ニーベルンゲンの歌

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ニーベルンゲンの歌』(: Das Nibelungenlied)は、ドイツの国民的英雄叙事詩。英雄ジーフリトの悲劇的な死と、その妻クリエムヒルトの陰惨な復讐劇を描く。 当時の詩は、多くが信仰・道徳や愛の規範などを説く目的を持ち、形式にとらわれたものだったが、『ニーベルンゲンの歌』はそのダイナミックなストーリーと激情のままに動く登場人物の力強さとによって同時代の水準をはるかに超えており、普遍的価値を持つ芸術作品である。

目次

[編集] 表題

中高ドイツ語による原題は、写本によって"Der Nibelunge liet"もしくは"Der Nibelunge Nôt"の二者がある。『ニーベルンゲンの歌』とは前者を訳したものであり、後者の場合『ニーベルンゲンの災い』と訳されるべきである。

なお、ニーベルンゲン(Nibelungen)とは本来「ニーベルング」の属格形である。 このため『ニーベルンゲンの歌』は、「ニーベルングの」という意味が既にある言葉にさらに格助詞「の」を付けた重言で、誤りであるという意見もある。この考え方から『ニーベルングの歌』或いは『ニーベルングの災い』と訳される事もある。

表題の由来についてはいくつかの説がある。ニーベルングが、ジーフリトによって滅ぼされた小人のニーベルング族を指すとするならば、物語全体の前史に過ぎない部分 (劇中においては過去形で語られるのみである) が題名になっていることになることもあり、論点となっている。

  • 滅ぼされた小人族のことを意味するのではなく、その財宝を持つものをニーベルングと呼ぶのだとする解釈がある。財宝をジーフリトから奪ったブルグント族が後編に入るとニーベルング族と呼ばれるようになっていることなどが根拠として挙げられる。
  • ドイツ語の霧(Nebel)と関連付けて、ニーベルングを「霧の子」、つまり霧のようにはかなく滅びていくものという意味にとる説もある。

[編集] 成立と再発見

[編集] 叙事詩の成立

元になったジーフリトの物語は、北欧神話シグルズの物語と起源を同じくし、後半のクリエムヒルトの物語は、12世紀ドナウ川流域で作られたとされるブルグント族の滅亡をうたった叙事詩に由来する。

『ニーベルンゲンの歌』は、他の詩篇などとのかかわりから1200年から1205年頃に成立したと考えられているが、作者についてはミンネゼンガーなのか、騎士なのか、僧侶なのかということもはっきりとはわかっていない(いずれにしても高い教養をもっていたとされる)。ただし出身地については、作中におけるドイツ南部バイエルン州にあるパッサウからオーストリアウィーン近郊の描写が他の部分に比べ非常に正確、またドナウ川などの記述が体験的なものであることから、この一帯出身であるとほぼ確定されている。

現在に伝わっている写本の数から、成立以降この作品はかなりの好評を博していたと予想される。しかし16世紀ごろを最後に急速に忘れ去られていった。

[編集] 再発見と研究

16世紀ごろから、急速に忘れられていた『ニーベルンゲンの歌』は、1755年にリンダウの医師ヤーコプ・ヘルマン・オーペライトにより、オーストリアフォーアアルルベルクのホーエン・エムス伯爵の図書館でその写本が再発見された(13世紀末、写本A)。これを皮切りに現在までに完本、断片合わせて30以上の種類が発見されているが、主なものはホーエン・エムス・ミュンヘン本と呼ばれる写本Aのほかに2つある。そのひとつが、1768年にザンクト・ガレンにある修道院図書館から発見された別系統の写本であり(13世紀中ごろ、写本B)、もうひとつは19世紀半ばに発見されたホーエン・エムス・ラスベルク本と呼ばれる、3つの中では一番詩節数が多い写本である(13世紀前半、写本C)。これら3種の写本はABCの順で詩節数が少なく、また同じ順番で矛盾や齟齬が多い。

ニーベルンゲンの歌は一人の作者によって作り上げられたものなのか、果てまた複数の人物が作り上げたものが集ったものなのかという問題は、この物語における論点のひとつであった。19世紀はじめ頃カール・ラッハマンは、この作品は複数の人物によって作り上げられたものが集って完成したものだとする「歌謡集積説」を唱えた。一方、アドルフ・ホルツマンやフリードリヒ・ツァルンケはラッハマンとは逆の考えを唱え、この叙事詩は一人によって作り上げられたものであると主張した。

