ドイツ海軍
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ドイツ海軍(ドイツかいぐん)とは、ドイツの海上兵力を指す。ここでは帝政ドイツ以降の海上兵力について述べる。
ドイツの海軍のドイツ語名称の変遷は以下の通りである(1861年から1990年)。
- Marine des Norddeutschen Bundes (北ドイツ連邦海軍) : 北ドイツ連邦 (1861年~1871年)
- Kaiserliche Marine (帝国海軍) : 帝政ドイツ (1871年~1918年)
- Vorläufige Reichsmarine (ヴェルサイユ条約締結までの暫定的なドイツ国海軍) : ヴァイマル共和国(1919年~1921年)
- Reichsmarine (ヴェルサイユ条約締結後のドイツ国海軍) : ヴァイマル共和国(1921年~1935年)
- Kriegsmarine (ヴェルサイユ条約を破棄した1935年に改名) : ナチス・ドイツ (1935年~1945年)
- Bundesmarine (ドイツ連邦共和国の海軍、直訳すると「連邦海軍」) : ドイツ連邦共和国(西ドイツ)(1955年~1990年)
- Volksmarine (ドイツ民主共和国の海軍、直訳すると「人民海軍」) : ドイツ民主共和国(東ドイツ)(1956年~1990年)
- Deutsche Marine (再統一後のドイツ連邦共和国の「ドイツ海軍」) : ドイツ連邦共和国(再統一されたドイツ(1990年~現在)
ドイツ海軍の保有した艦艇は戦艦、巡洋戦艦、ポケット戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦であるUボート、小型艦としてRボートやSボートなどが挙げられる。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 第一次世界大戦前
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は大英帝国に対抗して海軍長官アルフレート・フォン・ティルピッツの下に大規模な艦隊を建設していた(陸軍がプロイセン王国、ザクセン王国、バイエルン王国等諸邦の陸軍の寄合所帯だったのに対し、海軍が皇帝の直轄だったことも一因)。「大洋艦隊(Hochseeflotte, 大海艦隊とも訳される)」と呼ばれた艦隊の規模は日本やアメリカを優に凌ぎ、世界第2位の海軍としてイギリスと弩級戦艦や巡洋戦艦(ドイツ名では大巡洋艦)を中心に、激しい建艦競争を繰り広げていた。
[編集] 第一次世界大戦
大戦においても、名高い軽巡洋艦エムデンや仮装巡洋艦、Uボートによる通商破壊戦、また、コロネル沖海戦、フォークランド沖海戦、ドッガー・バンク海戦、ユトランド沖海戦でイギリス海軍相手に激戦を繰り広げた。しかし、開戦後、元来陸軍国であるドイツは新型艦の建造は大幅にペースダウンしており、戦争後半になると続々と増強されるイギリス海軍に比べ、明らかに劣勢となっていった。その為、Uボートによる無制限潜水艦作戦が主流となっていった。また、ドイツ海軍は飛行船も保有し、陸軍の飛行船ともどもイギリス本土への空襲もおこなっている。その後、キール軍港での水兵の反乱がドイツ革命、大戦終結の引き金になった。
[編集] スカパ・フロー一斉自沈
