ニコライ2世

ニコライ2世の最新ニュースをまとめて検索!

ニコライ2世
Никола́й II
ロシア皇帝
在位 1894年11月1日 - 1917年3月15日
戴冠 1896年5月26日ユリウス暦5月14日
別号 ポーランド王
フィンランド大公
全名 ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ
出生 1868年5月18日
ロシアツァールスコエ・セロー
死去 1918年7月17日(満50歳没)
ロシアエカテリンブルク
埋葬 1998年7月17日
ロシア ロシアサンクトペテルブルク首座使徒ペトル・パウェル大聖堂(ペトロパヴロフスキー大聖堂)
皇太子 アレクセイ・ニコラエヴィチ
配偶者 アレクサンドラ・フョードロヴナ
子女 オリガ・ニコラエヴナ
タチアナ・ニコラエヴナ
マリア・ニコラエヴナ
アナスタシア・ニコラエヴナ
アレクセイ・ニコラエヴィチ
王家 ロマノフ家
王朝 ロマノフ朝
王室歌 神よツァーリを護り給え
父親 アレクサンドル3世
母親 マリア・フョードロヴナ
  

ニコライ2世ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフНикола́й II, Никола́й Алекса́ндрович Рома́нов, Nicholai II, Nicholai Aleksandrovich Romanov, 1868年5月18日ユリウス暦では5月6日、ツァールスコエ・セロー)-1918年7月17日(ユリウス暦では7月4日、エカテリンブルク)(在位:1894年 - 1917年)は、ロマノフ朝第14代にしてロシア帝国最後の皇帝正教会聖人新致命者)に列せられている。

目次

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち、皇太子時代

ニコライと母マリア・フョードロヴナ(1870年)

アレクサンドル3世とその皇后マリア・フョードロヴナ(デンマーク王クリスチャン9世の第2王女)の第1皇子として生まれる。

皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)。子女にはオリガ皇女タチアナ皇女マリア皇女アナスタシア皇女アレクセイ皇太子がいる。また、イギリス国王ジョージ5世は従兄である。

1881年に革命家によって暗殺された祖父アレクサンドル2世の死に立ち会っている。父アレクサンドル3世に続き、聖務会院長にして法律家、また専制護持のイデオローグでもあったコンスタンチン・ポベドノスツェフの教育に多大な影響を受けた。

ポベドノスツェフは、民主主義とは「下品な民衆の手に負えない独裁政治」であると見なし、議会とは多数による専制にすぎず、野心のある政治家にかき回されるだけだと説いた人物である。

皇太子時代のニコライは、このような保守的な教育のほか入念な軍人教育も受けており、好みも関心も、当時の普通の青年将校とほとんど変わらず、また、公的な宴会よりも軍隊の仲間たちの中にいることを生涯好んだ。

皇太子時代の1890年から1891年にかけて、地中海スエズ運河イギリス領インド帝国、イギリス領シンガポールオランダ領東インドフランス領インドシナ、イギリス領香港日本などアジア各地を訪問した。

[編集] 大津事件

長崎でのニコライ皇太子(1891年、上野彦馬撮影)

日本には1891年4月27日シベリア鉄道の起工式に参列する途中、ロシア軍艦のアゾフ号で長崎に来航した。長崎への公式上陸は5月4日とされていたが、翌日より何度もお忍びで下船し、九州の長崎と鹿児島に立ち寄った後、神戸を経て京都などを観光した。

日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待した。公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王(海軍大佐)を任命、京都では季節外れの五山送り火まで行われた。

5月11日琵琶湖遊覧から京都に戻る際、滋賀県大津において、「ニコライが日本国内をスパイをしに来た」と誤解した警備の巡査津田三蔵が、人力車に乗って通過するニコライを襲撃して傷を負わせた(大津事件)。津田はその場でギリシャ王子ゲオルギオスや、人力車夫の働きにより取り押さえられた。政府は事の重大さに驚き、松方正義首相はじめ政府首脳が次々に見舞い、明治天皇も京都の常磐ホテル(現在の京都ホテルオークラ)に滞在していたニコライを見舞っている。

