ナイアガラ・レーベル

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ナイアガラ・レーベルは、大瀧詠一が主宰するレコードレーベル

目次

[編集] 名前の由来

ナイアガラという名前は、大瀧が尊敬してやまないフィル・スペクターのレコードレーベルが、自分の名前をもじった「フィレス」という名前であったため、それに倣ったものである。大瀧=「大きい」の代表格のナイアガラの滝にちなんでつけた。レコード盤(CD)のレーベル面には、"Fussa Tokyo Niagara Records"と表記されている。

[編集] サブレーベル

サブレーベルとして、Yoo-Loo養老の滝から? しかし読みは「ユールー」である)、およびKeg-on華厳の滝から? 読みは「ケグ・オン」)がある。因に大滝自身、レーベル創設当時、度々ナイアガラの由来を聞かれ、上述の理由を述べた後、「華厳でも養老でも良かったんですけどね」とオチを付けていたとインタビューで語っている。

[編集] 設立の経緯

レーベル設立の発端は、大瀧詠一がソロアルバム『大瀧詠一』を発表したとき、その原盤の管理を担当していたベルウッドキングレコード)の管理の仕方に疑問を抱いたことから始まる。レコード製作の過程で製作された、マスターテープ以外の未発表の音源が、使用されないということで焼却もしくは消去されてしまうことを知った大瀧は、このままでは自分の作成した原盤(のほとんど)が失われてしまうことを危惧した。実際、2003年現在、『大瀧詠一』の原盤は、マスターテープ以外キングレコードには残されていない。ボーナストラックに収録されたのは、大瀧が個人的に所有していたものだという(『大瀧詠一』ソニー再発盤の解説より)。

自分の作品を守るには、原盤(とその権利)を自分で持たなければならないと考えるようになった大瀧は、自分の作成する原盤をすべて管理・保存することを目的に、1974年にザ・ナイアガラ・エンタープライズという会社を設立する。この会社にはパシフィック音楽出版(PMP、現フジパシフィック音楽出版)も出資し、PMPが制作費を出す代わりに原盤権を持つことになった[1]

そして、翌1975年4月にその会社から発売された初の作品が、シュガー・ベイブのシングル「DOWN TOWN」、および、アルバム『SONGS』である。大瀧自身が自分のアルバムを発売するのは、翌月の『NIAGARA MOON』が最初となる。

[編集] ヒストリー

[編集] 1970年代

70年代は、大滝にとっては不遇の時代であり、彼の世間での知名度は皆無であった。

1973年
9月21日にはっぴいえんどを解散し、三ツ矢サイダーのCMソングの制作を始め、CM業界に進出する。
1975年
先述した「三ツ矢サイダー」のCMソングをシングル盤で発表することを目論んでいたが、当時の大手レコード会社は全て「CMソングなんかレコードにしても売れない」と難色を示す。しかしながらエレックレコードが「面白い」と大瀧の話に飛び付き、「どうせやるならレーベルを作らないか?」との話でエレックレコードと契約し、プライベートレーベル「ナイアガラレコード」を設立。また、レコード会社の原盤管理に疑問を抱き、自分の作品の原盤権を「ナイアガラエンタープライゼス」を設立し、会社で管理するようになる。所属第1号アーティストはシュガー・ベイブであった。
しかし、同年エレックレコードは倒産する。
1976年
上記のエレックレコード倒産に伴い日本コロムビア(現:コロムビアミュージックエンタテインメント)に移籍。16チャンネルテープレコーダを貰うことを条件にとんでもない枚数(3年で12枚のアルバム)の作品の制作契約を結んでしまう。とんでもない制作作品数を契約し、制作したが当時の世間の大滝の作品への評価は皆無に等しく「ナイアガラー」と呼ばれる大滝やナイアガラレーベル作品の愛好者にしか受けず、制作作品数が多い割りに売れなかったため、会社に経営の危機をもたらすことになり(「NIAGARA CALENDAR '78」収録の「名月赤坂マンション」はこの会社存続の危機を歌にしたノンフィクションソングである。)、その後会社はCBS・ソニー移籍まで休眠状態となり、運営をPMPに委託する状態となる(1978年頃のコンサートのパンフレットでは、会社の所在地が当時PMPの本社があったニッポン放送内となっている)。
1979年
「Let's Ondo Again」の制作を最後コロムビアを去る。

[編集] 1980年代

松田聖子の「風立ちぬ (松田聖子の曲)」(「風立ちぬ (松田聖子のアルバム)」の「風立ちぬ」を含むA面収録曲も全て手掛けている。)や須藤薫の「あなただけI LOVE YOU」を手掛けたことにより徐々に名が知られ始め、大滝の名が世間に知れ渡り漸く日の目を見る。

1981年
CBS・ソニーレコード(後のソニーレコード、現在のソニーミュージックレコード)に移籍。当時PMPの常務だった朝妻一郎は、本来ならPMPの元上司であった羽佐間重彰が社長を務めるキャニオンレコード(現ポニーキャニオン。PMP、キャニオンともニッポン放送の子会社だった)に移籍させるのが筋だが、大瀧の音楽はキャニオンには合わないと考え、CBS・ソニーに移籍させた[2]。アルバム「A LONG VACATION」のヒットがきっかけで大滝の名が世に広く知られるようになる。このヒットは「5年間も売れなかったアーティストが突如売れ出すことは奇跡」ということを言った業界人もいたほどの出来事だった。また、はっぴいえんど時代の仲間で、当時売れっ子作詞家となっていた松本隆とコンビを組んで、自身の曲はもちろんの事楽曲提供曲も松田聖子の「風立ちぬ」を手がける。
1982年
作曲とプロデュースを手がけた森進一の「冬のリヴィエラ」、山田邦子の「邦子のアンアン小唄」、プロデュースを担当した金沢明子の「イエロー・サブマリン音頭」、作詞作曲編曲を手がけたうなずきトリオの「うなずきマーチ」が相次いで発売。楽曲制作やプロデューサーとして多く活躍した年と言える。
1984年
アルバム「EACH TIME」を発売する。
1986年
大滝自身の全てのアナログシングルを廃盤にする。これは本人曰く「邦楽第一号のCDがアルバム「A LONG VACATION」であったため、人一倍レコードに思い入れのある自分がCDの普及を早めた」とのことである。これにより大滝の歌手活動は、長期休業にはいる。
1988年
小泉今日子の「快盗ルビィ」のプロデュースを最後に、プロデューサー業も長期休業する。

[編集] 1990年代~現在

一時的に歌手活動を行ったが、シングルを発表するに留まっていたり2005年より自身のLP作品が発売30周年経ったのを記念して30周年経つLP作品を次々に大瀧自身(笛吹銅次名義)によるリマスターでCD発売する自身曰く「ナイアガラ不滅プロジェクト」と題した30周年記念事業を行ったりメディアへの出演も「山下達郎のJACCS CARDサンデーソングブック」の「新春放談」に留まっている。半ば引退状態である。また、レーベル自体はほぼ大滝の個人レーベルに留まっていて、新規加入のアーティストの作品発表は現在まで皆無である。

[編集] 脚注

  1. ^ 朝妻一郎『ヒットこそすべて オール・アバウト・ミュージック・ビジネス』(白夜書房)p.257
  2. ^ 『ヒットこそすべて オール・アバウト・ミュージック・ビジネス』p.326

最終更新 2009年10月26日 (月) 02:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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