休戦交渉終結後にドイツ大洋艦隊の主力(74隻)は、中立国の港湾でなくイギリスのスカパフローに回航・抑留された。1919年5月7日、発表されたヴェルサイユ講和条約案は、抑留中の全艦艇を連合国に引き渡すこととし、ドイツに残されるものは僅か15,000名の兵と1500名の士官から成る海軍であった。許される艦艇数は最大排水量10,000トンの戦艦6隻、6,000トン以下の巡洋艦6隻、800トン以下の駆逐艦12隻、200トン以下の水雷艇12隻のみ。潜水艦と飛行機の保有は許されなかった。抑留艦隊司令官ルートヴィヒ・フォン・ロイター提督は、賠償艦として引き渡すことを潔しとせず、1919年6月21日抑留中の全艦艇に一斉自沈を命令した。しかし、その代償は大きかった。連合国はドイツ艦隊をいかに切り分けて自国海軍に組み入れるかを考えていたのに敗戦国のこの仕打ちで、イギリスはよりにもよって自国のお膝元、スカパ・フローで自沈をされたのだから面目は丸つぶれであった。 しかる後、連合国はドイツに対し「自沈した艦に匹敵する賠償」を強く要求し、60日以内に提出するよう厳命した。ドイツ海軍には自国海域を守るための最低限である弩級戦艦ナッサウ級4隻とヘルゴラント級4隻に軽巡洋艦「ピラウ」「ケーニヒスブルク」「グラウデンツ」「レーゲンスブルグ」「シュトラスブルグ」が召し上げられ、更に海軍設備のうち浮きドック・港湾クレーン・タグボート・サルベージ船(救難船)・補給船など総計40万トンと全てのUボートと装備品が没収された。無論としてこれらの艦艇・設備の輸送費はドイツの負担により連合国の各国の港に輸送されたこれらは連合各国に働きに応じて分配された。更に建造中の艦艇は全て解体処分とされ、資材は商業活動目的にのみ利用された。
後に、この因縁の地に20年後の1939年10月14日、ギュンター・プリーン中尉指揮するUボートU47が侵入して停泊中のイギリス戦艦ロイヤル・オークを撃沈した。この知らせにドイツ国民の多くは20年前を思い、溜飲を下げた。
[編集] ヴェルサイユ条約下
ヴェルサイユ体制下でのワイマール共和国におけるドイツ海軍は、陸軍同様に厳しい制限を受けた。 前述の自沈の賠償の影響が海軍の艦艇・設備に暗い影響を与えていた。
大型艦としては旧式の準弩級戦艦ブラウンシュヴァイク級「ブラウンシュヴァイク」「エルザス」「ヘッセン」「プロイセン」「ロートリンゲン」・ドイッチュラント級「ハノーヴァー」「シュレージェン」「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」、巡洋艦が第一次大戦前に建造された防護巡洋艦ブレーメン級「ベルリン」「ハンブルク」・ガツェレ級「ニオベ」「ニンフェ」「テーティス」「アマツォーネ」「メドゥーサ」「アルコナ」、駆逐艦16隻(内2隻は予備)、水雷艇16隻(内2隻は予備)、魚雷艇16隻が残されたに過ぎなかった。
更に、海軍の総人数は15,000人に制限され、そのうち海軍士官は1,500人以下とされた。予備役は保有できず、海軍将校クラスは志願制により最低25年は勤める事とされ、その他の兵役は12年勤務に制限された。一旦、海軍を退役した軍人は、軍事教育に関わる分野への再就職は絶たれ、海軍に関する天下りも出来なかった。また、第一次大戦終了時から勤務する海軍士官達は病気以外は45歳になるまでは継続勤務することを海軍に誓約せねばならなかった。
海軍の仕事として第一次大戦時に敷設した機雷の掃海作業とし、母艦の新規建造は制約されたために戦艦を掃海艇母艦へと改造するしかなかった。これらの作業は欧州大陸周辺の指定海域の安全が保障されるまで続けられた。
また、既存艦艇の更新のみ軍艦の建造が出来るが排水量は一万トンを超える事は出来ない。巡洋艦は6,000トン以下、駆逐艦は800トン、水雷艇と魚雷艇は200トン以下にまで制限された。軍艦の使用年数は戦艦と巡洋艦は20年、駆逐艦と水雷艇は15年まで使用することとされた。これらの艦艇は戦前のドイツ海軍でさえ二線級どころか退役間近のレベルであり列強各国の海軍と比較するのもおこがましいような代物で、ドイツは連合国から海軍の再興を厳しく制限されたのである。