20世紀に入りアンドレアス・ホイスラーはラッハマンの歌謡集積説を否定、「発展段階説」と呼ばれる説を唱えた。これは、物語は主に2つの流れ(プリュンヒルト伝説とブルグント伝説)が別々に、段階的に発展した後、2つがある時期に纏め上げられたものであり、『ニーベルンゲンの歌』自体は一人の作者によって作られたものであるという主張である。ホイスラーの説が発表された後も、(あくまでホイスラーの説も推測の域をでていないこともあり)それとは別の成立方法を主張する人物はいるが、現在に至るまでホイスラー以上の説得力を持ちえた説はなく、現在ではホイスラーの主張が一般的に受け入れられている。

どの写本が原本にもっとも近いのかという論点について、まずカール・ラッハマンは自身の「歌謡集積説」を理由に、このような成立をしたものは矛盾、齟齬が多いはずであるという考えから写本Aが原本にもっとも近いと主張した。一方、アドルフ・ホルツマンやフリードリヒ・ツァルンケも自身の主張を根拠に、一人で作られたからには最も問題点の少ない写本Cこそが原本にもっとも近いと主張した。その後カール・バルチュ、続いてヴィルヘルム・ブラウネの研究により写本Bがもっとも原本に近いものであるということが明かされ、現在ではこの説が一般的に受け入れられている。日本語翻訳も写本Bが元となっている。

[編集] 受容

成立以後公表を博し、写本が重ねられていた『ニーベルンゲンの歌は』、15世紀初期には断片的にではあるが変容や加筆もあったことがわかっている(写本mに書かれていたと考えられているクリエムヒルト救出と龍退治など、ニーベルンゲンの歌以前の伝説においても存在しなかった話が加えられている)。16世紀頃になると急速に廃れていった『ニーベルンゲンの歌』であるが、ニーベルンゲン伝説としては変容されつつも残っており、16世紀には『不死身のザイフリート』が刊行されている他、多量の作品を作ったマイスタージンガーハンス・ザックスも『不死身のゾイフリート』を作成している。さらに17、18世紀にはさらに民衆化された『不死身のジークフリート』も刊行されている。このように一般化していく中で韻文から散文になり、神話的な色は薄れ、より現実的、日常的な解釈が目立つようになった。

『ニーベルンゲンの歌』は発見以降しばらくは日陰者的扱いであった。これはドイツが文化を外国へ追随していた時代であったためで、1757年にはヨハン・ヤーコプ・ボードマーが、1782年にはクリストフ・ハインリヒ・ミュラーがそれぞれテクストを刊行しているが、大きな反響も無かった上、ミュラーはそのテクストをフリードリヒ大王に献呈したものの、まるきり価値はないとこき下ろされている。18世紀の終わりからドイツ・ロマン主義運動が起こるとヨハン・ゴッドフリート・フォン・ヘルダーグリム兄弟の活躍により徐々に国内文化を見つめ直す下地が完成していき、またナポレオンのドイツ侵攻によりナショナリズムが興隆していくと「ドイツのイリアス」と称されるほどの高評価をうけるようになった。

[編集] 構成

全39歌章からなる。元々は前編後編と分けられてはいないが、その内容の性質上、プリュンヒルト伝説を元にしている部分(1-19歌章)を前編、ブルグント伝説を元にしている部分(20-39歌章)を後編を分けるのが一般的になっている。詩節数は写本によって変動があるが現在ではもっとも原本に近いとされる写本Bは2379節。もっとも矛盾、齟齬が多い写本Aは2316節、その逆である写本Cは2440節からなっている。

韻文であり、長い2行詩を2つくっつけた構造で書かれている。1行目と2行目、3行目と4行目で脚韻を踏む形となっているほか、強拍、次強拍の並びにも規則性があり、歌全般でそれら規則が守られて書かれている。これら構造はニーベルンゲン詩節と呼ばれている独特なものである。そのためリズム感に富むと評されるが、現代語、および他言語への翻訳版では(当然ながら)この構造は再現されていない。

[編集] 舞台

ニーベルンゲンの歌は、他の叙事詩と比べて空間的にスケールの大きい作品である。その舞台はライン河畔で、主にヴォルムスを中心としているが、クリエムヒルトに求婚するジーフリトの故郷はネーデルラント、グンテル王が赴くのはアイスランドエッツェルの治める国はハンガリーとされており、中世文学に類のない広がりを見せている。

また物語の結末がブルグント国の騎士達とクリエムヒルトの死によって終わるという徹底した悲劇であるところも同時代の基準からは外れており、この点でも古くからある雑多な物語の集成といった作業を通じて成立したことを予想させる。