[編集] 即位と結婚

戴冠式で塗油により成聖されるニコライ2世とアレクサンドラ(ヴァレンティン・セローフ画、1897年)

1894年11月1日、父アレクサンドル3世の死去にともない、ニコライは26歳でロシア皇帝に即位した。同じ年にドイツ帝国ヘッセン大公ルートヴィヒ4世の娘で、イギリス女王ヴィクトリアの孫娘でもあるアリックスと結婚、皇后アレクサンドラ・フョードロヴナとした。新皇帝ニコライ2世は即位するとただちに、ゼムストヴォ(ロシアの地方議会)の自由主義議員に対し、専制権力を温存する意思を宣言し、彼らの国政参加の願いを「非常識な夢」として退けた。

強圧的な母マリア・フョードロヴナに育てられた為、ニコライは内気な性格になってしまったが、彼は皇后を熱愛し、彼女には頭が上がらなかった。

1896年露暦5月14日モスクワクレムリンに所在するウスペンスキー大聖堂で皇后とともに戴冠式をおこなった。戴冠式には、日本からは明治天皇の名代として伏見宮貞愛親王(陸軍少将)、特命全権大使として山縣有朋が出席している。なお、戴冠式の4日後、祝賀のためにつめかけた民衆が押しあって潰され、多数の死傷者を出す事故が起こっている。

この間、1895年4月の三国干渉ではドイツ、フランスをさそって「清国の秩序維持」を名目に、下関条約によって日本が得た遼東半島賠償金3,000万両と引き替えに清に返還させ、同年、東清鉄道の建設を命じている。ロシアは1894年に露仏同盟をむすんで1882年結成の独墺伊の三国同盟に対抗しようとしたが、黄禍論者でもあったドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はロシアの目を極東にむけさせることによって対露関係を調整しようとした。三国干渉は日本国民に反ロシア感情を植え付ける結果となり、日本はやむなく勧告を受け入れたものの「臥薪嘗胆」を合言葉としてナショナリズムの傾向が強まった。

[編集] 日露戦争とロシア第一革命

ロシア第一革命」を参照

1898年の写真

ニコライ2世は初め、父の政策を受け継いで蔵相セルゲイ・ヴィッテを重用した。ヴィッテは1892年に運輸大臣、翌年には蔵相に就任しており、1903年まで現職としてロシア経済の近代化につとめた。なかでも鉄道網の拡大には熱心で、シベリア鉄道における彼の功績は大きかったが、ニコライ2世はこれを退け、ベゾブラーゾフという山師的な軍人を取り立てて極東での冒険政策を推進した。これが日本との戦争をまねくこととなった。

ニコライ2世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、1891年にフランスと結んだ協力関係を1894年露仏同盟として発展させるとともに、オーストリア・ハンガリー帝国フランツ・ヨーゼフ1世や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも友好関係を保ち、万国平和会議の開催をみずから提唱して1899年の会議ではハーグ陸戦条約の締結に成功した。

いっぽう極東に対しては、1898年には旅順大連を租借し、旅順にいたる鉄道敷設権も獲得して旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置、さらに1900年の北清事変にも派兵して、事変の混乱収拾を名目に満州を占領、日英米の抗議による撤兵を約束したにかかわらず履行期限を過ぎても撤退せずに駐留軍の増強を図り、さらに権益を拡大するなど極東への進出を強力に推し進めていた。同じころ朝鮮半島を勢力下に置こうとした日本と利害が対立するようになり、自身の金銭上の利害関係を有した大韓帝国にも兵を入れ、伊藤博文ら日本との外交交渉も拒むなどの強行姿勢で極東の権益を確保し国内の不満をそらそうとした(独逸皇帝ウィルヘルム2世の戦争を危惧する親書に対し、「朕(ニコライ2世)は戦争を欲しない。よって戦争は起きない」旨の返書をしている。よって「日本との戦争に持ち込む事によって」との解釈は誤り)。