また、東にポーランド、西にはフランスという2つの仮想敵国が存在し、加えて、東プロイセン州がポーランドへの領土割譲により飛び地となるなど、非常に厳しい戦略状況を迎えていた。この状況下で建造されたのが、28センチ砲搭載のドイッチュラント級装甲艦である。「戦艦より速く、巡洋艦より強い」(28cm6門、27ノット)と称した、この通称ポケット戦艦は、旧式艦の多いフランスと軽艦艇のみのポーランドの双方を相手にすることへの苦肉の策とはいえ、ワシントン軍縮条約での制限(主力艦以外は、排水量1万トン以下、備砲28センチ以下)とヴェルサイユ条約での制限(排水量1万トン以下、備砲20センチ以下)の間隙をうまく突いた艦であった。
[編集] 再軍備宣言後
1933年に政権を奪取したヒトラーは1935年にヴェルサイユ条約を破棄、再軍備を宣言。英独海軍協定を締結した。これにより潜水艦を除いたドイツ海軍は対英比率35%(42万595トン)を合法的に拡張する事が許された上、船体サイズもワシントン海軍軍縮条約に準じた戦艦35,000トン、重巡洋艦10,000トンまで拡大された。これを受け、海軍の拡張計画も開始される。しかし、思わぬイギリスの裏切り行為に端を発するフランス海軍の増強(超弩級戦艦ダンケルク級である)を察知したため、D級装甲艦シャルンホルスト級の改設計を行ない、同年にシャルンホルスト級2隻の建造が再開され、翌年にはビスマルク級2隻も起工される。この時期のドイツ海軍はZ計画に基づき、大規模な水上艦隊の建設をおこなう予定であった。1939年という早い時期に対英開戦となったため、これらの艦艇は軒並み没になったが、開戦が5年遅ければ、かなり違った様相を呈したと思われる。
[編集] 第二次世界大戦
1939年、ポーランドに侵攻したドイツに対し、英仏は宣戦布告。ヒトラーにとっても、このタイミングでのイギリスとの開戦は青天の霹靂だったが、海軍にとっても、Z計画がほとんど進展していない状況での開戦となってしまった。ヴェルサイユ条約破棄後、ヒトラーは英仏の有力な海軍力に対抗するため、Z計画を始めとした大規模な建艦計画を承認した。しかし計画達成を1944年としたため(ヒトラーは「対英戦争は1945年まではない」と海軍側に説明していた)予想外の第二次世界大戦の開戦とともに、Uボート建造の拡大から大型艦艇の建造は徐々に縮小された。
この時点でドイツ海軍が保有する主力艦は巡洋戦艦2、ポケット戦艦3、重巡洋艦2、軽巡洋艦6であり、またポケット戦艦といわれたドイチュラント級は実質的には重巡洋艦でありイギリスの戦艦と正面切って戦う力はなく、シャルンホルスト級は高速ながら火力に乏しく、ビスマルク級も完成当時は世界最大の戦艦であったが、ベルサイユ条約のため、新造艦の建造数が少なく、設計が古かった(フランスが降伏した際、ドイツの技術者は未完成だったフランス戦艦クレマンソーを視察して、自国の建造技術の低さに驚いたと言う)ことが災いして同時期の各国の新鋭戦艦に比べれば問題のある艦であった。また航空母艦もなく、重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦も十分ではなかった。後述の如く、空軍との対立故に海軍航空隊も弱体であり、尚且つ空軍も海上での戦闘を得意とする日本の零式艦上戦闘機やアメリカのF4Fのような巡航性能に優れた単発戦闘機を実戦配備どころか開発すら行っていなかったため、海上の制空能力は皆無に等しかった。ドイツ海軍を率いるレーダー提督はこの状況を「いまや海軍は勇敢に死ぬことを知っているだけだ」と表現したという。Uボートは開戦と同時にイギリスの海上補給路を攻撃し始めた。ドイツ海軍は水上艦艇も通商破壊戦に投入し、開戦数カ月でアトミラル・グラーフ・シュペーは数万トンに達する戦果を挙げた。Uボートはイギリスを崩壊寸前まで追い詰めた。後にチャーチルは「私が大戦中に恐れたのはUボートの脅威のみである」と語った。