[編集] あらすじ


注意以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。


[編集] 前編

ヨハン・ハインリヒ・フュースリー作。ジーフリトの死体に泣きつくクリエムヒルト

ネーデルラントの王子ジーフリトは、ブルグント王グンテルの妹クリエムヒルトの噂を聞き、彼女に求婚すべく、ブルグントの国を訪れる。彼は、グンテルとイースラント(アイスランド)の女王プリュンヒルトとの結婚を手助けするなどしてブルグントの信頼を得、グンテルの妹クリエムヒルトとの結婚を果たす。

しかしある日、クリエムヒルトはプリュンヒルトと互いの夫の地位の上下を言い争い、プリュンヒルトがジーフリトとグンテルに騙されて結婚した事を公の場で暴露してしまう。ブルグント国の重臣ハゲネは、王妃プリュンヒルトの恥辱と王室の不名誉を晴らす為にジーフリトを暗殺。さらに、彼がかつてニーベルンゲン族から奪った莫大な財宝を、クリエムヒルトの手に渡らないようライン川の底に沈める。

[編集] 後編

ヨハン・ハインリヒ・フュースリー作。グンテルの首をハゲネに見せ付けるクリエムヒルト

その後、クリエムヒルトはフン族の王エッツェルと再婚するが、先夫の恨みを忘れられず、フン族の力を利用しての復讐を企てる。クリエムヒルトは、友好を装ってエッツェルにブルグントの人々を自国へ招待させ、ハゲネは、彼女の意図を疑いながらもグンテル達に同行し、フン族の国を訪れる。東ゴート族の王で当時フン族の客分だったベルンのディエトリーヒは、クリエムヒルトが復讐を企てている事をグンテルたちに警告。しかし、ハゲネは武器を帯びてクリエムヒルトと対峙、一方 クリエムヒルトはディエトリーヒに自分の復讐に加勢するように依頼する。もはや、戦いは避けられない状況となっていた。

ディエトリーヒに復讐への加担を断られたクリエムヒルトは、エッツェルの弟ブレーデリンを買収してブルグントを襲撃させる。かくてブルグント、フン族の両陣営は完全に決裂、乱戦となる。戦いは、フン族の同盟軍だったデンマークや東ゴート族をも巻き込み、凄惨な殺し合いとなる。ディエトリーヒも、ブルグント側に部下を皆殺しにされたためにやむを得ずハゲネと戦い、彼とグンテルを生け捕りにする。

クリエムヒルトは、ハゲネに対し、ジーフリトの遺産であるニーベルンゲンの財宝を渡すなら命を助けると言う。しかし彼がこれを拒絶した為に、「二人の命だけは助ける」というディエトリーヒとの約束を破り、グンテルとハゲネの首を刎ねる。ハゲネの首を刎ねるのに使ったのは、亡き先夫の形見の剣・バルムンクだった。 東ゴート族の騎士ヒルデブラントは、獄に繋いだ相手を斬殺するという卑怯な行いに驚いてクリエムヒルトを斬り捨てる。

誰も救われず、たくさんの勇士が無駄に死んでいった事に、エッツェルとディエトリーヒは悲嘆にくれる。

[編集] ニーベルンゲンの歌にちなむもの

[編集] 楽劇

19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ヴァーグナーはこの物語に取材して、4夜からなる楽劇ニーベルングの指輪』を書いた。

なお、リヒャルト・ヴァーグナーの『ニーベルングの指輪』 は、アイスランド・サガのなかの、『ヴォルスンガ・サガ』や、『エッダ』の内容も取り入れている。

[編集] 映画

1924年、フリッツ・ラング監督、テア・フォン・ハルボウ脚本で『ニーベルンゲン』の題で映画化された。総上映時間が5時間近くにもなる一大叙事詩で、ドイツ・サイレント映画の黄金時代を代表する傑作と呼ばれている。

[編集] 観光街道

ヴォルムスからオーデンヴァルトにかけては、『ニーベルンゲンの歌』にちなんだ名所が点在しており、これらを結んでヴェルトハイムに至る観光街道が2本あり、一方が「ニーベルンゲン街道」、他方が「ジークフリート街道」と名付けられている。両者を併せて「ニーベルンゲン=ジークフリート街道」と総称する。

これら2つの街道は、2002年に『ニーベルンゲンの歌』800年記念行事として、共通デザインによる『ニーベルンゲンの歌』の様々な場面を象ったモニュメントを街道沿いの街に設置するなどの活動を行い、『ニーベルンゲンの歌』の普及に務めている。

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目


ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年9月15日 (火) 04:44 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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