ロシアでは、1900年から1901年にかけて起こった経済危機により、工業製品の発注が激減し、失業者が増加したのみならず、農村でも不作が続いていた。そのような状況下で戦争をはじめることにヴィッテは反対し、戦争回避を主張したが、政敵であった内相ヴャチェスラフ・プレーヴェや強硬派ベゾブラーゾフらの策動によってこの主張は退けられ、陸軍大臣アレクセイ・クロパトキンや関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフも主戦論を支持して、1904年2月、日本側の攻撃をもって日露戦争が勃発した。しかし、ロシアは小国と侮っていた日本に旅順攻略や日本海海戦など敗戦を重ね、ロシア民衆は徴兵を逃れて革命の芽を育てた。

1905年1月9日、莫大な戦費や戦役に苦しんだ民衆が皇帝への嘆願書をたずさえてサンクト・ペテルブルク冬宮殿前広場に近づくと、兵士は丸腰の10万もの群衆に発砲し、2,000~3,000人の死者と1,000~2,000人の負傷者を出した(血の日曜日事件)。敗戦による威信の低下に加え、皇帝が民衆に対して友好的であるというイメージが、これによって完全に崩れ去った。

この事件により、ニコライ2世はヴィッテを再登用して戦争の早期終結に当たらせると同時に、プレーヴェ暗殺後に内相を務めていたスヴャトポルク=ミルスキーを解任して、後任にアレクサンドル・ブルイギンを任命した。

6月8日に、アメリカ合衆国セオドア・ルーズベルト大統領が日露両国に講和会議開催を呼びかけ、10日には日本政府が、12日にはロシア政府がそれを受諾し、バルチック艦隊が壊滅するなどの大きな犠牲を払った上での事実上の敗北という、屈辱的な結果により日露戦争は終結した。

6月27日には、黒海艦隊の戦艦ポチョムキン=タヴリーチェスキー公で水兵による反乱が起こり、翌28日には港湾でゼネストが起こり、暴動が拡大した。ポチョムキンの反乱に加わったのは水雷艇1隻と戦艦ゲオルギー・ポベドノーセツであった。ポチョムキンはルーマニアへ逃げ込んだが、説得に応じて投降した反乱水兵はすべて処刑か、シベリアへの流刑を言い渡されている。

叔父でモスクワ総督のセルゲイ大公が2月に暗殺されると、ニコライ2世は譲歩に応じ、8月、ブルイギン宣言を発した。これは「ツァーリを輔弼する」議会創設、信教の自由、ポーランド人ポーランド語使用、農民の弁済額の減額を認めたものだったが、この程度の譲歩では秩序回復は期待できないことから、ツァーリの諮問に応じるドゥーマ(議会)の創設に応じた。また、9月には合衆国東部のポーツマスに全権としてヴィッテを派遣して日露講和条約(ポーツマス条約)を結んだ。

しかし、ドゥーマの権限があまりに小さいこと、また、選挙権に制限が加えられていることが明らかになると、騒乱はさらに激化し、10月にはゼネストにまで発展した。露暦10月14日、ヴィッテはアレクシス・オボレンスキイとの共同執筆による十月宣言をニコライ2世に提出した。宣言は9月の地方議会ゼムストヴォの要求(基本的な民権の承認、集会の自由、祭儀の自由、政党結成の許可、国会開設、普通選挙に向けた選挙権の拡大)に沿った内容であった。

ニコライ2世は3日かけて議論したが、虐殺を避けたいツァーリの意志と他の手段を講じるには軍隊が力不足という現状から、ついに1905年10月30日(露暦10月17日)に宣言に署名した(十月詔書)。彼は署名したことを悔しがり、「今度の背信行為は恥ずかしくて病気になりそうだ」と語ったとされる。宣言が発布されると、ロシアの主要都市では宣言支持の自発的なデモが起こった。

