ニニギ
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神話における記述
『古事記』では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、天邇岐志、国邇岐志、天日高日子、『日本書紀』では天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊、天津日高彦瓊瓊杵尊、彦火瓊瓊杵、火瓊瓊杵などと表記され、一般には瓊瓊杵尊や瓊々杵尊、邇邇芸命(ににぎのみこと)と書かれる。
天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)の子。兄に天火明命(あめのほあかり)がいる。『日本書紀』の一書では天火明命の子とする。
天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から地上に降りたとされる。これを(天孫降臨)と呼ぶ。『古事記』では、この降臨の地については「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるだけ)に天降りまさしめき」と記述している。『日本書紀』では、「日向襲之高千穗峯」あるいは「筑紫日向高千穗」と記述している。
この降臨の経路の解釈ついては、日向国の高千穂峰に降り、長屋の笠狭碕に到達したとする説が有力である。長屋の笠狭碕には、宮崎県西都市の西都原古墳群近く(一ツ瀬川ほとり)、宮崎県延岡市、宮崎県宮崎市の前方後円墳である奈古神社(旧長屋神社)付近が言われている。鹿児島県南さつま市辺りにも伝説が残る。
日向(ひむか)の歴史はかなり古く、鹿児島県大隅地方もその昔は日向と呼ばれていた。行政上、日向国が設置されたのは7世紀。ただ、隼人族、熊襲族の勢力が強かった鹿児島県側では、天孫族による大和朝廷の威光、律令制度が広がるのは遅く、天孫族であるニニギの活躍の場は、日向、今の宮崎県内だったとみられる。
大山祇神=宮崎県西都市の西都原古墳群にある90号墳(大山づみ塚)=の娘である木花之開耶(このはなのさくや)姫=宮崎県西都市の西都原古墳群にある女狭穂塚=を妻とし、火照命(海幸彦)・火闌降命、彦火火出見尊(山幸彦)=宮崎県宮崎市の青島神社が主祭神=が生まれた。
彦火火出見尊(山幸彦)の孫が神武天皇=ヤマト・イワレヒコ、幼名サノ=で、宮崎県宮崎市の宮崎神宮の神域にある摂社・皇宮屋(こぐや)に都を置き、後に東征(神武東征)。奈良・橿原(大和の国)に到達し、日本を初めて統一した「ヤマト朝廷」を確立して薨去した。
ニニギは薨去後「可愛の山陵」に葬られた。
宮崎県宮崎市木花(きばな)地区も、ニニギ妻コノハナノサクヤヒメの伝説が残る地である。
解説
名前の「アメニギシクニニギシ」(天にぎし国にぎし)は「天地が豊かに賑う」の意。「アマツヒコ」(天津日高)は天津神のことで、「ヒコ」(日子)は男性のこと。「ホノニニギ」は稲穂が豊かに実ることの意味である。「ニニギ」は「ニギニギしい」の意で、「にぎやか」と同源語である。神話上ニニギの一族とされている上述の天忍穂耳尊や火照命・火闌降命・彦火火出見尊とは名前に稲穂の「ホ」がある点で共通している。
農業の神として信仰されており、奈古(なご)神社=江戸時代前の呼称は長屋神社=宮崎県宮崎市、霧島神宮(鹿児島県霧島市)、高千穂神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)、新田神社(鹿児島県薩摩川内市)、築土神社(東京都千代田区)、射水神社(富山県高岡市)、子安神社(三重県南牟婁郡紀宝町)、常陸國總社宮(茨城県石岡市)などに祀られている。
埋葬地である「筑紫の日向の可愛の山陵」の伝承地は南九州各地にある。明治政府はその中から、旧薩摩藩の学者の意見を参考にして、明治7年に鹿児島県薩摩川内市の新田神社が可愛山陵であると治定した(他の日向三代の神陵も鹿児島県内に治定している)。
しかし、宮内庁の調査により、明治29年、宮崎県東臼杵郡北川町の可愛岳(えのだけ)山麓の古墳を「可愛山陵伝承地」、宮崎県西都市西都原古墳群にある男狭穂塚=九州最大の古墳=を「可愛山陵参考地」と定めた。ただ、宮崎県宮崎市の前方後円墳にある奈古(なご)神社=江戸時代以前の呼称は長屋神社、宮崎県延岡市天下町(あもりまち)の天下神社(吉野神社)境内にある国指定南方古墳も御陵と伝えられている。可愛岳そのものが神陵であるという伝承もある。
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