第二次世界大戦におけるドイツ海軍の基本は通商破壊戦である。開戦時にドイツ海軍が保有する大型艦はわずかであり、まともにイギリス海軍に挑めるはずもなかった。大西洋を中心にノルウェー海や地中海、遠くはインド洋までUボートによる群狼作戦を行い、ポケット戦艦、仮装巡洋艦を派遣し、連合軍輸送船団を攻撃した。イギリス海峡では水雷艇による襲撃を行っている。英米もこれに対処するために輸送船に駆逐艦を付けたり、護衛空母を付けたりした。特に戦争終盤はUボート側の損害が増大し、最終的な戦果のバランスシートは意外なほどに低いものとなっている。バレンツ海海戦での海軍の対応に激怒したヒトラーは、水上艦隊の解体を宣言した。ドイツ海軍総司令官エーリッヒ・レーダーは権威が失われたと辞職し、後任のUボート戦の司令官であったカール・デーニッツは、水上艦艇の存在の重要性を説き、ヒトラーの命令を事実上撤回させた。しかし、乏しくなった資源は水上艦艇より潜水艦の建造や修理に割り当てられてゆき、さらに英軍の攻撃により艦隊は消耗を続け、シャルンホルストの沈没した1943年12月のクリスマスに起きた北岬沖海戦以降、戦争終結時のソ連軍からのドイツ難民救出作戦まで活動はない。
[編集] ドイツ海軍の空母と海軍航空部隊
レーダー提督は空母の必要性を痛感しており、そのため海軍航空隊の設立と空母の建造をヒトラーに要求していたが、これを越権行為と見做す空軍総司令官ゲーリングが認めず、逆に艦載機まで空軍の所属とした。空母はグラーフ・ツェッペリンとウェーザー(アドミラル・ヒッパー級4番艦、ザイドリッツを建造中に改装)の建造を行っていたが、ゲーリングの妨害や潜水艦の増産が優先されたため、85-90%の完成状態のままに置かれていた。艦載機はその航続力を生かして陸上に配備された。グラーフ・ツェッペリンは1945年1月に自沈した。
ドイツ海軍はバルト海と北海を最短距離で結ぶキール運河や母港のヴィルヘルムスハーフェンの設備能力の不足のために艦艇設計に制限をかけることがあった。戦艦ビスマルクなどの設計に際しても問題となっているが、これがグラーフ・ツェッペリンの竣工を妨げた可能性がある。同じような問題として、米海軍とパナマ運河の関係が有名であるが、イギリス海軍の空母も母港の能力不足で設計に制約を課されており、軍事インフラの能力は地味ながらも艦の性能を左右する存在だったのである。もっとも、1隻の小型空母が(しかも、ドイツにとって初めての空母で)実戦力になったか疑わしい、逆に空母が一隻でもあれば英雷撃機の性能からビスマルクは助かった、など様々な意見はある。
[編集] 戦後~現代
[編集] 東ドイツ
[編集] 艦艇
現在就役中の艦船は以下の通り。過去に就役した艦艇についてはドイツ海軍艦艇一覧を参照のこと。
- フリゲート
- ザクセン級フリゲート -3隻
- ブランデンブルク級フリゲート -4隻
- ブレーメン級フリゲート -8隻
- コルベット
- ブラウンシュヴァイク級コルベット -1隻(4隻建造中)
- 高速艇
- ゲパルト級高速艇 -10隻
- アルバトロス級高速艇 -10隻
- Uボート
- 補給艦
- ヴェスターヴァルト級給兵艦 -2隻
- レーン級給油艦 -2隻
- エルベ級支援母艦 -6隻
- ベルリン級補給艦 -2隻
[編集] 主な海戦
第一次世界大戦
第二次世界大戦
[編集] 著名な海軍軍人
第一次世界大戦
- アルフレート・フォン・ティルピッツ - 海軍大臣。
- フリードリヒ・フォン・インゲノール - 大洋艦隊司令官。
- フーゴー・フォン・ポール - 大洋艦隊司令官。
- ラインハルト・シェア - 大洋艦隊司令官。
- フランツ・フォン・ヒッパー - 索敵部隊司令官。大海艦隊司令官。
- マクシミリアン・フォン・シュペー