ニコライ2世は皇帝専制権が残存する憲法(「基本法」)を発布し、1906年ロシア国会(ドゥーマ)を開催したものの、あまりに自由主義的であるとしてただちに解散、その直後の7月に首相としてピョートル・ストルイピンを登用した。ストルイピンは1906年9月9日と、1910年6月14日の法律で、農奴の身分を完全に廃止して個人農を推進するなど、「ストルイピン改革」と呼ばれる近代化を進めたが、のちに、その強いイニシアティブに不快感をもった皇帝と対立した。

ニコライ2世は、翌1907年の国会も前年の国会同様「不服従」の理由で会期中に解散させ、反ユダヤ主義の宣伝とテロ活動をさかんにおこなっていた極右団体「ロシア人同盟」を支援した。3度目の国会では選挙法を改正して投票資格に大幅な制限を加えたため、貴族ばかりが当選する「貴族のドゥーマ」となった。

日露戦争中の1904年8月に生まれた皇太子アレクセイは、当時不治の病とされた血友病の患者であり、皇帝夫妻は幼い皇太子の将来の身を案じていた。

1905年11月、グリゴリー・ラスプーチンという農民出身の祈祷僧が宮廷に呼ばれた。ラスプーチンが祈祷を施すと不思議なことにアレクセイ皇太子の病状が好転した。このことから、アレクサンドラ皇后が熱烈にラスプーチンを信用するようになり、愛妻家であった皇帝も皇后に同調した。その後もラスプーチンはたびたび宮殿に呼び寄せられた。皇帝一家がラスプーチンを「我らの友」と呼び、絶大な信頼を寄せたことから、ラスプーチンもいつしか政治にまで口を挟むようになっていた。

ストルイピンは、ラスプーチンを皇帝の家族から遠ざけるよう尽力した数少ない人物であったが、1911年、皇帝の目の前でドミトリー・ポグロフという人物によって銃撃された。

ラスプーチンは、馬泥棒の経歴が暴かれ、女信者とのみだらな素行を教会に告発され、新聞でも報じられたにもかかわらず、皇后の信頼は崩れず、教会の要職に自分の庇護者を任命させるなど、影で絶大な権力をふるった。1912年のドゥーマでは皇后がラスプーチンを「皇帝一家の友」としたことが問題にされている。皇帝の周囲にはラスプーチンを排除する声もあったが、優柔不断といわれた皇帝は皇后の意向や皇太子の病気に配慮してこれを拒否した。

[編集] 大戦、革命、そして最期

ロシア革命」を参照

1915年の肖像画(ボリス・クストーディエフ画)

1914年6月、サラエヴォ事件が起き、7月28日オーストリア・ハンガリー帝国セルビアに宣戦を布告すると、ロシア軍部は戦争準備を主張しニコライ2世へ圧力を掛けた。ニコライ2世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との間の電報交渉は決裂し、彼は第一次世界大戦拡大の要因の一つといわれるロシア軍総動員令を7月31日に布告して、汎スラヴ主義を掲げて連合国として参戦、ドイツとの戦端をひらいた。ドイツ語風の名をもつ首都サンクトペテルブルクもペトログラードと改められた。

しかし1915年春に、近代兵器を擁するドイツに大敗を喫して戦況が悪化し「大退却」を余儀なくされると、同年9月5日、皇帝は、ラスプーチンの予言もあって、ほとんどの閣僚が反対したにもかかわらず、叔父にあたる司令官ニコライ大公を罷免し、自ら前線に出て最高司令官として指揮を執った。しかし、これは他の連合国から信頼の厚かったニコライ大公に代わるもので必ずしも好評ではなかった。ただし、1916年6月の浸透戦術を用いたブルシーロフ攻勢では辛くも勝利をつかんでいる。

