ニコポリスの戦い
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| ニコポリスの戦い | |
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![]() ニコポリスの戦い、ジャン・フロワサール、1398年 |
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| 戦争: | |
| 年月日:1396年9月25日(9月28日とも) | |
| 場所:ブルガリア、ニコポリス | |
| 結果:オスマン帝国の圧勝 | |
| 交戦勢力 | |
| ハンガリー王国 神聖ローマ帝国 フランス ワラキア ポーランド イングランド スコットランド ヴェネツィア共和国 ジェノヴァ共和国 |
オスマン帝国 セルビア王国 |
| 指揮官 | |
| ジギスムント ジャン1世 |
バヤズィト1世 ステファン1世 |
ニコポリスの戦い(ニコポリスのたたかい、ブルガリア語:Битка при Никопол, Bitka pri Nikopol; トルコ語:Niğbolu Savaşı, ハンガリー語:Nikápolyi Csata, ルーマニア語:Bătălia de la Nicopole)は、1396年9月25日(9月28日とされることもある)に、ドナウ河畔のニコポリスでオスマン帝国のバヤズィト1世(在位:1389年 - 1402年)とハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国(参加勢力:ハンガリー、神聖ローマ帝国、フランス、ワラキア、ポーランド、イングランド王国、スコットランド王国、スイス原初同盟、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、マルタ騎士団)との間で起こった会戦。ニコポリス十字軍と呼称される場合もあり、中世最後の大規模な十字軍である。オスマン帝国側の圧勝で終わった。この戦いによってバヤズィト1世は、カイロのマムルーク朝保護下にあったアッバース朝の子孫であるカリフから「スルタン」の称号を授けられた。
目次 |
[編集] 背景
14世紀には、国王や騎士によって個人的に起こされた多くの小規模な十字軍があった。最も近くには1390年のチュニジアに対して失敗に終わった十字軍があり、またバルト海沿岸にて北方十字軍が行なわれていた。1389年のコソヴォの戦いでの勝利以降、オスマン帝国はバルカン地域のほとんどを征服し、東ローマ帝国をわずかにコンスタンティノープル周辺へと閉じ込め、のちに包囲した(1390年、1395年、1397年、1400年、1422年、そして最終的に1453年に征服)。
1393年にブルガリアの君主イヴァン・シシュマンは臨時首都であるニコポリスをオスマン帝国に奪われる一方、兄弟であるイヴァン・スラツィミルはなおヴィディンを保っていたが、オスマン帝国の属国に転落していた。ブルガリア貴族や専制君主、そしてその他の独立したバルカンの支配者たちの目には、これはオスマン帝国の侵攻の流れを巻き返してイスラームの支配からバルカンを解放する大きな好機であった。加えて、イスラームとキリスト教との境界線がゆっくりとハンガリー王国へ動いていた。ハンガリー王国はいまや東欧における二宗教の境界線であり、攻撃の危険に曝されていた。ヴェネツィア共和国は、モレアの一部やダルマチアというヴェネツィアの領土を含むバルカン半島のオスマン帝国による支配が、アドリア海やイオニア海、エーゲ海へのヴェネツィアの影響力を低下させるであろうことを恐れていた。一方ジェノヴァ共和国は、ドナウ川とボスポラス・ダーダネルスの両海峡の支配権をオスマン帝国が獲得することで、カッファ、シノペやアマスラなどのジェノヴァが重要な植民地を多く持つ黒海とヨーロッパの交易路を最終的にオスマン帝国が独占することを危惧していた。ジェノヴァはまた、1395年にバヤズィト1世が包囲を行なったコンスタンティノープルの金角湾の北にあるガラタ地区を所有していた。
