ナザレのイエス

ナザレのイエスの最新ニュースをまとめて検索!

ナザレのイエス古典ギリシア語Ἰησοῦς ὁ Ναζαρηνός, Iēsūs ho Nazarēnos古典ラテン語Iesus Nazarenus紀元前4年頃 - 紀元後30年頃)は、紀元1世紀初頭に、パレスティナで活動したと考えられる人物である。キリスト教における救世主で、三位一体の一位格「子」にあるとされる救世主イエス・キリストの歴史的実像として措定されている人物を意味する。

イエスと洗礼者ヨハネ

キリスト教の歴史では、『新約聖書』の使徒パウロ書簡福音書などにおいては神とも解釈可能であるが、人間とも見なすことのできる存在として描写・把握されていた。しかしその後、キリスト教神学の展開により、イエスは三位一体の一位格である「子なる神」となった。

イエスは本質的にであるのか人間であるのか。三位一体教義とは別に、「人間となった神イエス」を、人間イエスとして、いま一度、歴史的な存在として把握しようとする試みが史的イエスの探求である。史的イエスの問いにおいて、歴史的に存在したと考えられる人間を「ナザレのイエス」と呼ぶ。特に、史的イエスの追求が本格化した19世紀から、歴史的に実在した人物として、その姿が探求された。

目次

[編集] 名称

ナザレのイエスとは、キリスト教正典新約聖書』にあって、後の神学の展開により三位一体の神の一位格と考えられるようになったイエス・キリストの人間としての呼び名である。この名は、福音書においてイエスが「ナザレ人(ナザレ出身者)」と呼ばれており、またナザレのイエスと呼ばれていることによる[1]

イエス・キリストは、「メシアとしてのイエス」という意味を持ち、すでに原始キリスト教救世主の称号が付いた呼称であるため、歴史的人物としてのイエスを「ナザレのイエス」と呼ぶ。ナザレのイエスは、本当に「イエス」(ヘブライ語:イェホーシューア、アラム語:イェーシューア)という名であったのか、またナザレ出身であったのかも確実には分からないが、この呼称で歴史的に実在したであろう人物、すなわちキリスト教の救世主であるイエス・キリストの原型となった人物を指す。近代の一時期、イエスは存在しなかったとする説が脚光を浴びていたことがあったが、現在ではこのイエスの原型となった人物は恐らく実在していたであろうという学説が有力となっている。

[編集] 概説

[編集] 研究史料

歴史的実在であるイエスという人物について研究するためには、史料が必要である。目下において、そのような史料は次のようなものがある。ただし、イエスの実在や事績に関しては、すべて二次史料である。

歴史的イエスの研究史料としては、紀元3世紀頃までに成立した文書が代表的である。

[編集] 史料上の問題

歴史的なナザレのイエスについては、何も確定的に述べることができない、というのが正確な処である。イエスの言動についての一次史料がなく、パウロの書翰もパウロの福音に関しては一次史料であるが、イエスが存在したかどうか、どういう人物であったのか、パウロは明確には書いていない。パウロは、死して後に甦り、彼の前に(ヴィジョンとして出現し)復活救済を啓示したキリストについて述べている。

[編集] 二次史料の問題

歴史的なイエスについての最大の研究史料は、キリスト教の『新約聖書』である。しかし、パウロは生前のイエスに直接出会った訳ではない。また各福音書の記者は、かつてはイエスの直弟子使徒本人と考えられていたが、実際は別の者が使徒の名を借りているだけで、福音書は複雑な編集を経たものと想定されている。実際のところ、福音書記者たちも生前のイエスを知らなかった可能性が高い。

[編集] ギリシア語福音書の誕生

いま一つ重要な問題は、『新約聖書』がコイネー(共通ギリシア語)で記されていることである。想定されている『Q福音書』もまたギリシア語であると考えられている。だが、ナザレのイエスはアラム語の話者であったと想定され、イエスの語録や言行記録、奇蹟譚も当然にアラム語あるいはヘブライ語で述べられていたはずである。ところが、『Q福音書』の写本が断片も発見されないと同様に、アラム語あるいはヘブライ語で記されたイエスの言葉や言行の記録を記した写本も、まったく発見されない。

このような状況の説明として、イエスの教えを宣教しようとした人々に二種類のグループが存在したとする説がある[2]。第一は、ペトロを筆頭とするイエスの直弟子のグループで、彼らはエルサレム教会主流派を形成した。生前のイエスを直接に知るのは彼らであり、彼らはイエスの名において、言葉で福音を語った[3]。他方、主流派すなわち十二弟子と拮抗するグループが存在し、彼らはディアスポラのギリシア語を母語とする人々であった。後者のヘレニストは、代表者であったステファノの殺害の後、エルサレムを遁れ、主流派ヘブライストに対抗するため『マルコ福音書』をギリシア語で記した。

