィロフは投獄され、栄養失調により餓死させられている。しかし、アメリカやヨーロッパの学界ではその実験の確実性は疑われ、政治色に染まった遺伝学説であることを批判されていた。1962年から著しくなった勢力失墜とともに「ミチューリン主義」などの用語も使われなくなった。
彼の農法は幾多の悲劇を生み出した。ソルジェニーツィンはレポート『収容所群島』の中でルイセンコの農政上の失敗について触れ、以下の様に暴露している。
[編集] 脚注
- ^ コリン・ウィルソン 『世界大犯罪劇場』 青土社、1997年2月。ISBN 9784791755202
[編集] 関連項目
最終更新 2009年12月1日 (火) 02:49 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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