1394年に教皇ボニファティウス9世はオスマン帝国に対する新たな十字軍を宣言したが、当時教会大分裂によってアヴィニョンとローマに対立教皇が立って教皇権が二つに分かれており、さらに教皇が十字軍を招集する権威を持っていたのは遠い過去のことになっていた。それにもかかわらず、イングランドとフランスは百年戦争が小康状態であり、リチャード2世とシャルル6世は十字軍に資金援助を与えるために協力する意志があった。ハンガリー王、のちに神聖ローマ皇帝にもなるジギスムントとフランスの連合十字軍に関する折衝も1393年から進んでいた。
[編集] 戦闘準備
ジョン・オブ・ゴーント、オルレアン公ルイ、ブルゴーニュ公フィリップ(大胆公)らによる初期の計画が1395年になされ、翌年シャルル6世とリチャード2世が続いたが、1396年の初めまでにはこれらの計画は放棄された。代わりにジャン無怖公が、約1000人のイングランド人派遣軍とほとんどがブルゴーニュ公国の騎兵から成るおよそ10000のフランス軍を組織した。バイエルンのプファルツとニュルンベルクからの6000の軍もあった。しかし、ジャン指揮下の軍の数を8000とする他の史料もある。この場合、ジギスムントがハンガリーから6000から8000人を総勢16000の軍に提供したことになる。フランス軍はモンベリアルを1396年の4月に進発してウィーンに5月と6月に到着し、7月にはブダでジギスムントに合流した。ワラキア公国のミルチャ1世(年長公)(en)は正教徒であったが、十字軍に大軍で参加した。ワラキアはいまやキリスト教世界とイスラーム世界との境界を構成していたのである。カラノヴァサの戦いやロヴィネの戦い、1395年のカルヴナ公国(en)をめぐる諸戦闘などでミルチャはバヤズィトに何度か打撃を与えていたので、ワラキアは(モルダヴィアのように)オスマン軍の戦術に精通していた。ニコポリスで捕虜となったバイエルンの十字軍戦士ヨハン・シルトベルガー(en)は、二つの異なる戦法の選択の不同意から引き起こされた対立について、後に回想録で述べている。その二つの戦法とは、その軍の大半が鈍重な、典型的な西欧の重騎士で構成される十字軍の戦法と、敵情を見極め最適の戦術を決定するため、戦闘に優先して偵察の実行をジギスムントに意見具申したミルチャの戦法である。ジギスムントが賛同し、ミルチャは十字軍の指揮権と、ワラキアの軽騎兵団が偵察を終えた後に第一撃を加える権利を要求した。ジギスムントは快く同意したが、伝統的な戦術のいかなる修正も拒否するジャン無怖公や他の西欧の騎士によって提案は退けられてしまった(ジャンは遠距離を進軍して莫大な財を遠征に費やしたので、先陣の功を狙っていた)。
ジャンが連合軍の指揮権を取り、ニコポリスに向けて南に進軍を開始した。国境地域は十字軍の進路に沿って略奪され、ラホヴォの町(オリャホヴォ、en)は蹂躙されて住民は殺されるか捕虜となった。小規模なオスマン軍も何隊か捕捉された。
[編集] ニコポリスの包囲
ニコポリスの町はよく守られ補給も充分で、さらに十字軍は攻城兵器を携行していなかった。にもかかわらず彼らは、要塞の包囲はたんにコンスタンティノープル救援への本戦の前奏曲に過ぎぬと確信し、バヤズィトが十字軍との実戦にこれほど速く到着するとは思っていなかった。オスマン帝国のバヤズィト1世はすでにコンスタンティノープル包囲に従事しており、軍をまとめてニコポリスに向けて進撃していたのである。彼の臣下であるセルビア(1389年のコソヴォの戦い以降オスマン帝国の支配下にあった)のステファン・ラザレヴィチ(en)が道中加わり、彼らは9月24日に約20000の軍で到着した。バヤズィトはジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティから十字軍の動向について警告を受けていた。
[編集] ニコポリスの戦い
[編集] 結果
最終更新 2009年10月25日 (日) 10:26 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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