皇帝不在の都ペトログラードでは、ニコライ2世から後を託されたアレクサンドラ皇后とラスプーチンが政府を主導していたが、気に入らない人物を次々に罷免するなど失政が目立った。人気のなかった2人に対して、貴族から民衆までが“ドイツ女”“怪物”と蔑んで憎悪の対象とした。皇后とラスプーチンの肉体関係さえ噂され、皇帝の権威はさらに失墜した。

ロマノフ家に対する批判的機運が高まったことから、保守派は帝政を救おうとしてニコライ2世の譲位を画策した。1916年12月、ラスプーチンは皇帝の従弟にあたるドミトリー大公や姪の夫ユスポフ公らによって暗殺されたが、皇帝は孤立の度合いを深めるばかりであった。

1917年1月には、改善しない戦況と物資不足に苦しんだ民衆が蜂起した。軍隊の一部も反乱に合流し、ロシアは完全に混乱に陥った。ロシアが近代的な総力戦を継続することは限界に達していたのである。

こうした状況下、アレクサンドル・ケレンスキーが指導する二月革命が起こり、3月8日にはペトログラードで暴動が起こると、ニコライ2世は首都の司令官に断乎たる手段をとるよう命じ、秩序回復のために大本営から首都にむけて軍をさしむけた。しかし、内閣は辞職し、軍に支持されたドゥーマは皇帝に廃位を要求した。1917年3月15日(露暦3月2日)、ニコライ2世は、最終的にはほとんどすべての司令官の賛成によってプスコフで退位させられた。このときニコライ2世は、本来後継者として予定されていた皇太子アレクセイではなく、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲った。しかし、ミハイル大公は即位を拒否したため、ここに300年続いたロマノフ朝は幕を閉じ、ロマノフ家は市民になった。露暦3月7日には臨時政府によって自由を剥奪され、ツァールスコエ・セローに監禁された。元皇帝一家をイギリスに亡命させる計画もあったが、ペトログラードのソヴィエトを中心として反対論があり、同年8月、妻や5人の子供とともにシベリア西部のトボリスクに流された。

ニコライ2世の最後のものと伝わる写真(1917年3月)

ボリシェヴィキによる十月革命がおこってケレンスキー政権が倒されると、一家はウラル地方エカテリンブルクへ移され、イパチェフ館(資産家イパチェフの家)に監禁された。イパチェフ館は高い塀と鉄柵で覆われ、全ての窓がペンキで白塗りされ、一家は外部との接触を禁じられて厳しく監視されていたが、互いに協力しあって生活を送った。ニコライ2世は死の4日前まで日記を書き続けた。しかし、チェコ連隊の決起によって白軍がエカテリンブルグに近づくと、ソヴィエト権力は元皇帝が白軍により奪回されることをおそれ、1918年7月17日午前2時33分、ウラジーミル・レーニンよりロマノフ一族全員の殺害命令を受けた元軍医でチェーカー次席のユダヤ人ヤコフ・ユロフスキー(Yakov Yurovsky)率いる、ユダヤ人・ハンガリー人ラトビア人で構成された処刑隊が、元皇帝一家7人、ニコライの専属医、アレクサンドラの女中、一家の料理人、従僕をイパチェフ館の地下で銃殺した。

ユロフスキーが残した資料によると、処刑した遺体はその後、一度廃坑に埋められた後掘り起こされ、別の廃坑付近で2体の遺体を焼却した後に残り9体が硫酸をかけた上で森に埋められた。その後、ソヴィエトは「ニコライ2世のみが処刑されたが、家族は安全な場所にいる」と発表した。これは、ドイツ出身のアレクサンドラ元皇后らの処刑の事実を伏せることにより諸外国とのトラブルを回避する為であった。処刑の決定においては、レフ・トロツキーが「ニコライを裁判にかけて罪状を裁くべき」と主張したが、レーニンは「ニコライの手は血に塗れているのだから裁判は必要ない」と強硬に処刑を主張してこれを認めさせた。処刑後、レーニンはユロフスキーらに面会してその労をねぎらった。赤軍出身の歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフは、レーニンらによるニコライ一家の処刑を、ボリシェヴィキが「法を守る振りさえしなくなった」契機だと批判した。事実、一家が処刑された年にはミハイル大公ら元皇族や元貴族が多数殺害されている。