エルサレム教団は、イエスの直弟子を中心としてナザレ派において大きな権威を持ち、ユダヤ当局もこれに手を出すことはできなかった。教団は、ペトロが権威を失った後も、イエスの兄弟ヤコブを長として継続し、「使徒決定」の宣言を行った[4]。しかし、この件の背後には、律法主義に傾斜して行くエルサレム教会と、異邦人キリスト教徒グループの対立の萌芽があった。ヘレニズム世界の知識人でローマの市民権も持つパウロは、この分裂の引き金ともなった。またパウロは彼個人の権威でキリストの教えを伝えようとし、エルサレムではなく、ローマに中心を置く普遍キリスト教会を構想した。パウロは反律法主義の立場を唱え、信仰による義認を主張した[5]

したがって、ナザレのイエスに直接に出会い、教えを聞いた人たちは、文書の記録を残さなかったと想定される。またキリスト教の福音は、そもそもイエス自身の教えとは別のものだとも言える。イエスは自身を預言者とは考えていたが、メシアそして救世主とは考えていなかった。エルサレム教会は、「復活のイエスの権威」を主張した。パウロは更に、十字架において刑死することで人の原罪を贖い、永遠の命への道を開いた神としてキリストを宣教した。イエスを世の救い主として「どのように解釈するか」が重要であった。この解釈は異邦人キリスト教徒の課題となり、彼らはギリシア語でキリスト教を伝えた。

[編集] イエスは何をしたのか

イエスは1世紀パレスティナユダヤの地(とりわけ、ガリラヤ周辺)で活動したが[6]、彼が何を行ったのか、キリスト教の福音書やグノーシス文書、その他の初期の文献は、イエスが宗教的な教えを説いたという点では概ね一致している。イエスは宗教指導者であり、ラビであったということは、多くの文献で一致している。したがって、歴史的なイエスは、何かの宗教的教えを説いた・宣教した宗教家または思想家であったということは恐らく間違いのないことである[7]。しかし、何を説いたのか、思想家としてどのような考えを述べていたのか、諸資料では必ずしも一致しない。キリスト教の四つの福音書では、イエスの捉え方・描き方に違いがある[8]

共観福音書』では、イエスを卓越したラビ、奇蹟を起こすラビとして捉えている。少なくとも「人間」だと把握している。他方、『ヨハネ福音書』では、イエスは「神」であるという前提から文書が記されている[9]グノーシス文書では、イエスは人でもあり神でもあり、本来的にアイオーンである。しかし、歴史的実在としては、やはり人として出現している。

イエスは、地上の人間の「救済の教え」を説いた、ということが様々な文献で一致することである。ただ、その「救済」とはどのような意味なのか、初期キリスト教内部でも解釈が分かれていた[10]

[編集] 生涯

[編集] 誕生

キリスト教の『マタイ福音書』に従えば、ナザレのイエスは、ベツレヘムで誕生したことになっているが、イスラエルの救済者・メシアはベツレヘムで生まれるという伝承がユダヤ教にはあり、この伝承に従って、マタイ福音書記者はこのような記述を行ったと考えられる。しかし他の『福音書』においては、

しかし福音書本文では、記者たちはイエスのことを「ナザレ人」と呼んでおり[11]、また『ルカ福音書』1章26節から始まる「天使祝詞」の項では、「天使ガブリエルが神の許より、ガリラヤの町ナザレに住む一人の処女のもとを訪ねたが、彼女の名はマリアムで、ダビデの家系にあるヨセフの許嫁であった」と述べられている。ここからイエスとマリアはナザレの住民であったことにもなる[12]

同じく福音書によれば、イエスの父(養父)はダビデの末裔のヨセフ、母はマリアとされるが、メシアはダビデの家系に生まれると云う伝承があり、伝承に合わせて福音書記者は記述したと考えられている(ヨセフが養父であることは、『福音書』が述べていることで、マリアは人間によってではなく聖霊Ἅγιον Πνεύμα, Hagion Pneuma)によって身籠もったとされている。これはどういう意味か、解釈が分かれる[13] [14])。

福音書はまた、イエスの誕生をヘロデ大王の治世の末で、大王が未だ存命中であったと記し(ヘロデの幼児虐殺)ている。ローマ帝国の方針と一致しないが、ローマ皇帝が戸籍の確認を求めたため、ヨセフとマリアはベツレヘムを訪ねていたという記述もあり、ここから、紀元前7年頃から紀元前4年頃にイエスの誕生があったと解釈される[15]