- カール・フォン・ミュラー
- フェリクス・フォン・ルックナー
- ペーター・シュトラッサー
- ロタール・フォン・アルノー・ド・ラ・ペリエール
- ヴァルター・フォルストマン
- ルートヴィッヒ・フォン・ロイター
戦間期
- アドルフ・フォン・トロータ
- ウィリアム・ミハエリス
- パウル・ベーンケ - ヴァイマル共和国海軍総司令官。
- ハンス・ツェンカー - ヴァイマル共和国海軍総司令官。
第二次世界大戦
- エーリヒ・レーダー - ドイツ海軍総司令官。
- カール・デーニッツ - ドイツ潜水艦隊司令官。海軍総司令官。ドイツ大統領。
- ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク - ドイツ潜水艦隊司令官。海軍総司令官(両職ともデーニッツの後任)。
- ワルター・ヴァルツェハ - 海軍総司令官(フリーデブルク自決後の暫定司令官)。
- ギュンター・グーゼ - 海軍軍令部長。
- オットー・シュニーヴィント - 海軍軍令部長(グーゼの後任)。
- クルト・フリッケ - 海軍軍令部長(シュニーヴィントの後任)。
- ヴィルヘルム・マイゼル - 海軍軍令部長(フリッケの後任)。
- エーベルハルト・ゴット
- アルフレート・ザールヴェヒター
- ヴィルヘルム・マルシャル
- オットー・バッケンケーラー
- ロルフ・カールス
- ヘルマン・ベーム
- ヘルマン・デンシュ
- ギュンター・リュッチェンス
- テオドール・クランケ
- アウグスト・ティーレ
- ハンス・ラングスドルフ
- ベルンハルト・ロッゲ
- エルンスト・リンデマン
- カール・トップ
- オスカー・クメッツ
- ヘルムート・ブリンクマン
- オットー・チリアクス
- エリッヒ・バイ
- フリードリヒ・ボンテ
- カール・ヴィッツェル
- ヴェルナー・フックス
- ヘルムート・ハイエ
- フリートリヒ・ルーゲ
- カール・アドルフ・ツェンカー
- ヴィルヘルム・カナリス
- ヴィルヘルム・メーンゼン=ボールケン
Uボートエース
[編集] 文献
- Dan van der Vat The Grand Scuttle; The Sinking of the German Fleet at Scapa Flow in 1919, Hodder and Stoughton Limited, London, 1982, ISBN 1-874744-82-3
- ダン・ファンデルバット、第一次世界大戦後のスパカ・フローのドイツ抑留艦隊の自沈『ドイツ艦隊大自沈』佐藤佐三郎(訳)、原書房、1984年、ISBN 4-562-01438-5
- Adolf Schlicht / John R.Angolia、ドイツ海軍の軍服、 Die deutsche Wehrmacht, Uniformierung und Ausrüstung 1933-1945, Band 2 Die Kriegsmarine, Motorbuch Verlag, 1995, ISBN 3-613-01656-7
- 相澤淳『海軍の選択:再考 真珠湾への道』、中央公論社、2002年、ISBN 4-12-003304-X
- カーユス・ベッカー『呪われた海』松谷健二(訳)、解題『呪われた海』青木栄一(著)及び『年表』阿部安雄(著)を含む、中央公論新社、2001年、ISBN 4-12-003135-7
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月15日 (日) 01:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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