ソビエト連邦崩壊後の1994年、発見された遺体が本人たちのものであることが確認され、2000年8月、ニコライ2世はロシア正教会において家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに列聖された。

[編集] 人物

若いころのニコライ2世はピエール・ロティの小説『お菊さん』の愛読者で、皇太子時代に訪れた長崎では、鼈甲細工の屋形船、煙草盆、茶箪笥、金作陣太刀、山水蒔絵長角箱、七宝焼花瓶、竹杖、吸物香炉台、竹製茶籠、美人画団扇、柳行李、鉄瓶、有田焼、長崎の全景写真など手当たり次第日本の工芸品その他の文物を買いあさり、長崎停泊中の軍艦に市内の彫り師を招いて右腕に入れ墨をするなど、たいへん日本好きの青年であったという。

また、小説『坂の上の雲』においてのニコライ2世の人物描写の影響か、大津事件後は日本との関係が悪化したという説がある(王朝の公文書に、日本人をマカーキー(猿)と記載したと指摘する書籍がある)。ニコライ2世は大津事件の後に見舞いに来た日本人らに対し紳士的に振舞い、日本側接客伴員を安心させようとつとめた。但し日本人医師の診察は拒絶している。大津事件を原因とした戦争が起こらなかったのは、ニコライ2世の対応が大きかったという説もある。

ニコライ2世は、首都ペトログラード(サンクト・ペテルブルク)を好まず、生地のツァールスコエ・セロー(現サンクトペテルブルク市プーシキン区)を愛し、そこに居住することが多かった。

ニコライ2世はひ弱で凡庸な皇帝とイメージされることが多い。有能な人物に嫉妬から遠ざけ、従順な臣下の取り巻きのみ重用するタイプであったため、治者には向かないとする批評もある。実際は写真撮影が趣味の家庭人で誠実な人であったという。外交においても、同盟国に対しては忠実であった。フランス革命期のルイ16世と同様、革命期に生まれなければ平凡な人生を送れたかもしれない悲劇の人物である。

革命が起きた直後、ニコライ2世は従兄弟のジョージ5世治下のイギリスへ亡命しようとした。しかし社会主義に対し好意的な労働者や知識階級の暴動が起きることを恐れたイギリス政府はこの要請を黙殺。一方、同じく従兄弟であるヴィルヘルム2世は逆にドイツへの亡命をニコライ2世に勧めたものの、交戦国への亡命を躊躇したために、結果的に死に至ることとなってしまった。

[編集] 死後

皇帝一家の最後の状況については長年さまざまな噂が流れていた(“5番目の皇女”がいる、皇帝一家は死んでいない、など)。末娘アナスタシア皇女を名乗る女性(アンナ・アンダーソンなど)がヨーロッパ各地に現れ、世間の話題をさらうこともあった。一方、一家が殺害されたイパチェフ館は、モスクワの指令を受けたボリス・エリツィンにより、1977年7月に解体された(ロシア連邦大統領になった後に、彼はこの件について釈明し、謝罪している)。その後、1979年になって内戦の地質調査隊がニコライ2世の死に関心を抱き、ボリシェビキの両親を持つゲリー・ヤボッフ調査員は皇帝一家の遺骨が発見したが、モスクワで専門家に『この事に首を突っ込むな、全部忘れてしまえ!!』と警告されたため、遺骨の石膏の型が取られた後いったん埋め戻された。ソ連時代はニコライ2世を殺害した事実はタブーであった。エリツィンによって取り壊されたイパチェフ館の跡地には2003年になって教会が立てられ、「血の上の教会」と命名された。