[編集] 少年時代・青年時代

イエスの少年時代については、『ルカ福音書』が唯一語っているが、この話だけが孤立しており、歴史的根拠のない伝説と考えられる。ただし、外典にはイエスの少年時代の話は出てくる。

[編集] 公生活

ナザレのイエスは、福音書では成人した男性として登場する。その中で彼は、宗教的な要素を含んだ様々な教えを説き、奇蹟を起こした結果、弟子の集団が構成されたことになっている。福音書にはイエスが病人を癒し、ライ病患者を癒し、死者を甦らせたなど、多数の奇蹟譚が記されている。また解釈が難しい「イエスの譬え話」も多数伝えられている。

イエスは、洗礼教団の一派であるエッセネ派と何らかの関係を持っていたと推定される。そのことは、福音書が洗礼者ヨハネについて記し、イエスがヨハネから洗礼を受けたと記述していること、そして『死海文書』中に出てくる「義の教師」の生涯がイエスの生涯に類似していることから、このような解釈が出てくる[16] [17] [18]

[編集] 弟子集団

マグダラのマリアとイエス

イエスには多くの弟子ができ、キリスト教はそれをペトロを筆頭とする「十二弟子」として権威付けている。家父長制社会であるユダヤにあっては、ラビは男性しか弟子として認めなかったので、十二弟子がすべて男性であるのは自然なことである。しかし、『福音書』はイエスには女性の弟子がいたと記している。これは当時のラビにおいては異例で不可解なことである[19]マグダラのマリアが女弟子の代表のように福音書では登場する[20]。またマグダラのマリアがイエスの妻であったという主張が「グノーシス文書」には見られる[21]

[編集] イエスの教え

イエスは貧しき者・虐げられた者の救済の可能性を説いている。「山上の垂訓[22]で始まるイエスの教えの言葉では、人間の平等や、互いのあいだの愛を語っている。

マタイ福音書』にある山上の垂訓は次のような印象的な言葉で始まる:

心の貧しい者は幸いなり 天の王国はこのような人々のものである

Makarioi hoi ptookhoi tooi pneumati, hoti autoon estin hee basileia toon ouranoon.[23]

「心の貧しい者」と通常訳される言葉は、コイネーの原文では、「霊(プネウマ)において貧しい者たち」である。イエスの言葉は、「マカリオイ(幸いなり)」と繰り返し、「悲しむ者は幸いなり そのような人々は慰めを得るであろう」[24]と続いて行く。

[編集] 終末論と天の国

イエスの教えにおいては、終末論が中心であるとされていた。『マタイ福音書』は、洗礼者ヨハネヨルダン川近くの荒野において、「悔い改めよ、天の国が近づいている」と宣教していたと記している(3章2)。また『マルコ福音書』は、イエスがヨハネより洗礼を受けた後、「ときは満ちた。天の国は近づいた。悔い改めよ」と述べたと記している(1章15)。ここでは世の終末が近づいており、神の審判に備えて人は悔い改めねばならないという教えがあることになる[25]

しかし、イエスはその教えにおいて、共同体の存続を前提とした言葉を語っており、終末論と相容れない。確かにイエスは律法主義を否定し、ファリサイ派を批判したが、律法をも否定した訳ではない。『ヨハネ福音書』は姦淫を犯した女について、イエスが許しの言葉を述べる話を伝えているが(8章1-11)、最後にイエスは「今後はもう罪を犯さないように」と女に述べている[26]荒井献は、イエスは貧しさや境涯故に律法を守れない人に対しては、その「罪」を許すと共に、律法を守り再び共同体へと戻ることを諭しているとする。「律法は人のためにある」との言葉も、律法を否定しているのではなく、律法を守ろうとしても守ることのできない貧しい人・差別された人が現実に存在したからである、と云う。

終末論では、「悔い改めよ」との宣言がある。その目的は「天の王国」すなわち「神の国」に入るためである。しかし、イエスは「神の国(バシレイア・テウー)」は、ここにある、あそこにあるというようなものではなく、「あなたがたのただなかにある」[27]と述べている。

イエスは、取税人、遊女、貧者、罪人などと親しく交わり、食卓を共にしたと『福音書』は伝える。ファリサイ派はイエスを「大食漢・大酒飲み」などと非難した[28]

[編集] イエスの死

イエスは何かを試みようとしているように見えた。その何かとは、イエスの思想を世に広く伝えることか、あるいはローマの支配に抗する武装蜂起[29]であったのか、これも不明である。イエスが十字架刑に処せられたということは、武装蜂起の可能性を含んでいる。十字架刑は、ローマ帝国に対する反逆者に適用された拷問刑罰だからである。

