ナラ・レオン
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| ナラ・レオン | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出生 | 1942年1月19日(67歳) |
| 死没 | 1989年6月7日(満44歳没) |
| ジャンル | ボサノヴァ, MPB |
| 職業 | シンガー |
| 担当楽器 | ボーカル、ギター |
| 活動期間 | 1964年 – 1989年 |
| レーベル | フィリップス・レコード(1964年 - 1989年) |
| 共同作業者 | イザベル、フランシスコ |
目次 |
[編集] 人物
ナラ・レオン(Nara Leão、1942年1月19日 - 1989年6月7日)は、ボサノヴァ界でも随一の名歌手で、フランス貴族の血を引く歌手兼女優。同じボサ・ノヴァ歌手のエリス・レジーナとは犬猿の仲だったという。 ナラには姉がおり、その姉はモデルとして活躍。
[編集] --経歴-- 誕生~デビュー前
1942年1月19日にエスピリトサント州ヴィトーリアで、弁護士の父ジャイロ・レオンと教師の母チノッカの間に生まれる。
ナラが生まれてすぐに一家はリオデジャネイロ市へ引っ越す。
1954年頃、ナラはギターを習い始め、この頃からナラの家には自然にギターを持ち寄った若者が集まる様になり、ボサノヴァが誕生したのもナラの家ではないかと推測する人も少なくない。再現ドラマ
[編集] デビュー~1960年代
1964年に、セルジオ・メンデスとファッションショー出演のため来日。 同年、エレンコに、デビュー・アルバム「ナラ」を発表。
また、軍部のクーデターによりブラジルの軍事独裁政権が始まる。 もともとナラは社会的関心が強く、クーデターが起こる前から軍部の強力化を懸念する知識人のグループに参加したりと、この頃からナラの心はボサノヴァから離れ、軍事政権に対するプロテストソングを求めていたようだ。 挙句の果てには「私はボサノヴァの女神なんかじゃない」という発言でメディアの関心を誘った。
1966年、シコ・ブアルキと共に「ア・バンダ」を歌い、第2回MPB音楽祭で優勝。
ブラジルの独裁政権は本来、米、ソ冷戦の余波を受け、ブラジルでの共産化の脅威を取り除くために社会主義化を恐れる上流階級のひとにうまく働きかけ、政権を握ったもの。大胆な金融政策で1960年代から70年代まで驚異的な経済成長を遂げる。 その一方、徹底的な税関により、少しでも政権を批判するような言葉がある本などはすべて発禁になった。
しかし、堂々とナラは自由を求める歌を歌い続け、父・ジャイロが何度も軍部に呼び出されるなどナラは軍部に目をつけられていた。 結局、1968年からナラはカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル等と同様に一時期パリに亡命。
[編集] 1970年代
1971年、パリ(一部ブラジル)で彼女にとって生涯初となる本格的なボサノヴァ・アルバム「美しきボサノヴァのミューズ」を発表。
その後、ナラは育児や精神科医になるための勉強などにより表舞台から姿を消す。
[編集] 1980年代
しかし、80年代に入ると育児も一段落し、ナラは精力的に活動した。歌謡曲スタイルに挑戦したり、パウリーニョ・ダ・ヴィオラのサンバやカエターノ・ベローゾのバラード、ブラジル内陸部の音楽、キューバの作曲家の歌等を取り上げた。また、ヴィオラォン一本だけで“ボサノヴァだけを歌う”ショーを開き、ブラジル国内でボサノヴァを再び注目させるきっかけを作った。
85年にはホベルト・メネスカルやカメラータ・カリオカと共に2回目の来日。そして東京でボサノヴァのスタンダード曲集を制作した。アメリカン・スタンダードを歌ったアルバムはブラジル、日本、アメリカ合衆国、ヨーロッパでもリリースされた。
同年の来日時、あるコンサートで何曲か歌った直後に一時意識を失った。その当時は「あまりにも感情を込めて歌ってしまい余韻から抜けられなかった」と言われていた。
再々来日の企画が持ち上がった1989年、持病の脳腫瘍が悪化、生涯で5枚しかボサノヴァ・アルバムが無い「ボサノヴァの女神」は6月7日、47歳で永眠した。
[編集] 外部リンク
ナラ・レオンのエピソードは[1]
最終更新 2009年12月1日 (火) 07:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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