1991年ソビエト連邦の崩壊によって公開された記録から、皇帝一家全員が赤軍によって銃殺されたことが正式に確認された。その後、改めて掘り起こされた遺骨のDNA鑑定を行うため、残されていた複数の資料との照合が行われた。その中には日本に保管されていた『大津事件血染めのハンカチ』も含まれていたが、サンプルの量が少なく、この資料からは血液型の判定までしか行えなかった。結局他の資料から遺骨がニコライ2世本人のものと判明。ロシア正教会は他のソビエト革命の犠牲者とともにニコライ2世とその家族を「新致命者」(殉教者の意)として列聖した。この列聖には、過去の清算とイパチェフ館の罪滅ぼしをしたいエリツィンの意向が働いていた。2007年7月にはエカテリンブルク郊外で新たな二つの遺骨が掘り起こされ、翌2008年7月16日にアメリカの機関によるDNA鑑定の結果皇太子アレクセイと第3皇女マリアのものであるということが確認され、皇帝一家全員分の遺骨が確認された。

2008年10月1日、ロシア最高裁判所にて「根拠なしに迫害された」として名誉回復の裁定が下された。ロマノフ家事務局代表は、「90年前の犯罪が指弾されることは大切」として、この裁定を歓迎した。

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 参考文献

[編集] 関連文献

  • エレーヌ・カレール=ダンコース 『甦るニコライ二世 中断されたロシア近代化への道』 (谷口侑訳、藤原書店、2001年)
  • ロバート・マッシー 『ニコライ二世とアレクサンドラ皇后 ロシア最後の皇帝一家の悲劇』(佐藤俊二訳、時事通信社、1997年)
    •  『ロマノフ王家の終焉 ロシア最後の皇帝ニコライ二世とアナスタシア皇女をめぐる物語』 (今泉菊雄訳、鳥影社、1999年)
  • ドミニク・リーベン 『ニコライ2世 帝政ロシア崩壊の真実』 (小泉摩耶訳、日本経済新聞出版社 1993年)
  • 植田樹 『最後のロシア皇帝』 (ちくま新書、1998年)
  • 保田孝一 『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記』(増補版:朝日選書、1990年、講談社学術文庫 2009年10月)
    • 保田孝一 『ニコライ二世と改革の挫折 革命前夜ロシアの社会史』 (木鐸社、1985年) 
  • アンソニー・ サマーズ/トム・マンゴールド 『ロマノフ家の最期』(高橋正訳、中公文庫、1987年) ※著者はBBCのジャーナリスト
  • パーヴェル・パガヌッツィ 『ロシア皇帝一家暗殺の真相』(進藤義彦訳、展転社、1988年)
  • マーク・スタインバーグ/ヴラジーミル・フルスタリョーフ編 『ロマーノフ王朝滅亡』(川上洸訳 大月書店、1997年)※当時の関係者の手紙・日記を収めた資料集の大著
  • マーリヤ大公女 『最後のロシア大公女 革命下のロマノフ王家』 (平岡緑訳、中公文庫、2002年改版) 
※著者はアレクサンドル2世の孫でセーデルマンランド公爵夫人マリア・パヴロヴナ、アメリカに亡命。

[編集] 関連作品

[編集] 関連項目


先代:
アレクサンドル3世
ロシア皇帝
第14代: 1894 - 1917
次代:
(帝政廃止)
先代:
アレクサンドル3世
ポーランド国王
第5代: 1894-1917
次代:
(王政廃止)
先代:
アレクサンドル3世
フィンランド大公
1894 - 1917
次代:
フィンランド王国として独立
先代:
アレクサンドル3世
ロシアの指導者
1894 - 1917
次代:
ケレンスキー

最終更新 2009年11月16日 (月) 08:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【ニコライ2世】変更履歴

ご利用上の注意