[編集] イエスの遺骸の消失

『福音書』は十字架上で刑死したイエスの遺骸を、岩窟式の墓に葬ったと伝え、三日後に訪ねると、イエスの遺骸が消えていたと記している。このことは、マグダラのマリアを含む、イエスの女性弟子たちが確認したことである。

イエスが復活して自ら墓から抜け出し、その後、弟子たちの前に姿を現したというのは、文字通りのことではなく、何か別のことを述べていると考えられる[13] [30]。イエスの昇天は福音書に記されているが、これは神話である[13] [31]

[編集] イエスの死後

イエスの死後、弟子たちはユダヤ教の一派として教団を維持したと考えられる。ルカによる『使徒行伝』によれば、ペトロが大いなる権威をもってエルサレム教団を統率し、それを継いで、イエスの兄弟ヤコブが教団を率いた。パウロがイエスの神話と教えを知ったのは、このような弟子集団からであった。

イエスの教えは、エルサレムに本拠を置くヘブライスト(ヘブライ派)と、パウロを中心とする異邦人伝道の広義のヘレニスト(ヘレニスム派)に分かれたとされる。パウロはローマ帝国全域に渡る普遍世界教会を目指した[32] [33]。前者は、ユダヤ戦争の結果として紀元70年エルサレム神殿が破壊されると共に姿をほぼ消し、パウロによる異邦人への伝道がキリスト教として成功して行く。地中海世界全域にキリスト教は広がり、ナザレのイエスは、救世主イエス・キリストとして知られるようになる。

[編集] 脚注

  1. ^ 荒井献、p.27。
  2. ^ 加藤隆『「新約聖書」の誕生』、pp.72-81。加藤は、初期のエルサレム教会にあって、イエスの直弟子であった十二弟子、なかでもペトロが絶大な権威を持っていたことを述べる。これに対し、ディアスポラのユダヤ人で、ギリシア語を母語としたヘレニスト・グループが、エルサレム教会主流派と対立した。ユダヤ当局は民衆に人気のあったペトロの主流派には手を出すことができなかったが、ヘレニストを迫害し、その代表者であったステファノを石打にして殺害した。エルサレムより逃れざるを得なくなったヘレニスト派は、イエスの教えを「言葉」によって伝える主流派の権威に対抗するため、ギリシア語で『マルコ福音書』を造った。また、彼らとは別のグループがやはり主流派と対立し、同様な理由より『ヨハネ福音書』を造った。加藤は、『マルコ福音書』の成立は、30年代後半から、60年代までのいずれかの時点であろうと述べている。
  3. ^ 加藤隆『「新約聖書」の誕生』、pp74-77。
  4. ^ 加藤隆『「新約聖書」の誕生』、p.110。
  5. ^ 加藤隆『「新約聖書」の誕生』、pp.116-144。
  6. ^ 荒井献、pp.20-21。
  7. ^ 荒井献、pp.21-24。歴史学者カーマイケルは、イエスを革命家と見なした。他方、聖書学者はイエスを精神の変革者と見なそうとしている。いずれにしても、1世紀のユダヤ社会のなかでの活動であれば、イエスは宗教的指導者であり、思想家である。
  8. ^ 荒井献、pp.15-18。
  9. ^ 荒井献、pp.13-18。四福音書はイエスの「奇蹟伝承」資料を利用している限りにおいて、いずれもイエスを「奇蹟を起こすラビ」と捉えている。共観福音書では、イエスのメシア性は明示されていない。従って、ここではイエスは人である。とはいえ、福音書は矛盾した記述を含み、イエスを「超越的存在」としても表現している。他方、『ヨハネ福音書』はイエスを「栄光のキリスト」の徴として表現している。第一章では、キリストは神の傍らにあったロゴスであり、ロゴスが地上に訪れて肉のうちに宿ったものがイエスである。
  10. ^ パウロは、キリストの購いによって人は原罪から救われ、義とされ、永遠の命に与れる望みが生まれたとする。四福音書は、イエスの福音が精神の救済をもたらしたと述べるが、「イエスの福音」とは何なのか、それぞれ解釈が異なる。
  11. ^ 荒井献、p.27。
  12. ^天使祝詞」は、Ave Maria, gratia plena, Dominus tecum. というラテン語の言葉で知られるが、これは天使ガブリエルが、ナザレの町でマリアに伝えた言葉である。「受胎告知」は『ルカ福音書』のこの言葉に起源がある。
  13. ^ 荒井献、pp.81-82。荒井は「処女降誕」「エマオ途上の二人の弟子」「復活」等は、福音宣教のために形成した神話であると述べている。
  14. ^聖霊」はコイネーの福音書で、ハギオン・プネウマ Ἅγιον Πνεύμα, Hagion Pneuma (Hagion Pneuma) と、パラクレートス Παρακλητος (Paraklētos) として出てくる。『ヨハネ福音書』でイエスが自分の死後、代理に天の父から送られるという「弁護者・取りなす者」は「パラクレートス」で、日本語ではこれも聖霊と訳している。
  15. ^ 荒井献、p.25。
  16. ^ 荒井献、pp.41-45。荒井は、「II 先駆」において、ヨハネ教団はクムラン教団の分派であると述べており、更に、ここでは、クムラン教団はエッセネ派の一形態だと述べている。エッセネ派は元々ハシディームに属していたが、大祭司職の決定問題で分離し、「義の教師」の再来を望んで、洗礼と聖餐の儀式を営んでいた。
  17. ^ 荒井献、pp.49-66。「洗礼」はクムラン教団よりヨハネ教団に伝わり、イエスの教団に伝わり、キリスト教の儀礼として伝わった。それぞれの段階で、異なる意味が与えられている。
  18. ^死海文書』はエッセネ派を含む、洗礼教団の共同体(クムラン教団)が所有していた文書と考えられている。
  19. ^ 荒井献、p.113。
  20. ^ 福音書記者たちは、男性の十二使徒を主張しているが、福音書において、マグダラのマリアや帰依する女たちは、男の弟子たちが逃亡するなか、イエスの処刑に立ち会ったり、復活のイエスに出会ったりと、寧ろ真に弟子らしい振る舞いで記述されている。
  21. ^トマス福音書』を初めとするグノーシス文書は、マグダラのマリアがイエスのもっとも愛した弟子であると述べ、『ピリポ福音書』には、イエスはマグダラのマリアと結婚していたという記述がある。ただし、荒井献は『イエスとその時代』p.118 において、これは「グノーシス派詩人による想像」だと言い切っている。
  22. ^ 「山上の垂訓」は『Q福音書』に遡る、イエスの真の言葉であるとの研究がある。バートン・L・マック 『失われた福音書』。
  23. ^ Kurt Aland et al. The Greek New Testament 3rd edition, United Bible Society, Kata Maththaion 5-3
  24. ^ Kurt Aland et al., 5-4
  25. ^ 『福音書』は複数の箇所で、世界の終末について言及しており、イエスの十字架刑においても、イエスが息を引き取ったとき、地震が起こり、墓が開いて古代の聖者達が甦ったなどと記し、世界の終末と復活の様を先取りして描写している。
  26. ^ この最後の言葉は後代における挿入とされている。しかし、挿入されたのはかなり古い時代で、この福音書では5章11節に同じ言葉がある
  27. ^ "gar hee basileia tou theou entos hyuumoon estin."『ルカ福音書』17章21。Kurt Aland et al. The Greek New Testament 3rd edition, United Bible Society, Kata Loukan 17-21
  28. ^ 『ルカ福音書』7章34
  29. ^ 『福音書』には、イエスが武装蜂起を準備していたことを示唆させる記述がある。J・カーマイケル『キリストはなぜ殺されたか』読売新聞社。
  30. ^ルカ福音書』は、24章でイエスの復活を記し、エマオに向かう二人の弟子の前にイエスが姿を現したことを述べる。しかし弟子たちは最初イエスであることに気づかなかった。十一弟子の前にも現れるが、弟子たちは霊(プネウマ)ではないかと恐れた。イエスは、プネウマ(幽霊)ではないと述べ、魚を食べて見せた。
  31. ^ 「神話」であるということは、イエスの昇天は仮構だと云う意味ではなく、何かの象徴であるという意味である。
  32. ^ 加藤隆、pp.114-144。
  33. ^ これは、『ルカ福音書』の著者であるルカが編集・執筆したと考えられている『使徒行伝』での記述である。

[編集] 参考文献

  • 荒井献『イエスとその時代』岩波書店〈岩波新書〉
  • 加藤隆『「新約聖書」の誕生』講談社、ISBN 978-4062581639
  • 『口語訳聖書』日本聖書協会、1961年
  • Kurt Aland et al. The Greek New Testament 3rd edition, United Bible Society
    • 『聖書』からの引用は、上記の『口語訳聖書』訳文を参照して、Aland のギリシア語版新約聖書に基づいて訳文を作成した。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年11月15日 (日) 19:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【ナザレのイエス】変更履歴

ご利用上の注意